詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治「明治のできごと」

2011-02-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「明治のできごと」(「八景」2、2011年02月05日発行)

 廿楽順治の文体は口語の肉体とあそぶような感じである。ときに、「どう?」とストリップのようにちらりと肉体を奥をのぞかせたり、「ここは、どう?」と相手の手のとどかないところを撫でて反応をみる感じである。「いやん、だめ!」とぴしゃりと手をたたいて拒絶しているのか、誘っているのか悩ませるようなところもある。簡単に言うと、すけべで、色っぽいところがある。
 「明治のできごと」は尻揃えで書かれている詩なのだが、頭揃えの形で引用する。

もうしわけていどに言語がおかれている
(しかるがゆえにぬばたまの)
男子のみたまがしかめっつらでお茶をのんでいる
すき焼きじゃあるまいに
なまいきに言語をよっているのさ

 (しかるがゆえにぬばたまの)という1行の唐突さ。何が「しかるがゆえ」? どうして「ぬばたま」? 意味などない。意味の文脈はない。けれど、「しかるがゆえにぬばたまの」と次の行の「男子のみたまがしかめっつら」には、不思議な「音」の脈絡がある。「音楽」がある。(「が」は、ぜひ、鼻濁音で読んでもらいたい。そうしないと「ま」の音と響きあわない。)意味はどうでもよくて、ここでは、ことばの音の肉体が「過去」の肉体と「ねんごろ」になっているのだ。
 「ぬばたま」と「みたま」が、なにやらあやしげにつながり、その両側を「しか」のがゆえに、「しか」めっつらが挟んで、音の連絡そのものを笑っている。
 そして、こういう音の遊びさえも、「すき焼き」で「肉」をよりわけて食べているように、「言語をよっている」と笑ってしまう。
 --と、自己批判(?)しながら、まあ、ことばをよりわける、その敏感な舌を廿楽は見せつけているのかも。 それは、あくまで舌。あるいは、口蓋とか、歯とか、鼻腔とか、のど(声帯)とかも含むかもしれないけれど、ようするにことばを発するときの「肉体」の敏感な反応、しなやかな動きを廿楽は「芸」として見せてくれる。(意味として考えさせてくれる、のではなく、と補足しておく。)
 ことばとともに肉体があるということは、ことばとともに暮らしがあるということでもあるのだが、それは、ほら「すき焼きじゃあるまいに/なまいきに言語をよっているのさ」というような暮らしなのである。そして、そこに「暮らし」があるということは、同時に他人の肉体と暮らしがあり、常にその批判にさらされながらことばが動くということである。

 あ、別なふうに言い換えるべきか。

 廿楽の書いていることは、いったい何?と問われたら、ちょっと答えに困る。たとえば「もうしわけていどに言語がおかれている」というときの「言語」って何? 具体的には何? その言語は何を語っている? 答えられないねえ。廿楽だって、きっと答えをもたない。
 けれど、そういう「わけのわからないもの」を口語のリズム、音のなかで、ぐいっと押して動かしてしまう。わからなくたっていいじゃない。「しかるがゆえにぬばたまの」って、何かしかるがゆえ? 「ぬばたま」って「黒」とか「夜」とか、なんだか暗いものと関係したものにかかる「枕詞」じゃない? というのは、どうでもいい。まあ、あやしい何かをちらりと思い浮かべればいいのだ。「ぬばたま」って声に出すと肉体のなかに「真昼」の明るさとは違う何かがよぎるでしょ? それって、私たち日本人が「肉体」のなかに抱えている何かなのだ。繰り返し繰り返し「ぬばたま」ということばを聞くことで、あれは、こんな感じのことばだったなあ、というくらいの印象--けれど、印象だから変にしつこくて、肉体にしみこんで、とりだせなくなっている変なもの……。それを廿楽は、その指先で、つんっ、とつついてみせる。ぐいっと押してみせる。
 「すき焼きじゃあるまいに/なまいきに言語をよっているのさ」にしても、ふいに、肉ばっかり選んで食べていて、「そんなことするんじゃない、行儀が悪い」なんて叱られた記憶が肉体の奥からわいてくるでしょ? ことばを選ぶこととすき焼きの肉を選ぶことは、違うことなのかもしれないけれど、その違うことが「肉体」(暮らし、他人)をとおして重なってしまう。
 こういうときの、「肉体」の重なり--あ、ね、色っぽいでしょ?
 それとも、こんなふうに反応するのは変態?
 でも、いいんだ。変態、と誰かに言われてみたいなあ。それって、変態って呼んだひとがしたくてもできないことを私がしてるから、嫉妬していうんでしょ? したくないことだったら知らん顔するだけ。無関係でいるだけ。変態って批判するってことは、その批判の対象とどこかで一体化することだからねえ。
 なんて、余分なことを書いてしまった。書いてしまったが、ようするに、こういうことを書かせることば、誘い出すことばなのだ、廿楽の文体は。

 さらに別な言い方をしてみる。
 廿楽の書いていることはわからない。わからないけれど、そのわからなさのなかに、とってもよくわかることばがある。そのよくわかることばは「肉体」に直接ふれてくる。セックスするとき触れあう肉体のように。

べに鮭のはらみたいに
わたしたちはどれだけうつくしく裂けているのだろうか
というとくるしんでいるようですが
きょうはにちようび
びらびらと
うまそうな腹をみせあってよろこんでいるのです

 「びらびら」とか「うまそうな腹」とか、これは「頭」でつかまえることばじゃないね。「肉体」がかってに納得してしまうことばである。

野菜はちゃんと庭にそだっているでしょうか
やがてわたしもいっぱしの
びらびらの学士さまになって
ゴシック体のうんこをばらまいてやるのです

 「ゴシック体のうんこ」ってわかる? わかんないよなあ。なんだ、これ。「おい、廿楽、ちゃんと日本語を書け」と「学校教科書的な作文」なら叱られるかもしれないなあ。そういうとき、どうする? 廿楽が先生から怒られているのを見たら、どうする? 何か楽しくない? 「うんこ、うんこ、ゴシック体のうんこ」ってはやしたてたくならない?そういう欲望、「頭」のなかにあるのではなく、「肉体」のなかにある欲望を誘い出すよなあ。

 何が「明治のできごと」なのか、わからないのだけれど、そういうことは私は気にしないのだ。「意味」はどうでもよくて、「意味」を壊すようにして動く「肉体」そのものとしての「口語」が楽しいのだ。




すみだがわ
廿楽 順治
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(185 )

2011-02-23 12:07:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅡのつづき。

 この詩には「哲学的」なことば、「永遠」をめぐることばがいろいろ書かれている。そこに「意味」はたしかにあるし、そうしたことばについて考えるのは楽しい。けれど、それと同様に、「無意味」なことば、「意味」を拒絶していることばも楽しい。

旅人のあとを
犬がふらふら
歩いている
夕陽は
シヤツをバラ色に
いろどる
町のはずれで
もなかと
するめを
買つた
がまぐちのしまる音は
風とともに
野原の中へ去つた

 「もなかと/するめを/買つた」がおかしい。どういうとりあわせ? それを一緒に売っている店ってどういう店? などということは、どうでもいい。もなかとするめというとりあわせが予想外でおかしい。予想外なので、読んでいて、私のなかで何かが壊れる。西脇のことばは乱調、ことばの破壊の音楽の楽しさがあるが、それはこんな短いことばでもできるのだ。もなかとするめはとりあわせがおもしろいと同時に、音も不思議と印象に残る。両方とも滑らかに動く。音がなめらかなので、そのとりあわせが不自然(?)なことを一瞬忘れてしまうほどだ。
 次の「がまぐちのしまる音は/風とともに/野原の中へ去つた」もやはり音がおもしろい。ここには「意味」など、ない。だいたいがまぐちのしまる音など、風が運ぶ前に、そのあたりに散らばって消えてしまう。それが「野原の中」まで「去る」ということなど、論理的にはありえないだろう。
 「わざと」そう書くのだ。
 そうすると、そのことばとともに「もの」が動く。意識のなかで「もの」が動く。「野原の中へ」の「中」さえも、まるで「もの」のように出現してくる。「野原へ去つた」と書いたとき(読んだとき)とはまるっきり違ったものが出現してくる。
 「意味」を追い、それが正しいかどうかというようなことを考えているときは見えてこない「もの」が突然あらわれて、私を驚かす。
 その瞬間に、詩を感じる。

もうレンゲソウも
なのはなもない
また川べりに来た
遠くにバスが通る
ひとりの男が
猫色の帽子をかぶつて
魚をつつている
それを
見ている男の顔は
スカンポのように
青い
のいばらの
えだの首環の下から
エッケー!








 この詩の終わり方。「エッケー、ホーモー」に「意味」はあるだろう。「日本語」に訳せば「意味」が生まれてくるだろう。だが、西脇は、そうしていない。「ホモ」(人間)に関することばが「意味」としてあらわれてくるだろう。けれど、西脇は、そうしない。ただ、その「音」を「音」のまま書いている。音引き「ー」や無音「・」を書くことで、ことばを「音」そのものにしてしまっている。
 「意味」は「意味」なりに、有効な何かなのだが、西脇は「意味」よりも「音」そのものを解放するために、音引きや無音だけの行を書いているのだ。
 「意味」ではない「音」が放り出されているのである。

 西脇は、いつでも「音」を詩の中に放り出しているのだと思う。「意味」はどこかに捨ててしまって、そこにある「音」の響きだけを楽しんでいる。こういう遊びが私はとても好きである。「意味」はわからなくてもいい。そのうち、ふいに「意味」を「誤読」する瞬間がくるかもしれない。こなくても、私は、気にしない。
 最後の「エッケー!ホーモー」ということばの前の「スカンポ」の突然の出現もうれしい。茎の中が空洞になった植物。私の田舎では、なにも食べるものがないとき、道端のスカンポをかじって歩いた。そういうようなことも思い出すのだ。西脇が書いていることと関係するかしないかわからないことを、かってに感じるのだ。スカンポというかわいた音とともに。





最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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