詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

武田肇『ダス・ゲハイムニス』

2011-02-03 23:59:59 | 詩集
武田肇『ダス・ゲハイムニス』(銅林社、2011年01月10日発行)

 武田肇『ダス・ゲハイムニス』は句集である。印象に残った句を順に書き上げていく。引用する際、「正字(旧字)」の漢字は常用漢字ふうに直した。をどり文字も普通の文字に直した。(私のワープロで正字漢字、をどり文字を表記できないので。)

枝豆や美女の心中量りかね

 「心中」がなかなかおもしろい。きっとその上の「美女」がきいているのだ。というか、「びじょ」だから「しんちゅう」という音になる。「こころ」とか「おもい」とか、あれこれの「和語」では「美女(びじょ)」にはつりあわない。
 「枝豆や」と切れて、最後に「量りかね」と、また「和語」になる。それもおもしろい。
 「ビール」ではなく「枝豆」とひと呼吸おいたところが、いかにも「俳句」という感じがする。--これは、私の「俳句観」というにはおおげさだが、まあ、そんなふうに感じている。
 最初に「いいなあ」と思ったせいか、この句が、この句集のなかではいちばん好きである。

身の秋やじつと湯呑の尻を見る

 「見る」か。「見る」よりも、音の数さえそろえられるなら「なでる」「ふれる」がおもしろいかなあ、とも思うが、それでは「冬」っぽいのかな? 秋になって、さわやかになったを目--だから湯呑みの「糸きり」を「見る」か……。

秋の日が巣籠もる美女の盆の窪

 「盆の窪」と美女を結びつける視線が「いろっぽい」のが「あだっぽい」のか、あるいは「わざとらしい」のか、ちょっと判断に困る。「美女」という音との組み合わせが、私にはここちよく響かない。「心中」のときは、とてもぴったり感じたのに、ここでは「美女」が「漢字」にしか見えない。「おんな」に見えない。

犬に吼えるあまたの枯木見ゆるまで

 「見ゆるまで」か。そうか、武田は、視覚の俳人なんだ。「吼える」から「見る」までの「肉体」。その動詞の変化を思うとき、「あまた」は「枯木」(風景)というよりも、「肉体」の内部のなにものに感じられてくる。この句もいいなあ。

少年に閉められてすぐ障子の香

 新しい障子だね。武田は視覚の人だと思ったが、嗅覚も鋭いようだ。ただし、この句は「少年」が「盆の窪」の「美女」のように、どうも落ち着かない。「俳句」ではなく「現代詩」(それも時代がかった詩)になってしまっている。

ちちのことははに問ひけり春の風

 なるほどね、という呼吸が「春」。ただし、「風」は違うなあ。ここは、「光」というか「色」を感じたい。

明月に壊されてゐる便所の戸

 私はなぜか「便所」が出てくる句が好きだ。

虫籠にしばらく残る視線かな

われのほかゆきどころなし桃の種

待春や二階にわれのゐるらしい

 よくわからないが、感想を書こうと思ったら、みんな「理屈っぽい」感じがしてきた。「現代詩」の癖が残っているのかな?

粉雪の少年の口に触れて燃ゆ

 この句も「少年」が世界を窮屈にしている。「現代詩」の「好み」に汚染されているという印象がする。「少年」が具体的な人間ではなく、「象徴」になっている。だから「燃ゆ」も、そのまま「暗喩」になってしまう。
 「喩」が前面に出てくると、俳句ではなく、現代詩の悪癖が見えてくる。

立話一人が気づく春の雨

 「一人」が抽象的。説明的。生身の人間、具体的な人間に取って代わるとおもしろいと思う。

皿割るる方へ耳行く夜の桜

 「方へ」というのは抽象的といえば抽象的なのだけれど、この「耳」によって「あいまいさ」に変わる。「夜」なら、なおさら「見る(目)」ではなく、「聞く(耳)」だ。「耳」によって「夜」も、ことばにはなっていない「音」も具体的になった。だから、「行く」という動詞が「肉体」そのものへ返ってくる。

秋の日やスプーンは窪みで重き

 これも現代詩。「窪みで軽き」ではなく「重き」と言う逆説の説得力。啄木の「たはむれに母を背負ひて……」のようなものだ。繊細な感覚が、繊細を通り越し、「技巧」になってしまっているかもしれない。

ちらちら雪に覗かれてゐる厠かな

 「ちらちら」がおかしい。「ちらちら」によって、雪を見ている武田と雪とがとけあってゆく。こういう融合の世界が、私は短い詩の世界では効果的だと思う。
 先に指摘した「少年」の登場する句は、「少年」によって世界が分離する。自分の(武田の)世界とは別に、少年の世界がある。それを武田が見ている--見るというのは対象から離れる、距離を置くということだ。目が対象にくっつくと焦点があわずに見えないからね。
 この句では「ちらちら」によって距離が揺れる。だから融合する。一体になる。雪と私が入れ代わり、入れ代わる瞬間に、世界が動く。

小鳥発つ地面拡り縮まりぬ

右行かば左懐かし暮の秋

 理屈っぽい。わかるけれど、その「わかる」は頭でわかる何かである。だから窮屈に感じてしまう。

行春や船岡山に行き止り

 「行く」と「行き止り」が出会うのがおもしろい。なぜ岡山かわからないけれど、岡山という中途半端な(?)港がいいなあ。岡山の人には申し訳ないが。

不図われに几の固さ秋の雨

 「不図」は、こういうつかい方をするのか。「固さ」と「秋の雨」は理につきすぎるかんじがしないでもないけれど、「不図」が「理」を突き破ってしまう。

あちら向く人ばかりなる花曇

 「少年」と違って、ここの「人」は具体的である。これはどうしてだろう。変な考えとはわかっていながら書くのだが……。「人ばかりなる」の「人」の単数形と関係があるかもしれない。「人」のなかには、あらゆる人がいる。「人々」のなかにあらゆる人がいるのではなく、「人」のなかにあさゆる人、つまり「人々」がいる。
 「現代詩」は、「人々」から「人」を独立させる運動だったかもしれない「人々」から「人」を独立させ。一方俳句は「人」を「人々」が闖入してきてもいいだけの「大きさ」に広げる。
 俳句と詩は、ことばの運動の方向性がまったく違うのである。

夕立に濡れ残りたる泉かな

ゆだちかぜこの世を見せる葉裏かな

 この2句は美しい。「濡れ残りたる」は西脇順三郎の影響かもしれない。

夜も昼もうごかぬ雲の大暑かな 

 「大暑」がとてもこうかてきだ。「うごかぬ」のなかには動くことがいやだが含まれてる。こういう動きを備えた句をもっと読みたいなあ。



 02月06日、武田から電話。「行春や船岡山に行き止り」の「船岡山」は「ふなおかやま」でるあ、とのことであった。あ、そうか。「船が岡山に」ではないのだ。思ってしまったことは思ってしまったことなので、書き直してもしようがない。そのままにしておく。(02月06日)

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルノー・デプレシャン監督「クリスマス・ストーリー」(★★★★)

2011-02-03 10:29:57 | 映画
監督アルノー・デプレシャン 出演カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャン・ポール・ロシロン、アンヌ・コンシニ、マチュー・アマルリック、メルヴィル・プポー

 映画を見ているというより生身のフランス人を直に見ている感じがする。と、いっても私は直に接したことがあるフランス人はほとんどいないのだが。
 少ない経験と映画などからうかがえるフランス人とは。
 わがままである。いいことば(?)でいえば自分の主張を明確に持っている。自分の主張を言えなければ人間ではない。しかし、自分の考えさえ言えれば、それがどんな考えであろうが、正しい。
 この映画では、とても変なシーンがある。日本人なら絶対にこんなふうにはならないというシーンがある。カトリーヌ・ドヌーヴの余命、手術した場合としない場合の余命を計算する場面だ。こういうことは日本人も隠れてなら、つまり一人でならこっそりするだろう。この映画では、その日本人ならこっそりと隠れて、それもたぶん後ろめたい気持ちですることを、「家族会議」でやるのだ。カトリーヌ・ドヌーヴももちろん同席している。
 黒板には夫が書いた計算、想定式がいっぱいに広がっている。それを見ながら、親類(?)が間違っていると指摘する。夫は間違いを指摘された部分をノートに取っている。そして、最後に「答え」を出す瞬間がくると「私に答えさせてくれ」と言って、「答え」を書き込む。それをカトリーヌ・ドヌーヴは平然と見つめている。
 この「合理主義」には驚く。「真理」を追い求める姿勢には驚く。フランス人にとって、きちんと計算できることはあくまで計算する。そしてその「答え」がどんなものであれ、それを真実と受け止める。
 あとは、その真実とどう受け止めるかが、ひとに任せられる。真実はこれ、それをどうするかはあなた次第――それがフランス人。パスカルの国の人の姿勢だ。
 これは、この映画のストーリーの中心部においても同じ。二男は長男の白血病を救うために生まれてきた(誕生させられた)。ところが二男と長男では脊髄の型が一致しなかった。つまり二男は長男を救えなかった。――だから、次男が嫌い。変な論理だが、一応論理は通る。その論理にカトリーヌ・ドヌーヴと娘はしたがって行動する。二男を憎む。
 すごいなあ。「論理」が「感情」を支配する。
 日本人は逆だよね。「感情」が「論理」を支配する。
 一見、逆に見えるシーンもある。三男(四男?)の妻に「あなたを愛していたのは四男(三男?)男だ」と告げる。女は男に「なぜ、私と結婚しなかったのか」と迫る。三男は「四男が気が弱かったので譲った」というようなことをいう。それに対して女は怒り、で、何をするかといえば、その昔果たせなかった恋愛を成就させる。セックスする。それを四男に目撃もされるのだが、全然気にしない。恋愛の「論理」、「愛している」という感情の「論理」を完結させただけなのだ。
 これを「感情」に流された衝動的行動ととるのは、たぶん日本人の論理。フランス人は、特にフランス女性は「感情の論理を完結させた」というだろうなあ。「感情」にも「感情」の論理があるのだ。
 二男を憎み続ける母と姉の、その憎しみも「感情の論理」なのだ。
 うーん、どうやって解決する?
 なんと・・・。
 「肉体の論理」(遺伝子の論理)を適合させる。カトリーヌ・ドヌーヴの白血病を二男の骨髄移植で救う。「感情」の不適合を「肉体」の適合が解決する。ここでも動いているのは「論理」なんだなあ。

 ということは、まあ、あまり映画の完成度とは関係ないね。ストーリーの「論理」にすぎないよね。

 見どころは、役者の質感、生活空間の質感。リアルだねえ。見あきないねえ。役者がともかくうまい。映像が非常にしっかりしている。それぞれが登場人物のように自己主張して、平然と存在している。いいなあ。人間を見た――という気持ちがずしんと残る。

アルノー・デプレシャン DVD-BOX
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする