詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永沢幸治「おばあさんの坂」

2011-02-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
永沢幸治「おばあさんの坂」(「ネット21」22、2010年12月10日発行)

 詩でも小説でも、私は1か所好きなところがあれば、それだけでうれしい。永沢幸治「おばあさんの坂--夕陽ケ丘(大阪)で」は前半がとても魅力的である。

坂が のぼりおりして
孤りで 夕陽とあそんでいる
空を見上げると
丸くなったおばあさんお背中の
うわの空あたりから
さびしさ が
無くなってしまうのではないか

 書き出しの2行、その擬人化が楽しい。擬人化--と書いたけれど、まあ、これは「学校教科書」風の言い方。擬人化といってしまうと全然おもしろくない。「ひと」のようにあそんでいるのではなく、坂そのものがあそんでいる。坂そのものが、のぼりおりの長さや傾斜の度合いを変えてあそんでいる。まがりくねったり、まっすぐになったり、いろんな形になって、坂自身がどこまでかわれるか(変身できるか)、それを楽しんでいる。
 そこにおばあさんがひとり。
 あそぶ坂をみつめ、その自分とは無関係な元気な姿をみて、ぼんやりしている。まあまあ、あんなにあそんじゃって、くらいは思うけれど、あとはぼんやり。ちょうど公園であそぶ孫でもみる感じかなあ。
 そのあとの、

うわの空あたりから
さびしさ が
無くなってしまうのではないか

 ここが傑作だなあ。
 おばあさんは、特になにをするわけではない。坂を、あれまあ、どうしてこんなに、なんて思いながらのぼりおりしているのかもしれない。そして、その瞬間、「さびしさ」がなくなってしまう。
 うーん。
 これ、いいこと? 悪いこと?
 おばあさんにとって、うれしいこと? 悲しいこと?
 わからないねえ。
 この「わからない」が詩なのだ。
 おばあさんが夕陽の坂道を歩いている。坂道はおばあさんと一緒にいるのが楽しくて、懸命にあそんでいる。それを見ているおばあさんのまわり(オーラのなか?)から、「さびしさ」がなくなる。なくなって、おばあさんが楽しい気持ちになったとする。それって、いいこと? その反動で、もっともっとつらいさびしさがやってくるとしたら、それでも、それはいいこと? おばあさんの平穏はどうなる? おばあさんって、ああ、人生って(きょうは)さびしいなあ、と思っている方がいいのでは? さびしさを相手に話し合っているのが、それはそれで楽しいのでは? こんなことは考えなくていいのだが、なぜか、私は考えてしまう。余分なことを考え、「誤読」をしたくなる。
 その行の周辺で、私はうろうろしてしまう。道草をしてしまう。この考えがまとまらず、うろうろしている時間が詩そのものなのだ。

 詩は、つづいていく。

と 不安になり
うねる壁になって
むこうの空に倒れこんでいく
(手をつないでいきたかったのに)
坂も くたびれたのだろう
ひらたくなって
おばあさんの下で
(ようやく たどりつけたね)
土の布団だけれど
やさしい傾斜になって

 ここにも楽しい行がある。(手をつないでいきたかったのに)、「ひらたくなって」。とてもいいなあ、と思う。坂の気持ちと、おばあさんの気持ちが、まるで目の前に坂とおばあさんがいるみたいにリアルに感じる。
 わからない部分というか、「論理的」には変なのだけれど(坂と手をつなぐ、とか、坂が平たくなるというのは「論理的」にはありえないのだけれど)、それが変であるから、リアルなのだ。論理ではなく、肉体が、そのことばに反応して、「そうだね」と肯定してしまうのだ。そういう「頭」ではわからない部分が、詩を豊かにする。

 で、最後。「布団」。この比喩が比喩ではない。どうもつまらない。「布団」が、いろんな「意味」を誘っている。それが、とても「いやだなあ」という感覚を呼び覚ます。私の場合は。瞬間的に、私は考えたくなくなる。感じたくなくなる。

うわの空あたりから
さびしさ が
無くなってしまうのではないか

 この3行で感じた「わからなさ」(意味のなさ)が、最後の「布団」で意味に押しつぶされそうで、楽しさが消える。
 こういう瞬間、とても悔しいね。
 あんなに楽しかったのに、たった一語で楽しさが消されてしまうなんて、と思うのだ。


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クリント・イーストウッド監督「ヒアアフター」(★★★+★)

2011-02-22 09:31:21 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 マット・デイモン、セシル・ド・フランス、フランキー・マクラレン、ジョージ・マクラレン

 この映画はとても変わっている。「臨死体験」と「死後(あの世、彼岸)」を題材にしているのだが、どうみてもクリント・イーストウッドが「あの世」というものを信じているとは感じられないのである。「あの世」の描き方に熱意が感じられないのである。マット・デイモンの「霊」との交流などは、まあ、実際の交流がどういうものか私は知らないが、単に他人と一瞬手を触れあっただけで、その人のではなく、その人とゆかりのある人の霊と交流できるというのだから、あまりにも非現実的である。(憑依状態になったり、霊に呼び掛けたりというのが「現実的」というわけではないのだけれど。--でも、これまでの「常套的」な映画なら、そういうシーンを撮っただろう。)
 では、なぜ、こんな映画を撮ったのか。
 「臨死」や「あの世」がテーマではないのではないのか。ひとには誰でも「過去」がある。そして、過去が違うと、ひとは他人とうまく「いま」を生きることができない。一緒に生きることができない。それをどうやって乗り越えるか。そのことがテーマであり、「臨死」(あの世)は、いわば「特異な過去」なのだ。肉体が衝撃的なダメージを受ける。それは精神にも影響してくるだろう。「現実」の見え方が、当然違ってくる。それを、ひとはどうやって乗り切って(修正して)、他人と出会い、交流して行けるか、そのことを描いているのではないのだろうか。
 だから、というわけでもないのかもしれないが、「臨死」が一様ではないのがとてもおもしろい。ここにイーストウッドの独創性というか、工夫がある。「臨死」のあり方が一様ではないということは、「いま」の見え方が一様ではないということでもある。
 実際に映像として描かれているのはセシル・ド・フランスの津波での「臨死」だけである。彼女は、その後、現実に集中できなくなる。かといって、「霊」と交信できるわけでもない。ふと、「あの世」をかいま見た瞬間を思い出し、引きずられてしまう。マット・デイモンの場合は子供時代のこととして「ことば」で語られる。彼は「臨死」を体験することで、他の霊と交信することができるようになり、他のひとから、交信してくれるよう頼まれる。現実に生きている人間としてマット・デイモンが他人と交流するのではなく、生きているひとと死者の仲介者としての「現実」しか生きられなくなる。彼は、そういう生き方が嫌になっている。双子の兄弟の場合は、兄が「臨死」ではなく実際に死んでしまう。それがなぜ「臨死」かといえば、残された一卵性双生児の弟にしてみれば、「同じ肉体(遺伝子学的に同じ)」が消えるわけだから、遺伝子の立場からすれば「半分の死=半死=臨死」になるのだ。弟は、そして、やはり死んでしまった兄の精神(こころ)が気になってしようがないのである。
 で、実際に、どうやって「現実」を「現実」として回復させるか。ふつうの「現実」を取り戻し、「いま」「ここ」を生きることができるか。
 「ことば」が、ここでテーマとして浮かび上がってくる。
 マット・デイモンの登場するシーンの描き方が、特にそのこと鮮明に語る。マット・デイモンは霊と交信するのだが、その交信はひたすら「聞く」ことである。マットは霊には質問しない。質問するのは霊と交信したがっている生きている人間に対してだけである。ただし、その質問は「イエス・ノー」だけをもとめるものであって、マットは生きているひととは実際に対話せず、ただ霊の「ことば」を伝達するのである。ふつうのひとが聞くことのできない声を聞き、それを誰かにつたえる。そういうことをするために「ことば」がある。映画なのだから、本来ならば霊は映像となってスクリーンに登場してもかまわないのだが、イーストウッドはそういう演出をとらず、ただ「ことば」として霊を登場させる。「ことば」だけが霊の存在を語っている。
 セシル・ド・フランスの場合も「ことば」が問題となる。彼女は最初はニュースキャスターである。「現実」をことばと映像でつたえる職業である。「臨死」体験後は、彼女だけが知っている世界を「ことば」で明確にする。映像は採用しない。彼女自身見たものがあるのだが、それは彼女の記憶として彼女にだけ見える形で存在する。他人が(映画の観客以外が)見えるように絵にしてみるというようなことはしない。あくまで「ことば」で語る。書くことで、「ことば」を確立しようとする。
 双子の弟の場合はもっと極端である。彼が出会うのは地下鉄の帽子以外では、いつでも「ことば」である。「ことば」だけである。そして、彼は「ことば」を聞くことで、その「ことば」が語ることがほんとうかどうかを正確に判断する。マット・デイモン以外の霊媒者の「ことば」に嘘を感じ、信じない。死んでしまった兄と出会うのもマットの語る「ことば」として出会うだけである。
 あ、これでは映画ではなく、「小説」だ。「ことば」と向き合う世界だ。
 ところが……。こうやって感想を書いていると「小説」向きとしか思えないテーマであり、またストーリーの展開なのだが、映画を見ているときはたしかに映画だと思ってみている。不思議な違和感を感じながらも、映画だなあ、と思ってみている。
 なぜだろう。映画の作り方がイーストウッドは天才的にうまいのだ。「ことば」をテーマにかかげながら、ことばを映像にもぐりこませてしまうのだ。たとえばマット・デイモンは不眠症(?)のため、夜中にラジオを聞いている。なんだかよくわからない物語がそこでは語られている。「ことば」が現実にただ散らばっているという状態を、ふつうに映画にしてしまう。そのラジオの朗読のことばのあり方のようにして、霊との交信のことばをスクリーンに繰り広げるのだ。マット・デイモンがラジオを聞いているシーンがなかったら、マットの語る「霊のことば」は「捏造」になってしまうが、ラジオの存在が「霊のことば」を遠くからやってくることばに変えてしまうのだ。あ、うまい、うまいなあ。
 セシル・ド・フランスが巻き込まれる津波のシーンもうまい。なにがうまいといって、出してくるタイミングがうまい。映画がはじまってすぐに、いわばクライマックスがある。スペクタクルがある。観客の目はまだ映像に慣れていない。慣れる前に「嘘」を見せてしまうのだ。華々しいシーンは最初でつかいきって、封印し、あとは地味に「ことば」に関心が向かうように派手な映像をつかいきってしまうのだ。
 ごくふつうの処理といえばふつうの処理なのだが、双子の弟が多くの霊媒者のことばに嘘を感じ、がっかりするというのも、少年の肉体の動き、顔の表情で引き受け、ことばを否定してしまうのも、あ、きちんとできているなあと感心してしまう。

 たぶんイーストウッドが霊とか死後というものを信じていないせいだと思うのだが、霊や死後の世界の描き方はそっけなく、おもしろみに欠けるのだが、映画のなかにおける映像とことばの処理の仕方というか、映画技術としては、すごいなあ、とうなってしまう映画である。映画を楽しむ、とういより、映画の作り方を学ぶ、イーストウッドの映画技術を吸収するという意味では非常にいい作品である。


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