左子真由美『Mon Dico*愛の動詞』(竹林館、2010年12月24日発行)
左子真由美『Mon Dico*愛の動詞』のそれぞれの詩のタイトルはフランス語の動詞である。そして、その動詞を、左子は日本語の動詞ではなく「名詞」として訳している。たとえば巻頭の作品は「Transfomer」だが、「形を変えること」という具合である。
これは、とても変である。
たしかに外国語を読んでいると、動詞を名詞として訳出したり、逆に名詞を動詞として訳出した方が日本語にぴったりくるときがあるが、それは「文脈」の問題である。単語だけを取り出して訳するとき、動詞を名詞にかえる理由が私にはわからない。
わからないことだらけの詩集なのだが、この「Transfomer」は、私は一部、気に入っているところがある。
「もし思いがトランスフォルメできるなら、」というこの部分だけが私は好きである。この詩集では、このことばだけが「真実」である。「真実」にふれている。つまり、ここには、詩としての「矛盾」がある。
思い、思う、想像力。
「思い」はたしかに形を変えることができない。どんなふうに想像を押し広げても、どんなふうに思いがけないことを想像したつもりになっても、限界がある。ちっとも変わりようがないのが「思い」なのである。「矛盾」しているのが「思い」なのである。
和泉式部は「きみ思うこころはちぢに砕けれどひとつも失せぬものにぞありける」というようなことを歌ったけれど、砕けても消えないという「矛盾」がこころであるように、思いはいつだって人の自由にはならない。その、和泉式部の歌につながるような「真実」を左子は書いているのだが、すぐにその「真実」はねじ曲げられ、嘘に傾いていく。
「思い」は「トランスフォルメ」できない、と書いたはずなのに、詩は、次のようにつづいていくのだ。
なんだ、これは。「思い」は「トランスフォルメ」できないけれど、「わたしはトランスフォルメ。形を変える自由な液体」って、どういうこと? これは「矛盾」ではなくて、単なる「間違い」である。そして、その「間違い」に気づいていないのが、なんとも醜い。
私は左子の出自を知らないから間違っているかもしれないのだが、たぶん左子は日本人であろう。そして日本語で育ってきた人間だろう。そういう人間が、あることを書くに当たって、突然一部だけ「フランス語」に頼る。そこからとんでもない間違いがはじまる。(左子が日本語とフランス語に、同じように精通しているなら、私が書いていることはまったくの誤解になるのだが。)
突然のフランス語。それは、「肉体」ではなく「頭」で知ったことばである。あることを、別のことばで言えば、こうなる。ということを左子は「頭」で知っている。そして、その知っているとおりにことばを「頭」で動かす。
そうすると、それは一瞬、新鮮なことばの運動に見える。その新鮮という印象が詩につながる。
でも、そんなふうに「頭」で書いたものは、嘘にしかならない。
せっかく「思い」は「トランスフォルメ(変形、形を変えること)」ができないと書きながら、「形を変える自由な液体」と「間違ったこと」を書いてしまう。でも、「頭」で書いているから、「間違い」に気がつかない。「頭」は「頭」に対して、いつでも嘘をつく。
似たようなことが「Melanger」でも起きる。「混ぜること」と左子は訳している。
「あなたとわたしは混じらない」とは、どんなに愛していても、それぞれの「肉体」があり、それはコーヒーとミルクのようには溶け合わない、ということを「説明」しているのだが、そういう説明は「頭」のつくりだしたもの。そんなことが言えるのは「愛している」からではなく、愛してないからだ。混じってしまって、どうしようもなくなるのが「愛している」という状態である。私の「肉体」は、いま、ここにある。けれど、私の「こころ(思い)」はあなたの「肉体」のなかにあって、自分では動かすこともできない。あなたの「肉体」が私の「こころ」を私の願いとは無関係に、好き勝手に動かしてしまう。それは、とてもつらい。けれど、それでいいのだ。それがうれしいのだ--と、まあ、「頭」で考えるとばかばかしいような、矛盾だらけの状態が「愛」というものだろう。
この詩でも左子は「どんな後悔もなく」という「真実」につながる「矛盾」を書きながら、フランス語をカタカナで書いたあと、「矛盾」を整理して(?)、「間違い」として広げてみせる。「こんなに愛しているのに、あなたとわたしは混じらない。」なんて、「愛」の瞬間ではなく、「別れ」の状態じゃないか。「未練」じゃないか。
なぜなんだろうなあ、なぜこうなるんだろうなあ。
あ、ほんとうはこんなことを書くつもりはなかったのだが、もう書きはじめてしまったので、最後まで書いてしまおう。
なぜ、こんなばかげたことばの運動になるのか。理由はひとつである。日本語もフランス語も左子の「肉体」にはなっていないからである。「音」として左子の「肉体」に入っていないからである。「音」のもっていることばのつながりを切断して、単なる「意味」として動いているだけだからである。
「意味」なんて、どういう「意味」にしろ「間違っている」、というのが私の考えである。「矛盾」を排除して、機能を優先させているのが「意味」であり、そこでは「肉体」はないがしろにされる。だから、私は「意味」を間違っている、というのだ。
きのう読んだ廿楽順治のことばが、どんなにでたらめに見えても「肉体」をひきつれてくるので、間違えずに「矛盾」の豊かさを展開するのとは正反対である。「意味」が切り捨てる「肉体」を常に引き受けるのとは正反対である。
「意味」だけをととのえたことばはつまらない。たとえば「Devenir 」。あれこれ書くのは面倒だから省略するが「Devenir 」ということばを書くなら、そこには「Venir 」が入ってくるべきだろう。「de」の存在がひびかせる「肉体」があるべきだろう。「くらし」があり、「他者」がいるべきだろう。
この詩集には「Signer(署名する)」「Enseigner (教える)」という詩がある。その「音」は完全には一致しないが、類似の響きがあり、通い合うものがある。フランス語を生きている人間なら、そこから「肉体」を指し示すことができるだろうけれど、それを日本語に置き換えてしまうと、肝心の「肉体」が洗い流されてしまう。フランス語にふれて、何かを知る。そして、その知ったことを武器にして日本語の「肉体」を破壊しているだけなのに、何か新しいことをしているつもりになっている--こういう詩はつまらない。「肉体」をくぐりぬけてこないことばはつまらない。
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左子真由美『Mon Dico*愛の動詞』のそれぞれの詩のタイトルはフランス語の動詞である。そして、その動詞を、左子は日本語の動詞ではなく「名詞」として訳している。たとえば巻頭の作品は「Transfomer」だが、「形を変えること」という具合である。
これは、とても変である。
たしかに外国語を読んでいると、動詞を名詞として訳出したり、逆に名詞を動詞として訳出した方が日本語にぴったりくるときがあるが、それは「文脈」の問題である。単語だけを取り出して訳するとき、動詞を名詞にかえる理由が私にはわからない。
わからないことだらけの詩集なのだが、この「Transfomer」は、私は一部、気に入っているところがある。
形を変えること。水のように、細くなったりくねくねしたり、静かな器に入ってお月さまを映したりすること。おばけのように家と家の隙間へすうっと消える。もし思いがトランスフォルメできるなら、こんなに都合のいいものはない。
「もし思いがトランスフォルメできるなら、」というこの部分だけが私は好きである。この詩集では、このことばだけが「真実」である。「真実」にふれている。つまり、ここには、詩としての「矛盾」がある。
思い、思う、想像力。
「思い」はたしかに形を変えることができない。どんなふうに想像を押し広げても、どんなふうに思いがけないことを想像したつもりになっても、限界がある。ちっとも変わりようがないのが「思い」なのである。「矛盾」しているのが「思い」なのである。
和泉式部は「きみ思うこころはちぢに砕けれどひとつも失せぬものにぞありける」というようなことを歌ったけれど、砕けても消えないという「矛盾」がこころであるように、思いはいつだって人の自由にはならない。その、和泉式部の歌につながるような「真実」を左子は書いているのだが、すぐにその「真実」はねじ曲げられ、嘘に傾いていく。
「思い」は「トランスフォルメ」できない、と書いたはずなのに、詩は、次のようにつづいていくのだ。
それにはかたくなでないこと。変幻自在にあなたのうしろにいる影。まげるとどんな形でもなるねじり飴。わたしはトランスフォルメ。形を変える自由な液体。
なんだ、これは。「思い」は「トランスフォルメ」できないけれど、「わたしはトランスフォルメ。形を変える自由な液体」って、どういうこと? これは「矛盾」ではなくて、単なる「間違い」である。そして、その「間違い」に気づいていないのが、なんとも醜い。
私は左子の出自を知らないから間違っているかもしれないのだが、たぶん左子は日本人であろう。そして日本語で育ってきた人間だろう。そういう人間が、あることを書くに当たって、突然一部だけ「フランス語」に頼る。そこからとんでもない間違いがはじまる。(左子が日本語とフランス語に、同じように精通しているなら、私が書いていることはまったくの誤解になるのだが。)
突然のフランス語。それは、「肉体」ではなく「頭」で知ったことばである。あることを、別のことばで言えば、こうなる。ということを左子は「頭」で知っている。そして、その知っているとおりにことばを「頭」で動かす。
そうすると、それは一瞬、新鮮なことばの運動に見える。その新鮮という印象が詩につながる。
でも、そんなふうに「頭」で書いたものは、嘘にしかならない。
せっかく「思い」は「トランスフォルメ(変形、形を変えること)」ができないと書きながら、「形を変える自由な液体」と「間違ったこと」を書いてしまう。でも、「頭」で書いているから、「間違い」に気がつかない。「頭」は「頭」に対して、いつでも嘘をつく。
似たようなことが「Melanger」でも起きる。「混ぜること」と左子は訳している。
混ぜること。たとえばコーヒーにミルクを。二つのものが合わさってやさしく融ける。別々のものであったのというのに。いさぎよく一つになる。どんな後悔もなく。午後の陽差しの中に香りが立ち、香りはテーブルの木の香りに、初夏の草の匂いに混じる。メランジェ。なのに不思議。こんなに愛しているのに、あなたとわたしは混じらない。
「あなたとわたしは混じらない」とは、どんなに愛していても、それぞれの「肉体」があり、それはコーヒーとミルクのようには溶け合わない、ということを「説明」しているのだが、そういう説明は「頭」のつくりだしたもの。そんなことが言えるのは「愛している」からではなく、愛してないからだ。混じってしまって、どうしようもなくなるのが「愛している」という状態である。私の「肉体」は、いま、ここにある。けれど、私の「こころ(思い)」はあなたの「肉体」のなかにあって、自分では動かすこともできない。あなたの「肉体」が私の「こころ」を私の願いとは無関係に、好き勝手に動かしてしまう。それは、とてもつらい。けれど、それでいいのだ。それがうれしいのだ--と、まあ、「頭」で考えるとばかばかしいような、矛盾だらけの状態が「愛」というものだろう。
この詩でも左子は「どんな後悔もなく」という「真実」につながる「矛盾」を書きながら、フランス語をカタカナで書いたあと、「矛盾」を整理して(?)、「間違い」として広げてみせる。「こんなに愛しているのに、あなたとわたしは混じらない。」なんて、「愛」の瞬間ではなく、「別れ」の状態じゃないか。「未練」じゃないか。
なぜなんだろうなあ、なぜこうなるんだろうなあ。
あ、ほんとうはこんなことを書くつもりはなかったのだが、もう書きはじめてしまったので、最後まで書いてしまおう。
なぜ、こんなばかげたことばの運動になるのか。理由はひとつである。日本語もフランス語も左子の「肉体」にはなっていないからである。「音」として左子の「肉体」に入っていないからである。「音」のもっていることばのつながりを切断して、単なる「意味」として動いているだけだからである。
「意味」なんて、どういう「意味」にしろ「間違っている」、というのが私の考えである。「矛盾」を排除して、機能を優先させているのが「意味」であり、そこでは「肉体」はないがしろにされる。だから、私は「意味」を間違っている、というのだ。
きのう読んだ廿楽順治のことばが、どんなにでたらめに見えても「肉体」をひきつれてくるので、間違えずに「矛盾」の豊かさを展開するのとは正反対である。「意味」が切り捨てる「肉体」を常に引き受けるのとは正反対である。
「意味」だけをととのえたことばはつまらない。たとえば「Devenir 」。あれこれ書くのは面倒だから省略するが「Devenir 」ということばを書くなら、そこには「Venir 」が入ってくるべきだろう。「de」の存在がひびかせる「肉体」があるべきだろう。「くらし」があり、「他者」がいるべきだろう。
この詩集には「Signer(署名する)」「Enseigner (教える)」という詩がある。その「音」は完全には一致しないが、類似の響きがあり、通い合うものがある。フランス語を生きている人間なら、そこから「肉体」を指し示すことができるだろうけれど、それを日本語に置き換えてしまうと、肝心の「肉体」が洗い流されてしまう。フランス語にふれて、何かを知る。そして、その知ったことを武器にして日本語の「肉体」を破壊しているだけなのに、何か新しいことをしているつもりになっている--こういう詩はつまらない。「肉体」をくぐりぬけてこないことばはつまらない。
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