詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中澄子「町角」、斎藤恵子「菊」

2011-02-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)

田中澄子「町角」、斎藤恵子「菊」(「どぅるかまら」9、2011年01月10日発行)

 田中澄子「町角」は夜、町を歩いていて偶然猫がはねられるのな見てしまったことから書きはじめている。

一匹はすばやく逃げた 残された黒猫は からだからふわっと風をぬくような息をひとつして動かなくなった わたしは急いでいたし考えることならたくさんあった こんなことをしている場合じゃない のだけれど自転車の荷籠からタオルをだして手に巻き 横たわっている猫をずるずると道端の自販機の明かりの下まで引っ張った

 「こんなことをしている場合じゃない」がとてもいい。ひとはだれでも「こんなことをしている場合じゃない」ということにぶつかる。そしておもしろいのは、田中が書いているように、「こんなこと」を実際に行動する前に「こんなことをしている場合じゃない」と思って、それから「こんなこと」をする。何をするか、まず、それが頭の中に浮かぶ。そして、「こんなことをしている場合じゃない」と思って、それでも「こんなこと」をしてしまう。「こんなこと」をしてしまってから、「こんなことをしている場合じゃない」と思うのではなく、まず、思って、それから行動し、もう一度、行動しながら「こんなことをしている場合じゃない」と思うのだ。--なんといえばいいのか、「こんなことをしている場合じゃない」ということの「こんなこと」はデジャヴのようにして、ひとの前にあらわれてくる。
 もちろん、「こんなことをしている場合じゃない」と思うより先に、行動してしまって、それから「こんなことをしている場合じゃない」と思うひともいるかもしれないが、田中は違う。まず「こんなことをしている場合じゃない」と思って、思いながらも、それをしてしまう。そこに、田中の「肉体」のおもしろさ(味わい深さ)があらわれてくる。
 「こんなこと」がどういうことかデジャヴとしてわかるので、ほら「自転車の荷籠からタオルをだして手に巻き」ということが起きる。そういう準備をしてから「横たわっている猫をずるずると道端の自販機の明かりの下まで引っ張った」がやってくる。ほんとうに(?)、あ、猫が大変と思ったら(たとえばそれが人間だったら)、「こんなこと」など思う間もなく、手にタオルなんかも巻かずに、ぱっと駆け寄る。
 でも、田中は先に「こんなことをしている場合じゃない」と思った。思うことと行動の間に「ずれ」があり、その「ずれ」が、「思う」と「行動」の間に、「思う」以外のものをも引きこんでくる。
 詩のつづき。

猫は生あたたかくてぐんにゃりと柔らかい

 あちゃあ、と猫が苦手な私などは逃げ出してしまうなあ。猫の何が気持ち悪いかといって「生あたたかくてぐんにゃり柔らかい」の感触が私はだめなので、それが生きているのではなく、死んで(?)しまっても生あたたかくてぐんにゃり柔らかいのかと思うと、ちょっと動けなくなってしまうなあ。--ということは別にして、ああ、そうか、「こんなことをしている場合じゃない」という思いを先に持ってしまうと、こういう「感覚」がしっかり「肉体」の中まで入ってきて、ことばを動かしてしまうんだなあ、と妙に感心し、納得してしまうのだ。
 詩はさらにつづく。

放っておくと猫は轢かれ続けるだろう うすっぺらに乾いた猫をなんども見たことがある 母はみつけると可哀想だと言って持ち帰り 杏の木の根元に葬った そんな母がオートバイに跳ねられ亡くなって三十数年になる そのときちょっと世の中が嫌になった こんなことにいきあたるなんて 猫は気絶しているだけかも知れない タオルをかけて置き去りにする

 うーん。母が事故死した記憶が「こんなこと」をさせたともいえる。「こんなこと」は「いま」でも「未来」ではなく、「過去」からふいにやってきて、田中の「いま」を突き破って、「未来」へと彼女の「肉体」を動かしたのである。その「過去」に、「いま」がひっかきまわされ、そこで「感情」がばらばらになる。思うように動いてくれない。好き勝手な方向に(?)、動いていく。
 この瞬間的な、感情の解体(?)というのか、感情の統一感のないありようを、田中は、まさに「いま」として書いてる。
 おもしろいなあ、と書いてしまうと、ちょっと田中に怒られるかもしれないが、この正直さはすごい。正直だから、引きこまれてしまう。
 詩はさらにつづき、正直は、よりいっそう正直になっていく。

つぎの朝早く行ってみる 猫が無い跡形もない いつもあたりを掃除しているお婆さんをびっくりさせてはいけいなと 早起きしてきたのだがもうびっくりして済んでしまったのか お婆さんはくしゃくしゃとほほえんでいる ええ天気になりますらあ ほんとうに わたしもほほえみかえす こんなことしている場合じゃないのだから 消えてくれて好都合なのだからわたしはほっとして家に戻る 自販機のあの明かり あの猫たちあの車 指先が覚えている あの感触

 いいなあ、「お婆さんをびっくりさせてはいけないと」か。これは、正直があってはじめて生まれる思いだね。そして、その正直があるからこそ、気になる。「こんなことをしている場合じゃない」と思いながらした何かが、田中ではない「お婆さん」(か、あるいは、別のだれか)によって引き継がれて、世界が変わってしまっている。
 「こんなことをしている場合じゃない」と思いながら、ひとは何かをして、それによって、世界が動いている。その動きの背後に、田中は、だれかほかのひとの正直を実感する。「消えてくれて好都合」などと、わざと冷たいことばを動かして、自分の正直を、正直さの不足を批判したりしながら。
 でもね、ことばでそうしたって、「肉体」はことばよりさらに正直だから、覚えているのだ。「指先が覚えている あの感触」。そして、その「感触」のなかで、田中は、母に会う。お婆さんに会う。

こんなことをしている場合じゃない

 のかもしれないが、ひとはいつでも、そうやってほんとうの「他者」、自分とつながるいのちに出会う。
 このあと、詩は1行の空白を挟み、「肉体」が出会ってしまっている「お婆さん」に会いに行く。偶然出会うのではなく、きちんと会いに行く。つまり、「ええ天気になりますらあ」「ほうとうに」というような型通りの挨拶ではなく、正直をさらしに会いに行く。そこに、もうひとつドラマがあるのだが、これはこれから「町角」を読むひとのために残しておこう。



 斎藤恵子「菊」はことばの力で「菊」の内部に入り込み、「菊」を「菊」ではないものにする。田中の正直が他者に出会うための正直なら、斎藤の正直は自分に出会い、「もの」を自分にしてしまう。自分の中にある「他者」を「もの」として、そこに出現させてしまう。

ひるまの菊は清いかおり
くらいよる菊はのびる
たがいちがいの葉っぱは
むすうのちいさなてになり
つめたい夜風にぞわぞわうごく
やみの生臭みをすいとる
茎はしんの水けをなくし
きん力をたかめつよく堅くなる
ほそく累累とある
とがった刃の花びらはゆれない
よるの障子のむこうの
菊のかげ
ひとを食べようとしているすがたになる

 ひらがなと漢字のバランスもおもしろい。ひらかなは形にならない「もの」、これから生まれてくる不定型の「もの」、漢字は存在してしまっている「もの」として絡まりあい、動いている。



夕区
斎藤 恵子
思潮社
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ウィリアム・フリードキン監督「フレンチコネクション」(★★★★★)

2011-02-12 13:18:16 | 午前十時の映画祭
監督 ウィリアム・フリードキン 出演 ジーン・ハックマン、フェルナンド・レイ、ロイ・シャイダー

 ウィリアム・フリードキンが乗りに乗っていた時代の大傑作だねえ。きのう見た「ザ・タウン」のカーチェイスや銃撃戦はなつかしい感じがいっぱいだったが、「フレンチコネクション」は「なつかしい」ではなく、この当時の到達点だ。ストーリーはあるのだけれど、そのストーリーを超えて映像が、ただただ映像が充実していく。ストーリーを超えて存在する。その力に驚く。
 走る地下鉄を、高架下から見上げながらポパイが車で追いかけるシーン。そんなことは現実にはできないのかもしれないけれど、できないとはいわせないぎりぎりの水準のところをやっている。これはCGに頼らない映像のすごさだねえ。いまだったらCGでやってしまうから、すごいはすごいが、映像に厚みがない。この厚みというのは、アクションの定義とは矛盾するようだけれど、ゆっくり感にある。早すぎない。目がおいついていけないスピードではなく、目がしっかりおいついていけるスピードの限界で動く。これがいいんだろうなあ。
 しかし、昔のスタントマンは大変だっただろうなあ。カメラも必死だっただろうなあ。いのちをかけた真剣さが映像に緊張感をもたらすのだと実感できる。
 地下鉄の中での銃撃戦やパニックも、驚くほど地味なのだが、その地味さ加減が現実感になる。客はパニックを起こして逃げるが、いまの映画のようにものすごいスピードでは逃げない。ぶつかりながら、もたもたと逃げる。そこにリアリティーが生まれる。
 車をつかわないシーンでもそれは同じ。ポパイが走る、走る、走る。それはまあ、映画だから全力で走っているシーンをつないでいるのだけれど、その走りが「苦しい」ところがいいなあ。ジーン・ハックマン自体がスマートではないのだけれど、どこかにもたもた感が残る。そうすると、そのもたもた感から、肉体の親密感のようなものが広がってくる。いつも、そこに肉体がある、という感じが映画なのだ。いまの映画も肉体を伝えるけれど、それは鍛え上げられすぎていて、ついていけない。まねできない。まねできる、これをやってみたい、そう感じさせないとおもしろくないねえ。親密感がわかないねえ。
 もうひとつ。車を解体してヘロインを探し出すシーンも大好きだなあ。どこまでもどこまでも解体していく--というのはコッポラの「カンバセーション」(なぜか、主演はジーン・ハックマンだね。共通しているね)にもあるけれど、おもしろいねえ。車がスクリーンの中で拡大されて、解体される。そうすると、車の「肉体」のようなものが見えてくる。手触りが濃密になる。こんなに解体して、どうやってもとに戻すんだ--とびっくりしてしまうが、もちろん手品みたいにもとに戻るのもいいねえ。
 つくづく思うのは、この時代の役者は、みんな「肉体」で動いていた。肉体を動かして演技していた。いまも肉体を動かしている、というかもしれないけれど、いまは、肉体の動きをカメラで加速している。それが余分だねえ。
 あくまでカメラは役者の肉体を追いかける。カメラが役者の肉体を後押ししたり、引っ張ったりすると、スピードは出るが、肉体の「濃さ」「重さ」がなくなる。そのカメラも、昔の映画は重たかったねえ。動きがもったりしている。これが尾行のシーンなんかには効果的だなあ。いまの映画は尾行するとき(群集のなかを動くとき)も安定しているが、昔はもたもた。このもたもたのなかに、時間のおもしろさがある。時間をかける、時間がかかる。時間は「間」だね。そこに間があるから、観客は想像力を投げ込むことができる。いまの映画は「間」がないのだ。

 映画はまたジーン・ハックマンのすけべそうな魅力も伝えている。若い女をみるときの目付きが、何か甘ったれたところがある。それがおもしろい。甘ったれたところがあるというのは、まあ、脇が甘いということかもしれない。それが女に手錠かけられて動けないというセックスシーンにつながったりする。そしてまた、役どころの、「勘が鋭い」というところにもつながる。甘い部分があるというのは、一種の弱みだけれど、その弱い部分を補うようにして勘というものが発達する--というのは、私の思い込みだけれど。
 フェルナンド・レイにも色気があるなあ。地下鉄でジーン・ハックマンの尾行を巻くシーン。声に出すわけではないが、ドア越しに「アデュー」と目でつげる。手でつげる。この手の動きが、ラスト寸前のジーン・ハックマンの手の動きと呼応するところもいいなあ。
 犯罪者と刑事というのは、一種の「愛人関係」だねえ。それがあるから、おもしろいんだろうなあ。
                   (「午前10時の映画祭」青シリーズ2本目)


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