廿楽順治「明治のできごと」(「八景」2、2011年02月05日発行)
廿楽順治の文体は口語の肉体とあそぶような感じである。ときに、「どう?」とストリップのようにちらりと肉体を奥をのぞかせたり、「ここは、どう?」と相手の手のとどかないところを撫でて反応をみる感じである。「いやん、だめ!」とぴしゃりと手をたたいて拒絶しているのか、誘っているのか悩ませるようなところもある。簡単に言うと、すけべで、色っぽいところがある。
「明治のできごと」は尻揃えで書かれている詩なのだが、頭揃えの形で引用する。
(しかるがゆえにぬばたまの)という1行の唐突さ。何が「しかるがゆえ」? どうして「ぬばたま」? 意味などない。意味の文脈はない。けれど、「しかるがゆえにぬばたまの」と次の行の「男子のみたまがしかめっつら」には、不思議な「音」の脈絡がある。「音楽」がある。(「が」は、ぜひ、鼻濁音で読んでもらいたい。そうしないと「ま」の音と響きあわない。)意味はどうでもよくて、ここでは、ことばの音の肉体が「過去」の肉体と「ねんごろ」になっているのだ。
「ぬばたま」と「みたま」が、なにやらあやしげにつながり、その両側を「しか」のがゆえに、「しか」めっつらが挟んで、音の連絡そのものを笑っている。
そして、こういう音の遊びさえも、「すき焼き」で「肉」をよりわけて食べているように、「言語をよっている」と笑ってしまう。
--と、自己批判(?)しながら、まあ、ことばをよりわける、その敏感な舌を廿楽は見せつけているのかも。 それは、あくまで舌。あるいは、口蓋とか、歯とか、鼻腔とか、のど(声帯)とかも含むかもしれないけれど、ようするにことばを発するときの「肉体」の敏感な反応、しなやかな動きを廿楽は「芸」として見せてくれる。(意味として考えさせてくれる、のではなく、と補足しておく。)
ことばとともに肉体があるということは、ことばとともに暮らしがあるということでもあるのだが、それは、ほら「すき焼きじゃあるまいに/なまいきに言語をよっているのさ」というような暮らしなのである。そして、そこに「暮らし」があるということは、同時に他人の肉体と暮らしがあり、常にその批判にさらされながらことばが動くということである。
あ、別なふうに言い換えるべきか。
廿楽の書いていることは、いったい何?と問われたら、ちょっと答えに困る。たとえば「もうしわけていどに言語がおかれている」というときの「言語」って何? 具体的には何? その言語は何を語っている? 答えられないねえ。廿楽だって、きっと答えをもたない。
けれど、そういう「わけのわからないもの」を口語のリズム、音のなかで、ぐいっと押して動かしてしまう。わからなくたっていいじゃない。「しかるがゆえにぬばたまの」って、何かしかるがゆえ? 「ぬばたま」って「黒」とか「夜」とか、なんだか暗いものと関係したものにかかる「枕詞」じゃない? というのは、どうでもいい。まあ、あやしい何かをちらりと思い浮かべればいいのだ。「ぬばたま」って声に出すと肉体のなかに「真昼」の明るさとは違う何かがよぎるでしょ? それって、私たち日本人が「肉体」のなかに抱えている何かなのだ。繰り返し繰り返し「ぬばたま」ということばを聞くことで、あれは、こんな感じのことばだったなあ、というくらいの印象--けれど、印象だから変にしつこくて、肉体にしみこんで、とりだせなくなっている変なもの……。それを廿楽は、その指先で、つんっ、とつついてみせる。ぐいっと押してみせる。
「すき焼きじゃあるまいに/なまいきに言語をよっているのさ」にしても、ふいに、肉ばっかり選んで食べていて、「そんなことするんじゃない、行儀が悪い」なんて叱られた記憶が肉体の奥からわいてくるでしょ? ことばを選ぶこととすき焼きの肉を選ぶことは、違うことなのかもしれないけれど、その違うことが「肉体」(暮らし、他人)をとおして重なってしまう。
こういうときの、「肉体」の重なり--あ、ね、色っぽいでしょ?
それとも、こんなふうに反応するのは変態?
でも、いいんだ。変態、と誰かに言われてみたいなあ。それって、変態って呼んだひとがしたくてもできないことを私がしてるから、嫉妬していうんでしょ? したくないことだったら知らん顔するだけ。無関係でいるだけ。変態って批判するってことは、その批判の対象とどこかで一体化することだからねえ。
なんて、余分なことを書いてしまった。書いてしまったが、ようするに、こういうことを書かせることば、誘い出すことばなのだ、廿楽の文体は。
さらに別な言い方をしてみる。
廿楽の書いていることはわからない。わからないけれど、そのわからなさのなかに、とってもよくわかることばがある。そのよくわかることばは「肉体」に直接ふれてくる。セックスするとき触れあう肉体のように。
「びらびら」とか「うまそうな腹」とか、これは「頭」でつかまえることばじゃないね。「肉体」がかってに納得してしまうことばである。
「ゴシック体のうんこ」ってわかる? わかんないよなあ。なんだ、これ。「おい、廿楽、ちゃんと日本語を書け」と「学校教科書的な作文」なら叱られるかもしれないなあ。そういうとき、どうする? 廿楽が先生から怒られているのを見たら、どうする? 何か楽しくない? 「うんこ、うんこ、ゴシック体のうんこ」ってはやしたてたくならない?そういう欲望、「頭」のなかにあるのではなく、「肉体」のなかにある欲望を誘い出すよなあ。
何が「明治のできごと」なのか、わからないのだけれど、そういうことは私は気にしないのだ。「意味」はどうでもよくて、「意味」を壊すようにして動く「肉体」そのものとしての「口語」が楽しいのだ。
廿楽順治の文体は口語の肉体とあそぶような感じである。ときに、「どう?」とストリップのようにちらりと肉体を奥をのぞかせたり、「ここは、どう?」と相手の手のとどかないところを撫でて反応をみる感じである。「いやん、だめ!」とぴしゃりと手をたたいて拒絶しているのか、誘っているのか悩ませるようなところもある。簡単に言うと、すけべで、色っぽいところがある。
「明治のできごと」は尻揃えで書かれている詩なのだが、頭揃えの形で引用する。
もうしわけていどに言語がおかれている
(しかるがゆえにぬばたまの)
男子のみたまがしかめっつらでお茶をのんでいる
すき焼きじゃあるまいに
なまいきに言語をよっているのさ
(しかるがゆえにぬばたまの)という1行の唐突さ。何が「しかるがゆえ」? どうして「ぬばたま」? 意味などない。意味の文脈はない。けれど、「しかるがゆえにぬばたまの」と次の行の「男子のみたまがしかめっつら」には、不思議な「音」の脈絡がある。「音楽」がある。(「が」は、ぜひ、鼻濁音で読んでもらいたい。そうしないと「ま」の音と響きあわない。)意味はどうでもよくて、ここでは、ことばの音の肉体が「過去」の肉体と「ねんごろ」になっているのだ。
「ぬばたま」と「みたま」が、なにやらあやしげにつながり、その両側を「しか」のがゆえに、「しか」めっつらが挟んで、音の連絡そのものを笑っている。
そして、こういう音の遊びさえも、「すき焼き」で「肉」をよりわけて食べているように、「言語をよっている」と笑ってしまう。
--と、自己批判(?)しながら、まあ、ことばをよりわける、その敏感な舌を廿楽は見せつけているのかも。 それは、あくまで舌。あるいは、口蓋とか、歯とか、鼻腔とか、のど(声帯)とかも含むかもしれないけれど、ようするにことばを発するときの「肉体」の敏感な反応、しなやかな動きを廿楽は「芸」として見せてくれる。(意味として考えさせてくれる、のではなく、と補足しておく。)
ことばとともに肉体があるということは、ことばとともに暮らしがあるということでもあるのだが、それは、ほら「すき焼きじゃあるまいに/なまいきに言語をよっているのさ」というような暮らしなのである。そして、そこに「暮らし」があるということは、同時に他人の肉体と暮らしがあり、常にその批判にさらされながらことばが動くということである。
あ、別なふうに言い換えるべきか。
廿楽の書いていることは、いったい何?と問われたら、ちょっと答えに困る。たとえば「もうしわけていどに言語がおかれている」というときの「言語」って何? 具体的には何? その言語は何を語っている? 答えられないねえ。廿楽だって、きっと答えをもたない。
けれど、そういう「わけのわからないもの」を口語のリズム、音のなかで、ぐいっと押して動かしてしまう。わからなくたっていいじゃない。「しかるがゆえにぬばたまの」って、何かしかるがゆえ? 「ぬばたま」って「黒」とか「夜」とか、なんだか暗いものと関係したものにかかる「枕詞」じゃない? というのは、どうでもいい。まあ、あやしい何かをちらりと思い浮かべればいいのだ。「ぬばたま」って声に出すと肉体のなかに「真昼」の明るさとは違う何かがよぎるでしょ? それって、私たち日本人が「肉体」のなかに抱えている何かなのだ。繰り返し繰り返し「ぬばたま」ということばを聞くことで、あれは、こんな感じのことばだったなあ、というくらいの印象--けれど、印象だから変にしつこくて、肉体にしみこんで、とりだせなくなっている変なもの……。それを廿楽は、その指先で、つんっ、とつついてみせる。ぐいっと押してみせる。
「すき焼きじゃあるまいに/なまいきに言語をよっているのさ」にしても、ふいに、肉ばっかり選んで食べていて、「そんなことするんじゃない、行儀が悪い」なんて叱られた記憶が肉体の奥からわいてくるでしょ? ことばを選ぶこととすき焼きの肉を選ぶことは、違うことなのかもしれないけれど、その違うことが「肉体」(暮らし、他人)をとおして重なってしまう。
こういうときの、「肉体」の重なり--あ、ね、色っぽいでしょ?
それとも、こんなふうに反応するのは変態?
でも、いいんだ。変態、と誰かに言われてみたいなあ。それって、変態って呼んだひとがしたくてもできないことを私がしてるから、嫉妬していうんでしょ? したくないことだったら知らん顔するだけ。無関係でいるだけ。変態って批判するってことは、その批判の対象とどこかで一体化することだからねえ。
なんて、余分なことを書いてしまった。書いてしまったが、ようするに、こういうことを書かせることば、誘い出すことばなのだ、廿楽の文体は。
さらに別な言い方をしてみる。
廿楽の書いていることはわからない。わからないけれど、そのわからなさのなかに、とってもよくわかることばがある。そのよくわかることばは「肉体」に直接ふれてくる。セックスするとき触れあう肉体のように。
べに鮭のはらみたいに
わたしたちはどれだけうつくしく裂けているのだろうか
というとくるしんでいるようですが
きょうはにちようび
びらびらと
うまそうな腹をみせあってよろこんでいるのです
「びらびら」とか「うまそうな腹」とか、これは「頭」でつかまえることばじゃないね。「肉体」がかってに納得してしまうことばである。
野菜はちゃんと庭にそだっているでしょうか
やがてわたしもいっぱしの
びらびらの学士さまになって
ゴシック体のうんこをばらまいてやるのです
「ゴシック体のうんこ」ってわかる? わかんないよなあ。なんだ、これ。「おい、廿楽、ちゃんと日本語を書け」と「学校教科書的な作文」なら叱られるかもしれないなあ。そういうとき、どうする? 廿楽が先生から怒られているのを見たら、どうする? 何か楽しくない? 「うんこ、うんこ、ゴシック体のうんこ」ってはやしたてたくならない?そういう欲望、「頭」のなかにあるのではなく、「肉体」のなかにある欲望を誘い出すよなあ。
何が「明治のできごと」なのか、わからないのだけれど、そういうことは私は気にしないのだ。「意味」はどうでもよくて、「意味」を壊すようにして動く「肉体」そのものとしての「口語」が楽しいのだ。
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