鈴木陽子『金色のねこ』(私家版、2010年10月06日発行)
鈴木陽子『金色のねこ』の文体はとてもすっきりしている。変なこと(?)を書いているのに、変ではない。
「地下鉄のホームにて」の書き出し。
これはたぶん地下鉄にもぐったとき、鼓膜に感じる気圧の変化のことを書いている。たしかに耳に違和感を感じることがある。私はあまり地下鉄に乗らないので、気圧の変化になれないのかもしれない。でも、そのとき、鼓膜が裏返るってほんとう? そんなことないよねえ。鼓膜は裏返らない。--とわかっていても、あ、あの感じ、あれは鼓膜が裏返ったのか、と納得してしまう。
「構内がオブラートにつつまれる」はそういう耳の異変(?)の影響で視覚も変になり、構内がオブラート越し(半透明の幕越し)に見たように見えてくる、ということだろう。
肉体が感じた違和感が、まず耳に影響し、それが自然に目にも広がっていく。
この自然な広がり方を、鈴木は簡潔に、しかし、とても正確に書いている。書いていること、「鼓膜が裏返」る、「構内がオブラートに包まれ」る、というのは変なことである。そんなことは、ありえない。変で、ありえないことなのだが、そういうことが起きる順序、肉体の変化の仕方そのものは変ではない。
「鼓膜が裏返り」だけでは、変である。「構内がオブラートに包まれる」だけでも変である。けれど、それが繋がると、そこにはっきりとした「肉体」が見えてくる。その「肉体」が、鈴木の「文体」は正確である、そこではことばは正確に動いていく、と教えてくれるのである。
だから、詩が、
とつづいていくとき、「男の頭は馬なのだ」なんてありえない、という気持ちにならない。鼓膜から始まった肉体の変化が視覚に及んでいる。男の頭が馬に見えたって変ではない。男の頭は馬に見えなければならないのだ。肉体が変わってしまったのだから、それに合わせて世界が変わるのは当然なのだ。肉体がかわっているのに、世界がもとのまま、ということの方が変である。
変わっていく世界を鈴木は、とても正確に描いていく。男の頭が馬であることを、変とは思っていない。あたりまえであると感じている。これは、鼓膜からはじまり視覚に影響した肉体の変化が、ことばを支配している精神にも影響しているということである。精神は、新しい世界と向き合えるよう、自己変革してしまったのだ。
とても変だけれど、とても納得がゆく。
何かがかわるということは、全部が変わるということなのだ。
この変化は、次にもう一度大激変する。
「唾をゴクリと飲みこむ」と、それは鼓膜にも影響する。飛行機が高度を下げるとき、耳がつんとする。鼓膜が裏返る。それを解消するために唾をゴクリと飲む。そうすると鼓膜がもとに戻る。音がすっきり聞こえるようになる。この肉体の変化は、当然、最初のときと同じように眼にも影響する。「オブラートは消え」「すみずみまでくっきり」と見えるようになる。
でも。
精神は、最後に影響を受けた精神は、肉体のように瞬間的にもとにはもどれない。馬を正確に描写してしまった精神は、すぐにはもとにもどれない。一度ついた嘘の軌道修正がむずかしいのと同じである。精神は、肉体と違って、間違ってしまっても、それを間違いとは認めたがらないものなのかもしれない。
だから、あいかわらず、男の頭は馬に見える。
そして、肉体の変化に即応できなかった精神は、今度はさらに精神に影響する。精神をたたきはじめる。いじめはじめる。
男達が馬の頭を持っているのではなく、鈴木(わたし)が持っていない--そういう論理(?)が成り立つことに気がつく。この「気づき」はほんとうは「体がふうわり浮きあが」る前からはじまっていたかもしれない。男の頭を描写しはじめたときからはじまっていたかもしれない。正確に描写するのは、「わたし」馬の頭を持たないがゆえなのだ。もし、「わたし」も馬の頭をもっているのなら、「わたし」が見ているものは特別なものではない。正確に描写する必要のないものだ。でも、「わたし」は正確に描写してしまう。それは、精神がどこかで、無意識的に「わたし」の頭は馬の頭ではないと気づいていたからなのだ。
そして、この「気づき」(精神の運動)が、肉体を変化させる。「気づき」は「恥ずかしさ」になる。認識(知性?精神?)が感情になる。そして、その感情が肉体を「カッとほて」らせる。
うーん。
肉体(鼓膜)の変化(裏返り)→視覚の変化(オブラートにつつまれた構内)→世界そのものの変化(馬の頭を持つ男)→その認識(正確な描写)と進んできたものが、一瞬の中断を挟み、
肉体の変化の逆戻り(唾をゴクリと飲むことで鼓膜の裏返りが解消する)→私宅の変化(すみずみまでくっきり見える)→精神の酩酊(精神は急には逆にもどれない。わたしの頭は馬ではないという発見)→感情への作用(恥ずかしい)→肉体への影響(カッとほてる)→
でも。
あ、精神はまだうろうろしていて、男達は馬の頭のまま電車を待っている。
おもしろいなあ。正確に書かれたことばはおもしろいなあ。
きのう私は森鴎外論のメモを、豊原清明のことばの運動の補記として書いたが、そのことの関連で言えば、鈴木のことばも正確に人間を押す。森鴎外が他人(たとえば渋江抽斎)を押したのに対し、鈴木は「わたし」自身をしっかりと押している。正確なことばに押されて、「わたし」がついに動き出してしまう。恥ずかしさで体がカッとほてる、というようなことろまで動かしてしまう。
そういうときも、精神は、やっぱり、うまい具合に対応できない。--その精神をふくめて、鈴木は、あくまで正確を貫き、ことばを書きとおす。
これは、ほんとうにおもしろい。
鈴木陽子『金色のねこ』の文体はとてもすっきりしている。変なこと(?)を書いているのに、変ではない。
「地下鉄のホームにて」の書き出し。
いつものように階段を下りて
地下鉄のホームに立つと
鼓膜が裏返り
構内がオブラートに包まれる
これはたぶん地下鉄にもぐったとき、鼓膜に感じる気圧の変化のことを書いている。たしかに耳に違和感を感じることがある。私はあまり地下鉄に乗らないので、気圧の変化になれないのかもしれない。でも、そのとき、鼓膜が裏返るってほんとう? そんなことないよねえ。鼓膜は裏返らない。--とわかっていても、あ、あの感じ、あれは鼓膜が裏返ったのか、と納得してしまう。
「構内がオブラートにつつまれる」はそういう耳の異変(?)の影響で視覚も変になり、構内がオブラート越し(半透明の幕越し)に見たように見えてくる、ということだろう。
肉体が感じた違和感が、まず耳に影響し、それが自然に目にも広がっていく。
この自然な広がり方を、鈴木は簡潔に、しかし、とても正確に書いている。書いていること、「鼓膜が裏返」る、「構内がオブラートに包まれ」る、というのは変なことである。そんなことは、ありえない。変で、ありえないことなのだが、そういうことが起きる順序、肉体の変化の仕方そのものは変ではない。
「鼓膜が裏返り」だけでは、変である。「構内がオブラートに包まれる」だけでも変である。けれど、それが繋がると、そこにはっきりとした「肉体」が見えてくる。その「肉体」が、鈴木の「文体」は正確である、そこではことばは正確に動いていく、と教えてくれるのである。
だから、詩が、
深海色の背広をきた男が
ホームの狭くなっているあたりから歩いてくる
ふと見ると
男の頭は馬なのだ
とつづいていくとき、「男の頭は馬なのだ」なんてありえない、という気持ちにならない。鼓膜から始まった肉体の変化が視覚に及んでいる。男の頭が馬に見えたって変ではない。男の頭は馬に見えなければならないのだ。肉体が変わってしまったのだから、それに合わせて世界が変わるのは当然なのだ。肉体がかわっているのに、世界がもとのまま、ということの方が変である。
しっかりした頬骨
心持ち眼は飛び出しかげんで
よく手入れされたビロードの皮膚は光沢を帯び
ひきしまった筋肉の首を白いカラーから斜め前方につきだし
プルルンと鼻を鳴らす
だらしなく開かれた口から
正四角形の琺瑯質の白い歯がのぞいている
変わっていく世界を鈴木は、とても正確に描いていく。男の頭が馬であることを、変とは思っていない。あたりまえであると感じている。これは、鼓膜からはじまり視覚に影響した肉体の変化が、ことばを支配している精神にも影響しているということである。精神は、新しい世界と向き合えるよう、自己変革してしまったのだ。
とても変だけれど、とても納得がゆく。
何かがかわるということは、全部が変わるということなのだ。
この変化は、次にもう一度大激変する。
一瞬、体がふうわり浮きあがり
唾をゴクリと飲みこむと
オブラートは消え
あたりは電燈の光度を上げたごとく
すみずみまでくっきりする
見まわすと
ホームには何人かの男たちがたたずんでいて
どの男も馬の頭を持つ
わたしは自分の頭が馬の頭でないことに気がつくと
恥ずかしさで体がカッとほてり
身を隠そうとまわりを見まわすが
男達はわたしの異常に気づく様子もなく
耳をプルルと振ったり
歯を剥き出したりしながら
地下鉄の電車がくるのを
静かに待っているのだった
「唾をゴクリと飲みこむ」と、それは鼓膜にも影響する。飛行機が高度を下げるとき、耳がつんとする。鼓膜が裏返る。それを解消するために唾をゴクリと飲む。そうすると鼓膜がもとに戻る。音がすっきり聞こえるようになる。この肉体の変化は、当然、最初のときと同じように眼にも影響する。「オブラートは消え」「すみずみまでくっきり」と見えるようになる。
でも。
精神は、最後に影響を受けた精神は、肉体のように瞬間的にもとにはもどれない。馬を正確に描写してしまった精神は、すぐにはもとにもどれない。一度ついた嘘の軌道修正がむずかしいのと同じである。精神は、肉体と違って、間違ってしまっても、それを間違いとは認めたがらないものなのかもしれない。
だから、あいかわらず、男の頭は馬に見える。
そして、肉体の変化に即応できなかった精神は、今度はさらに精神に影響する。精神をたたきはじめる。いじめはじめる。
わたしは自分の頭が馬の頭でないことに気がつくと
恥ずかしさで体がカッとほてり
男達が馬の頭を持っているのではなく、鈴木(わたし)が持っていない--そういう論理(?)が成り立つことに気がつく。この「気づき」はほんとうは「体がふうわり浮きあが」る前からはじまっていたかもしれない。男の頭を描写しはじめたときからはじまっていたかもしれない。正確に描写するのは、「わたし」馬の頭を持たないがゆえなのだ。もし、「わたし」も馬の頭をもっているのなら、「わたし」が見ているものは特別なものではない。正確に描写する必要のないものだ。でも、「わたし」は正確に描写してしまう。それは、精神がどこかで、無意識的に「わたし」の頭は馬の頭ではないと気づいていたからなのだ。
そして、この「気づき」(精神の運動)が、肉体を変化させる。「気づき」は「恥ずかしさ」になる。認識(知性?精神?)が感情になる。そして、その感情が肉体を「カッとほて」らせる。
うーん。
肉体(鼓膜)の変化(裏返り)→視覚の変化(オブラートにつつまれた構内)→世界そのものの変化(馬の頭を持つ男)→その認識(正確な描写)と進んできたものが、一瞬の中断を挟み、
肉体の変化の逆戻り(唾をゴクリと飲むことで鼓膜の裏返りが解消する)→私宅の変化(すみずみまでくっきり見える)→精神の酩酊(精神は急には逆にもどれない。わたしの頭は馬ではないという発見)→感情への作用(恥ずかしい)→肉体への影響(カッとほてる)→
でも。
あ、精神はまだうろうろしていて、男達は馬の頭のまま電車を待っている。
おもしろいなあ。正確に書かれたことばはおもしろいなあ。
きのう私は森鴎外論のメモを、豊原清明のことばの運動の補記として書いたが、そのことの関連で言えば、鈴木のことばも正確に人間を押す。森鴎外が他人(たとえば渋江抽斎)を押したのに対し、鈴木は「わたし」自身をしっかりと押している。正確なことばに押されて、「わたし」がついに動き出してしまう。恥ずかしさで体がカッとほてる、というようなことろまで動かしてしまう。
そういうときも、精神は、やっぱり、うまい具合に対応できない。--その精神をふくめて、鈴木は、あくまで正確を貫き、ことばを書きとおす。
これは、ほんとうにおもしろい。