池谷敦子『声のかたち』(美研インターナショナル、2011年03月01日発行)
池谷敦子『声のかたち』は、詩集のタイトルがそうなっているからとそういうわけでもないのだが、はっきりと「声のかたち」をもっている。静かで美しい。「現代詩」のイメージからは遠い。たとえば、「あきつしま」。
月にみちびかれ
海は
ひたひたと川をのぼる
葦のざわめく岸を洗い
ひそやかに うねなりがら
陸と
愛を交わす
あかつきの闇深く
月が
みずいろの息をひくとき
霊たちは
群れ飛ぶ蜻蛉(あきつ)の羽のように
光るしずくをきらめかせて
空へ 空へと 立ちのぼる
あきつしま
海のまほろば わが島
生まれいで 過ぎゆくもの
交わし合う息遣い
みどり深き島の水辺よ
1連目のイメージが美しい。そして2連目。「葦のざわめく」という濁音のあと、「岸を洗い」の「洗う」という動詞が音のざわめき(濁音)を洗うように動き、「ひそやか」「うねる」ということばが光る。わずかに残った「ながら」の濁音が、まるでそのあとの愛の睦言のように聞こえる。
3連目の月が沈む様子を月の死ととらえ「みずいろの息をひくとき」ということばにするときの、その「みずいろ」という音の選択に、私は私のからだが震えるのを感じる。
そして、同時に、「困る、詩がこんなふうでは困る」とも思う。何が「困る」のかといわれると説明がしにくいか、こんなふうに美しいばかりでは困るとしかいいようがない。しかし、問題は、それよりもそういう困った詩に、なぜかひかれてしまう私がここにいる、ということである。
なぜ、私は「困る」と感じながらも、池谷の詩を読み進んでいるのだろうか。
「湖北」という作品は、いま引用した「あきつしま」のすぐあとに収録されている詩だが、それを読んだとき、ひとつ気がついたことがある。そのことを書いておく。
湖の襞の奥に ひっそりと村があった
草の穂が茫々と靡く村のとば口に
よそびとを 拒むかのように
白く晒された木の鳥居があり
しめ縄を張られた古井戸があり
左手山際には寂びた神社があった
風が止むと 息をひそめるものの気配がした
……これは 隠れ里といわれるものであろうか
身のうちを滲み出てくる水に導かれ
私は結界を越えてしまったのかも知れぬ
人の気配はなかった
しかしまもなく道は尽きた
その先は湖の中へ降りていくしかなかった
1連目の材料がそろいすぎた村の描写は「物語」になりすぎている。ぜんぜんおもしろくない。けれど2連目1行目「身のうちを滲み出てくる水に導かれ」に私は、びっくりしたのである。目がさめた。瞬間的に、あ、池谷がここにいる、感じた。池谷の「声」がここにある、と感じたのだ。特に「導かれ」ということばに、池谷の「思想」があると思う。
池谷は自分で声を「発する」のではなく、何かに「導かれて」口を開き、息をはきだす。そのとき「声」が出るのである。その「声」の肉体はたしかに池谷のものだが、その「かたち」は池谷の肉体が独自でつくりあげたものではなく、池谷の息を誘うもの、誘い出すものがあって、はじめて「かたち」になったのである。
そこには池谷の意図を(あるいは意識を)超えたものがある。その「導き」に素直に従うとき、そこに「かたち」が生まれるのだ。「かたち」があらわれるのだ。
池谷の肉体のうちにあるものは「身のうちを滲み出てくる」。滲み出てきて、それが「導く」というのと、自ら「声」を出すというのとどこが違うのか--ということは厳密にはいうことができない。詩は、だいたい「哲学書(思想書)」のように厳密な論理ではできていないから、なおのこと、どこが違うかということは正確には言えない。言えるのは、そういう「声」の生まれかたに対して、池谷が「導かれ」ということばをつかっている、ということである。そして、そんなふうにつかわれた独特なもの、独自のことば、そのなかに池谷の「思想」があるということである。
「導かれ」は「あきつしま」では「みちびかれ」と書かれていたが、あらゆるものは何かに「導かれ」動いている。これが池谷の「思想」なのだ。「導かれ」、それに逆らうことがあるかもしれない。けれども、そうだとしてもその動きのはじめは「導き」なのである。
「導く」ということばは形をかえてあらわれるときもある。省略されて書かれているときもある。
水の揺れが 水を映す光の波紋が
私を呼び止める (「立ち尽くす脚」)
この「呼び止める」は「導く」と同じ「意味」をもっている。
低音で しみいるように通い合っている
ここから出ていこうとしているのか それとも
やってこようとしているのか
未生の蝉よ (「声、蝉の」)
「出ていこうとしているのか」「やってこようとしているか」。それらは対立する動きだ。そしてそれが対立するものでありながら同等に扱われているのは、それが「未生」だからである。まだ存在しないからである。そして、それが存在したとき、生まれたとき、それは池谷を導くために生まれるのである。
だからこそ、池谷は、その未生のものに向かって「未生の蝉よ」と呼び掛けるのである。存在しないものにさえ向かって呼び掛けるのである。私を正しく導いておくれ、と。ここには「導く」が省略されたかたちで書かれている。
省略してしまうのは--これは何度も書いてきたことだが、そのことばが作者の「肉体」そのもの、「思想」そのものになっているからである。
ひとは、何かに(身のうちから滲み出てきたものにさえ)、導かれ、動く。そして、「私」を導いてくれたものと、ある地点で出会い、「愛を交わす」。その愛のために、「声」を水のような形のないも、流動するものにしておく--というのが池谷の生きかたかもしれない。
*
「導く」(導かれる)につながるおもしろいエッセイ(?)を池谷は書いている。「虫の出口」。
国語の時間、「リア王」を読んだ。
いつもなら適当な所で番が変わるのだが、そのまま最後まで読んだ。教室はしーんとしている。読み終えて座ると、先生が眼鏡を外しハンカチで目頭を押さえていた。先生はしばらく黙ったままであった。
「リア王」のことば、シェークスピアのことばが、池谷を導いたのである。池谷は「自分のことば」を「声」にしたのではなく、導かれるままに「声」にかたちをあたえた。そのとき、そこに池谷を超える池谷があらわれた。池谷はしらずに池谷自身を超越してしまったのである。
池谷のことば、たとえば「あきつしま」の作品のことばはとても古い。美しすぎて、現代からみると「嘘」である。それでも池谷はそのことばをつかう。それは池谷が自分から選んでいるのではないのだ。そのことばをつかいなさい、と導く声があって、池谷はそれに従っているのだ。
導かれ-従うという動きの中に「しずかさ」のすべてがある。導かれ-従うという動きのなかで形が美しくととのえられる。--こういうことは誰にでもあるということではないし、そうしたからといって誰もが美しくなるとはかぎらない。けれど、池谷の場合、そんなふうにしてことばと出会い、愛をかわすとき、そこに詩が美しく結晶する、誕生するのだ。
声のかたち | |
池谷 敦子 | |
星雲社 |