詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今井好子「忘れられたかばん」

2011-02-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
今井好子「忘れられたかばん」(「橄欖」89、2010年12月01日発行)

 今井好子「忘れられたかばん」の1連目が印象に残る。感想をまとめられないのだが、ずっーと気がかりだった。

忘れられたかばんは北へ
網だなの上で北へ
電車は北の町をめざします
忘れられたかばんの下を
くたびれた男の人や
妊婦さんや腰の曲がったおばあさんや
いろんな人が入れ代わってすわり
いっとき忘れられたかばんと
すれちがっていくのですが
だれひとり
忘れられたかばんに
気づくひとはありません

 私がずーっと気がかりだったのは、「いっとき忘れられたかばんと」という行である。この行の「いっとき(一時)」は次の行の「すれちがっていく」と意味の上ではつながっている。前後の行のことばの順序を入れ換えると、「いろんな人が忘れられたかばんと、いっときすれちがっていく」ということになる。そして、「すれちがっていく」は「いっしょにいる」という「すれちがう」とは反対のことを指しているのだが、つまり、いろんな人は忘れられたかばんと一時的に「いっしょにいる」、いくつかの駅をすぎる間、「いっしょにいる」ということをあらわしている。
 それを承知の上で、私は一瞬、夢をみるのである。
 忘れられたかばんは、ずーっと忘れられているのではない。「いっとき」忘れられているのだ、と。誰かが、網棚の下、かばんが置かれている網棚の下にすわる。その「いっとき」、かばんはその人から忘れられている--そう夢に見てしまうのである。そのかばんは「妊婦さんや腰の曲がったおばあさんや/いろんな人」のかばんではない。だから、それをいろんな人が「忘れる」というのはほんとうは違うことなのだけれど、それでも、そのときかばんが「忘れられている」、その人たちの意識にのぼらない、その人たちから無視されている--そういう夢を見るのである。
 かばんは、誰からも見られず(注目、注意されず)、旅をしているのだ。かばんは「忘れられた」のではない。逆に、そのかばんの持ち主こそ、どこかの駅で忘れられたままになっていて、かばんが人間のように北へ旅しているのだ。
 ひとりで北へ旅するかばん。そのかばんがどこかの駅で「持ち主」を忘れてきたのには理由がある。もしかすると、捨てて、置き去りにしてきたのかもしれない。
 でも、その列車に乗り合わせた「いろんな人」は、そういうかばんの「思い」など気にしない。無視する。--「忘れる」。そう、いろんな人の間では、かばんは「忘れられた」存在なのだ。
 あ、かばんになって、小さな、誰も知らない北の町へ行ってみたい--そういう夢を私は見るのである。
 「いっとき」のかかることばをあえて「誤読」して、そんな夢を見るのである。
 そして、もしかすると今井もそういう夢を見ていたのではないか、とも思うのである。なぜって、もしほんとうに「いっとき」が「すれちがっていく」にかかることばならば、それは「いっときすれちがっていく」とつづけて書かれるべきなのである。そうせずに、「いっとき忘れられた」と書くかぎりは、どこかに私が書いたような思いが動いているからなのだ--と、私は強引に考える。

 それはもしかすると今井の考えではないかもしれない。

 では、誰の? 私のでもない。それは、ことば自身の考え、ことばの自律した動きがつかみとる夢なのだ。それは今井さえも裏切っていく。(だって、今井の書いている「学校教科書的な意味」はあくまで「いっときすれちがっていく」なのだから。)
 こういうことばの運動が、私は、とても好きである。

 詩は、つづく。

いよいよ電車にも
北の町のにおいがぷんぷんしてきて
乗っている人も北の町のヒトデ
もうすぐ終点というころ
いろなん顔を
つかれた顔やねむった顔さびしい顔
それらをうつした窓から
夕日がさしこんで
北の町をのみこんでしまいそうな
赤い大きな夕日が
忘れられたかばんをてらしています

 ほら、かばんが、人間そのものに見えてきませんか? どこかで「持ち主」を置き去りにして北の町までふらりとやってきた人間そのものに見えてきませんか?
 あ、「私」そのものを置き去りにして、そのかばんのようにどこか知らない町へと旅をしてみたい、誰からも「忘れられた」人となって、どこかへ行ってみたいと思いませんか?




佐藤君に会った日は
今井 好子
ミッドナイト・プレス

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誰も書かなかった西脇順三郎(184 )

2011-02-21 23:05:57 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅡ。

永遠を象徴しようとしない時に
初めて永遠が象徴される

 この詩には、この2行のような「矛盾」したことばが何度も出てくる。詩は矛盾のなかにしかないからだ。
 この2行を引き継いで、詩は、動いていく。

パナマ帽をかぶつて
喋つている
あの男の肩ごしに
みえる若い男の顔は永遠を
呼びおこす
永遠を追わないほど
永遠は近づく

 「若い男」は「永遠」を追わず「いま」を生きるだけである。その瞬間に永遠があらわれる--というような意味よりも。
 「パナマ帽をかぶつて」という2行に、私は「永遠」を感じる。なぜ、パナマ帽? 説明はない。「意味」がない。ただ、その「もの」だけがある。だから、そこに永遠がある。永遠とは、なんでも(どんな考えでも--どんな説明でも)受け入れることのできるもの--ではなく、どんな考えも、どんな説明も拒絶して存在するものなのだ。
 次の「喋つている」も楽しい。話しているではなく、「喋つている」。「意味」は同じだが、「喋る」の方が「むだ」を連想させる。無意味を連想させる。そこにも「意味」の拒絶がある。

太陽が地平に近づく時
青いマントをひつかけ
ガスタンクの長びく影をふんで
どこかへ帰ろう
明日はまた
新しい崖
新しい水たまりを
発見しなければならない

 なぜ、「青いマント」? ここにも説明はない。けれど、「青い」が美しい。説明がないから美しい。「ガスタンクの長びく影をふんで」も意味がない。「どこへ帰ろう」というのだから「目的地」がない。ただガスタンクの影とそれを踏むという行為だけがある。こういう意味を拒絶したことばはいつでも美しい。拒絶のなかに、永遠がある--と言ってみたくなる。
 「新しい崖/新しい水たまりを/発見しなければならない」。これも理由はない。新しい崖を発見する、新しい水たまりを発見する、ということばのつながりが美しい。「発見する」ということばは、そういう具合にはふつうはつかわない。ふつうと違ったつかわれかたをしているから、美しい。「音」としてのみ、響いてくるから楽しいのだ。「新しい崖/新しい水たまり」の「新しい」という形容詞のつかいかたもとても変わっている。意味が消えて「新しい」という音の響きだけが強く浮かび上がる。「新しい」という音はこんなに美しい音だったのか、と思ってしまうのだ。



西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会


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