武田肇『ダス・ゲハイムニス』(銅林社、2011年01月10日発行)
武田肇『ダス・ゲハイムニス』は句集である。印象に残った句を順に書き上げていく。引用する際、「正字(旧字)」の漢字は常用漢字ふうに直した。をどり文字も普通の文字に直した。(私のワープロで正字漢字、をどり文字を表記できないので。)
「心中」がなかなかおもしろい。きっとその上の「美女」がきいているのだ。というか、「びじょ」だから「しんちゅう」という音になる。「こころ」とか「おもい」とか、あれこれの「和語」では「美女(びじょ)」にはつりあわない。
「枝豆や」と切れて、最後に「量りかね」と、また「和語」になる。それもおもしろい。
「ビール」ではなく「枝豆」とひと呼吸おいたところが、いかにも「俳句」という感じがする。--これは、私の「俳句観」というにはおおげさだが、まあ、そんなふうに感じている。
最初に「いいなあ」と思ったせいか、この句が、この句集のなかではいちばん好きである。
「見る」か。「見る」よりも、音の数さえそろえられるなら「なでる」「ふれる」がおもしろいかなあ、とも思うが、それでは「冬」っぽいのかな? 秋になって、さわやかになったを目--だから湯呑みの「糸きり」を「見る」か……。
「盆の窪」と美女を結びつける視線が「いろっぽい」のが「あだっぽい」のか、あるいは「わざとらしい」のか、ちょっと判断に困る。「美女」という音との組み合わせが、私にはここちよく響かない。「心中」のときは、とてもぴったり感じたのに、ここでは「美女」が「漢字」にしか見えない。「おんな」に見えない。
「見ゆるまで」か。そうか、武田は、視覚の俳人なんだ。「吼える」から「見る」までの「肉体」。その動詞の変化を思うとき、「あまた」は「枯木」(風景)というよりも、「肉体」の内部のなにものに感じられてくる。この句もいいなあ。
新しい障子だね。武田は視覚の人だと思ったが、嗅覚も鋭いようだ。ただし、この句は「少年」が「盆の窪」の「美女」のように、どうも落ち着かない。「俳句」ではなく「現代詩」(それも時代がかった詩)になってしまっている。
なるほどね、という呼吸が「春」。ただし、「風」は違うなあ。ここは、「光」というか「色」を感じたい。
私はなぜか「便所」が出てくる句が好きだ。
よくわからないが、感想を書こうと思ったら、みんな「理屈っぽい」感じがしてきた。「現代詩」の癖が残っているのかな?
この句も「少年」が世界を窮屈にしている。「現代詩」の「好み」に汚染されているという印象がする。「少年」が具体的な人間ではなく、「象徴」になっている。だから「燃ゆ」も、そのまま「暗喩」になってしまう。
「喩」が前面に出てくると、俳句ではなく、現代詩の悪癖が見えてくる。
「一人」が抽象的。説明的。生身の人間、具体的な人間に取って代わるとおもしろいと思う。
「方へ」というのは抽象的といえば抽象的なのだけれど、この「耳」によって「あいまいさ」に変わる。「夜」なら、なおさら「見る(目)」ではなく、「聞く(耳)」だ。「耳」によって「夜」も、ことばにはなっていない「音」も具体的になった。だから、「行く」という動詞が「肉体」そのものへ返ってくる。
これも現代詩。「窪みで軽き」ではなく「重き」と言う逆説の説得力。啄木の「たはむれに母を背負ひて……」のようなものだ。繊細な感覚が、繊細を通り越し、「技巧」になってしまっているかもしれない。
「ちらちら」がおかしい。「ちらちら」によって、雪を見ている武田と雪とがとけあってゆく。こういう融合の世界が、私は短い詩の世界では効果的だと思う。
先に指摘した「少年」の登場する句は、「少年」によって世界が分離する。自分の(武田の)世界とは別に、少年の世界がある。それを武田が見ている--見るというのは対象から離れる、距離を置くということだ。目が対象にくっつくと焦点があわずに見えないからね。
この句では「ちらちら」によって距離が揺れる。だから融合する。一体になる。雪と私が入れ代わり、入れ代わる瞬間に、世界が動く。
理屈っぽい。わかるけれど、その「わかる」は頭でわかる何かである。だから窮屈に感じてしまう。
「行く」と「行き止り」が出会うのがおもしろい。なぜ岡山かわからないけれど、岡山という中途半端な(?)港がいいなあ。岡山の人には申し訳ないが。
「不図」は、こういうつかい方をするのか。「固さ」と「秋の雨」は理につきすぎるかんじがしないでもないけれど、「不図」が「理」を突き破ってしまう。
「少年」と違って、ここの「人」は具体的である。これはどうしてだろう。変な考えとはわかっていながら書くのだが……。「人ばかりなる」の「人」の単数形と関係があるかもしれない。「人」のなかには、あらゆる人がいる。「人々」のなかにあらゆる人がいるのではなく、「人」のなかにあさゆる人、つまり「人々」がいる。
「現代詩」は、「人々」から「人」を独立させる運動だったかもしれない「人々」から「人」を独立させ。一方俳句は「人」を「人々」が闖入してきてもいいだけの「大きさ」に広げる。
俳句と詩は、ことばの運動の方向性がまったく違うのである。
この2句は美しい。「濡れ残りたる」は西脇順三郎の影響かもしれない。
「大暑」がとてもこうかてきだ。「うごかぬ」のなかには動くことがいやだが含まれてる。こういう動きを備えた句をもっと読みたいなあ。
*
02月06日、武田から電話。「行春や船岡山に行き止り」の「船岡山」は「ふなおかやま」でるあ、とのことであった。あ、そうか。「船が岡山に」ではないのだ。思ってしまったことは思ってしまったことなので、書き直してもしようがない。そのままにしておく。(02月06日)
武田肇『ダス・ゲハイムニス』は句集である。印象に残った句を順に書き上げていく。引用する際、「正字(旧字)」の漢字は常用漢字ふうに直した。をどり文字も普通の文字に直した。(私のワープロで正字漢字、をどり文字を表記できないので。)
枝豆や美女の心中量りかね
「心中」がなかなかおもしろい。きっとその上の「美女」がきいているのだ。というか、「びじょ」だから「しんちゅう」という音になる。「こころ」とか「おもい」とか、あれこれの「和語」では「美女(びじょ)」にはつりあわない。
「枝豆や」と切れて、最後に「量りかね」と、また「和語」になる。それもおもしろい。
「ビール」ではなく「枝豆」とひと呼吸おいたところが、いかにも「俳句」という感じがする。--これは、私の「俳句観」というにはおおげさだが、まあ、そんなふうに感じている。
最初に「いいなあ」と思ったせいか、この句が、この句集のなかではいちばん好きである。
身の秋やじつと湯呑の尻を見る
「見る」か。「見る」よりも、音の数さえそろえられるなら「なでる」「ふれる」がおもしろいかなあ、とも思うが、それでは「冬」っぽいのかな? 秋になって、さわやかになったを目--だから湯呑みの「糸きり」を「見る」か……。
秋の日が巣籠もる美女の盆の窪
「盆の窪」と美女を結びつける視線が「いろっぽい」のが「あだっぽい」のか、あるいは「わざとらしい」のか、ちょっと判断に困る。「美女」という音との組み合わせが、私にはここちよく響かない。「心中」のときは、とてもぴったり感じたのに、ここでは「美女」が「漢字」にしか見えない。「おんな」に見えない。
犬に吼えるあまたの枯木見ゆるまで
「見ゆるまで」か。そうか、武田は、視覚の俳人なんだ。「吼える」から「見る」までの「肉体」。その動詞の変化を思うとき、「あまた」は「枯木」(風景)というよりも、「肉体」の内部のなにものに感じられてくる。この句もいいなあ。
少年に閉められてすぐ障子の香
新しい障子だね。武田は視覚の人だと思ったが、嗅覚も鋭いようだ。ただし、この句は「少年」が「盆の窪」の「美女」のように、どうも落ち着かない。「俳句」ではなく「現代詩」(それも時代がかった詩)になってしまっている。
ちちのことははに問ひけり春の風
なるほどね、という呼吸が「春」。ただし、「風」は違うなあ。ここは、「光」というか「色」を感じたい。
明月に壊されてゐる便所の戸
私はなぜか「便所」が出てくる句が好きだ。
虫籠にしばらく残る視線かな
われのほかゆきどころなし桃の種
待春や二階にわれのゐるらしい
よくわからないが、感想を書こうと思ったら、みんな「理屈っぽい」感じがしてきた。「現代詩」の癖が残っているのかな?
粉雪の少年の口に触れて燃ゆ
この句も「少年」が世界を窮屈にしている。「現代詩」の「好み」に汚染されているという印象がする。「少年」が具体的な人間ではなく、「象徴」になっている。だから「燃ゆ」も、そのまま「暗喩」になってしまう。
「喩」が前面に出てくると、俳句ではなく、現代詩の悪癖が見えてくる。
立話一人が気づく春の雨
「一人」が抽象的。説明的。生身の人間、具体的な人間に取って代わるとおもしろいと思う。
皿割るる方へ耳行く夜の桜
「方へ」というのは抽象的といえば抽象的なのだけれど、この「耳」によって「あいまいさ」に変わる。「夜」なら、なおさら「見る(目)」ではなく、「聞く(耳)」だ。「耳」によって「夜」も、ことばにはなっていない「音」も具体的になった。だから、「行く」という動詞が「肉体」そのものへ返ってくる。
秋の日やスプーンは窪みで重き
これも現代詩。「窪みで軽き」ではなく「重き」と言う逆説の説得力。啄木の「たはむれに母を背負ひて……」のようなものだ。繊細な感覚が、繊細を通り越し、「技巧」になってしまっているかもしれない。
ちらちら雪に覗かれてゐる厠かな
「ちらちら」がおかしい。「ちらちら」によって、雪を見ている武田と雪とがとけあってゆく。こういう融合の世界が、私は短い詩の世界では効果的だと思う。
先に指摘した「少年」の登場する句は、「少年」によって世界が分離する。自分の(武田の)世界とは別に、少年の世界がある。それを武田が見ている--見るというのは対象から離れる、距離を置くということだ。目が対象にくっつくと焦点があわずに見えないからね。
この句では「ちらちら」によって距離が揺れる。だから融合する。一体になる。雪と私が入れ代わり、入れ代わる瞬間に、世界が動く。
小鳥発つ地面拡り縮まりぬ
右行かば左懐かし暮の秋
理屈っぽい。わかるけれど、その「わかる」は頭でわかる何かである。だから窮屈に感じてしまう。
行春や船岡山に行き止り
「行く」と「行き止り」が出会うのがおもしろい。なぜ岡山かわからないけれど、岡山という中途半端な(?)港がいいなあ。岡山の人には申し訳ないが。
不図われに几の固さ秋の雨
「不図」は、こういうつかい方をするのか。「固さ」と「秋の雨」は理につきすぎるかんじがしないでもないけれど、「不図」が「理」を突き破ってしまう。
あちら向く人ばかりなる花曇
「少年」と違って、ここの「人」は具体的である。これはどうしてだろう。変な考えとはわかっていながら書くのだが……。「人ばかりなる」の「人」の単数形と関係があるかもしれない。「人」のなかには、あらゆる人がいる。「人々」のなかにあらゆる人がいるのではなく、「人」のなかにあさゆる人、つまり「人々」がいる。
「現代詩」は、「人々」から「人」を独立させる運動だったかもしれない「人々」から「人」を独立させ。一方俳句は「人」を「人々」が闖入してきてもいいだけの「大きさ」に広げる。
俳句と詩は、ことばの運動の方向性がまったく違うのである。
夕立に濡れ残りたる泉かな
ゆだちかぜこの世を見せる葉裏かな
この2句は美しい。「濡れ残りたる」は西脇順三郎の影響かもしれない。
夜も昼もうごかぬ雲の大暑かな
「大暑」がとてもこうかてきだ。「うごかぬ」のなかには動くことがいやだが含まれてる。こういう動きを備えた句をもっと読みたいなあ。
*
02月06日、武田から電話。「行春や船岡山に行き止り」の「船岡山」は「ふなおかやま」でるあ、とのことであった。あ、そうか。「船が岡山に」ではないのだ。思ってしまったことは思ってしまったことなので、書き直してもしようがない。そのままにしておく。(02月06日)