笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年01月24日発行)
私は歌集というものをめったに読まない。笹井宏之という歌人も知らなかった。読みはじめてすぐに気がつくが、笹井の短歌は乱調の美学で構成されている。
ともだちを「一匹」と数えることばの破壊、出会ってはいけないことばの出会い、出会うはずのないことばの衝突--その乱調の音楽が笹井のいちばんの特徴である。
ふつうはともだちを「一匹」とは数えない。「ひとり」と数える。それを承知で、わざと「一匹」と数える。そうすると、肉体とこころ(精神)が微妙に乱れる。肉体が乱れたのか、こころが乱れたのかわからないが、何かが乱れる。不思議な亀裂が入るのだ。亀裂は跳び越えなければならない。亀裂は歩いてはわたれない。亀裂にわたす橋は、とりあえずは、存在しない。だから、その深い亀裂を笹井は飛び越すのである。その跳躍は、ときに跳躍を通り越して飛翔になる。軽やかに明るく飛んでしまう。
その亀裂と橋をもたない貧しさに青春のかなしみが近づいてくる。そして、その亀裂を飛び越す跳躍力・飛翔力(豊かな力)にことばの若さが輝く。必要なものがないという「貧しさ」、けれどそれを克服できる「豊かさ」。その矛盾したものが笹井のことばを輝かせる。
こういうことは、たぶん多くのひとが語るだろうし、もう語ってしまっていることかもしれない。だから、私は少し違うことを書こうと思う。
私が笹井の短歌で非常におもしろいと思ったのは、「Ⅱ」(63ページ以降)の部分に収録されている歌である。
ある抒情的なこころ(精神)と、それとは無関係な「もの」との出会い(特に、「たにし」がその例になるだろう)は、笹井の特徴である。そういう異質な出会いが乱調の輝かしさの源である。--という性質は、この一群の短歌でもかわらない。
しかし、リズムがまったくかわってしまっている。軽さが消えてしまっている。
「おそらくは」の歌は、句点「。」まで登場して、前半と後半に大きな断絶がある。それは、その断絶を超えて(跳躍して、飛翔して)ことばが運動したということを示しているが、「跳んだ、飛んだ」という感じがしないのである。そこにあらわれる抒情も青春の透明さがない。
そのかわりに、不透明で重い暗さがある。
それは、跳躍(飛翔)するときは、踏み切る足が大地にもぐりこむ感じに似ている。跳躍・飛翔するとき、足は硬い大地の反動を利用して大地から離れるのだが、この一群の作品では、跳躍・飛翔するするためにふんばった足が、大地に沈み込んでいく。そのときの、つらい悲しみがある。あ、ほんとうはもっと高く跳べる(飛べる)のに、という絶望が、そこにまとわりつく。
そしてそれは、なんといえばいいのだろう、絶望なのだけれど、絶望しながら、暗い部分へ踏み込むことで、そこにあるものをつたえようとしているようでもある。
ことばの方向(ベクトル)がここでは完全に変わっているのである。
自分の悲しみ・絶望から飛翔するのではなく、自分の悲しみ・絶望をえぐるのである。掘り進むのである。
この歌は「Ⅰ」の3首目の歌だが、自分をしずかになだめながらみつめるというような視線から、さらに深く、何か、突き刺さるような感じでことばは動いていく。
というような、不思議なかなしみ、不思議なわらいの歌もあるのだが……。
ひと(他人)との距離が、どこかで絶対的に変わってきてしまっている。自分自身への距離のとりかたが違ってきているのを感じるのだ。
この絶望を掘り進み、その絶望の底に深い亀裂を入れることができたら、笹井はもういちど絶対的な飛翔をなし遂げたに違いないと思う。けれど、もう、そのことばの運動を私たちはみることができない。読むことができない。とても残念である。とても悔しい気持ちになる。
私は歌集というものをめったに読まない。笹井宏之という歌人も知らなかった。読みはじめてすぐに気がつくが、笹井の短歌は乱調の美学で構成されている。
ともだちを一匹抱いて夕焼けに消えてしまいそうな私のうで
ともだちを「一匹」と数えることばの破壊、出会ってはいけないことばの出会い、出会うはずのないことばの衝突--その乱調の音楽が笹井のいちばんの特徴である。
ふつうはともだちを「一匹」とは数えない。「ひとり」と数える。それを承知で、わざと「一匹」と数える。そうすると、肉体とこころ(精神)が微妙に乱れる。肉体が乱れたのか、こころが乱れたのかわからないが、何かが乱れる。不思議な亀裂が入るのだ。亀裂は跳び越えなければならない。亀裂は歩いてはわたれない。亀裂にわたす橋は、とりあえずは、存在しない。だから、その深い亀裂を笹井は飛び越すのである。その跳躍は、ときに跳躍を通り越して飛翔になる。軽やかに明るく飛んでしまう。
その亀裂と橋をもたない貧しさに青春のかなしみが近づいてくる。そして、その亀裂を飛び越す跳躍力・飛翔力(豊かな力)にことばの若さが輝く。必要なものがないという「貧しさ」、けれどそれを克服できる「豊かさ」。その矛盾したものが笹井のことばを輝かせる。
こういうことは、たぶん多くのひとが語るだろうし、もう語ってしまっていることかもしれない。だから、私は少し違うことを書こうと思う。
私が笹井の短歌で非常におもしろいと思ったのは、「Ⅱ」(63ページ以降)の部分に収録されている歌である。
おそらくは腕であるその一本へむぎわら帽を掛ける。夕立
そのみずが私であるかどうかなど些細なことで、熟れてゆく桃
てのひらの浅いくぼみでひと休みしているとてもやさしいたにし
内圧に耐えられそうにないときは手紙の端を軽く折ること
ある抒情的なこころ(精神)と、それとは無関係な「もの」との出会い(特に、「たにし」がその例になるだろう)は、笹井の特徴である。そういう異質な出会いが乱調の輝かしさの源である。--という性質は、この一群の短歌でもかわらない。
しかし、リズムがまったくかわってしまっている。軽さが消えてしまっている。
「おそらくは」の歌は、句点「。」まで登場して、前半と後半に大きな断絶がある。それは、その断絶を超えて(跳躍して、飛翔して)ことばが運動したということを示しているが、「跳んだ、飛んだ」という感じがしないのである。そこにあらわれる抒情も青春の透明さがない。
そのかわりに、不透明で重い暗さがある。
それは、跳躍(飛翔)するときは、踏み切る足が大地にもぐりこむ感じに似ている。跳躍・飛翔するとき、足は硬い大地の反動を利用して大地から離れるのだが、この一群の作品では、跳躍・飛翔するするためにふんばった足が、大地に沈み込んでいく。そのときの、つらい悲しみがある。あ、ほんとうはもっと高く跳べる(飛べる)のに、という絶望が、そこにまとわりつく。
そしてそれは、なんといえばいいのだろう、絶望なのだけれど、絶望しながら、暗い部分へ踏み込むことで、そこにあるものをつたえようとしているようでもある。
ことばの方向(ベクトル)がここでは完全に変わっているのである。
自分の悲しみ・絶望から飛翔するのではなく、自分の悲しみ・絶望をえぐるのである。掘り進むのである。
こころにも手や足がありねむるまえしずかに屈伸運動をする
この歌は「Ⅰ」の3首目の歌だが、自分をしずかになだめながらみつめるというような視線から、さらに深く、何か、突き刺さるような感じでことばは動いていく。
うっとりと私の耳にかみついたうすももいろの洗濯ばさみ
というような、不思議なかなしみ、不思議なわらいの歌もあるのだが……。
死んだことありますかってきいてくるティッシュ配りのおとこを殴る
感傷のまぶたにそっとゆびをおく 救われるのはいつも私だ
おくびょうな私を一羽飼っているから大声は出さないように
ひと(他人)との距離が、どこかで絶対的に変わってきてしまっている。自分自身への距離のとりかたが違ってきているのを感じるのだ。
この絶望を掘り進み、その絶望の底に深い亀裂を入れることができたら、笹井はもういちど絶対的な飛翔をなし遂げたに違いないと思う。けれど、もう、そのことばの運動を私たちはみることができない。読むことができない。とても残念である。とても悔しい気持ちになる。
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