詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松浦寿輝「色の名」

2011-02-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦寿輝「色の名」(「文藝春秋」2011年03月号)

 松浦寿輝「色の名」は「もの」よりも「ことば」に欲情するひとである。もし、「もの」に欲情するとすれば、それは「文字」という「もの」に欲情する。「色の名」。

ひわもえぎ あおしろつるばみ うらはやなぎ
つぶやけば 母音と子音が母子のようによりそい
舌と口蓋をなでながら あわくやさしくころがる
鶸萌葱 青白橡 裏葉柳
書きつければ すずやかな彎曲 剛毅な直交
線と線が指と指のようにからみあう その淫蕩の倫理
やがて まなうらにひっそりうかびあがる
色々の 色々の あまい悔恨やにがい快楽(けらく)
秋色の儀としてとりおこなわれる 絢爛たる射精
しずかに覚醒すれば のちの時空はただ無色

 「ひらがな」と「漢字」。それによって「ことば」がかわる。
 「ひらがな」のときは「音」。そして、それは舌と口蓋に代表される発声器官をくすぐる。刺激する。なぜか、そのとき「耳」は具体的な肉体として表立ってこない。ことばはあくまで松岡にとって発するものである。聴く--ということをとおして受け取るものではないのだ。
 「漢字」のときはどうか。「書く」というときの肉体、指、腕は少しないがしろにされる。「漢字」では視覚(目)が動いている。目が、ことばを受け止めている。
 このふたつのことは、松浦の「根本」にかかわることがらかもしれない。松浦は、ことばを「読む」(目をとおして理解する)、そしてそれを発する(声に出す)。ことばを「聞いて」、それを理解し、それを声で反復するのではない。また、「聞いた」ことばを書くのではない。「読んだ」ことばを声にだし、それからもう一度「読む」。「見る」。視覚の中に定着させて、ことばを理解する。自分のものにする。
 「読んだ」ことばを、声にする。それから「書いて」ことばをととのえる。ことばを確かめる。「ひらがな」「漢字」、どっちが、そのことばにふさわしいのか、自分の肉体になじむのはどちらなのかを確かめる。どんなふうになじんでいるのかを確かめる。
 松浦は「文字」のひとなのだ。書きことばのひとなのだ。

 この詩で非常におもしろいのは「やがて」である。

やがて まなうらにひっそりうかびあがる

 ことばは「音」(ひらがな)と「文字」(漢字)の交錯を経て、ことばではなくなる。「肉体」になる。その「肉体」を松浦は、「快楽」「射精」というセックスと結びつけて書いている。肉体の深部で、自分を裏切るようにして動く力と結びつけ、また「あまい悔恨」「にがい快楽」という「味覚(肉体)」と「悔恨」「快楽」という「精神」を融合させることで、肉体そのものに深みをあたえる。
 それを松浦は「やがて」という「時間」の経過のなかでみつめている。松浦がほんとうにみつめているのは、もしかすると「悔恨」でも「快楽」でも「あまい」でも「にがい」でもないかもしれない。ただ「時間」を見つめているのだ。時間をみつめ、その時間を描きとるために、そこに肉体と精神、感覚の運動を軌跡を記しているのかもしれない。
 時間の経過を示すことばはもう一回出てくる。「のちの」である。

しずかに覚醒すれば のちの時空はただ無色

 時間の経過のなかに「悔恨」があり「快楽」がある。「射精」がある。それはそれぞれに、「色」をもっているはずだが、ここでは松浦は書いていない。もしかすると、それはまだ名づけられていない色なのかもしれない。そうであると、思いたい。
 いや、そうではなく、「あまい+悔恨」「にがい+快楽」「絢爛たる+射精」ということばの組み合わせそのものが、「ひわもえぎ」「あおしろつるばみ」「うらはやなぎ」「鶸萌葱」「青白橡」「裏葉柳」のように、色なのだ。
 声に出して、書き記せばわかる。いままで存在しなかった「もの」としての「あまい悔恨」「にがい快楽」「絢爛たる射精」という「ことば」が肉体をひっかきまわすのがわかる。それ何? と一瞬、強い刺激が走る。そして、しばらくすると、松浦のことばを借りていえば、「やがて」、あ、そういう矛盾したものが自分の肉体のなかにあるなあ、とわかる。「悔恨」はにがいだけではなく、あまいものもある。「快楽」にはあまい快楽だけではなく、にがい快楽ものある。射精も貧弱な(?)射精だけではなく、絢爛たる射精がある。
で、その「のちの」は、なんだろう。「時空はただ無色」。
先に私は「時間」こそが松浦の見つめているものだと書いた。ここでは「時空」と松浦は書いている。「時間」に「空間」を融合させてとらえる世界。松浦は、ことばをとおして「時間」をくぐり、「空間」へ戻ってくるのかもしれない。そのとき「時空」が瞬間的に融合して存在するが、「戻る」という意識は「空間」の方へ傾くだろう。「時間」をくぐりぬけてきたのだから。そのとき、色は「無色」。
 これは、とてもおもしろい。いままでとは違った色というのではなく、あくまでも「無色」。では、色はどこにある?
 くぐりぬけてきた「時間」のなかにあることにならないだろうか。
 これは、反復であり(反芻であり)、確認なのだ。色は時間のなか、松浦の書いてきたことばをそのままつかえば、「あまい悔恨」「にがい快楽」「絢爛たる射精」ということばそのもののなかにこそある。そのことばを声に出して読み、書いている瞬間のみに存在する。書いてしまえば、消える。
 だから、また書かなければならない。

 この短い詩は、書くことに取りつかれた松浦、書きことばなしには自己確認できない松浦の不幸と至福の証言であるとも読むことができる。


官能の哲学 (ちくま学芸文庫)
松浦 寿輝
筑摩書房

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坂東玉三郎・中村獅童「高野聖」「将門」

2011-02-13 22:20:21 | その他(音楽、小説etc)
坂東玉三郎・中村獅童「高野聖」「将門」(博多座02月13日昼の部)

 「高野聖」「将門」とも玉三郎の魅力を見せるというより獅童をささえるというニュアンスが強いかもしれない。
 「高野聖」は獅童の声の若さと玉三郎の台詞回しの巧みさの違いが際立った。そして、そのことが不思議と「高野聖」の内容にあっていた。獅童の硬く張り詰めた声のなかにある純粋さが、妖女の魔力を遠ざける。ストーリーとしては僧の汚れのなさが妖女の魔力を遠ざけるということになっているのだが、その汚れのなさ、純粋さを獅童は声で表現する。声の肉体でストレートに打ち出す。なるほどなあ、と感心した。
 玉三郎の台詞回しは、間合いがとてもすばらしい。獅童に接近していきながら、最後の一瞬で立ち止まる。引き下がる。そのこころの揺らぎのようなものが伝わってくる。玉三郎が、魔力によって動物に変えてしまったものたちをあしらうときの声の調子、ことばを発するときの間合い(肉体とことばの密着度--何かしながらそれをことばでも言い聞かせるときの肉体の動きと声の出てくるスピード)が、獅童の場合と微妙に違うのである。獅童を相手にしているときは、肉体と声の間にひと呼吸あり、それがこころの揺らぎをあらわす。動物(けだもの)たちを相手にするときは、相手の反応をうかがわない。獅童を相手のときにみせた「ひと呼吸」がない。というよりも、「ひと呼吸」をさらにのみこんで、相手を先回りしてしまう。動物(けだもの)たちのことはもうわかってしまっている、と軽くあしらっている。
 見せ場は、獅童と玉三郎の湯浴みのシーンだろう。そこでは獅童は無言で、そのことが、今度は獅童の肉体そのものの純粋さ、涼しさを浮かび上がらせる仕組みになっている--のだろうけれど、私の席からは(私は目を手術して以来、あまりよく見えないせいもあって)、そのあたりの感じは、肉眼では把握できなかった。やろうとしていることはわかったが、実感できなかった。
 肉体の動きそのものとしては、玉三郎には見せ場がいろいろあるというか、姿が美しく見える。馬になった富山の薬売りの前で胸を開いて見せるシーンの背中など、不思議に妖しい。獅童を湯に案内するときの歩き方も、とても妖しい。それが美しい。
 歌舞伎役者の肉体の魅力に「足」があると私は感じている。女形は歩き方で見せるだけだが、男は足そのものを見せる。ふくら脛の形など、普通のひととは違っていて、ちょっと浮世絵の絵のようというか、独特の柔らかさと強さが同居していておもしろいなあと思う。この足があって、あの動きをささえているという感じがするのだが、この芝居での獅童はそういう足を直接見せるシーンがないのが残念だった。これはまあ、芝居の内容がそうなのだからかもしれないが……。
 「将門」は「高野聖」で感じた獅童の声の若さは、「将門」では生かされていない。声の若さを生かした役どころではないということかもしれないが、聞いていておもしろくない。玉三郎の声の色気に答える色気がない。聞いていて、呼吸があっていないように思える。敵味方(?)なのだから呼吸が合わなくてもいいのかもしれないが、玉三郎が本性をあらわす瞬間がすっきりしない。芝居というのは現実ではなく芝居なのだから強引でいいのかもしれないけれど、その強引さにも呼吸があると思うのだが、変な感じが残った。
 ただ、獅童と玉三郎が舞う場面は、獅童の動きが若々しく、それが玉三郎のなかの若さを引き出しているように感じられた。玉三郎が若く感じられた。けれど、この芝居、男の若さが女の若さを引き出すというのは、なんだか違う気がするなあ……。
 私は歌舞伎にうとく、玉三郎についても美しい女形ということしか知らなかったので、「将門」では、あ、こんなことも(女も)演じるのかと驚いた。立ち回りにスピード感が足りない感じがしたけれど、これはこんな芝居なのかもしれない。玉三郎が動くというより、まわりが懸命に動いて見せることで成り立っている。最後の家が崩れるスペクタクルも、あ、装置まで動いて玉三郎の動きを補っている、と感じてしまった。

 最後にカーテンコール(?)があって、それがおもしろかったが、そこでも玉三郎と獅童の呼吸があっていないのが、なんだか今回の公演を象徴しているようでもあった。



 博多座の観客のマナーはあいかわらずひどい。幕が開いても、ひそひそ話がやまない。そのひそひそ話が反響して「うわーん」という不気味な音になって広がる。オペラグラスで舞台を見るのはいいのだが、一回一回マジックテープつきのケースに入れたり出したりするのにはまいってしまった。注意するには遠すぎる席にいたが、オペラグラスを出し入れするたびに、びりっ、びりっという音が響いてくる。かばんのがさごそもうるさくて困った。



THE LAST SHOW 坂東玉三郎「ありがとう歌舞伎座」
篠山 紀信
小学館
コメント (2)
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