朝吹真理子「きことわ」(「文藝春秋」2011年03月号)
朝吹真理子「きことわ」は、文体に特徴がある。この作品は「短篇」の部類に入るのだと思うが、短篇というよりは長編の文体である。長い長い時間の中で、乱れが乱れでなくなる。乱れであると思っていたものが、まっすぐに見えてくる。--そういう印象を誘う文体である。
これは、私の感覚からすると、とても変な乱れた文章である。「貴子が春子に妊娠されていたとき」とは、私なら絶対に書かない。「春子が貴子を妊娠していたとき」か「貴子が春子の体内(胎内)にいたとき」のどちらかである。「妊娠」は「する」ものであって、「される」ものではない。「妊娠」するの主語は、母親(春子)である。その「妊娠」ということばを朝吹は、子供である貴子を主語にしてつかっている。そこに乱れがある。主語と補語の乱れがある。
この乱れは、それにつづく文章に微妙なかたちで影響している。
「脂肪のほとんどない春子の腹を布越しに永遠子は撫で、」の主語は永遠子である。永遠子は春子の脂肪のほとんどない腹を布越し(洋服越し?)に撫でた、という意味である。
その次の「「これからどんどん膨らむらしいの」と春子は永遠子の手をとって腹部に運ばせた。」では主語は春子である。そして、主語が春子に代わったために、前の文では永遠子が春子の腹を自発的に「撫で」(自動詞)ていたはずなのに、ここでは永遠子の意志とは無関係に(?)、春子が永遠子に撫でさせる--手をとって腹部に運ばせるということにすりかわっている。
この文章(句点「。」で区切ったものをひとつの文章だと仮定すると……)では、三つの文から成り立っていて、それは読点「、」で明確に区切られているのだが、その区切りのたびに主語が代わっている。つまり、ひとつの文章のなかに主語が三つあることになる。そして、その三つを、むりやりつなぐために、「妊娠されていたとき」というような、学校教科書文法からみると許されないような語法が捏造され、「撫でる」という自発的な行為が、手を腹部に「運ばせる」という使役の形(永遠子からみれば、「運ばせられる」という受け身)になっている。
三つの主語が、微妙にねじれ、動詞がねじれている。
そして、この乱れとねじれが、それにつづく文章の中で、ととのえられ、まっすぐになる。
貴子、永遠子というふたつの主語がことばのなかで区別をなくしていくのである。--そして、これはこの小説の主題でもある。この小説の主人公は「貴子」と「永遠子」と、ふたりいるのだが、物語の中で、そのふたりは区別をなくしていく。「肉体」は別個であるが、意識が融合し、どちらがどう感じたのか、あいまいになる。あいまいになるだけではなく、入れ代わりさえするのである。
永遠子の、春子の体内にいる貴子を撫でたという記憶が何度も語られる(ことばになる)ことによって、それを聞きつづけた貴子は撫でられたという記憶をつくりだしてしまう。けれど、「撫でられた」という記憶は捏造なので、それをそのまま持続することは難しく、ごく自然な「撫でた」という記憶の方にずれていく。そして、貴子は知らず知らず永遠子になる。
これは変なことなのだが、そういう変なことがおきるのは、人間がことばを生きているからかもしれない。
こうしたことを別の形で書いた部分がある。406 ページ。バーベキューをしたことを思い出す場面である。
ことばのなかで、「つねになにかが変わっていた。」「同じように思い起こすことはできなかった。」とは、同じことばにはできなかった(できない)、という意味である。
主語を貴子にして語ろうとしても、主語は永遠子に代わる。
さらに、朝吹は繰り返している。
ことばがとらえるものは、実際、だれが発したことばなのかを問題にしないことがある。ごくわかりやすい例で言えば、たとえば交通事故がある。それを私が目撃していたとする。そしてその事故がニュースで流れる。そのときのニュースのことばは私のことばではない。けれど何度も見て、聞いているうちに、それはほんとうにニュースのことばなのか、それとも私が見たことをことばにするとそういう形になるのか、区別がなくなる。
ことばは、「事実」の前では主語をなくしてしまうことがある。その「事実」は、あるときは「永遠」とか「真理」とか呼ばれることもあるかもしれない。
ある「こと」が「ことば」になる、そのときおきる「世界」の変化そのものを、朝吹は書いているのだとも言える。こういう「哲学」(思想)は、文体のなかにだけ存在するものである。そしてそれは短篇ではなく、やはり長篇小説のものであると私は思う。
1000枚単位の長篇小説こそが朝吹にはふさわしいと思う。長篇小説を書いたとき、朝吹はほんとうの朝吹に、巨大な作家になると思う。そういうことを教えてくれる小説である。
朝吹真理子「きことわ」は、文体に特徴がある。この作品は「短篇」の部類に入るのだと思うが、短篇というよりは長編の文体である。長い長い時間の中で、乱れが乱れでなくなる。乱れであると思っていたものが、まっすぐに見えてくる。--そういう印象を誘う文体である。
貴子が春子に妊娠されていたとき、脂肪のほとんどない春子の腹を布越しに永遠子は撫で、「これからどんどん膨らむらしいの」と春子は永遠子の手をとって腹部に運ばせた。
これは、私の感覚からすると、とても変な乱れた文章である。「貴子が春子に妊娠されていたとき」とは、私なら絶対に書かない。「春子が貴子を妊娠していたとき」か「貴子が春子の体内(胎内)にいたとき」のどちらかである。「妊娠」は「する」ものであって、「される」ものではない。「妊娠」するの主語は、母親(春子)である。その「妊娠」ということばを朝吹は、子供である貴子を主語にしてつかっている。そこに乱れがある。主語と補語の乱れがある。
この乱れは、それにつづく文章に微妙なかたちで影響している。
「脂肪のほとんどない春子の腹を布越しに永遠子は撫で、」の主語は永遠子である。永遠子は春子の脂肪のほとんどない腹を布越し(洋服越し?)に撫でた、という意味である。
その次の「「これからどんどん膨らむらしいの」と春子は永遠子の手をとって腹部に運ばせた。」では主語は春子である。そして、主語が春子に代わったために、前の文では永遠子が春子の腹を自発的に「撫で」(自動詞)ていたはずなのに、ここでは永遠子の意志とは無関係に(?)、春子が永遠子に撫でさせる--手をとって腹部に運ばせるということにすりかわっている。
この文章(句点「。」で区切ったものをひとつの文章だと仮定すると……)では、三つの文から成り立っていて、それは読点「、」で明確に区切られているのだが、その区切りのたびに主語が代わっている。つまり、ひとつの文章のなかに主語が三つあることになる。そして、その三つを、むりやりつなぐために、「妊娠されていたとき」というような、学校教科書文法からみると許されないような語法が捏造され、「撫でる」という自発的な行為が、手を腹部に「運ばせる」という使役の形(永遠子からみれば、「運ばせられる」という受け身)になっている。
三つの主語が、微妙にねじれ、動詞がねじれている。
そして、この乱れとねじれが、それにつづく文章の中で、ととのえられ、まっすぐになる。
貴子が知りようもない過去に違いなかったが、生まれる前に貴子に触れているのだと永遠子から何度も聞かされているうちにその思い出が身のうちに入り込み、いまはみたこともないその光景もすでに貴子の記憶となっていた。
貴子、永遠子というふたつの主語がことばのなかで区別をなくしていくのである。--そして、これはこの小説の主題でもある。この小説の主人公は「貴子」と「永遠子」と、ふたりいるのだが、物語の中で、そのふたりは区別をなくしていく。「肉体」は別個であるが、意識が融合し、どちらがどう感じたのか、あいまいになる。あいまいになるだけではなく、入れ代わりさえするのである。
永遠子の、春子の体内にいる貴子を撫でたという記憶が何度も語られる(ことばになる)ことによって、それを聞きつづけた貴子は撫でられたという記憶をつくりだしてしまう。けれど、「撫でられた」という記憶は捏造なので、それをそのまま持続することは難しく、ごく自然な「撫でた」という記憶の方にずれていく。そして、貴子は知らず知らず永遠子になる。
これは変なことなのだが、そういう変なことがおきるのは、人間がことばを生きているからかもしれない。
こうしたことを別の形で書いた部分がある。406 ページ。バーベキューをしたことを思い出す場面である。
バーベキューの埋み火に松毬(まつぼっくり)をいれると形を残したまま炭化すること、午睡からめざめると草木を透して永遠子の髪と畳みに流れていた暮れ方のひかり、明け方、緻密につむぎだされた蜘蛛の巣の露に濡れたのを惚(ほう)けるようにしてみあげたこと、一瞬一刻ごとに深まるノシランの実の藍の重さ。そのときどきの季節の水位にそったように、照り、曇り、あるいは雨や雪が垂直に落下して音が撥ねる。時間のむこうから過去というのが、いまが流れるようによぎる。ふたたびその記憶を呼び起こそうとしても、つねになにかが変わっていた。同じように思い起こすことはできなかった。
ことばのなかで、「つねになにかが変わっていた。」「同じように思い起こすことはできなかった。」とは、同じことばにはできなかった(できない)、という意味である。
主語を貴子にして語ろうとしても、主語は永遠子に代わる。
さらに、朝吹は繰り返している。
いつのことかと、記憶の周囲をみようとするが、外は存在しないとでもいうように周縁はすべてたたれている。形がうすうすと消えてゆくというよりは、不断にはじまり不断に途切れる。それがかさなりつづいていた。映画の回想シーンのような溶明溶暗はとられなかった。もはやそれが伝聞であるのか、自分自身の記憶なのか、判別できない。
ことばがとらえるものは、実際、だれが発したことばなのかを問題にしないことがある。ごくわかりやすい例で言えば、たとえば交通事故がある。それを私が目撃していたとする。そしてその事故がニュースで流れる。そのときのニュースのことばは私のことばではない。けれど何度も見て、聞いているうちに、それはほんとうにニュースのことばなのか、それとも私が見たことをことばにするとそういう形になるのか、区別がなくなる。
ことばは、「事実」の前では主語をなくしてしまうことがある。その「事実」は、あるときは「永遠」とか「真理」とか呼ばれることもあるかもしれない。
ある「こと」が「ことば」になる、そのときおきる「世界」の変化そのものを、朝吹は書いているのだとも言える。こういう「哲学」(思想)は、文体のなかにだけ存在するものである。そしてそれは短篇ではなく、やはり長篇小説のものであると私は思う。
1000枚単位の長篇小説こそが朝吹にはふさわしいと思う。長篇小説を書いたとき、朝吹はほんとうの朝吹に、巨大な作家になると思う。そういうことを教えてくれる小説である。
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