鈴木陽子『金色のねこ』(2)(私家版、2010年10月06日発行)
詩をどんなふうにして好きになるか。わたしの場合は単純である。その作品に好きな行が1行あればいい。あ、これをまねしてみたい、これを盗んでつかいたいと思う行があれば、それだけでいい。
「あてどない歩み」には、それがある。
「斜めにつがれた水」。これが気に入った。
鈴木はどういう水を思い描いているかは、まあ、関係ない。私は、垂直に立っているコップの中で、水だけが斜めになっている状態を思い描いたのである。
それまでに書かれていることばをきちんと踏まえれば、コップが斜めになっている(かしいでいる)。そして、そこに水が注がれると、水の体積(容積)、水を横から見たときの姿がコップの傾きのために斜めになっている、ということなのかもしれないけれど。
それでは、つまらない。
だから私は「誤読」し、その上で、この部分が好き、というのである。
なぜ、コップが傾いていて、それを横から見ると水そのものが斜めの形に見えるというのがつまらないかというと、そういう形の水は、水が傾いているのではない。コップが傾いているので、それにあわせて体積が傾いているにすぎない。ものの形にあわせて形を変えていくというのは水の基本的な性質である。傾いたコップの中で傾いている水は、水そのものの「性質」(本質)が傾いていない。重力にしたがって、水面を水平にしたら、断面が傾いただけである。これでは詩にならない。
まっすぐなコップの中で、水だけが傾く。--そのとき、水は水自身の「肉体」をもつ。あ、いいなあ。重力に逆らう水。どこにもなかった水が、「かしいだ」(斜めになった)ということばの連続の中で、水の肉体に作用してくるのだ。
ことばは繰り返していると、その対象(描かれたもの)の性質さえ変えてしまうのだ。そのとき、世界は変わるのだ。ことばによって変わるのだ。ことばによって、世界を変える--そのときのことばが詩なのである。
あ、間違えたかな?
ことばを繰り返す。そうすると、ことばが次第に「もの」のように手触りのあるものになってくる。ことばなんて、嘘にすぎないのに、その嘘がほんとうになって、この世(ほんとうの世界)をねじ曲げる。
そして、次に動いた瞬間、そのことばが、いままでとは違った「いきもの」になる。それが、とてもおもしろいのだ。「斜め」(かしいだ)ということばを繰り返しているうちに、水そのものが斜めになってしまう。それがおもしろいのだ。(斜めのコップに注がれた水--というのでは、世界はねじ曲がらない。逆に、正しい?世界に逆戻りしてしまう。)
「空虚が笑う」という作品もとても気に入っている。
「わしにもくれんかな」がおかしい。「空虚」にすでに「人格」があたえられている。口癖があたえられている。そのときから、もう空虚は空虚ではなく、何かしらの「もの」(実存)である。「ほほう!」もいいし、「それ、それ!あそぼうぞ」もいい。
なにも存在しないのが「空虚」であるはずなのに、その「空虚」が何かあるものにかわるのがいい。「空虚」の意味が無効になり、それまで存在しなかったものが、ことばといっしょに誕生してくるのである。
*
2月のお薦め。
朝吹真理子「きことわ」
福田武人「網状組織の諸々の結節点に……」
中山直子「牛の瞳」
詩をどんなふうにして好きになるか。わたしの場合は単純である。その作品に好きな行が1行あればいい。あ、これをまねしてみたい、これを盗んでつかいたいと思う行があれば、それだけでいい。
「あてどない歩み」には、それがある。
わたしの歩行は斜めである
それでかしいだホテルを好む
かしいだ部屋のかしいだ椅子にすわり
かしいだ机でノートをかしだせて
かしいだ文字をかきつける
かしいだ道でかしいだ女の後をつける
斜めにつがれた水をのみほす
斜めにひきちぎる細長のパン
目蓋に付着するバターを斜めに拭って
じゃむを斜めに塗りたくる
斜めに傾くコーヒーカップ
斜めに飲み干し
顎から斜めに滴り落ちる
「斜めにつがれた水」。これが気に入った。
鈴木はどういう水を思い描いているかは、まあ、関係ない。私は、垂直に立っているコップの中で、水だけが斜めになっている状態を思い描いたのである。
それまでに書かれていることばをきちんと踏まえれば、コップが斜めになっている(かしいでいる)。そして、そこに水が注がれると、水の体積(容積)、水を横から見たときの姿がコップの傾きのために斜めになっている、ということなのかもしれないけれど。
それでは、つまらない。
だから私は「誤読」し、その上で、この部分が好き、というのである。
なぜ、コップが傾いていて、それを横から見ると水そのものが斜めの形に見えるというのがつまらないかというと、そういう形の水は、水が傾いているのではない。コップが傾いているので、それにあわせて体積が傾いているにすぎない。ものの形にあわせて形を変えていくというのは水の基本的な性質である。傾いたコップの中で傾いている水は、水そのものの「性質」(本質)が傾いていない。重力にしたがって、水面を水平にしたら、断面が傾いただけである。これでは詩にならない。
まっすぐなコップの中で、水だけが傾く。--そのとき、水は水自身の「肉体」をもつ。あ、いいなあ。重力に逆らう水。どこにもなかった水が、「かしいだ」(斜めになった)ということばの連続の中で、水の肉体に作用してくるのだ。
ことばは繰り返していると、その対象(描かれたもの)の性質さえ変えてしまうのだ。そのとき、世界は変わるのだ。ことばによって変わるのだ。ことばによって、世界を変える--そのときのことばが詩なのである。
あ、間違えたかな?
ことばを繰り返す。そうすると、ことばが次第に「もの」のように手触りのあるものになってくる。ことばなんて、嘘にすぎないのに、その嘘がほんとうになって、この世(ほんとうの世界)をねじ曲げる。
そして、次に動いた瞬間、そのことばが、いままでとは違った「いきもの」になる。それが、とてもおもしろいのだ。「斜め」(かしいだ)ということばを繰り返しているうちに、水そのものが斜めになってしまう。それがおもしろいのだ。(斜めのコップに注がれた水--というのでは、世界はねじ曲がらない。逆に、正しい?世界に逆戻りしてしまう。)
「空虚が笑う」という作品もとても気に入っている。
朝 起きたら
部屋のスミに
空虚がすわっていました
それが るあるい顔で
にんまりと笑っているのです
そうして
「今日は何をするんだ」
と 聞いてくるのです
空虚なんか無視しましょ
気がつかないふりして
普段どおりにしようと決めたのです
顔を洗って 歯を磨き
コーヒーをいれて トーストを焼き
一口食べようと口をあけると
「わしにもくれんかな」
と 空虚が言うのです
空虚にも食欲があるのねと思いながら
しらんぷりして一口頬ばると
「ほほう!」
と 空虚は声をあげたのです
なおも無視すると
空虚はじりっじりっとにじり寄ってくるので
「あなたのは ありません」
と 思わず口にしてしまいました
すると 空虚は
「それ、そーれあそぼうぞ」
と言って
一段とうれしそうに笑うのでした
「わしにもくれんかな」がおかしい。「空虚」にすでに「人格」があたえられている。口癖があたえられている。そのときから、もう空虚は空虚ではなく、何かしらの「もの」(実存)である。「ほほう!」もいいし、「それ、それ!あそぼうぞ」もいい。
なにも存在しないのが「空虚」であるはずなのに、その「空虚」が何かあるものにかわるのがいい。「空虚」の意味が無効になり、それまで存在しなかったものが、ことばといっしょに誕生してくるのである。
*
2月のお薦め。
朝吹真理子「きことわ」
福田武人「網状組織の諸々の結節点に……」
中山直子「牛の瞳」