詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

横山唯史「温情」「フラワー」「リバイバル」

2011-02-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
横山唯史「温情」「フラワー」「リバイバル」(「ドードー」16、2011年01月発行)

 横山唯史「温情」「フラワー」は、ともにどうでもいいことを、どうでもいい具合に、だらーっと書いている。その弛緩した散文の感じがなかなかおもしろい。
 「温情」は啄木記念館へ行ったときのことを書いているのだが、それは途中からどうでもよくなり、スーパー銭湯へ行き、町営プールへ行く。水泳大会のようなものが開かれている。

小学生がいて、大人が周りを取り囲むようにして応援か見学かをしていた
その端でしばらく小学生が次々と泳いでいくのを見ていたが、しばらくして我に戻ったような気になってなんだか嫌になったので、また自転車に乗って駅に戻った
ホームで電車を待っていると、携帯電話が着信を告げた 同僚からだった
コピー機のトナーが無くなったのだけれど、予備はどこに置いてあるのだろうか、とうい話だった
倉庫の上の左端を見てください、ほらあったでしょう、と私は言った

 「フラワー」は吉野屋のようなところで親子丼を食べる。そして、そこで一人の男を見る。男はいつもご飯と納豆とサラダをだけ食べる。「ご飯と納豆とサラダをこの店で注文すると、合計で三三〇円になります。例えば牛丼のミニを頼んだら二九〇円なわけで、金がないからこういった頼み方をしているわけじゃないな、と思ったりしていました。」そして、ふと、男の口元から青じそドレッシングがこぼれ落ちるのを見てしまう。

とにかく男性の髭は濡れていました。自分はもう他のことは考えられなくなり、それからは横を向いて、親子丼を食べて、また横を向いて男性を見ました。
そうしているうちにです。自分が陰惨な気持ちに包まれていくのがわかりました。心の驚きをもう、隠すことができなかったからです。私はいつもは注文したものを食べ終えてから、店員にお茶を頼んでからしばらくいるというのが普通でした。けれどその時はもう、店を出るしかなかったのです。

 印象的なのは、「温情」に「しばらくして我に戻ったような気になってなんだか嫌になったので」ということばがあり、「フラワー」に「そうしているうちにです。自分が陰惨な気持ちに包まれていくのがわかりました。」ということばがあることだ。ともに「気持ち(気)」を発見するのだが、その発見までに「しばらく」があり、「そうしているうちに」がある。つまり、「気持ち(気分)」を突然発見するのわけではなく、「しばらく」とか「そうしているうち」とかの「時間」がある。
 横山は、「気持ち」を書くと同時に、「時間」を書いている。
 そして「時間」を書くために、散文という運動形式を借りている。ひとつのことを書き、それを踏まえてというか、それにつないで次のことを書く。ことばとことばの飛躍をなるべく少なくする。このため、だらーっとした感じがことばから漂うのだが、このだらあっとした感じが横山の発見には必要なのだ。
いろんなものを見て、考えて、たとえば「温情」では大人たちが「応援か見学か」しているというようなことをぼんやりと考えて、「フラワー」では男がご飯と納豆とサラダだけを食べる理由を考えて、それから男の髭がドレッシングで濡れている理由を考えて、そのことしか考えられなくなり、そのあと。
 もう考えることがなくなったとき、--「我に戻って」、つまり「自分」を発見する。「自分の気持ち(気分)」を発見する。
 だらだらした散文は、自分の気持ちを発見するまでに捨てなければならなかった意識の経過なのである。「意識の流れ」なのである。

 もうひとつ、横山は「リバイバル」という作品を書いている。これは短編小説のような装いを持っているが、ことばの選び方はどちからというと「現代詩」である。

突然彼の背後で静かではあるが確かに、シャフトギアが相関し、運動が伝達されていくざわめきのような音が発生したかと思うと、電動式の硝子戸が敷設されたレーンを正確にトレースすることによって外界との大気の交わりが遮断された。

 これは簡単にいってしまうと、彼の後ろで自動ドアがしまった、というだけのことである。それを「わざと」もってまわって書いている。「わざと」はあらゆる文学に共通する姿勢だけれど、ことばの選択(相関、伝達、発生、遮断など)が私には運動ではなく、そのことばそのものを屹立させるために書かれたもののように感じられる。古い古い「現代詩」を読まされているような錯覚に陥る。
 小説をこの文体で書いて、おもしろいかどうかは、私にはわからない。あ、古い、と思って1ページで読むのをやめると思う。
 けれど、もし、横山が「温情」「フラワー」の文体で「小説」を書くなら、それはぜひ読んでみたいと思う。そこにはあたらしい散文の芽がある。


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シャロン・マグアイア監督「ブローン・アパート」(★)

2011-02-04 20:58:04 | 映画
監督 シャロン・マグアイア 出演 ミシェル・ウィリアムズ、ユアン・マクレガー、マシュー・マクファディン

 冒頭に幼い息子と遊ぶ母親のシーンがホームムービーみたいな感じでつづく。あ、こんなことをしていたら終わらない--と思ったら、やっぱり終わらない映画だった。
 いや、ちゃんとストーリーがあって結末があって、そのうえ「意味」までしっかり表現されているのだけれど、わたしはこういう映画では「終わった」という満足感には到達できない。
 なんだ、これは。
 やっていることはわからないではないけれど、怒ってしまうなあ。
 テロがあって、息子と夫を奪われた女が、テロには負けない、女は息子のいのちを奪われても新しいいのちを産みつづける。テロは女がいのちを産むという力までは破壊できない--それはそうだけれどさあ、違うんじゃない? そんな奇妙な哲学でテロに対抗するのは、間違っていない?

 片方にテロを追及する警察組織があり、一方にテロ組織がある。その間で、「一般市民」である一人の女が、個人的な後悔(息子と夫がテロに巻き込まれ死んでいったとき、女は恋人とセックスをしていた。そして、そのときテレビはテロの現場を偶然放送していた)と悲しみにのたうつ。のたうつだけではなく、恋人からテロの真相(なぜテロが防げなかったか、という真相)を知る、というのだけれど。
 あのさあ。
 テロもそうだけれど、テロがあると知りながらそれを防止しなかった警察に対する怒りが、あまりにも小さくない? 何百人と死んでいる。テロはもちろん悪だけれど、それを未然に防ぐことを怠った警察はもっと悪くない?
 そういう権力の、自分勝手の都合に対して、この女は、やはり何があろうと女は新しいいのちを産みつづけ、いのちをつなぐことで対抗する--なんて、言えるのかなあ。何か、根本的な発想が間違っている。

 映像は、あくまで女の視点にこだわり、「組織」なんかも、組織の全体は見えずに、彼女が接する夫の上司とのやりとりだけなんだけれど。これも、よくいえば「女」の視点にこだわった映画といえるけれど、そういうこだわり方というのは女を馬鹿にしていない? 女は自分の知った悪と戦い社会そのものを改善するために努力するのではなく、そういうことをしなくても、子供を産み、育てる、いのちをつないでいくということで、社会のあり方に抵抗するというのは、なんとも変じゃない? 女が、テロリストの妻と息子と、簡単に「和解」してしまうのも、納得がいかないなあ。
 「私小説」にこだわり、私小説としての映画にする、というのは、それはそれで悪くはないけれど、テロ、テロ撲滅組織の問題点と直面した女の生き方を私小説にしてしまうのは、どうにも納得できないねえ。

 映画ではなく、小説だったら、いくぶん印象は違うかもしれない。小説はあくまでことば。ことばの迷路。ことばがどこまでことばにならないものをことばにするか、ということが小説の力そのもの。でも、映画はねえ。映像で、映像にならないものを映像化する--まあ、たしかにそういう試みをしているのだけれど、でも「幻想」や「記憶」はどんなにがんばってみても、映像を深化させない。現実のなかで見落としていたものをスクリーンに、いま、ここに、これがある、と映像として見せてこそ、映像の迷路がはじまるのだからね。
 表現メディアと、表現のあり方を間違えた映画だねえ。
 ミシェル・ウィリアムズは懸命に「女」そのものを裸にしようとしているのだけれど、「仕掛け」が間違っているね。

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誰も書かなかった西脇順三郎(177 )

2011-02-04 13:04:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「音」のつづき。「音」だから音がたくさん出てくるのは当然だが、音ということばをつかわずに書かれた音にも魅力的なものがある。

ぜんまいも
大きな葉となる
乞食は自然の無常を
ののしる

 「ののしる」ということばのなかにひそむ音。乞食がいったい何をののしっているのか「自然の無常」というだけでは抽象的すぎるが、それはもしかするとぜんまいが大きな葉になってしまって、もう食べられないということかもしれない。しかし、こんなことは「理屈」をいってもしようがない。岡井隆ではないが、詩なのだから、こういうことはいいかげんでいいのだ(あいまいでいいのだ、だったかな?)。
 この4行でおもしろいのは、「ぜんまいも/大きな葉となる」のなかにも「音」が感じられるところだ。渦を巻いたぜんまいがほどけ、葉になる。そのときの「音」はもちろん耳には聞こえない。そこに「音」があると思うとき、耳のなかに響いてくる音にすぎない。想像力の感じる音である。
 そして、「音」とは、そうやって聞こえない「音」も想像として感じることができるという立場から「音」を読み直すと、ちょっとおもしろいのだ。

よろこびのよろこびの
秋のよろこびのよろこびの
神のよろこび
こばると色の空に
飛ぶひよどりのよろこびの
とけた白いしいの実を落とす
故郷の音の
去る人の音の
山の音の
あけびの皮にはみでる
にがあまい種を
舌を出して吐き出す音

 さて、ここに書かれている「音」をオノマトペにすると、どんな具合に書き換えられますか?
 私は実は書き表すことができない。最後の「舌を出して吐き出す音」は「ぺっ」ぐらいには書くことができるけれど、そのほかは書けない。
 そして書き表すことができないのだけれど--つまり、私の肉体と西脇の書いていることばをつないで、そこから私の肉体をとおしてそれを再現するということはできないのだけれど、私の肉体のなかには変なことが起きる。
 耳が透明になっていって、聞こえない音を聞こうとする。--へんな言い方になってしまったが、耳が透明になって、その聞こえない音と一体になろうとする。ぜんまいが渦巻きから葉にかわるときのように、そこには沈黙の音がある。その沈黙と一体になるために耳が透明になっていく。そういうような変な感覚が私の肉体のなかで動く。
 そして、肉体は動きたがる。その欲望(?)にあわせるようにして「舌を出して吐き出す音」があり、私の肉体は自然に動いてしまう。無意識に舌が動く。
 この無意識の中の感覚--これが、「乞食は自然の無常を/ののしる」の「ののしる」ともなんとなく重なる。乞食が「ののしる」のは「自然の無常」を完全に理解してのことではないのだ。ただ肉体が「ののしる」という動きを必要としていて「ののしる」のである。そんなふうに思えてくる。


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西脇順三郎全詩集 (1963年)
西脇 順三郎
筑摩書房
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ゴッホ展(九州国立博物館)

2011-02-04 01:01:55 | その他(音楽、小説etc)
 「マルメロ、レモン、梨、葡萄」。初めて見る絵である。画集などに収録されているかどうか知らない。収録されていても、見逃してきた絵である。こういう1枚に出会うと、たしかに「展覧会」というものはありがたいものだと思う。図録、画集にはない何かがある。
 「マルメロ、レモン、梨、葡萄」は文字通り、4種類の果物が描かれているのだが、色使いに特徴がある。黄色を主体とした変奏(?)で構成されている。他の色、青系統の色が排除されている。
 光を反射する白っぽい黄色から、くすんで茶色っぽい影まで、あ、このなかに何色の黄色があるのだろう。もっとも明るい黄色から暗い黄色まで、光はどのように動いていくのか。色は、どんなふうにして育ってきたのか--ということを考えてしまう。
 この絵の中の、どの黄色がひまわりの花びらになり、どの黄色がひまわりの種になったのだろう。あるいは、アイリスの壺、アイリスのバックの壁の色、テーブルの色は、ここからどんな変化の果てに生まれてきたのか。さらに、自画像の顔の色は、この絵のなかでどの位置を占めているのか……。
 私はゴッホのファンではないのでよくわからないが、ゴッホが好きな人なら、この1枚から何枚もの絵の誕生を予測できるだろう。--そう思うと、とても楽しいのである。私にはわかりっこないことが、この絵のなかで起きている、ということが何ともおもしろいのである。
 この絵を中心にして、ゴッホの黄色の変化をたどると、きっとゴッホが見えてくる。そういう予感がするのである。
 この絵には、オリジナルの額がついている。そこにも黄色が塗られ、模様もついている。額も含めて1枚の絵なのだ。そのことも楽しい。画家が絵を描くとき、額を想定しているかどうか知らないが、このときゴッホは額まで含めて絵だと考えていたのだ。

 ほかの絵では「アイリス」が私は好きである。
 青、緑、黄色--その三色の変化がおもしろい。黄色の壁、テーブル、壺が背景になっているのだが、その絵を見ていると、このアイリスの青(その影としての紫)は、黄色から絞り出された補色の結晶という感じがしてくる。強烈に対立しているのだが、どこかでつながっているかもしれないという錯覚に陥る。
 右下に倒れた(こぼれた?)ひと茎のアイリスの存在もおもしろい。左上から右下に、カンバスの対角線が描かれる。もう一方の右上から左下への対角線は中央で消えるが、そのかわり2本、離れた形で存在することで、花瓶(花)が左へ倒れるのを防いでいる。そのバランスが美しい。空白のバランスが音楽を感じさせる。
 ほかの絵にもいえることだが、浮世絵から影響を受けた輪郭線--もしそれがなかったら、と考えるのも楽しい。私はときどき絵のなかから輪郭線を消し、色と色とが直接触れ合っている状態を想像してみるのだが、そのとたんにバランスが崩れてしまう。絵が倒れてしまう。不思議である。



「没後120年ゴッホ展」のすべてを楽しむガイドブック (ぴあMOOK)
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ぴあ
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