詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

榎本櫻湖「無伴奏チェロのためのソナチネ」

2011-06-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
榎本櫻湖「無伴奏チェロのためのソナチネ」(「詩誌酒乱」5、2011年04月28日発行)

 榎本櫻湖「無伴奏チェロのためのソナチネ」には不思議な至福がある。その至福は2種類ある。

凪いだ海に横たわる涅槃像が
わたしの肝臓をとらえて放さず
かれの黄金色の左足のうえで
喰い千切られた臓物を
抱えこむようにして
眠りにつかなければならない
それはまことに心地のよい
夜のことであって
もしも鮫なり蛟なり
あるいは蛤なりの幻影が
わたしの四肢を
噛み砕くような荒んだ夜は
塵芥にまみれた幽かな
だれのものとも知られぬ
骨のかけらとともに
海底で眠らなければならない

 「涅槃」(死)と肉体の至福の交わりのようなもの、死んでいく官能を感じる。「それはまことに心地のよい/夜のことであって」という榎本らしからぬのんびりしたリズムが、ほーっと声がもれるくらい美しい。たぶん、そのあとの「もしも鮫なり蛟なり/あるいは蛤なり」という対象を限定しないいいかげんさが、のんびりしたリズムと呼応しているのを「夜のことであって」という音のなかに感じてしまうのだ。
 「夜であって」ではなく「夜のことであって」と「こと」がある分だけ、ことばの「領域」に広がりがある。余分がある。その余分が、「鮫」だけではなく「蛟」や「蛤」を遊ばせてしまうのである。「鮫」から「蛤」までの落差の大きさもおかしいねえ。そして、そこにばかばかしいような落差があることが、愉悦の気持ち悪さというか、どうしようもない気持ちよさでもある。「鮫」と「蛤」が同じ大きさになって、わたしを食べにくるとしたら--どっちに食べられる方がこわい? 考えると、ぞくっとするでしょ? 「鮫」と同じ大きさの「蛤」。あ、こわい。途中に「蛟」という変なものが出てくるが、こういう架空のものは怖くないねえ。(私は、この漢字を知らなかったので辞書で調べて書いているのだが、そんなことをしているとますますこわいなんて気持ちはなくなる。)
 「だれのものとも知られぬ」というのんびりした音の響き、「眠らなければならない」という音のもったりした感じもいいなあ。「だれのものとも知られぬ」には「ら」行の交錯と「のものとも」の母音「お」の連続が美しい。「眠らなければならない」は「ら」行と「な」の繰り返しが美しい。そして、その2行は「ら」行の交錯で重なり合った時、「「のものとも」の母音「お」、「な」の母音「あ」の距離と「いろ」を浮かび上がらせる。ふいに、そこに「音楽」が浮かび上がる。
 あ、音楽こそが「涅槃」と私は感じてしまうのだ。

 もっとも、榎本はこういう「音楽」には関心はないかもしれない。タイトルは音楽に関係しているが、榎本のことばの運動の基本は音楽からも、音そのものからも遠いところにあるように思える。
 後半の「散文」部分。

いくつもの鋭い閃光が走り、その軌跡をたどるようにして右手を動かし始めるのならば、それはたしかに漲るような緊張への憧れとして錯綜する空間を模倣していることになる。ただし刻印されたそれぞれの光度によってたちまち眩しげに目を細めてしまっては、幾度目かの闇への回帰をふたたびくりかえすことになり、また始めに立ち返り、火花の飛び交うさまを想像し、それを具象化せざるを得ない。

 最後の「それを具象化せざるを得ない」の「それ」がわかりにくい。「火花のさま」(舞える部分に出てくる「鋭い閃光」)だろうか。「具象化」とは「模倣」であるかもしれない。--榎本は、つまりチェロを弾く手の動きを描いていることになる。
 そう了解しても(誤読しても)、「それ」はあいまいすぎる。
 「それ」など、榎本にとってはどうでもいいのである。榎本がここで書きたいのは「想像」(つまり具体的には存在しないもの、頭の中に存在するもの)と「具象」の対比なのである。「想像」ということばを書いたから「具象」ということばが呼び出されてきて、それを書いているだけなのだ。「それ」は、いわば「想像」と「具象」の「接着剤」である。
 榎本のことばを動かしているのは、あることばが別のことばを呼び寄せる力である。ことばとことばの、意識されない「接着剤」である。「漲るような緊張」というときの「漲る」の安直さは「錯綜する」によって強化され、「憧れ」は「模倣」ということばによって「意味」を深める。そのとき、書かれていることばをつらぬく「接着剤」が、繰り返し出てくる「その(軌跡)」「それ(は)」「それぞれ」「それ(を)」であり、その「錯綜」によってつくりあげられる「複文」という構造である。そして、そのとき榎本の無意識を動かしているのは「音」ではなく漢字熟語の字面であるように私には感じられる。榎本は漢字を「視力」でとらえて、その熟語のなかの「接着剤」にひかれているように思える。「漢字熟語」の「接着剤」を、和語(?)のなかに「引用する」ための「比喩」が「その」(それ)などの指示代名詞なのだ。
 (あ、なんだか、ことばが走りすぎているね。)
 言い換えると(言い換えられるかなあ……)、漢字熟語は漢字が密着することで単独では存在しえない強い力を持つようになる。単独の漢字よりも熟語の方がなんとなくパワフルに感じる。たとえば「想う」よりも「想像」の方がシャキッとしているような印象がある。これはたぶん、「想う」(思という漢字をあてるのではなく想という漢字をあてることにも一種の文字の力が働いているが)ということばは小さい子どもでもつかうが(ただし、子どもの場合は想の字は頭の中に思い浮かばないだろう)、「想像」となると少し学習したあとでないとつかえない。「頭」がことばに参加することによって漢字熟語は動いている。「頭」がいわば「接着剤」として動いていることになる。この「接着剤」の力は、きちんと分析して説明しようとすると、まあ、よくわからないものだけれど。
 この漢字熟語に働いている「接着剤」力、効用を、「日本語」というか「和語」にどうやって組み込むか。想像を「像を想う」という形にしてもピンとこない。「頭」を何かに向けて強く支配する感じにはならない。
 けれど。
 「その」像を想う--これはどうだろう。「像」の前にある「その」、その「その」が指しているのは何? 「頭」はどうしてもことばをさかのぼって何かを探さないといけない。何かを探してきて、「その」に結びつけないといけない。この「結びつけ」が「接着剤」だね。この「接着剤」としての効用をもつ「その」を榎本は少し強引につかう。「その」をひきずりまわして酷使する。そこに榎本の「文体」と「思想」がある。
 この強引な「文体」そのもののなかに、榎本自身の「至福」がある。強引さ、そういうことができる力に酔っている、陶酔している、恍惚となっている感じが、あふれている。ひとが恍惚としている様子を見るのは、私は、けっこう好きである。少なくとも悪い気はしない。楽しくなる。


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする