松浦寿輝「色の名」(「文藝春秋」2011年03月号)
松浦寿輝「色の名」は「もの」よりも「ことば」に欲情するひとである。もし、「もの」に欲情するとすれば、それは「文字」という「もの」に欲情する。「色の名」。
「ひらがな」と「漢字」。それによって「ことば」がかわる。
「ひらがな」のときは「音」。そして、それは舌と口蓋に代表される発声器官をくすぐる。刺激する。なぜか、そのとき「耳」は具体的な肉体として表立ってこない。ことばはあくまで松岡にとって発するものである。聴く--ということをとおして受け取るものではないのだ。
「漢字」のときはどうか。「書く」というときの肉体、指、腕は少しないがしろにされる。「漢字」では視覚(目)が動いている。目が、ことばを受け止めている。
このふたつのことは、松浦の「根本」にかかわることがらかもしれない。松浦は、ことばを「読む」(目をとおして理解する)、そしてそれを発する(声に出す)。ことばを「聞いて」、それを理解し、それを声で反復するのではない。また、「聞いた」ことばを書くのではない。「読んだ」ことばを声にだし、それからもう一度「読む」。「見る」。視覚の中に定着させて、ことばを理解する。自分のものにする。
「読んだ」ことばを、声にする。それから「書いて」ことばをととのえる。ことばを確かめる。「ひらがな」「漢字」、どっちが、そのことばにふさわしいのか、自分の肉体になじむのはどちらなのかを確かめる。どんなふうになじんでいるのかを確かめる。
松浦は「文字」のひとなのだ。書きことばのひとなのだ。
この詩で非常におもしろいのは「やがて」である。
ことばは「音」(ひらがな)と「文字」(漢字)の交錯を経て、ことばではなくなる。「肉体」になる。その「肉体」を松浦は、「快楽」「射精」というセックスと結びつけて書いている。肉体の深部で、自分を裏切るようにして動く力と結びつけ、また「あまい悔恨」「にがい快楽」という「味覚(肉体)」と「悔恨」「快楽」という「精神」を融合させることで、肉体そのものに深みをあたえる。
それを松浦は「やがて」という「時間」の経過のなかでみつめている。松浦がほんとうにみつめているのは、もしかすると「悔恨」でも「快楽」でも「あまい」でも「にがい」でもないかもしれない。ただ「時間」を見つめているのだ。時間をみつめ、その時間を描きとるために、そこに肉体と精神、感覚の運動を軌跡を記しているのかもしれない。
時間の経過を示すことばはもう一回出てくる。「のちの」である。
時間の経過のなかに「悔恨」があり「快楽」がある。「射精」がある。それはそれぞれに、「色」をもっているはずだが、ここでは松浦は書いていない。もしかすると、それはまだ名づけられていない色なのかもしれない。そうであると、思いたい。
いや、そうではなく、「あまい+悔恨」「にがい+快楽」「絢爛たる+射精」ということばの組み合わせそのものが、「ひわもえぎ」「あおしろつるばみ」「うらはやなぎ」「鶸萌葱」「青白橡」「裏葉柳」のように、色なのだ。
声に出して、書き記せばわかる。いままで存在しなかった「もの」としての「あまい悔恨」「にがい快楽」「絢爛たる射精」という「ことば」が肉体をひっかきまわすのがわかる。それ何? と一瞬、強い刺激が走る。そして、しばらくすると、松浦のことばを借りていえば、「やがて」、あ、そういう矛盾したものが自分の肉体のなかにあるなあ、とわかる。「悔恨」はにがいだけではなく、あまいものもある。「快楽」にはあまい快楽だけではなく、にがい快楽ものある。射精も貧弱な(?)射精だけではなく、絢爛たる射精がある。
で、その「のちの」は、なんだろう。「時空はただ無色」。
先に私は「時間」こそが松浦の見つめているものだと書いた。ここでは「時空」と松浦は書いている。「時間」に「空間」を融合させてとらえる世界。松浦は、ことばをとおして「時間」をくぐり、「空間」へ戻ってくるのかもしれない。そのとき「時空」が瞬間的に融合して存在するが、「戻る」という意識は「空間」の方へ傾くだろう。「時間」をくぐりぬけてきたのだから。そのとき、色は「無色」。
これは、とてもおもしろい。いままでとは違った色というのではなく、あくまでも「無色」。では、色はどこにある?
くぐりぬけてきた「時間」のなかにあることにならないだろうか。
これは、反復であり(反芻であり)、確認なのだ。色は時間のなか、松浦の書いてきたことばをそのままつかえば、「あまい悔恨」「にがい快楽」「絢爛たる射精」ということばそのもののなかにこそある。そのことばを声に出して読み、書いている瞬間のみに存在する。書いてしまえば、消える。
だから、また書かなければならない。
この短い詩は、書くことに取りつかれた松浦、書きことばなしには自己確認できない松浦の不幸と至福の証言であるとも読むことができる。
松浦寿輝「色の名」は「もの」よりも「ことば」に欲情するひとである。もし、「もの」に欲情するとすれば、それは「文字」という「もの」に欲情する。「色の名」。
ひわもえぎ あおしろつるばみ うらはやなぎ
つぶやけば 母音と子音が母子のようによりそい
舌と口蓋をなでながら あわくやさしくころがる
鶸萌葱 青白橡 裏葉柳
書きつければ すずやかな彎曲 剛毅な直交
線と線が指と指のようにからみあう その淫蕩の倫理
やがて まなうらにひっそりうかびあがる
色々の 色々の あまい悔恨やにがい快楽(けらく)
秋色の儀としてとりおこなわれる 絢爛たる射精
しずかに覚醒すれば のちの時空はただ無色
「ひらがな」と「漢字」。それによって「ことば」がかわる。
「ひらがな」のときは「音」。そして、それは舌と口蓋に代表される発声器官をくすぐる。刺激する。なぜか、そのとき「耳」は具体的な肉体として表立ってこない。ことばはあくまで松岡にとって発するものである。聴く--ということをとおして受け取るものではないのだ。
「漢字」のときはどうか。「書く」というときの肉体、指、腕は少しないがしろにされる。「漢字」では視覚(目)が動いている。目が、ことばを受け止めている。
このふたつのことは、松浦の「根本」にかかわることがらかもしれない。松浦は、ことばを「読む」(目をとおして理解する)、そしてそれを発する(声に出す)。ことばを「聞いて」、それを理解し、それを声で反復するのではない。また、「聞いた」ことばを書くのではない。「読んだ」ことばを声にだし、それからもう一度「読む」。「見る」。視覚の中に定着させて、ことばを理解する。自分のものにする。
「読んだ」ことばを、声にする。それから「書いて」ことばをととのえる。ことばを確かめる。「ひらがな」「漢字」、どっちが、そのことばにふさわしいのか、自分の肉体になじむのはどちらなのかを確かめる。どんなふうになじんでいるのかを確かめる。
松浦は「文字」のひとなのだ。書きことばのひとなのだ。
この詩で非常におもしろいのは「やがて」である。
やがて まなうらにひっそりうかびあがる
ことばは「音」(ひらがな)と「文字」(漢字)の交錯を経て、ことばではなくなる。「肉体」になる。その「肉体」を松浦は、「快楽」「射精」というセックスと結びつけて書いている。肉体の深部で、自分を裏切るようにして動く力と結びつけ、また「あまい悔恨」「にがい快楽」という「味覚(肉体)」と「悔恨」「快楽」という「精神」を融合させることで、肉体そのものに深みをあたえる。
それを松浦は「やがて」という「時間」の経過のなかでみつめている。松浦がほんとうにみつめているのは、もしかすると「悔恨」でも「快楽」でも「あまい」でも「にがい」でもないかもしれない。ただ「時間」を見つめているのだ。時間をみつめ、その時間を描きとるために、そこに肉体と精神、感覚の運動を軌跡を記しているのかもしれない。
時間の経過を示すことばはもう一回出てくる。「のちの」である。
しずかに覚醒すれば のちの時空はただ無色
時間の経過のなかに「悔恨」があり「快楽」がある。「射精」がある。それはそれぞれに、「色」をもっているはずだが、ここでは松浦は書いていない。もしかすると、それはまだ名づけられていない色なのかもしれない。そうであると、思いたい。
いや、そうではなく、「あまい+悔恨」「にがい+快楽」「絢爛たる+射精」ということばの組み合わせそのものが、「ひわもえぎ」「あおしろつるばみ」「うらはやなぎ」「鶸萌葱」「青白橡」「裏葉柳」のように、色なのだ。
声に出して、書き記せばわかる。いままで存在しなかった「もの」としての「あまい悔恨」「にがい快楽」「絢爛たる射精」という「ことば」が肉体をひっかきまわすのがわかる。それ何? と一瞬、強い刺激が走る。そして、しばらくすると、松浦のことばを借りていえば、「やがて」、あ、そういう矛盾したものが自分の肉体のなかにあるなあ、とわかる。「悔恨」はにがいだけではなく、あまいものもある。「快楽」にはあまい快楽だけではなく、にがい快楽ものある。射精も貧弱な(?)射精だけではなく、絢爛たる射精がある。
で、その「のちの」は、なんだろう。「時空はただ無色」。
先に私は「時間」こそが松浦の見つめているものだと書いた。ここでは「時空」と松浦は書いている。「時間」に「空間」を融合させてとらえる世界。松浦は、ことばをとおして「時間」をくぐり、「空間」へ戻ってくるのかもしれない。そのとき「時空」が瞬間的に融合して存在するが、「戻る」という意識は「空間」の方へ傾くだろう。「時間」をくぐりぬけてきたのだから。そのとき、色は「無色」。
これは、とてもおもしろい。いままでとは違った色というのではなく、あくまでも「無色」。では、色はどこにある?
くぐりぬけてきた「時間」のなかにあることにならないだろうか。
これは、反復であり(反芻であり)、確認なのだ。色は時間のなか、松浦の書いてきたことばをそのままつかえば、「あまい悔恨」「にがい快楽」「絢爛たる射精」ということばそのもののなかにこそある。そのことばを声に出して読み、書いている瞬間のみに存在する。書いてしまえば、消える。
だから、また書かなければならない。
この短い詩は、書くことに取りつかれた松浦、書きことばなしには自己確認できない松浦の不幸と至福の証言であるとも読むことができる。
官能の哲学 (ちくま学芸文庫) | |
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