詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原『谷川俊太郎論』(3)

2011-02-02 23:59:59 | 詩集
田原『谷川俊太郎論』(3)(岩波書店、2010年12月21日発行)

 第5章「神は死んだが、言葉は生きている」に美しい文章が出てくる。『minimal 』について触れている。

精緻な形式には注目しなければならない。個々の詩行も短ければ、詩全体の長さも短い。表面からみれば、詩人は意識的に言語を圧縮しているように見えるが、実際には、言語内部の空間を広げようとしているのである。

 圧縮ではなく、広げる。外部を小さくすることで逆に内部を大きくする。この「矛盾」。この指摘は、谷川の詩の本質を描き出していると思う。矛盾でしかあらわせないものがあるのだ。

 この空間が広がっている感覚は、曖昧模糊としたものではなく、触れて撫でることのできる、秩序ある実体である。

 言語内部の空間を「実体」と田原は呼んでいる。「実体」としてつかみ取っている。ここに、田原と谷川との、とても美しい出会いがあると思う。「触れて撫でる」という「肉体」の動きをともなうことば--それだけが「実体」と出会えるのだ。

 ここに書かれている指摘は美しい--そして、それ以上に、私はびっくりしてしまった。あ、このことばは田原しか思いつかないだろうなあ、と感じたことばがある。
 「実体」の前に置かれた「秩序ある」ということば。
 単なる「実体」ではなく、「秩序ある実体」。もしかすると、田原は、谷川のことばに「秩序」があるから「実体」と感じているのかもしれない。というより、もしかすると「実体」ではなく、「秩序」に触れているのかもしれない、と思うのである。

 秩序とはなにか。ことばの内部空間の秩序とはなにか。田原が繰り返し書いている中国語(漢字)と日本語(カタカナ、ひらがな)と結びつけて言えば、秩序とは第一に「意味(表徴・表象)」を形成する力である。
 それは、たとえば「そして」について書かれた批評に明確にあらわされている。

夏になれば
また
蝉が鳴く

花火が
記憶の中で
フリーズしている

遠い国は
おぼろだが
宇宙は鼻の先

なんという恩寵
人は
死ねる

そしてという
接続詞だけを
残して
                  -谷川俊太郎「そして」(『minimal 』より)

 「人は/死ねる」ということは、普通の人にとってはごく普通の生命の常識と法則にすぎないが、普通の言葉「人間が死ぬ」を「なんという恩寵」からつなぐことによって、詩が人間にもたらす苦痛を和らげると同時に、死について再認識させた。それは作者自身の死生観と死の哲学の表れであるばかりでなく、また人類全体の生命に対する理解・解釈でもある。

 「人間が死ぬ」を「不幸」ではなく「恩寵」とつなぐ。このときの「つなぐ」が「秩序」である。そして、それは「死」の内部に「不幸」という「言語空間」以外に、「恩寵」という「言語空間」を広げることでもある。それは「死は恩寵である」という新しい「意味」をつくることでもある。
 田原は、谷川のこの「秩序」をつくりだすことばの運動に「肉体」で触れる。
 「死」の内部に「死は恩寵である」という秩序(意味)をつくりだすことで、「死は苦痛である」という普通の人々の「意味」を緩和する。その新しい「意味」は、人類全体に対して向けられた哲学である。
 --こういう思考を、それこそ「秩序正しく」導いてくれる、「意味がわかるように」導いてくれる、意味がわかるように秩序正しく導いてくれるから、その哲学を「実体」として感じることができる。これが、田原の谷川に対する評価のポイントだと思う。

 それはその通りだと思う。まったく正しい指摘だと思う。
 ところが、私は、こうした指摘に対して実は少し不満を持っている。あまりに「意味」が強すぎる。
 先に、田原は「秩序」を「漢字(表徴・表象)」と結びつけて考えていると書いたが、もうひとつの「かな」と結びつけるとき、そこに何があらわれてくるか。漢字が表徴・表象なら、「かな」は何か。「音」であり「リズム」だ。
 その「音」「リズム」の「実体」については、ここでは田原は書いてはいない。それが、私には不満である。
 そして、それはこの詩に対する田原と私の「評価」の違いでもある。
 そのことを書いておく。

 私が「そして」でいちばん感激したのは最後の連である。ぞくぞくした。

そしてという
接続詞だけを
残して

 なぜ「そして」という「接続詞」?
 ここには田原が書いている「秩序ある実体」がない。「秩序」がない。「しかし」でも「だから」でもなく、なぜ「そして」? 谷川が「そして」を選んだ理由が説明されていない。「哲学」がわからない。
 わからないけれど、私は納得するのである。
 人は死ぬ、そして……と何事かが、ただ単につづいていく。「しかし」だと何かしら「意味」が出てくる。「しかし」はいままで書いたことを「否定」する。「だから」はいままで書いたことを「補強」する。どちらも窮屈だ。それに比べると「そして」はなんでもない。「そして」のあとにはなんでも大丈夫なのだ。誰に対しても、開かれている。
 このとき、「死は恩寵である」という「意味」は消えてしまう。無になる。
 --これは(私がいま書いたことは)、「音」とも「リズム」とも関係ないじゃないか、という意見(見方)があるかもしれない……。
 うーん。
 でも、何かを書いてきて(語ってきて)、次に何かを書くために(話すために)、どういう「接続詞」を口にしてしまうか--これは、やはり「音」であり「リズム」なんだよなあ。意識のリズムなんだよなあ。口癖なんだよなあ。
 ここにこそ、私は、「思想」があると思う。「肉体」があると思う。
 「なんという恩寵/人は/死ねる」と書いたあと、「そして」と書くか、「しかし」と書くか、「だから」と書くか--それを「決める」ものこそ「思想」である。それはあまりにも「肉体」にしっかり染みついてしまっているから、きっと説明できない。書いている谷川にしかわからない。
 こういうことばが出てくるタイミング--そこに私は谷川自身を感じる。

 (なぜ「そして」なのか……。あえて、強引なこじつけを書けば「そして」は「残して」と脚韻を踏む--だから自然に読むことができる。なんていうのは、詩を汚すだけだね。) 



 「意味」についての補足。

一九九八年にNHKの「詩のボクシング」という番組を見た人々に、谷川の即興作品「ラジオ」が深い印象を残していることであろう。そういった即興の作品は、彼の思惟が敏捷で、詩人として総合的な素質を持っていることを物語っている。

 私はめったにテレビを見ないのだが、偶然、この番組を見た。ねじめ正一と谷川の「詩のボクシング」だった。ねじめに与えられたテーマは「テレビ」。「テレちゃん」と「レビちゃん」が云々というような「意味」にならないことをなんとかことばにしようとしたが、うまくいかず、リングで仰向けに倒れてしまった。
 一方、谷川は、ラジオというのは「声」(音)だけでできている。「声」(音)は発せられたときから空中に消えていってしまう。だから、みなさん、その「消えたもの」を大事に持って帰ってください--というような「意味」の詩を即興でつくりあげた。
 このねじめと谷川の詩の違いは「意味」が「わかる」かどうかである。「意味」がわかるというのは、「ことば」に秩序があり、その「秩序」にしたがって「意味」が形成されていくということである。そして、人は、「意味」があるものを比較的しっかりと覚えることができるということである。
 谷川は「ラジオ」という詩を即興でつくったが、その詩は、声は消えていくもの、という「意味」を踏まえ、声は消えるけれど、それを聞いたこと記憶は残すことができるという補助線を引き、だから「消えるもの(消えたもの)」、「消えないように」記憶して持って帰ってとメッセージにした。それは詩であると同時に「意味」をもった「メッセージ」だった。

 これからが、ちょっと面倒くさい。
 「意味」は大切だけれど、詩を「意味」に従属させていいのかな?
 あのとき、判定は圧倒的な大差で谷川の「勝ち」になったけれど、谷川はあのとき満足したのかな? あ、勝ってしまったのか、とどこかで悔しい思いをしなかったかな? もっと違う詩をこそ思いつきたかった、ねじめのように詩を完成させることができずに、のたうちまわったら「肉体」はよろこんだのではないか? そんなことを思わなかっただろうか。

 私はそのテレビを見ながら、ねじめは、勝負では負けたけれど、「詩を書きたい」「ことばを書きたい」という「気持ち」の量では勝ったな、と思った。谷川は「気持ち」を秩序正しくことばにのせることができた(思惟が敏捷だった)ために、「気持ち」を正確な「量」として表現できた(形あるもの、触れることのできる「実体」)にすることができた。
 谷川の詩は詩としてよかったけれど、私は、それよりもねじめの転がる肉体の方に詩を感じてしまった。詩は意味じゃない、とも。

谷川俊太郎論
田 原
岩波書店

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コメント (3)
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