詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

福田武人「網状組織の諸々の結節点に……」

2011-02-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
福田武人「網状組織の諸々の結節点に……」(「現代詩手帖」2011年02月号)

 福田武人「網状組織の諸々の結節点に……」は書き出しが刺激的である。

網状組織の諸々の結節点に蠢動と放電が見られ、漢語の葉叢にまでその鳥は線状に伸びる、滴る夜の葉、その中を矢印と骨組にまで還元された鳥の飛翔は波動として岩盤の空に記憶され……

 何が書いてあるのか。まあ、簡単にいうと(?)わからない。葉っぱが主語? 鳥が主語? いや、これは「漢語」が主語なんだろう。書かれていることは、なにやら、鳥は漢語の結節点に刺激されて飛翔するというようなことなのだが、鳥はどうでもいいんだろうなあ。漢語(漢字熟語?)が福田の意識を刺激する。その刺激をたどりながら福田はどこへ動いていくか探している。「結論」はない。あるかもしれないが、最初から想定されているのではなく、動いていくことでたどりつければいいという感じなのだろう。
 たとえば、

網状組織の諸々の結節点

 このことばはどこからやってきたか。「結節点」ということば最初から想定されていたか。私にはそうは思えない。「網状組織」ということばが「網」の「結び目」ということばを誘い、「網状」と「組織」という硬い音が「結び目」という柔らかいことばではなく「結節点」という「意味」を凝縮したことば、漢字の組み合わさった「表記」と「音」を誘い出したのだ。「もろもろ」ではなく「諸々」もひらがなの少ない「表記」が大切なのである。
 福田はおそらく黙読派の詩人である。この詩を福田は朗読しようとは思わないだろう。朗読することを想定して書いてはいないだろう。黙読し、目で漢字を追い、その瞬間に耳の奥に響くすばやい音に耳をすましている。黙読の最大の特徴は、その読むスピードが朗読よりもはるかに速いということだろう。音が鼓膜をすばやく過ぎ去る。鼓膜をすばやく振動させる。黙読によって、ことばは加速するのだ。

網状組織の諸々の結節点に蠢動と放電が見られ、

 「蠢動」は「しゅんどう」と読むことを私はきょうはじめて知ったが(これを書くために、辞書を1年ぶり?くらいで引いたのだ)、その「読み(音)」はわからなくても、ことばは動く。蠢いて(うごめいて)動く。いや、うごめくがわからなくても、黙読のときことばは動くのだ。「蠢動」の「動」だけで、なにかが動いているのがわかる。「蠢」はごちゃごちゃした漢字だからきっと何かがごちゃごちゃ動いているのだと想像できる。このとき、鼓膜は振動しない。鼓膜を音が通過しない--いや、無音が通過するのだ。
 漢語を黙読する、漢字熟語を黙読するとき、そういう一種の「ワープ」が起きる。このワープ感覚に「放電」ということばがとてもよく似合う。あることばには、あることばがよく似合う--ということを福田は知っているのだ。
 福田はそういうことばの「似合い方」とワープ力を利用してことばを動かしている。意味を考えながら書いているのではなく、ことばが動いたあと意味を確認しながらことばを追いかけているのだと思う。

漢語の葉叢にまでその鳥は線状に伸びる、

 とても快調である。「漢語」というキーワードをさらけだすことで福田はより自由になっている。
 「葉叢」は「は・むら」と読むのか「ようそう」と読むのか、私にはわからないが(つまり、私は、そのどちらも口に出して言ったことがないということである。私は自分で口に出す、音にしないことばは、それがどういう音かわからない)、この表記も「漢語」が誘い出したものである。(漢語であるかぎりは、「ようそう」と読ませたいのだと想定できる。)
 でも、ここで少し失速する。
 「その鳥」の「その」がまず邪魔をする。「その」は何を指すのか。前提が必要であるが、書かれていない。書かれていないことが指示されてことばはつまずく。ワープにブレーキがかかる。とたんに「伸びる」という「和語」が出てくる。「漢語」が消える。

滴る夜の葉、その中を矢印と骨組にまで還元された鳥の飛翔は波動として岩盤の空に記憶され電磁波でさらさらになった肉粒は波の打ち寄せことのない仮名文字の浜辺として風の吹くばかりだれかの囁きの音の抑制を真似る者はなく置き換えられる文字の葉のままにその分枝は罅割れざよろしく空間全体に枝分かれしつつある、

 「岩盤の空」の「空」も漢語から逸脱する。墜落するか。もっとひどいのは「さらさら」である。そこには漢語の響きもすばやさもない。音がうるさいくらいに自己主張する。「波の打ち寄せる」は「電磁波」の「波」を引き継いでの動きだが「打ち寄せる」がまたまた漢語ではない。だから「浜辺」と漢字を並べることばを誘い出すのがせいぜいである。そのあとも「囁き」という画数の多い漢字でことばを引き締めようとするのだが、うまく動いているとは言えない。
 「よろしく」といううんざりするほどのんびりした「音」が耳障りである。耳をふさぎたくなる。ことばを鉛筆で塗りつぶしたくなる。「分枝」が「枝分かれ」と漢語から和語へと失墜するのにいたっては、もう、最初の詩は消えてしまっているとしか言いようがない。

 と、書きながらも、私は実は福田の詩が好きなのである。なんとかしてもらいたい、そうすればもっともっと好きになるのに、と思うのである。
 「漢語」をつかうかぎりは、「漢語」の文体も活用してもらいたい。何かしら、福田の肉体の中では漢語と漢語の文体が齟齬をきたしている。かみあっていない。
 あるいは、福田は漢語を和文の文体のなかに取り込みたいと願っているのかもしれない。そうであるならば、それは漢語ではなく「漢字」だろう。「漢語」を離れ、「漢字」に固執すべきだろう。漢語を和語で引き離し、漢字として独立させ、和文の文体に取り込む--そう言うことをすべきなのかもしれない、と考えていたら……。
 詩の最後の方に、

ついには白っぽい幼虫の空が無数の謎めいた漢字に覆われ身をくねらす朝の幻がやって来る、

 という美しい文に出会った。
 ここには「漢語」のかわりに「漢字」がしっかりと定着している。
 書き出しの文体は刺激的だが、途中でくずれる。そういう文体ではなく、この漢字を和文のなかに取り込んだ文体の方が、私には美しく見える。冒頭の文より刺激は強くないが安心感がある。
 福田はそういう漢字+和文体というものを目指していないのかもしれないけれど、私には和文体の方がむりがないように思える。
 漢語を主体にしてスピード感のあるワープを目指すなら、和文体を消し去る工夫が必要だと思った。



砂の歌
福田 武人
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(181 )

2011-02-15 22:35:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠつづき。

銅貨の中の
静寂

 この2行が前後の連とどう関係するのか、見当がつかない。けれど、この2行が私はとても好きである。
 「金貨」のなかに「静寂」があるとは私には思えない。「銀貨」ならありうると思う。そうして、私には「銀貨」の場合、その「静寂」の音は--というのは、へんな言い方なのだが--透明であるように感じられる。「銀貨」は「静寂」というより「沈黙」かもしれない。「銅貨」の場合、透明感のかわりにやわらかい深さがある。何か、遠い「静寂」。それも水平方向に遠いではなく、垂直方向に遠い感じがする。やわらかくやわらかく沈んでいく感じがするのである。

 こういうことは感覚の世界で、あらゆることにまったく根拠がない。根拠かないとわかっているから私自身も困るのだが、こういう根拠のないことを書いていると、何かが見つかりそうな気もする。
 だから書いておくのである。

 この連につづく部分。

夕陽はコップの限界を越えて
限りなく去る
黒いコップの輪郭が残る
女神の輪郭は
猫の瞳孔の中をさまよう

 これは「銅貨」の2行に比べると、物足りない。コップの中を(テーブルの上に置いたコップ、あるいは窓辺に置いたコップの越しに)夕陽が沈んでいく。光が去って、コップの輪郭が残る。黒く見える。「限界を越えて」ということばの速さにひかれるけれど、書かれていることが「イメージ」になりすぎる。目に見えすぎる。そういう感じが物足りなさにつながる。
 「女神」の2行は、「輪郭」のつながりで出てくのだが、私にはなんだかうるさく感じられる。
 「銅貨」の簡潔過ぎる「静寂」を聞いたからかもしれない。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店


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