岩佐なを「毛」(「孔雀船」77、2011年01月15日発行)
最近、書いている感想が同じ人ばかりになって、これではおもしろくないなあ、と思うのだが、やはり何度か書いてきた人の詩になってしまう。
岩佐なを「毛」。最初は何が書いてあるかわからない。
「苔色にぬれた空気」というのは岩佐らしいことばである。昔はこういうことばが私は気持ちが悪くてとても嫌いだった。いつのまにか、こういう表現になれてしまったなあ、というようなことは思うのだが、これ、何? 何が書いてある?
眉毛、睫毛が目のなかにふる(降る、入る)ととても痛い。その目のなかに嵌まっている場所。どこ? わからないまま「地下駐車場」が出てくるけれど、これって、目のなかにある地下駐車場? 記憶のこと? 思い出のこと?
だれもいない、くるまもいない。そして、鳥の羽がふってくる(降ってくる?)。あれっ、さっき降っていたのは眉毛、睫毛だったのに……。
わからないねえ。
わからないのだけれど……。
この部分が私はとても好きだ。まず、ここが好きになる。
「ふおふお」という音がすばらしい。羽毛がふる(降る)ときの「音」は「ふおふお」以外に考えられない、と思ってしまう。そして、その「ふおふお」のなかには「たっぷり」時間がある。「ふおふお」と「たっぷり」は同じものである。その瞬間、「羽毛」と「時間」が同じものになる。「時間」というのは抽象的なものだが、この瞬間「抽象」が消え、羽毛の「ふおふお」の無数、たくさんの、あふれかえる羽毛--そのたっぷりとした気持ちのいい感じが「時間」になる。
しかし、詩は、この気持ちのいい幸福のなかにいつづけるわけではないのだ。私はすぐ裏切られる(?)。
「ふおふお」「たっぷり」が、汚れて醜くなっている。「足の踏み場もない」ではなく、「素足の踏み場もない」なんて--あ、こんな汚れてしまった場所に、わざわざ「素足」はなかろうに。長靴とかさあ、もっと、なんとかしてよ、岩佐さん。
という声が聞こえたのかなあ。
岩佐は、さらに意地悪く、ことばをつづける。
「素足」をごていねいに「指」にまで誘い込む。このあたりの「仕掛け」が岩佐の一種の「腕」の見せ所というか、詩の核心なのかもしれないが……。(この誘い込みを中心にして書けば、またもう一回、別の感想がかけそうな気がする。)
あ、「おら、」ってなんだよ。魚卵に、指の間まで入り込んで、そこで潰れろ、汁を飛び散らせろ、なんてけしかけないでくれよ。
私は生臭い(魚卵はきっと生臭い)、ぬるぬる、べたべたが大嫌いなのだ。
と、思うのだが、このとき、私はどこにいる? 何を感じている? 眉毛、睫毛はどこへ行ったのだろう。羽毛はどこへ行ったのだろう。そして、ここは駐車場? なにもかも忘れて、「つぶつぶひこひこ」が潰れて、べたべたと「肉体」にからんでくるのを感じてしまう。そんな場所においつめられているを感じ、ぞっとする。
そういうぞっとする気持ちの中で、何か、区別というものがあいまいになる。それをみはからったかのように、
ことばがくっついてしまう。からみあってしまう。
「目の毛」というのは、ことば全体の運動からいえば「目のなかの/毛」「目のなかに/ふる/眉毛・睫毛」ということなのかもしれない。「目の毛……」の1行のあとに、音急ぎで「目のなか」以下のことばがつづくのだろうけれど、この大急ぎの言い直しが逆に、目のなかに毛がふってきたというより、目から毛が生えてきたという感じにさせる。「目の卵」は卵のなかに目があるというよりも、自分の目が魚の卵になってしまったような気持ちにさせる。自分の目が、駐車場(?)の床を汚していたつぶつぶひこひこの魚の目、違った魚の卵になってしまったような感じになる。
あ、こんなことは、岩佐は書いていないか……。
その書いていないことを感じる瞬間。錯覚を通り越し、「誤読」を動かしていく瞬間--そういうときに私は詩を感じる。
岩佐の詩、というより、岩佐のことばをとおして、その先に詩を感じる。
ことばがからみあって、動かなくなる。からみあったまま、結晶してしまう。たとえば「目の毛目の卵地下駐車場」という具合に。でも、それは、ことばが動いた結果なのである。わかりやすいことばにはならないけれど、だからこそ、そこに岩佐だけが見ている何かがある。詩がある。
そして、その詩というものを、岩佐がつかっていることばのなかにもう一度探して行くとき、私は「時間」ということばに出会う。「時間」の前で、たちどまる。読みはじめてすぐ、あ、ここがおもしろい、と感じた行である。
「時間をたっぷりかけて」
そうか、詩とは、時間をたっぷりかけて、ことばの中で迷うことなのか。岩佐は、時間を「たっぷり」にするために、ことばの迷路を仕組んでいるのだな、と思う。「たっぷり」を味わい尽くせば、その果てに、「目の毛目の卵地下駐車場」は、自然に解凍するというか、ときほぐれて、「ふおふお」になって、どこかへもう一度ふる(降る)ことができるのだろうなあ、と思うのである。
*
余談。
個人的な体験なのだけれど、私の睫毛は頻繁に目のなかに入る。そして簡単にはとれない。水で流そうにも、目にはりついている。目薬でもなかなか流れない。涙がどっと流れてくれないと押し流してくれない。涙の出方では、睫毛がどこかへ移動するだけ、ということもある。
岩佐にそういう体験があるかどうかわからないが、もしかすると、岩佐は私の体験しているようなことをことばにしているのかもしれない。
この毛が、うまく目から流れ出ないとどうなるか。
飛蚊症というものが、目の症状にある。蚊や糸くずが飛んでいるように見える。硝子体が濁ってきて起きるのだが、私はときどき目のなかに入った睫毛が目の裏側まで入り込み、硝子体のなかを舞っている(その中で、降っている)と思うことがある。
まあ、こんなことはありえないのだが、そういう間違った肉体の解釈(誤読)が、岩佐のこの詩のなかにも動いているかもしれない。
最近、書いている感想が同じ人ばかりになって、これではおもしろくないなあ、と思うのだが、やはり何度か書いてきた人の詩になってしまう。
岩佐なを「毛」。最初は何が書いてあるかわからない。
眉毛ふる
睫毛ふる
目のなかに
嵌まっている場所
なまぐさい地下駐車場はうすあかり
苔色にぬれた空気が満ちていて
だれもいない
くるまない
ややあって
鳥の羽がつぎつぎとふってくる
灰色羽毛がふおふおと
時間をたっぷりかけて
ふってくる
「苔色にぬれた空気」というのは岩佐らしいことばである。昔はこういうことばが私は気持ちが悪くてとても嫌いだった。いつのまにか、こういう表現になれてしまったなあ、というようなことは思うのだが、これ、何? 何が書いてある?
眉毛、睫毛が目のなかにふる(降る、入る)ととても痛い。その目のなかに嵌まっている場所。どこ? わからないまま「地下駐車場」が出てくるけれど、これって、目のなかにある地下駐車場? 記憶のこと? 思い出のこと?
だれもいない、くるまもいない。そして、鳥の羽がふってくる(降ってくる?)。あれっ、さっき降っていたのは眉毛、睫毛だったのに……。
わからないねえ。
わからないのだけれど……。
灰色羽毛がふおふおと
時間をたっぷりかけて
ふってくる
この部分が私はとても好きだ。まず、ここが好きになる。
「ふおふお」という音がすばらしい。羽毛がふる(降る)ときの「音」は「ふおふお」以外に考えられない、と思ってしまう。そして、その「ふおふお」のなかには「たっぷり」時間がある。「ふおふお」と「たっぷり」は同じものである。その瞬間、「羽毛」と「時間」が同じものになる。「時間」というのは抽象的なものだが、この瞬間「抽象」が消え、羽毛の「ふおふお」の無数、たくさんの、あふれかえる羽毛--そのたっぷりとした気持ちのいい感じが「時間」になる。
しかし、詩は、この気持ちのいい幸福のなかにいつづけるわけではないのだ。私はすぐ裏切られる(?)。
気管に悪い細かい毛
ひどくよごれている
冷えきった床には凍らない
魚卵がオレンジ色のひつつぶひこひこ
つぶつぶとしきつめられている
素足の踏み場もない
「ふおふお」「たっぷり」が、汚れて醜くなっている。「足の踏み場もない」ではなく、「素足の踏み場もない」なんて--あ、こんな汚れてしまった場所に、わざわざ「素足」はなかろうに。長靴とかさあ、もっと、なんとかしてよ、岩佐さん。
という声が聞こえたのかなあ。
岩佐は、さらに意地悪く、ことばをつづける。
動けば潰し汁とびちる
おら、指の隙間につぶつぶひこひこ
「素足」をごていねいに「指」にまで誘い込む。このあたりの「仕掛け」が岩佐の一種の「腕」の見せ所というか、詩の核心なのかもしれないが……。(この誘い込みを中心にして書けば、またもう一回、別の感想がかけそうな気がする。)
あ、「おら、」ってなんだよ。魚卵に、指の間まで入り込んで、そこで潰れろ、汁を飛び散らせろ、なんてけしかけないでくれよ。
私は生臭い(魚卵はきっと生臭い)、ぬるぬる、べたべたが大嫌いなのだ。
と、思うのだが、このとき、私はどこにいる? 何を感じている? 眉毛、睫毛はどこへ行ったのだろう。羽毛はどこへ行ったのだろう。そして、ここは駐車場? なにもかも忘れて、「つぶつぶひこひこ」が潰れて、べたべたと「肉体」にからんでくるのを感じてしまう。そんな場所においつめられているを感じ、ぞっとする。
水におおわれていないから
ここは海底でも眼底でもなく
羽毛がゆっくりふってくる
目の毛目の卵地下駐車場
毛ふりしきる場所
目のなか
眉毛ふる
睫毛ふる
小さいつぶの魚卵も
目
毛が目に入り
中で積っている
そういうぞっとする気持ちの中で、何か、区別というものがあいまいになる。それをみはからったかのように、
目の毛目の卵地下駐車場
ことばがくっついてしまう。からみあってしまう。
「目の毛」というのは、ことば全体の運動からいえば「目のなかの/毛」「目のなかに/ふる/眉毛・睫毛」ということなのかもしれない。「目の毛……」の1行のあとに、音急ぎで「目のなか」以下のことばがつづくのだろうけれど、この大急ぎの言い直しが逆に、目のなかに毛がふってきたというより、目から毛が生えてきたという感じにさせる。「目の卵」は卵のなかに目があるというよりも、自分の目が魚の卵になってしまったような気持ちにさせる。自分の目が、駐車場(?)の床を汚していたつぶつぶひこひこの魚の目、違った魚の卵になってしまったような感じになる。
あ、こんなことは、岩佐は書いていないか……。
その書いていないことを感じる瞬間。錯覚を通り越し、「誤読」を動かしていく瞬間--そういうときに私は詩を感じる。
岩佐の詩、というより、岩佐のことばをとおして、その先に詩を感じる。
ことばがからみあって、動かなくなる。からみあったまま、結晶してしまう。たとえば「目の毛目の卵地下駐車場」という具合に。でも、それは、ことばが動いた結果なのである。わかりやすいことばにはならないけれど、だからこそ、そこに岩佐だけが見ている何かがある。詩がある。
そして、その詩というものを、岩佐がつかっていることばのなかにもう一度探して行くとき、私は「時間」ということばに出会う。「時間」の前で、たちどまる。読みはじめてすぐ、あ、ここがおもしろい、と感じた行である。
「時間をたっぷりかけて」
そうか、詩とは、時間をたっぷりかけて、ことばの中で迷うことなのか。岩佐は、時間を「たっぷり」にするために、ことばの迷路を仕組んでいるのだな、と思う。「たっぷり」を味わい尽くせば、その果てに、「目の毛目の卵地下駐車場」は、自然に解凍するというか、ときほぐれて、「ふおふお」になって、どこかへもう一度ふる(降る)ことができるのだろうなあ、と思うのである。
*
余談。
個人的な体験なのだけれど、私の睫毛は頻繁に目のなかに入る。そして簡単にはとれない。水で流そうにも、目にはりついている。目薬でもなかなか流れない。涙がどっと流れてくれないと押し流してくれない。涙の出方では、睫毛がどこかへ移動するだけ、ということもある。
岩佐にそういう体験があるかどうかわからないが、もしかすると、岩佐は私の体験しているようなことをことばにしているのかもしれない。
この毛が、うまく目から流れ出ないとどうなるか。
飛蚊症というものが、目の症状にある。蚊や糸くずが飛んでいるように見える。硝子体が濁ってきて起きるのだが、私はときどき目のなかに入った睫毛が目の裏側まで入り込み、硝子体のなかを舞っている(その中で、降っている)と思うことがある。
まあ、こんなことはありえないのだが、そういう間違った肉体の解釈(誤読)が、岩佐のこの詩のなかにも動いているかもしれない。
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