杉本徹「摘むことと漂流すること」(「ファーズ」1、2011年01月15日発行)
杉本徹「摘むことと漂流すること」は村松桂の写真とのコラボレーションである。村松の写真は二重露光の不思議なものだが、このコラボレーションは村松の写真が先にあったのか、それとも杉本のことばが先にあったのか、よくわからない。あまりにもうまく合致しすぎている。--といっても、その写真とことばの内容が一致しているというのではない。「思想」が合致しているのだ。
杉本のことばは、ここ数日読んでいる松浦寿輝や松本圭二、福田武人のことばとはずいぶん違っている。「文字」を感じさせない。「文字」や「音」を感じさせない--というとおおげさになるが……。「文字」や「音」よりも、つかみどころのないイメージ(映像)を感じさせる。
たとえば「騒がせる風の暗さ」ということばに触れるとき、私は揺れ動く光の暗さ(影がまじった光)を「見る」のだが、それはほんとうに見たのか、それとも錯覚なのか、よくわからない。もしかしたら「見たい」という欲望の動きを感じたのかもしれない。
ほかのことばも、私の耳に響いてくるというより、視覚を刺激する。「北緯への遮られない希い」というように、目にみえるものなど何も書かれていないことばにさえ、イメージを感じる。北を向いたときに感じる光、その暗さのなかにあるものと共鳴するこころの動き--哀愁のようなものを、目で感じてしまう。
そして、それは「現れてはほどかれる」ということばが象徴するように、しっかりとは固定しない。むしろ、固定を否定して動く何かである。そのしっかりとは固定しないもの、動くものは、だからといって「形」をもたないかというとそうではなくて、形をもっているのだが、なんといえばいいのだろう--半透明なのだ。(二重露光の写真のように。)半透明であることによって、「見える」と「見えない」を刺激し、その交錯によって、あ、ここにあるのは「視覚」のことばだ、と強く感じるのだ。
この「見える」「見えない」の交錯を、杉本は別のことばで書き直している。
「見える」ようで「見えない」、「見えない」ようで「見える」何か--それを「気配」と杉本はとらえている。「気配」というものは、普通は(?)肌で感じるものである。私は常套句として「肌で感じる」とつかってしまうが、杉本はそれを「視覚」で感じ、その「視覚」で感じた「気配」をことばにしているのだと思う。
目で見た(見ようとして見逃してしまった)気配を追いかけて動くことば--それが杉本の詩である、と感じた。いままで、ぼんやりと感じていた杉本の「思想」が、写真とのコラボレーションによって結晶のように形をとって私には見えてきた。(あ、これは、「見る」「見えない」という杉本のイメージに影響されて、私がそう錯覚しているだけのことかもしれないけれど。)
もうひとつ、杉本の「視覚のことば」についてつけくわえたい。
この杉本の詩には「……」や「” ”」などの記号が何回も出てくる。読点「、」もその記号のひとつかもしれない。そして、これらの「記号」は、それこそ目で見た「イメージ」であり、「気配」なのだ。杉本にとって、記号は「文字」以上に「文字」であり、「音」以上に「音」なのだ。それは杉本の「肉体」なのである。
それを端的にあらわしたのが、
の、(か)である。丸かっこである。「あった」と断定せず、疑問をつけくわえ、しかし、「あったか」ではなく、あくまでつけくわえただけの何か--その「二重露光」のような効果。
これは、ことばの「二重露光」なのである。「あった」ではなく、「あったか」でもない。そして、両方でもある。その「二重露光」の「思想」を代弁するというより、強調するのが記号なのである。丸かっこなのである。
杉本は、それを、そして「見ている」のである。「あった」と「あったか」が「二重露光」となって、そこに存在すること--それを目で確かめているのだ。
杉本は、ここ2、3日読んできた詩人の中では、とりわけ「視覚的な詩人」なのである。目で書く詩人なのである。杉本の選ぶ音は、(あるいは、漢字、ひらがなは)、杉本の視覚を乱さないように、とても静かである。それも、杉本の大きな特徴であると思う。
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杉本徹「摘むことと漂流すること」は村松桂の写真とのコラボレーションである。村松の写真は二重露光の不思議なものだが、このコラボレーションは村松の写真が先にあったのか、それとも杉本のことばが先にあったのか、よくわからない。あまりにもうまく合致しすぎている。--といっても、その写真とことばの内容が一致しているというのではない。「思想」が合致しているのだ。
そして”木の舟”を騒がせる風の暗さは
かさなる葉から流星の方位へ向けて、この夏を編むだろう
……時間、光洩る時間はこうして揺らぎつづけ
あなたの、北緯への遮られない希いを
現れてはほどかれる境界の傾斜地で、……どこまでも、護るだろう
杉本のことばは、ここ数日読んでいる松浦寿輝や松本圭二、福田武人のことばとはずいぶん違っている。「文字」を感じさせない。「文字」や「音」を感じさせない--というとおおげさになるが……。「文字」や「音」よりも、つかみどころのないイメージ(映像)を感じさせる。
たとえば「騒がせる風の暗さ」ということばに触れるとき、私は揺れ動く光の暗さ(影がまじった光)を「見る」のだが、それはほんとうに見たのか、それとも錯覚なのか、よくわからない。もしかしたら「見たい」という欲望の動きを感じたのかもしれない。
ほかのことばも、私の耳に響いてくるというより、視覚を刺激する。「北緯への遮られない希い」というように、目にみえるものなど何も書かれていないことばにさえ、イメージを感じる。北を向いたときに感じる光、その暗さのなかにあるものと共鳴するこころの動き--哀愁のようなものを、目で感じてしまう。
そして、それは「現れてはほどかれる」ということばが象徴するように、しっかりとは固定しない。むしろ、固定を否定して動く何かである。そのしっかりとは固定しないもの、動くものは、だからといって「形」をもたないかというとそうではなくて、形をもっているのだが、なんといえばいいのだろう--半透明なのだ。(二重露光の写真のように。)半透明であることによって、「見える」と「見えない」を刺激し、その交錯によって、あ、ここにあるのは「視覚」のことばだ、と強く感じるのだ。
この「見える」「見えない」の交錯を、杉本は別のことばで書き直している。
…………………………
かすかな、数歩の息とともに
濃い青の車の、”八月という川面2にまたたくウィンカーを、避(よ)けて
いま、遠い日にひらかれる白紙に、気配の枝が映った
「見える」ようで「見えない」、「見えない」ようで「見える」何か--それを「気配」と杉本はとらえている。「気配」というものは、普通は(?)肌で感じるものである。私は常套句として「肌で感じる」とつかってしまうが、杉本はそれを「視覚」で感じ、その「視覚」で感じた「気配」をことばにしているのだと思う。
目で見た(見ようとして見逃してしまった)気配を追いかけて動くことば--それが杉本の詩である、と感じた。いままで、ぼんやりと感じていた杉本の「思想」が、写真とのコラボレーションによって結晶のように形をとって私には見えてきた。(あ、これは、「見る」「見えない」という杉本のイメージに影響されて、私がそう錯覚しているだけのことかもしれないけれど。)
もうひとつ、杉本の「視覚のことば」についてつけくわえたい。
囚われの陽射しには陽射しの、かすれてゆく母音が、うかび
それも打ち寄せる宇宙の遠近法の、静かな波頭の声で、あった(か)
この杉本の詩には「……」や「” ”」などの記号が何回も出てくる。読点「、」もその記号のひとつかもしれない。そして、これらの「記号」は、それこそ目で見た「イメージ」であり、「気配」なのだ。杉本にとって、記号は「文字」以上に「文字」であり、「音」以上に「音」なのだ。それは杉本の「肉体」なのである。
それを端的にあらわしたのが、
あった(か)
の、(か)である。丸かっこである。「あった」と断定せず、疑問をつけくわえ、しかし、「あったか」ではなく、あくまでつけくわえただけの何か--その「二重露光」のような効果。
これは、ことばの「二重露光」なのである。「あった」ではなく、「あったか」でもない。そして、両方でもある。その「二重露光」の「思想」を代弁するというより、強調するのが記号なのである。丸かっこなのである。
杉本は、それを、そして「見ている」のである。「あった」と「あったか」が「二重露光」となって、そこに存在すること--それを目で確かめているのだ。
杉本は、ここ2、3日読んできた詩人の中では、とりわけ「視覚的な詩人」なのである。目で書く詩人なのである。杉本の選ぶ音は、(あるいは、漢字、ひらがなは)、杉本の視覚を乱さないように、とても静かである。それも、杉本の大きな特徴であると思う。
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