詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本徹「点滅律/アコーディオン」、小島きみ子「凍える文字」

2011-02-01 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
杉本徹「点滅律/アコーディオン」、小島きみ子「凍える文字」(「エウメニデスⅡ」39、2011年01月31日発行)

 杉本徹「点滅律/アコーディオン」は不思議な抒情ではじまる。

……老いて鉄錆びた舟の言葉で、団地の一棟は控えめに風を走らせていた。

 「老いて鉄錆びた舟の言葉」という書き出しが、私はとても好きである。それがどんなことばか書かれていない。具体的なことはわからない。だが、その「意味」をあらわさないことばのなかに、「聞きたい音」がある。「聞こえる音」ではなく、「聞きたい音」がある。あ、杉本が書いていることばの、その奥にある「音」を聞きたいと思うのだ。
 それは、「息」であり、「息」という「肉体」のなかから吹く「風」だからこそ、その団地を静かに通りすぎるのだろう。

……老いて鉄錆びた舟の言葉で、団地の一棟は控えめに風を走らせていた。後
方の銀杏の鮮烈な黄が、ある瞬間、やけに唐突に空を裂いた。地に落ちれば、
表情を消す。吸い殻と独楽とともに、きのうの手つきで、(砕けながら)単調
に掃き寄せられて……、驚くことはないのだろう、時の間合いを測ろうとする
たび、そうだった月島に向かう道はいつもここだけ、と気づく。

 途中「吸い殻と独楽とともに、」は、どうにもなじめないのだが、「驚くことは」からが、またおもしろい。冒頭の「舟の言葉」の「舟」が「月島」の「島」と呼びあい、その瞬間、「聞こえない音」が駆け抜ける。
 そして「月島」というのは私にはなじみのない土地なのだが、「舟」と「島」が呼びあい、そこに「聞こえない音」が駆け抜けるとき、あ、この土地は杉本にとってなつかしい土地なのだ、郷愁を呼び覚ます土地なのだと感じる。その郷愁のなかに、「団地」「銀杏」もなじんで行く。銀杏が「唐突に空を裂いた」のは、「いま」であると同時に、なつかしい日のことである。かつて、銀杏が散るのを見て、空を裂いた--そう感じたときのここころが、いま、ここに「唐突」という思いとともによみがえってきて、そういうなつかしさのなかを「聞こえない音」がつらぬくのだ。
 「老いて鉄錆びた舟の言葉」、その「音」も、銀杏の黄色い葉が空を裂いて舞い落ちてくるときの音、そしてそれが地面に触れる瞬間の音も、杉本は具体的には書いていない。だから、私の耳にはその音は聞こえないはずなのだけれど、聞こえる気がするのだ。そして、なつかしい気持ちになる。なつかしい抒情に触れている気持ちになる。

 一方、「吸い殻と独楽とともに」は、「見える」のだけれど「音」が聞こえない。この「聞こえる」「聞こえない」というのは私の錯覚にすぎないのだろうけれど、どうも「聞こえない」と、私は気持ちが落ち着かなくなるのだ。「吸い殻と独楽とともに」には「音」がない--私にはなぜかそんなふうに感じられるのだ。
 他のことばのなかには「聞こえない音」がある。けれど、「吸い殻と独楽とともに」には「音」がない。
 こういうことは単なる「印象」なので、詩の「批評」とは無関係なことかもしれない。「感想」にならない何かかもしれない。

 わからないけれど、いいなあ、と思う部分と、わからないけれど、いやだなあ、と思う部分がある。そういうことばが、今回の杉本の詩には混じり合っている。
 どこが好きか--そのことだけを断片的に書いていくことにする。

ふと--(その音!)、見知らぬ暮しを、建築に匿された地平線が、細い音の
ように炎えながら支えている。裏道の、光の籠る呼び鈴と、ひとつふたつ擦れ
違うとき、ごくちいさな躊躇いの(心の)静脈が騒ぐ。キョウノ音ニ眼ヲ伏セ
タ、……ソシテ、ワタシ、アス、……救ケラレタ。

ごくちいさな躊躇いの、心の、静脈が騒ぐ。

 ここに書かれている「音」は、冒頭の「老いて鉄錆びた舟の言葉」につながるものだと思う。「見知らぬ暮らし」も「暮らし」であるかぎりは、どこかで通じる。その「どこか」を結ぶ「音」というものがある。
 杉本はここでは「呼び鈴」を具体的な「もの」として書いているが、その「呼ぶ」ということのなかにある何か、そして呼ばれて答えるということの何か--そういうものが「暮らし」にはあるということだろう。呼ぶときも、答えるときも、ひとは「ごくちいさな躊躇い」を覚えるものである。

ごくちいさな躊躇いの(心の)静脈が騒ぐ。

ごくちいさな躊躇いの、心の、静脈が騒ぐ。

 同じことばが繰り返されて、(心の)が、心の、と括弧がとれた状態になる。それはもしかすると、ことばにならなかった「声」(聞こえない音)が、「声」になった、「聞こえた」ということかもしれない。
 それはただし、「心の」なかでだされる「声」であり、「心の」なかで「聞こえる音」ということになるかもしれない。
 「音」に耳をすましている内に「心」を聞いてしまうのだ。

 この作品には、なにやら「公園の手品師」(フランク永井)、「川は流れる」(仲宗根美紀?)の歌の情景のようなもの感じられるが、それもまた抒情の(郷愁の)音を感じさせる要素かもしれない。エ




 小島きみ子「凍える文字」は、次の部分がとても印象に残った。

「道」とは、「文字」であったのでしょうか。「肉体」を失っているらしい私は、
響いてくる賛美歌によって、頭部だけを感じることができます。《われらが
肉体の弱さを絶えざる勇気を持ち力づけ、光をもって五官を高め、愛を心の中
に注ぎたまえ》

 そうか、「肉体」を失うと「道」は「文字」になるのか。それは「道」を「頭部」(頭)でたどるということか。「頭」でことばをたどると、賛美歌は、なんだか怖いものに思える。それは、「声」ではなく「文字」として、眼から頭の中に入ってくるような感じだ。度の強い眼鏡で、むりやり「真実(?)」を網膜に焼き付けられているような感じだ。(あ、キリスト教を信じているみなさん、ごめんなさいね。)

ステーション・エデン
杉本 徹
思潮社


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誰も書かなかった西脇順三郎(176 )

2011-02-01 22:18:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「音」。

くちずさんで
ズックの靴をはいて出かけよう

 「くちずさんで/ズックの靴を」の音の変化がおもしろい。「く」と「ず」が交錯する。交錯することで、音がかきまぜらる。さらに「ず」「で」という濁音も繰り返されることで、音が豊かになる。
 私は、濁音を聞くと「豊かさ」を感じる。「清音」は美しいけれど、「豊か」という感じではない。音の好みは人によって違うから、濁音は濁っているから嫌いという人もいると思うけれど……。何が豊かかというと、これは説明に困るのだけれど、声を出したとき清音は体の外へ出ていくだけなのだが、濁音は体の外へ出ていくと同時に内側にも響いてくる。体の内側に音が残っている。その残っている音が「豊かさ」を感じさせるのである。
 その濁音が3行目、

いたばしのたおやめの

 の「ば」に響いてくる。
 この行は、西脇独特の「の」を持っているのだが、それ「の」という音は少し濁音の響きに似たところがある。母音「お」の響きが「あ」に比べて内にこもる印象があるからかもしれない。
 この「の」の響きだけで、それから数行が動いていく。

いたばしのたおやめの
裾の
雲の黄金の
みどりの寺の瓦
いくとせの風の
しがらみの
行く春の壺の
暮れ行く
また
かすみはたなびく

 「みどりの寺の瓦」の「瓦」は何と読むのだろう。「かわら」だろうか。私は「いらか」と読んでみたい。「い」らか、だと、「い」くとせ、「い」くはる、と頭韻(?)のようにして音がつながる。もちろん「か」わらでも、「か」ぜの、し「が」らみたそ「が」れ、「か」すみと響きあう。「か」の方が「く」ちずさんで、ずっ「く」、「く」つ、で「か」けよう、「く」れと「か行」全体と響きあうかもしれない。--それでも私は「いらか」は読む楽しさを捨てきれない。「みどり」「いくとせ」「しがらみ」「いくはる」「くれいく」ということばの中にある母音「い」と「い」らかが気持ちよく響くからだ。「いたばし」にも「い」があるし……。
 こういうことは「意味」から詩を読んでいくときは無視されることなのだが、この意味から無視される部分に私はどうも反応してしまう。それはたぶん「裾の」からつづく「の」の連続による行を読むとき、私が「意味」を考えないということと関係があると思う。
 ことばを読むとき、私は、ときどき「意味」をまったく考えない。
 「裾の」からはじまる行に、私は「意味」を読みとっていないのだ。この詩のはじまりに「意味」を感じていないのだ。
 ズックの靴を履いて、歩いている。そのとき見たものを「意味」を考えず、ただ「音」だけを頼りに並べている。私は、そう思って読んでいる。
 ところどころ、ことばがイメージを結晶させる。それは、まあ、ぶらぶら道を歩いているとき、ふと目にするものにすぎない。ここに書かれているのは「意味」ではなく、歩行のリズムだと思う。だから「音」が気になるのである。

 前半では次の部分が好きだ。

戸田のまがりすみだのあさせ
白い煙突の影がゆらぐ
この土手のくさむらに聞く
スズメノエンドウや
すいばに水精の
くちべにが残る
すみれはない
女の子に撲滅された

 「この土手のくさむらに聞く」の「聞く」がおかしい。普通は「見る」だろう。「見る」と「聞く」を、西脇は厳密に区別していないのかもしれない。「見る」も「聞く」も「肉体」のなかに入ってしまえば同じである。情報を集めることを「聞く」というのは、そんなに変な飛躍でもない。
 まあ、この行の「聞く」はそういうややこしいことよりも、次の行の「スズメノエンドウ」の「スズメ」と強く関係しているのだろうけれど。つまり、「スズメ」の鳴く声を「聞く」ということと関係しているのだろう。西脇は頻繁にことばの行から行への「わたり」を行うが、ここでもそういう「わたり」(越境)が行われていると言える。
 深いところで「耳」が動いているひとつの「証拠」になるだろう。



西脇順三郎の絵画
西脇 順三郎
恒文社

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ナボコフ『賜物』(38)

2011-02-01 20:48:51 | ナボコフ・賜物
 フョードル・コンスタンチノヴィチが、やっと部屋に辿り着いたあとの描写。

自分の部屋で彼はやっとのことで電灯を探り当てた。机の上では鍵束が輝き、本の姿が白く浮かび上がった。
                                 (88ページ)
</blockquote>
 探していた鍵が「輝く」、その一方、彼の希望に満ちた詩集(本)が「白く」見える。この「白」は輝きには満ちてはいない。力をなくした色としての「白」である。「蒼白」と書いてしまうとまた「意味」が強くなりすぎてセンチメンタルになる。
 センチメンタルとは感情それ自身の動きではなく、理性、「意味」が感性に働きかけて、その働きかけによって傷ついた感情のことである。「意味」を含まないセンチメンタルはない。
 ナボコフは、ここではセンチメンタルを注意深く避けている。
 「蒼白(青白い)」と、そこにセンチメンタルな「意味」をこめるかわりに、「本の姿」と、「本」を少し複雑にしている。「本」が白く浮かび上がるのではなく、「本の姿」が白く浮かび上がる。
 「姿」のひとことで、その本がありふれた「本」ではなくなる。「本」の形など、どの本もたいして違わない。けれども、自分に大切な本だけは違う。同じ大きさをしていても「姿」が違う。
 ナボコフの小説は修飾語も巧みだが、修飾語(形容詞など)を避けた部分、具体的に「もの」の取り上げ方、「もの」に名詞をつけるやり方に、深く「肉体」を潜り抜けてきた視線を感じる。



引き裂かれた祝祭―バフチン・ナボコフ・ロシア文化
貝澤 哉
論創社

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