詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木陽子『金色のねこ』(2)

2011-02-28 23:59:59 | 詩集
鈴木陽子『金色のねこ』(2)(私家版、2010年10月06日発行)

 詩をどんなふうにして好きになるか。わたしの場合は単純である。その作品に好きな行が1行あればいい。あ、これをまねしてみたい、これを盗んでつかいたいと思う行があれば、それだけでいい。
 「あてどない歩み」には、それがある。

わたしの歩行は斜めである
それでかしいだホテルを好む
かしいだ部屋のかしいだ椅子にすわり
かしいだ机でノートをかしだせて
かしいだ文字をかきつける
かしいだ道でかしいだ女の後をつける

斜めにつがれた水をのみほす
斜めにひきちぎる細長のパン
目蓋に付着するバターを斜めに拭って
じゃむを斜めに塗りたくる
斜めに傾くコーヒーカップ
斜めに飲み干し
顎から斜めに滴り落ちる

 「斜めにつがれた水」。これが気に入った。
 鈴木はどういう水を思い描いているかは、まあ、関係ない。私は、垂直に立っているコップの中で、水だけが斜めになっている状態を思い描いたのである。
 それまでに書かれていることばをきちんと踏まえれば、コップが斜めになっている(かしいでいる)。そして、そこに水が注がれると、水の体積(容積)、水を横から見たときの姿がコップの傾きのために斜めになっている、ということなのかもしれないけれど。
 それでは、つまらない。
 だから私は「誤読」し、その上で、この部分が好き、というのである。
 なぜ、コップが傾いていて、それを横から見ると水そのものが斜めの形に見えるというのがつまらないかというと、そういう形の水は、水が傾いているのではない。コップが傾いているので、それにあわせて体積が傾いているにすぎない。ものの形にあわせて形を変えていくというのは水の基本的な性質である。傾いたコップの中で傾いている水は、水そのものの「性質」(本質)が傾いていない。重力にしたがって、水面を水平にしたら、断面が傾いただけである。これでは詩にならない。
 まっすぐなコップの中で、水だけが傾く。--そのとき、水は水自身の「肉体」をもつ。あ、いいなあ。重力に逆らう水。どこにもなかった水が、「かしいだ」(斜めになった)ということばの連続の中で、水の肉体に作用してくるのだ。
 ことばは繰り返していると、その対象(描かれたもの)の性質さえ変えてしまうのだ。そのとき、世界は変わるのだ。ことばによって変わるのだ。ことばによって、世界を変える--そのときのことばが詩なのである。

 あ、間違えたかな?
 ことばを繰り返す。そうすると、ことばが次第に「もの」のように手触りのあるものになってくる。ことばなんて、嘘にすぎないのに、その嘘がほんとうになって、この世(ほんとうの世界)をねじ曲げる。
 そして、次に動いた瞬間、そのことばが、いままでとは違った「いきもの」になる。それが、とてもおもしろいのだ。「斜め」(かしいだ)ということばを繰り返しているうちに、水そのものが斜めになってしまう。それがおもしろいのだ。(斜めのコップに注がれた水--というのでは、世界はねじ曲がらない。逆に、正しい?世界に逆戻りしてしまう。)

 「空虚が笑う」という作品もとても気に入っている。

朝 起きたら
部屋のスミに
空虚がすわっていました
それが るあるい顔で
にんまりと笑っているのです
そうして
「今日は何をするんだ」
と 聞いてくるのです
空虚なんか無視しましょ
気がつかないふりして
普段どおりにしようと決めたのです
顔を洗って 歯を磨き
コーヒーをいれて トーストを焼き
一口食べようと口をあけると
「わしにもくれんかな」
と 空虚が言うのです
空虚にも食欲があるのねと思いながら
しらんぷりして一口頬ばると
「ほほう!」
と 空虚は声をあげたのです
なおも無視すると
空虚はじりっじりっとにじり寄ってくるので
「あなたのは ありません」
と 思わず口にしてしまいました
すると 空虚は
「それ、そーれあそぼうぞ」
と言って
一段とうれしそうに笑うのでした

 「わしにもくれんかな」がおかしい。「空虚」にすでに「人格」があたえられている。口癖があたえられている。そのときから、もう空虚は空虚ではなく、何かしらの「もの」(実存)である。「ほほう!」もいいし、「それ、それ!あそぼうぞ」もいい。
 なにも存在しないのが「空虚」であるはずなのに、その「空虚」が何かあるものにかわるのがいい。「空虚」の意味が無効になり、それまで存在しなかったものが、ことばといっしょに誕生してくるのである。



2月のお薦め。
朝吹真理子「きことわ」
福田武人「網状組織の諸々の結節点に……」
中山直子「牛の瞳」


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教えてください

2011-02-28 09:22:05 | その他(音楽、小説etc)
現在IEがつかえません。以下の表記がでます。

アドオンで問題が発生したためIEを閉じる必要があります。
この問題の発生時には次のアドオンが実行されていました。
ファイル SpeeDial.dll
会社名 Jword.inc
説明 Jwordプラグイン

この問題の解決方法は? だれか知りません?

panchan@mars.dti.ne.jp
へ、メールをいただけると助かります。
winXPをつかっています。
Jwordのバージョンはわかりません。

コントロールパネル→インターネットオプション→プロパティ→プログラム→アドオンの管理→アドオン無効→OKと進みますが、解決しません。
アドオンを確認すると、削除されないまま、残っています。
削除そのものができません。
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ジョン・スタージェス監督「荒野の七人」(★★)

2011-02-28 09:01:03 | 午前十時の映画祭
監督 ジョン・スタージェス 出演 ユル・ブリンナー、スティーヴ・マックイーン、イーライ・ウォラック

 うーん。黒沢の「七人の侍」のよさばかりがよみがえるなあ。リメイク(盗作?)とは言いながら、肝心の雨のシーンがない。荒野では雨が降らないといってしまえばそれまでだが、雨にかわる自然現象がないとねえ。砂嵐とかね。そこに住んでいるひとの、地の利、土地の感覚がないと、こういう「抵抗もの」(ゲリラもの)は生きてこない。最後に「勝つのはいつも農民」という「七人の侍」のセリフがそのままつかわれるけれど、この「農民」というのは農業をやる人という意味だけではない。土地に根差して生きているひと。ね、ベトナム戦争でもアメリカが負けたのは、結局、その土地に生きていない侵略者だから。フィリップ・ノワレ主演の「追想」(だったかな?)も、結局、彼が暮らした家が戦場だから一人でドイツ軍に勝てた。土地を知っている人が勝つ――というのが、抵抗の本質。雨で(砂嵐で)視界が利かない。けれど、その土地のありようが分かっていれば、視界が利かない分だけ、有利になる。これは、ほら、「暗くなるまで待って」では、オードリー・ヘップバーンが電気が消えると有利になるのも同じ。そして冷蔵庫の室内灯?がつくと不利になるというのにもつながる。誰にでも不利、有利があり、それをどう生かすかが弱者が勝つための条件。「荒野の七人」は凄腕の七人だが、相手は多人数という意味では「弱者」だよねえ・・・。その「弱者」が「負けない」ための条件がねえ・・・。
 だからさあ、最後がとっても変だよねえ。七人は捕まって、追放され、そこから村へ引き返して戦うなんて、むちゃくちゃ。勝てるはずがないのに、ただ戦う。そして映画だから善が悪に勝つ――あら、馬鹿らしい。黒沢映画のいいところをまったく生かしていない。盗まれた黒沢が怒るはずだね。
 演技もみんな下手糞だね。特に農民がひどい。主演陣も、人間描写の掘り下げがぜんぜんない。薄っぺらい。そんななか、ユル・ブリンナーが変に光っている。なぜだろう。はげ頭の光? いいや、セリフ回しだ。声だ。映画役者の声ではなく、舞台役者の声、発音だな、これは。「Y」の音なんか、異様にくっきり響いてくる。スティーヴ・マックイーンのしゃべり方とぜんぜん違う。ユル・ブリンナーが「王様と私」が代表作になってしまう(他にいい作品に恵まれない)という理由はこのあたり?
 あ、映画そのもののことからずいぶん離れてしまったなあ。そういう感想しか思いつかないのが、この映画ってことだね。
                    (「午前十時の映画祭」青シリーズ4 本目)




2月のベスト3
「英国王のスピーチ」
「冷たい熱帯魚」
「ザ・タウン」

荒野の七人 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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