池井昌樹「遠明かり」(「宮古島文学」6、2011年01月21日発行)
池井昌樹「遠明かり」はとても美しい。
「よぎしゃ」は「船」か「飛行機」かわからない。それが何であれ光に満ちた乗り物だ。その乗り物が出発する場所は「ていしゃば」。乗り物が「ていしゃ」する「ば」。そこは陸であり、海であり、空である。
でも、そこはまた「ていしゃば」ではない。陸でも、海でも、空でもない。「よぎしゃ」は「ていしゃば」にいる(ある)のではない。この詩が書かれているとき、「よぎしゃ」は遠くにある。遠い「空」、遠い「海」、遠い「陸」にある。池井が見ているのは、その美しい光だけである。「ゆめ」のなかをよぎるように、「かなしみ」のように輝いている(美しく光っている)。
その「遠明かり」を見ながら、池井は「ていしゃば」を想像している。「遠明かり」の「過去」を思い描いている。いろとりどりのテープで「過去」とつながっている。「過去」とつながった数だけ(?)、明かりは増える。
だから、その「よぎしゃ」の「遠明かり」は池井にとっては「いま」であると同時に「過去」なのだ。「いま」と「過去」は時間を超えて「テープ」でつながり、その「テープ」のはかなさと、強さに打ち震える。
これはあらゆるものの「比喩」になる。そして「比喩」を超えて「真実」になる。
いいなあ。その「だれか」のひとりになりたいものだ。池井が思い出す「だれか」になってみたいなあ。池井がもし私を思い出してくれたら、そのとき私は「よぎしゃ」にのって池井と旅に出ることができる。
冬の夜空を見上げ、その「よぎしゃ」の「まど」の明かりを探すのだった。
池井昌樹「遠明かり」はとても美しい。
むかしのよるのていしゃばに
なみがよせ
なみがくだけ
うみのにおいがたちこめて
むかしのよるのていしゃばは
さんばしみたいにすこしゆれ
みんないたごのうえだから
いならぶものはいちように
いろとりどりなテープもち
よぎしゃのまどとつながって
むかしのよるのていしゃばは
かなしみにみちにおやかに
テープがちぎれからみあい
からみあいつつまたちぎれ
よぎしゃはおきへすべりだし
よぎしゃはそらへおともなく
ほうきぼしのようおをひいて
いろとりどりなよろこびや
かなしみにみちにおやかに
だれかのゆめをよぎるのだ
むかしつぼみのようだった
こぶしはいまもにぎりしめ
こんなさびしいまよなかに
だれもがだれかおもいだす
よぎしゃのまどとつながって
「よぎしゃ」は「船」か「飛行機」かわからない。それが何であれ光に満ちた乗り物だ。その乗り物が出発する場所は「ていしゃば」。乗り物が「ていしゃ」する「ば」。そこは陸であり、海であり、空である。
でも、そこはまた「ていしゃば」ではない。陸でも、海でも、空でもない。「よぎしゃ」は「ていしゃば」にいる(ある)のではない。この詩が書かれているとき、「よぎしゃ」は遠くにある。遠い「空」、遠い「海」、遠い「陸」にある。池井が見ているのは、その美しい光だけである。「ゆめ」のなかをよぎるように、「かなしみ」のように輝いている(美しく光っている)。
その「遠明かり」を見ながら、池井は「ていしゃば」を想像している。「遠明かり」の「過去」を思い描いている。いろとりどりのテープで「過去」とつながっている。「過去」とつながった数だけ(?)、明かりは増える。
だから、その「よぎしゃ」の「遠明かり」は池井にとっては「いま」であると同時に「過去」なのだ。「いま」と「過去」は時間を超えて「テープ」でつながり、その「テープ」のはかなさと、強さに打ち震える。
テープがちぎれからみあい
からみあいつつまたちぎれ
これはあらゆるものの「比喩」になる。そして「比喩」を超えて「真実」になる。
むかしつぼみのようだった
こぶしはいまもにぎりしめ
こんなさびしいまよなかに
だれもがだれかおもいだす
いいなあ。その「だれか」のひとりになりたいものだ。池井が思い出す「だれか」になってみたいなあ。池井がもし私を思い出してくれたら、そのとき私は「よぎしゃ」にのって池井と旅に出ることができる。
冬の夜空を見上げ、その「よぎしゃ」の「まど」の明かりを探すのだった。
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