詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則「ののものののどで」

2011-02-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「ののものののどで」(「ポエームTAMA」14、2011年02月01日発行)

 松岡政則「ののものののどで」を岩佐なを「そほ」とつづけて読むと不思議な気持ちになる。「肉体」のあり方が違う。ことばと「肉体」の関係が違うことに気がつく。
 「ののものののどで」の全行。

詩にはすでに
詩というそれだけでもう
ひととしての含羞がある
あとは平生の挨拶を書けばよいのだ
イタドリが長けまくっているひとの背たけをこえている

あなたの手に
何かの拍子に触れたことがある
あの時あなたの全部に触れた気がした
わたしとはわたしの記憶だろう
あやふやなそのぶんかすかなおびえのようなものがある

オニヤンマが巡回している
その複眼のみどりとうつくしい静止飛行
クレヨンで画いたような濃い空だ
じぶんのことなのにわからない
なんであんなことを言ってしまったのか嫌で嫌でやれん

野の者の喉でおらんでみた
わたしの聲ではあったが
祖々(おやおや)の聲でもあった
ひとりと野っぱらと肉慾と
そこにどんな違いがあるのか同じ言葉のような気がする

 岩佐の「そほ」を「祖母」と仮定してのことなのだが、ふたりの詩には「祖」が出てくる。岩佐の場合は「祖母」ひとり。松岡の場合は「祖々(おやおや)」と複数である。
 書かれていることが違うのだから、その違いはあたりまえなのかもしれないが、何か不思議な感じがするのである。
 そして、私がまず思ったのは、松岡のことばは「肉体」とつながっている。その「肉体」はひとりのものであるが、そこには複数の「肉体」が存在する。複数の「肉体」とつながっている。それは「祖々(おやおや)」ということばがつかわれているが、「親」だけではなく、むしろ「親」を超えた「野の者」という、松岡が生きた「場」に生きるひととつながっている。
 一方、岩佐のことばは「祖母」を描きながら、祖母と岩佐をつなげる「肉体」、つまり「肉親」の「肉体」とはそんなに密接なつながりはない。岩佐のことばは現実の「肉体」、「血の繋がり」というよりも、「ことばの肉体」とつながっている。ことばそのものの「伝統」というべきなのか、文化というべきなのかわからないが、「文学」という「肉体」で繋がっている。「気づかないこと」、「気持ち」が無意識に捨てたことを「零れる」というときの、そのことばづかいとしての「肉体」。「こぼれる」を「零れる」と漢字で書く、その「文体」としての「肉体」。(「文体」とは「ことばのからだ」、ことばの「肉体」の動きである。)
 もちろん松岡のことばも、ことばの「肉体」を持っている。ただし、それは「野の者」の「喉」に重きが置かれる。岩佐の場合、「零れる」という「漢字」、あるいは書きことば、表記としての「肉体」であるのに対して、松岡はあくまで「喉」であり、「聲」なのである。松岡は「声」とは書かずに「聲」という漢字をつかっている。そのこだわりがどこにあるのかはっきりとはわからないが、「聲」という漢字が「耳」という文字を含んでいるのはおもしろい。松岡が「こえ」を「喉」、あるいは発声器官だけのものではなく、同時に「耳」にもつながるもの、領域の広い「肉体」のものとしてとらえているということかもしれない。--これはまた、別の機会に書いてみたいテーマである。きょうは省略。
 岩佐のことばが「文学」をくぐりぬけた「文字の肉体」であるのに対し、松岡のことばは「喉」(そして耳)をくぐりぬけた 「声の肉体」なのである。ことばは、「文字の肉体」も「声の肉体」ももちろん同時に持っている。ただ、ことばをつかうとき、たぶん私たちはどちらかに「重点」をおく。その置きかたが岩佐と松岡では違う、ということである。--これは、どちらが優れているとか優れていないとかという問題とは別のことである。
 
 岩佐の「書きことばの肉体」は「零れる」で少し書いた。その前に読んだ「素足の踏み場もない」から「指」へつながる運動について書いたことも、それに関係している。ほんとうはもっとていねいに書かないといけないのかもしれないけれど、二度書いたので、もう岩佐のことは書いてしまったことにして……。
 松岡の「聲」(以下は、「声」という漢字で代用する)。

なんであんなことを言ってしまったのか嫌で嫌でやれん

 「やれん」は「口語」である。「声」である。その「声」は松岡の声ではあるけれど、どういうときに「やれん」というかというのは、松岡が耳で「やれん」ということばを周囲のひとがいうのを聞いて(ここに耳が登場する)、覚えた「声」である。そこには「意味」だけではなく、説明できない「感情」がある。いや、「意味」などなく、ただ感情があるだけかもしれない。
 「声」は単に出されたものではない。淡々と「やれん」と声に出されたのではない。

野の者のの喉でおらんでみた

 「おらぶ」。ことばは「肉体」をくぐりぬける。「喉」をくぐりぬける。そのときの「力」のこめ方によって、ささやく、語る、叫ぶ、おらぶのように、さまざまな肉体の動きがある。「声」の「肉体」は、「肉体」全身の動きにもつながる。ことばの「意味」は文字にしてしまうと同じになるが、「肉体」を通るとき「意味」とは違うものを抱え込んでしまう。そして、その「意味」を超えたものを、私たちは説明することが苦手だが、「肉体」は「説明」抜きに、それを知ってしまう。
 道端で腹を抱えてうずくまり、うめき声を出している人をみると、彼が病気である(ケガをしている、ようするに体調がよくない)ということは、聞かなくてもわかる。私たちは「肉体」でなにごとかを知る。自分の肉体ではなく、他人の肉体であっても、その痛みを知る。
 同じことが「声」でも起きるのだ。「声」を聞けば、「意味」以上のものが納得できるのである。「肉体」が納得してしまうのである。
 そして、このとき「肉体」は、単に肉親と、つまり血縁関係のある肉体とのみつながるのではない。生きているひとのすべてとつながる。--というと、また、嘘になるかもしれない。松岡のように、正確に、同じように生きたひとの肉体、松岡がその「声」を耳で聞いて納得した肉体とつながる。
 松岡は、ここでは、その「場」を、親しみをこめて「野」と呼んでいる。



 ちょっと詩を逆戻りして。
 
 「声」が「肉体」を持つなら、「肉体」もまた「声」を持つ。「声(ことば)」が発せられなくても、そこに「会話」が成り立つ瞬間がある。

あなたの手に
何かの拍子に触れたことがある
あの時あなたの全部に触れた気がした

 美しいなあ。ことばでは「全部」に触れることはできない。ことばにならないものがあるからだ。だから、ことばは発せず、瞬間的に「全部」に触れる。このとき触れるというのは接するというより、一体になるという感じだ。
 でも松岡はそれだけでは満足できない。詩人だから、どうしても「ことば」にしてみたい。

わたしとはわたしの記憶だろう
あやふやなそのぶんかすかなおびえのようなものがある

 あ、そうすると、ことばは「あやふや」になる。「肉体」でわかったものが、「ことば」ではわからなくなる。「記憶」には「肉体」の記憶もあるのだが、面倒なのは、肉体というのは「わたしの肉体」は「わたし」のなかで完結し、「あなたの肉体」は「あなた」のなかで完結しているということである。互いに離れて完結しているのに、何かがつながっている。それをことばにできればいいのだが、ことばはそういうことは苦手だ。
 そのとき、「かすか」に「おびえ」ているのは何だろう。
 「肉体」か「ことば」か。「肉体のことば」か「ことばの肉体」か。そして、それは「わたし」のものなのか。「あなた」のものなのか。
 そして、ここで、一気に最後の行に、また引き返してみる。

そこにどんな違いがあるのか同じことばのような気もする

 「同じ」。
 なにもかもを「同じ」にする「力」がどこかにあるのだ。それに触れながら(それを手放さずに)、松岡はことばを動かすのである。「ののものののど」を通る「声」で。

ちかしい喉
松岡 政則
思潮社
コメント (1)
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