田中澄子「町角」、斎藤恵子「菊」(「どぅるかまら」9、2011年01月10日発行)
田中澄子「町角」は夜、町を歩いていて偶然猫がはねられるのな見てしまったことから書きはじめている。
一匹はすばやく逃げた 残された黒猫は からだからふわっと風をぬくような息をひとつして動かなくなった わたしは急いでいたし考えることならたくさんあった こんなことをしている場合じゃない のだけれど自転車の荷籠からタオルをだして手に巻き 横たわっている猫をずるずると道端の自販機の明かりの下まで引っ張った
「こんなことをしている場合じゃない」がとてもいい。ひとはだれでも「こんなことをしている場合じゃない」ということにぶつかる。そしておもしろいのは、田中が書いているように、「こんなこと」を実際に行動する前に「こんなことをしている場合じゃない」と思って、それから「こんなこと」をする。何をするか、まず、それが頭の中に浮かぶ。そして、「こんなことをしている場合じゃない」と思って、それでも「こんなこと」をしてしまう。「こんなこと」をしてしまってから、「こんなことをしている場合じゃない」と思うのではなく、まず、思って、それから行動し、もう一度、行動しながら「こんなことをしている場合じゃない」と思うのだ。--なんといえばいいのか、「こんなことをしている場合じゃない」ということの「こんなこと」はデジャヴのようにして、ひとの前にあらわれてくる。
もちろん、「こんなことをしている場合じゃない」と思うより先に、行動してしまって、それから「こんなことをしている場合じゃない」と思うひともいるかもしれないが、田中は違う。まず「こんなことをしている場合じゃない」と思って、思いながらも、それをしてしまう。そこに、田中の「肉体」のおもしろさ(味わい深さ)があらわれてくる。
「こんなこと」がどういうことかデジャヴとしてわかるので、ほら「自転車の荷籠からタオルをだして手に巻き」ということが起きる。そういう準備をしてから「横たわっている猫をずるずると道端の自販機の明かりの下まで引っ張った」がやってくる。ほんとうに(?)、あ、猫が大変と思ったら(たとえばそれが人間だったら)、「こんなこと」など思う間もなく、手にタオルなんかも巻かずに、ぱっと駆け寄る。
でも、田中は先に「こんなことをしている場合じゃない」と思った。思うことと行動の間に「ずれ」があり、その「ずれ」が、「思う」と「行動」の間に、「思う」以外のものをも引きこんでくる。
詩のつづき。
猫は生あたたかくてぐんにゃりと柔らかい
あちゃあ、と猫が苦手な私などは逃げ出してしまうなあ。猫の何が気持ち悪いかといって「生あたたかくてぐんにゃり柔らかい」の感触が私はだめなので、それが生きているのではなく、死んで(?)しまっても生あたたかくてぐんにゃり柔らかいのかと思うと、ちょっと動けなくなってしまうなあ。--ということは別にして、ああ、そうか、「こんなことをしている場合じゃない」という思いを先に持ってしまうと、こういう「感覚」がしっかり「肉体」の中まで入ってきて、ことばを動かしてしまうんだなあ、と妙に感心し、納得してしまうのだ。
詩はさらにつづく。
放っておくと猫は轢かれ続けるだろう うすっぺらに乾いた猫をなんども見たことがある 母はみつけると可哀想だと言って持ち帰り 杏の木の根元に葬った そんな母がオートバイに跳ねられ亡くなって三十数年になる そのときちょっと世の中が嫌になった こんなことにいきあたるなんて 猫は気絶しているだけかも知れない タオルをかけて置き去りにする
うーん。母が事故死した記憶が「こんなこと」をさせたともいえる。「こんなこと」は「いま」でも「未来」ではなく、「過去」からふいにやってきて、田中の「いま」を突き破って、「未来」へと彼女の「肉体」を動かしたのである。その「過去」に、「いま」がひっかきまわされ、そこで「感情」がばらばらになる。思うように動いてくれない。好き勝手な方向に(?)、動いていく。
この瞬間的な、感情の解体(?)というのか、感情の統一感のないありようを、田中は、まさに「いま」として書いてる。
おもしろいなあ、と書いてしまうと、ちょっと田中に怒られるかもしれないが、この正直さはすごい。正直だから、引きこまれてしまう。
詩はさらにつづき、正直は、よりいっそう正直になっていく。
つぎの朝早く行ってみる 猫が無い跡形もない いつもあたりを掃除しているお婆さんをびっくりさせてはいけいなと 早起きしてきたのだがもうびっくりして済んでしまったのか お婆さんはくしゃくしゃとほほえんでいる ええ天気になりますらあ ほんとうに わたしもほほえみかえす こんなことしている場合じゃないのだから 消えてくれて好都合なのだからわたしはほっとして家に戻る 自販機のあの明かり あの猫たちあの車 指先が覚えている あの感触
いいなあ、「お婆さんをびっくりさせてはいけないと」か。これは、正直があってはじめて生まれる思いだね。そして、その正直があるからこそ、気になる。「こんなことをしている場合じゃない」と思いながらした何かが、田中ではない「お婆さん」(か、あるいは、別のだれか)によって引き継がれて、世界が変わってしまっている。
「こんなことをしている場合じゃない」と思いながら、ひとは何かをして、それによって、世界が動いている。その動きの背後に、田中は、だれかほかのひとの正直を実感する。「消えてくれて好都合」などと、わざと冷たいことばを動かして、自分の正直を、正直さの不足を批判したりしながら。
でもね、ことばでそうしたって、「肉体」はことばよりさらに正直だから、覚えているのだ。「指先が覚えている あの感触」。そして、その「感触」のなかで、田中は、母に会う。お婆さんに会う。
こんなことをしている場合じゃない
のかもしれないが、ひとはいつでも、そうやってほんとうの「他者」、自分とつながるいのちに出会う。
このあと、詩は1行の空白を挟み、「肉体」が出会ってしまっている「お婆さん」に会いに行く。偶然出会うのではなく、きちんと会いに行く。つまり、「ええ天気になりますらあ」「ほうとうに」というような型通りの挨拶ではなく、正直をさらしに会いに行く。そこに、もうひとつドラマがあるのだが、これはこれから「町角」を読むひとのために残しておこう。
*
斎藤恵子「菊」はことばの力で「菊」の内部に入り込み、「菊」を「菊」ではないものにする。田中の正直が他者に出会うための正直なら、斎藤の正直は自分に出会い、「もの」を自分にしてしまう。自分の中にある「他者」を「もの」として、そこに出現させてしまう。
ひるまの菊は清いかおり
くらいよる菊はのびる
たがいちがいの葉っぱは
むすうのちいさなてになり
つめたい夜風にぞわぞわうごく
やみの生臭みをすいとる
茎はしんの水けをなくし
きん力をたかめつよく堅くなる
ほそく累累とある
とがった刃の花びらはゆれない
よるの障子のむこうの
菊のかげ
ひとを食べようとしているすがたになる
ひらがなと漢字のバランスもおもしろい。ひらかなは形にならない「もの」、これから生まれてくる不定型の「もの」、漢字は存在してしまっている「もの」として絡まりあい、動いている。
夕区 | |
斎藤 恵子 | |
思潮社 |