詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岸田将幸「心のなかにアルトーの小屋が」

2011-02-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岸田将幸「心のなかにアルトーの小屋が」(「現代詩手帖」2011年02月号)

 岸田将幸「心のなかにアルトーの小屋が」の書いていることは、わかるようで、わからないが、その「わからない」だけがわかる、というようなことを、私は思わず思ってしまう。--と、私は、わざと書く。「思わず/思う」という矛盾のようなものの、その矛盾が発生する瞬間のようなものが、ふいに伝わってくるのだ。矛盾とは「わからない」というか、うまく落ち着いてくれないこんがらがったものである。それが生まれてくる瞬間の手触りのようなものが岸田のことばのなかにあり、それを私は感じる。

アルトーの小屋に行こうと
アルトーの小屋、と不図、
           書きつけていた
とたんに限界に至る、
ある出来事について
土を喰らうと僕らは
         狂ってしまう
狂ってしまう
地上に在る、
     といふ
        ことだけが
解らない。

 「アルトーの小屋」と書いて、そのあと、ふいにことばが動かなくなる。その一瞬を、岸田は「限界」と呼んでいるのだろう。なぜ、ことばが動かなくなったのか。正確にはわからないが、どうやら「地上に在る」ということばと関係しているらしいことは推測できる。そのとき「地上に在る」というのは、「ことば」であると同時に、ひとつの「こと」である。岸田は「ことば」はわかるが、「こと」がわからないと思い、その瞬間に「ことば」が動かなくなった。「限界に至」ったと感じたのだ。
 このときの「思考」の動きを、岸田は「空白」、つまり「ことばの断絶」をはさみながら表現している。「空白」の領域を越えてことばが動く。
 岸田の書いているこの作品の書き出しを、「空白」を消して、行わけを消して、散文のようにすると、読むのがとても窮屈になる。(ためしに表記してみる。句読点は、谷内がかってに補った。)

アルトーの小屋に行こうと、アルトーの小屋、と不図、書きつけていた。とたんに限界に至る、ある出来事について土を喰らうと僕らは狂ってしまう。狂ってしまう。地上に在る、といふことだけが解らない。

 ことばが密着しすぎていて、見分けがつかない。どうして、そこのことばと別のことばがつながるのか、脈絡がわからない。
 改行、空白の多い詩でも脈絡はあいかわらずわからないままなのだが、空白や改行があることによって、あ、岸田のことばは、ここでは飛躍しているのだな、ということがわかる。
 書かれていないこと(空白)--それがそこに存在するということがわかる。ことばが飛翔する、あるいは曲折する、その「瞬間」がわかる。
 もちろん、これは「わかる」とは言えないことなのかもしれない。
 
 それは岸田にも「わかる」とは言えないものかもしれない。そして、わからないからこそ「ことば」を動かす。それは、「こと/ば」から「は(葉、端?)あるいは場」を取り去り「こと」そのものになることなのか、あるいは「こと」を「葉、端(連続性のない断片)」を「場」のなかで動かすことで、「こと」そのものをもう一度再構築することなのか。たぶん「わからない」。「わからない」からこそ、「ことば」を動かして、それがどんうなふうに動けるか、どんうな具合に「こと」「ば(葉、端、場)」を緊密につなぐことができるのか、緊密につなぐことで「在る」というこことを探ろうとしているのか……。
 こういうことは、ほんとうは深く考え、整理し直して感想を書くべきことなのかもしれない。そうしないと批評にならないということは、まあ、わかっているのだが、私の手には負えない。
 私は、何かが動いている。何かが生まれようとしている、という「感覚」が、そこから伝わってくれば、それが詩であると思うだけである。

あらゆる精神が反動の街角を
折れる、パリ
人間がまだ肉の溜まり方でしかなかった頃、
乳をあたえた女が思想の欠落を流した
所与のものを所与でない形に変形してはいけない、
所与のものを性差の間に弄ばれてたまるものか、
といふ
闘いなのだ、パリ
思考のことだ、自然のことだ
       地表のことだ

 ことばは何かをつかみとろうとしている。ことばの先にあるもの、まだことばになりきれない(流通言語になりきれない)何かがある。それは飛翔(飛躍)しないことにはつかみとれない。そして、そのときほんとうにつかみ取るのは「もの/こと」ではなく、その飛翔の筋肉、ことばの運動の仕方なのだと思う。
 たとえば手の届かないところにほしい食べ物がある。人間がジャンプしてそれをつかみとる。そのとき人間が手に入れたのは食べ物ではなく、食べ物をジャンプしてとる、という運動である。ジャンプしてもとどかないことを考えてみるとよくわかる。ジャンプしてもとどかないなら、もの(たとえば棒)をつかう。あるいは梯子をつかう。人が人を肩車するということもある。そういう積み重ねで、人間が手に入れるのは「もの」ではなく、自分自身の肉体の動かし方である。これが「思想」である。その「肉体」の動かしたかを「ことば」で繰り返したものか「思想」である。

 岸田は、その動かし方を固定していない。ことばを固定していない。というか、固定しようとするものを揺さぶっている。その揺さぶりの力を私は感じる。「わかる」と勘違いする。誤読する。

あらゆる精神が反動の街角を
折れる、パリ

 このとのの「折れる」ということば。「折れる」ということばの前に存在する「改行」の呼吸。そして、読点「、」を挟んで「パリ」という場へ飛ぶ瞬間。このリズムを美しいと私は感じる。ここが、好き、と思わずいってしまう。
 それからつづくぎくしゃくしたことば。そのぎくしゃくした手触り。「肉の溜まり方」って何? 「思想の欠落を流した」って何? 涙のこと? 涙は思想の欠落? 涙こそが思想じゃない? とかなんとかかんとか、いろんなことを思うのだが、そのぎくしゃくが美しいとなぜか感じる。不思議な宝石の「原石」の磨かれていない凹凸のようなものかもしれない。そして、それはきっと磨かれて、どこかに展示されてしまうと、なんだ、あ、これは私には縁のないものだなあ、金持ちの持ち物にすぎないなあ、と思うようなものになってしまうのだ。
 詩ではなく、俗っぽい流通品になってしまうのだ。
 と、書くとひがみになってしまうかもしれないけれど。
 そしてまた、岸田がもし完璧な「商品」へむけてことばを動かしつづけているのだとしたら申し訳ない気もするが。まあ、たぶん、そういうものを岸田は目指してはいないだろうと思う。

 詩は、いつでも「わからないもの」、わからないけれど、何かそのわからなさのなかで動いてしまう力のなかにあって生まれる瞬間を待っている、生まれようとしている、そう感じさせてくれるものだと思う。
 わかったら、それは詩ではなくなる。
 岸田は「解らない、」と書いていたが、わからないことへむけてことばを動かす、その書くという行為のなかに詩が生まれてくるのだと思う。


“孤絶-角”
岸田 将幸
思潮社

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セルジオ・レオーネ監督「荒野の用心棒」(★★★)

2011-02-19 23:57:24 | 映画
監督セルジオ・レオーネ 音楽エンニオ・モリコーネ 出演クリント・イーストウッド、マリアンネ・コッホ、ジャン・マリア・ヴォロンテ、ヨゼフ・エッガー

 口笛のテーマ曲が私は気に入っている。不思議な哀愁がある。西部劇っぽくない。
まあ、黒沢明の「用心棒」の盗作だから西部劇であるはずがないのだが。しかも監督はセルジオ・レオーネだから、「根っこ」がさらに西部劇と無関係である。無関係な人間が集まって「西部劇」をでっちあげた。「根っこ」のない西部劇である。
 そして「根っこ」のかわりにあるのが「哀愁」というロマンなんだろうなあ。
 「根無し草」の悲しさと、軽い美しさ――何をしても現実に関しては責任をもたないという軽さの美しさ。この「哀愁」に、意外とクリント・イーストウッドの細い肉体があっている。
 もしジョン・ウェインが演じていたらどうなる? 違ってしまうねえ。特に女を逃がしたのがばれて、殴る、けるの暴行を受けるあたり。あれが残酷な美しさ(?)を感じさせるのは、クリント・イーストウッドの肉体が細いからである。あの細い体で、本当に耐えられる? あばら骨折れてない? 残虐を耐え抜いて、復讐する。これもクリント・イーストウッドの細い体があればこそ、快感になる。
 でもねえ。
 いま見ると、あのぞくぞくするような残酷な快感が、とてもとてもとても、薄い。左手(手の甲)を踏みつけられるシーンなど、もう「痛み」がスクリーンから広がってこない。自分の肉体が痛いのはいやだけれど、誰かが痛みを身代わりになって引き受け、苦しんでくれるとしたら、――うーん、やっぱり、人間はどれだけ耐えられるんだろう、なんてみつめたい気持ちにもなるのだが・・・。それは、もう遠い夢。
 「もう殴っても痛みを感じない」というラモンのセリフは、残酷というよりやさしさを伝えてしまう。
 あ、いまの映画は残酷になっているんだね。
 クライマックスの銃撃シーンなんて、いま見るとのんびりしているもんねえ。いまは全然過激じゃない。荒々しくない。人間の感性なんて、だらしなく、なんにでも慣れてしまうのだ。
 時代とともにかわってしまう感性について考えさせられてしまった。
           (「午前10時の映画祭」青シリーズ3 本目。福岡天神東宝)



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ジェネオン エンタテインメント

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