詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「遠明かり」

2011-02-05 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「遠明かり」(「宮古島文学」6、2011年01月21日発行)

 池井昌樹「遠明かり」はとても美しい。

むかしのよるのていしゃばに
なみがよせ
なみがくだけ
うみのにおいがたちこめて
むかしのよるのていしゃばは
さんばしみたいにすこしゆれ
みんないたごのうえだから
いならぶものはいちように
いろとりどりなテープもち
よぎしゃのまどとつながって
むかしのよるのていしゃばは
かなしみにみちにおやかに
テープがちぎれからみあい
からみあいつつまたちぎれ
よぎしゃはおきへすべりだし
よぎしゃはそらへおともなく
ほうきぼしのようおをひいて
いろとりどりなよろこびや
かなしみにみちにおやかに
だれかのゆめをよぎるのだ
むかしつぼみのようだった
こぶしはいまもにぎりしめ
こんなさびしいまよなかに
だれもがだれかおもいだす
よぎしゃのまどとつながって

 「よぎしゃ」は「船」か「飛行機」かわからない。それが何であれ光に満ちた乗り物だ。その乗り物が出発する場所は「ていしゃば」。乗り物が「ていしゃ」する「ば」。そこは陸であり、海であり、空である。
 でも、そこはまた「ていしゃば」ではない。陸でも、海でも、空でもない。「よぎしゃ」は「ていしゃば」にいる(ある)のではない。この詩が書かれているとき、「よぎしゃ」は遠くにある。遠い「空」、遠い「海」、遠い「陸」にある。池井が見ているのは、その美しい光だけである。「ゆめ」のなかをよぎるように、「かなしみ」のように輝いている(美しく光っている)。
 その「遠明かり」を見ながら、池井は「ていしゃば」を想像している。「遠明かり」の「過去」を思い描いている。いろとりどりのテープで「過去」とつながっている。「過去」とつながった数だけ(?)、明かりは増える。
 だから、その「よぎしゃ」の「遠明かり」は池井にとっては「いま」であると同時に「過去」なのだ。「いま」と「過去」は時間を超えて「テープ」でつながり、その「テープ」のはかなさと、強さに打ち震える。

テープがちぎれからみあい
からみあいつつまたちぎれ

 これはあらゆるものの「比喩」になる。そして「比喩」を超えて「真実」になる。

むかしつぼみのようだった
こぶしはいまもにぎりしめ
こんなさびしいまよなかに
だれもがだれかおもいだす

 いいなあ。その「だれか」のひとりになりたいものだ。池井が思い出す「だれか」になってみたいなあ。池井がもし私を思い出してくれたら、そのとき私は「よぎしゃ」にのって池井と旅に出ることができる。

 冬の夜空を見上げ、その「よぎしゃ」の「まど」の明かりを探すのだった。

母家
池井 昌樹
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(178 )

2011-02-05 13:06:46 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「音」のつづき。「想像力」が聞く音について。

「こんどは笛を追放しよう
白金の絃琴だけにしよう
人間の言葉はあきたから
神々の言葉だけにしよう
林檎がテーブルをかする音
さじが絨毯におちる音
梅がやぶがらしの中へころがる音
音の中の音の中の音の
つり銭の音
乞食の袋の中で
茄子とかんづめの空かんがすれる音
蓮の花の開く音は--
あまりに町人的な……」

 これは、「祭に出す仮面劇(マスク)の相談」の内容である。ここに書かれている音は、そこには存在しない。話しているひと、そしてそれを聞いているひとの想像力の中になっている音である。 
 そして、そういう音を想像するとき、不思議なことに私は「音」そのものを聞いていない。音よりも、そこに語られている存在の動きをイメージしている。
 と、同時に。
 私は何よりも、その語られていることば自体の音を聞いている。
 たとえば「林檎がテーブルをかする音」というときの「かする」を聞いている。ここは理由などはないのだが「ころがる」ではだめ。「かする」だからおもしろい。林檎をテーブルで「切る」音、でもだめである。
 「茄子とかんづめの空かんがすれる音」になると「すれる」という動詞だけではなく、「茄子」「かんづめ」「空かん」も絶対的である。それ以外のことば、それ以外の音はおもしろくない、という気がしてくる。
 そして、「音の中の音の中の音の」という西脇のことばを借りていえば、「ことば」のなかの「音」の中にある「音」が他のことばの「音」のなかの「音」と触れ合って、聞こえない「音」を、聞こえないまま、そこに存在させている--それを聞いているという気持ちになるのだ。
 こういう一瞬を、「音に酔う」といえる。私は「音」に「酔って」、正常な(?)判断力を失ってしまうのである。

 最後の部分もおもしろいのだ。

土手にスカンポの花がまた咲くのを
待つている
どこかへ行かなければ
ならないわ

 だれが「土手にスカンポの花がまた咲くのを/待つている」のかわからないが、この花が咲くとき、なぜかはわからないが、「蓮の花が開く音」を思い起こさせ、きっと「音」がするだろうと思う。蓮の花が開くとき「ぽん」と弾けるような音がするが、その「ぽん」が「スカンポ」のなかにあるからかもしれない。
 仮面劇の相談のなかの「蓮の花が開く音」は「スカンポの花が開く音」なら、その劇(あるいは、そのことばの音)は、もっと別なことばを誘いながらもっとつづいたかもしれない。
 だが、そんなことをすれば、これはまた別の詩にもなってしまう。
 だから、あきらめて(?)、「どこかへ行かなければ/ならないわ」。
 あ、この最後の「わ」の不思議な美しさ。スカンポの花が開くのを待っている、待ちきれずにそこを去ってしまわなければならない--その空しい明るさが、その「わ」のなかにある。

西脇順三郎の詩と詩論
沢 正宏
桜楓社


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ロベルト・シュヴェンケ監督「RED」(★★)

2011-02-05 11:49:58 | 映画
監督 ロベルト・シュヴェンケ 出演 ブルース・ウィリス、モーガン・フリーマン、ジョン・マルコヴィッチ、ヘレン・ミレン、カール・アーバン

 中高年(老人?)を励ます映画なら、クリント・イーストウッドの「スペース・カウボーイ」という傑作がある。ガーボル・ロホニの「人生に乾杯!」というのもある。そういう傑作のあとでは、まあ、この映画は「お遊び」です。
 CIAを引退した年金生活者のスパイがCIAに狙われるという単純なストーリーなのだが、狙われるお年寄りのなかに「恋人」の若い女性が巻き込まれる、というのがストーリーを活気づかせる。彼女だけ「ストーリー」が見えていないから、方々でつまずく。だからストーリーはどうとてもなるというか、ご都合主義に変化して行ける。
 見どころ--というほどのものはないが。
 やっぱり、ジョン・マルコヴィッチは変人だよなあ、と納得させられるところがおかしい。実際にはどうなのかしらないが、LSDを何年間も投与されておかしくなった、というのは、そうだろうねえ、と思ってしまう。(そんなことはありえないだろうけれど。)傑作は、ヘリコプターがあやしい、と気づいてその登録番号(?)をメモする。次にヘリコプターがあらわれたとき、やっぱりあのヘリコプターだ、この番号だ、というのだが……。ジョン・マルコヴィッチの口にしている番号はたしかに前と同じらしいが、メモの番号があわない。ブルース・ウィリスが、メモを見ながら「これのどこが○○○○(アルファベットと数字)なんだ」と怒る。「おれが確認する」と別の男が窓に近づくと、ヘリコプターから銃弾が……。メモは正確にとれないのに、認識は正確--この変な感じが、ジョン・マルコヴィッチがやると、やっぱりそうか、と映画なのに、そう思ってしまう。このシーン(このエピソード)は映画じゃない、と思いたくなる。
 いい役者というのは、観客が「こう思いたい」と思うことを吸収して、そこに存在してくれる役者のことである。ジョン・マルコヴィッチは、まさにそういう役者である。



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