詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西村賢太「苦役列車」

2011-02-20 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
西村賢太「苦役列車」(「文藝春秋」2011年03月号)

 西村賢太「苦役列車」は、書き出しに驚いてしまった。

 曩時(のうじ)北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。

 いきなり「ことば」から始まるのだ。もちろん小説(文学)だから、それが「ことば」でつくられていることは承知しているのだが、しかし、私は驚いてしまうのである。
 「曩時」って何? 私はこんなことばはつかわない。広辞苑で調べると「さきの時。むかし。以前。曩日(のうじつ)」とある。意味はわかったようで、わからない。「いま」ではなく、「むかし」ということ、なのかもしれない。つまり、ここに書かれていることは、「むかしむかし」で始まる「物語」ということなのかもしれないが……。
 うーん。
 言い換えると、ここに書かれているのは「現実」ではなく「物語」なのだ。そして、この小説は、あくまでも「物語」なのである。この小説は「私小説」、西村の体験を描いたものというふうに言われているけれど、それが西村の体験だとしても、西村はそれをあくまで「物語」として提出している。「ことば」の運動として提出しているということになる。
 よくみると、たしかにそうなのである。ここに書かれているのは「日記」のことばではない。「日記」の文体ではない。自分を語るときのことばではない。自分の行動を記すのなら、

北町貫多(私)は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立っていった。

 ということになる。けれど、西村は、そうは書かない。あくまで「北町貫多」を「私」という視点ではとらえない。「自動詞」の主語にはしないのである。「自動詞」としての行動を描くときでも、それを対象化する。つまり、つきはなす。
 北町貫多は便所へ行った、ではなく、北町貫多の一日は便所へ行くことから始まるのだ、と対象化する。
 そして、そのつきはなしによって、読者が主人公と向かい合うようにするのだ。読者が主人公になってしまうことを拒絶する。読者を主人公にはしない--という操作で、主人公を「私(西村)」に引きとどめておく。そういう形での「私小説」である。
 これは同時に芥川賞をとった朝吹真理子の小説と比べるとよりはっきりする。

 永遠子(とわこ)は夢をみる。
 貴子(きこ)は夢をみない。

 ふたりの主人公が登場し、ふたりの行動は「自動詞」として書かれる。「夢をみる」「夢をみない」。そこに書かれているのは「私」ではないが、彼女たちは「私」として行動する。このときの「私」とは、「私=朝吹」ではなく、「私=読者」である。
 ふたりの主人公を、読者は「私」として読みはじめる。それは「私」ではないけれど、小説を読むことで読者は「永遠子(私)」になり、「貴子(私)」になる。ふたりは別個の存在だが、そのどちらにもなる。ときには、同時にふたりになったりもする。
 こういう主人公と読者の「同化」を西村のことばは拒んでいる。「主人公=読者(私)」を拒絶することで、「主人公=西村(私)」という形をとる。
 「主人公=読者(私)」ではない世界では、「ことば」はけっきょく「読者(私)」のものではなく、西村のものである。そのことが、

あ、ここにあるのは、ことばだ、

 という印象を呼び起こすのである。

 しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思いきりよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りにして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上にふたたび身を倒して腹這いとなる。

 若い肉体が書かれているのだが、私には、その肉体よりも、それを描写する「ことば」ばかりが見えてしまう。勃起したペニスは見えない。勃起したペニスを描写する「ことば」が見える。
 「顔でも洗ってしまえばよいものを」ということばには、顔を洗わない主人公ではなく、顔を洗わない主人公を描写する「作者」が見える。
 どの描写をとっても同じである。そこには「主人公」はいない。「主人公」を描写する「ことば」があり、その「ことば」を書きつらねる「作者=西村」がいる。
 なるほど、そういう構造をもった作品が「私小説」なのか、と私は、考えながら納得してしまった。

 もう一か所、具体的に書いておく。日雇い労働の昼飯どき。弁当が配られ、それを食べてしまう。そのあとの描写。

 当然、これでは到底もの足りなく、むしろ底抜けな食欲の火に油を注がれたみたいな塩梅である。

 西村の小説に何度も出てくる「塩梅」。自分のことを語るときにも「塩梅」ということばはつかうかもしれないが、ここではあくまで自分ではない誰かをみて、それを描写している。「食欲の火に油を注がれた」ように感じているときは、そんな自分を「塩梅」というように悠長に描写してはいられない。狂ったように動く感覚を、飢えを語ってしまうのが「自分」のことば、「主人公=私(読者)」のことばである。はげしい飢えがことばになっているとき、読者(私)は、その飢えを私自身のものと感じ、その感じのなかで主人公と一体化する。
 「塩梅である。」という描写(ことば)では、読者(私)は主人公の飢えと一体化しない。離れたところから主人公を眺めてしまう。主人公と読者(私)のあいだに、「ことば」があって、その「ことば」を眺めてしまうのである。そして、あ、この「ことば」が西村なのだと思うのである。
 金がないから主人公は弁当だけですませるが、金のある日雇い仲間は、自動販売機のカップラーメンやワゴン車が売りにきた焼きそばなどを食べている。それを眺める主人公の描写。

 金のある者は弁当と共にそれらを添えておいしそうに食べているさまが、貫多には腹立たしく眺められて仕方がなかった。

 食べている者を眺め、腹立たしかった、ではない。また、腹立たしく眺めた、でもない。「貫多には腹立たしく眺められて仕方がなかった。」と、はげしく動く感情を突き放して描写するのである。「ことば」にしてしまうのである。
 感情を生きるのではなく、「ことば」を生きるのである。
 「私小説」とは「ことば」を生きる作家の生き方なのだ、と思った。あ、こんなふうにして西村は自分を救ってきたのだ、「ことば」を生きることで現実を超越してきたのだ、と感じた。
 これは最近ではめずらしい形の「ことば」と作家の関係であると思った。





苦役列車
西村 賢太
新潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(183 )

2011-02-20 14:53:42 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠつづき。

探すのはマラルメ的な
オブジエではないだろう
もつとつまらないオブジエだろう
淋しさを探すだろう
町で聞く人間の会話
雑草の影が映る石
魚のおもみ
トウモロコシの形や色彩や
柱のふとさ
なにも象徴しないものがいい
つまらない存在に
無限の淋しさが
反映している

 ここには西脇の夢が結晶している。シンボルにならいなもの、意味にならないもの。そこに淋しさかある。淋しさとは「意味以前」なのである。
 --と、私のことばは、どうしても動いてしまう。「意味以前」という「意味」に触れてしまう。これは、こうの行を書きつづけた西脇にも起きる。
 さきの行につづけて、西脇はすぐに書いている。

淋しさは永遠の
最後のシムボルだ
このシムボルも捨てたい
永遠を考えないことは
永遠を考えることだ
考えないことは永遠の
シムボルだ

 しかし、どうしても「矛盾」になってしまう。堂々巡りになってしまう。これは詩の宿命なのだ。
 詩はことば以前を書く。意味以前を書く。しかし、書いた瞬間、それはことばになる。そして意味になる。だから、それを否定する。そして、その否定すらが、ことばになり、意味になる。
 問題は、それを自覚して書くか無自覚で書くかということになる。西脇はつねに自覚している。
 という、うるさいことは、もうやめにして、少し前に戻る。きょう引用した最初の部分、そのうちの、

雑草の影が映る石
魚のおもみ

 この2行が、私は非常に好きだ。
 「雑草の影が映る石」は夏の明るい陽射しがまぶしい。太陽そのもののまぶしさではなく、空気のなかに広がって散らばった光の美しさがある。石はきっと白い。そして影はきっと黒いのだが、その黒は、藍色に見えたり水色に見えたり灰色に見えたりするのだ。
 「魚のおもみ」。この1行は、私を不安にする。この魚の重みは、私にとっては手では測れない重みである。私は水のなかを泳いでいる魚を見てしまうのである。「雑草の影が映る石」から夏を想像してしまうのでそうなるのだが、夏の川で泳いでいる魚を私は思うのである。それは手で触れることはできない。つかまえようとしても逃げてしまう。逃げることができることをしてってい悠然と冷たい水の、その冷たさをここちよげに味わっている魚。その重さ。西脇は「重さ」ではなく「おもみ(重み)」と書いている。「おもさ」と「おもみ」のことばの違いも、私の想像力に影響しているのだと思う。
 触れえないものがある。確かめようがないものがある。これが「淋しさ」である。触れえない、確かめようもないとき、感じてしまうのが「淋しさ」である。
 しかし、その触れることができないもの、確かめることができないものにさえ、人間のこころは動いてしまう。動いて何かを感じてしまう。(だから、「淋しい」。)
 そして、その何かを感じさせるもの、感じさせる力が「シムボル」だとすれば、感じてしまう力、感じる動きこそが「永遠」かもしれない。「シムボル」と「永遠」はそんな具合にして出会うのだ。





Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする