北川透『海の古文書』(8)(思潮社、2011年06月15日発行)
「六章 出現罪」。
「出現罪」ということばは宮沢賢治の「ペンネンネンネンネン・ネムムの伝記」に「出現」している--と北川は書いている。そのことばに刺激されて、北川は「幻惑罪、あるいは幻滅罪」という断章を書いている。
ここには何が書かれているのか。
まず「幻惑罪」「幻滅罪」ということばが書かれている。それは賢治が書いた「出現罪」のように、実際には存在しない(と、思う)罪である。作者(宮沢賢治と北川)が作り上げた罪である。「造語」である。
そして、その「造語」を賢治も北川も「論理的」に説明している。「論理的」といっても、それがほんとうに論理的であるかどうか、よくわからない。「論理的」を装っているという方がいいと思う。
--というのは、適切な説明にはなっていないかもしれない。
ここでは、ことばの不思議さが、逆説的(?)に証明されている。
ことばは、ことばをつなげると、そこに「論理」というものをでっちあげることができる。「論理」というのは、ことばのつながりのことなのである。どんなでたらめであっても、つないでしまえばそれが「論理」になる。あることを「説明」することになる。
「吐き気がするような低劣、性的倒錯、非論理的曖昧、バカ、白痴、ファルスに戯れて、あんたはん、限りなく無型だって。」とことばをつなげれば、そこに「常軌を逸したでたらめ」な「あんたはん」という人間が見えてくる。そんな人間がいようがいまいが、ことばをつづければ、そのつながりによって、そういう人間が見えてくる。
これは、ことばと存在のことを考えると、とても不思議である。
ことばは「もの(対象)」を指し示すだけではなく、「もの(対象)」を作り上げてしまうのだ。「あんたはん」が最初に存在していて、それをことばにしたのが「吐き気がするような低劣、性的倒錯、非論理的曖昧、バカ、白痴、ファルスに戯れて、」ではなく、その一連のことばによって、北川は「あんたはん」という人間を作り上げている。
ことばは「いま/ここ」にないもの(いないもの)を呼び出すことができるのである。創作することができるのである。
言い換えよう。
「統辞法」ということばが作品の中に出てくるが、--私はこういうことには詳しくはない(まったく知らない)ので、適当なことを書くが--統辞法とは、ことばを動かすときの一定の決まりのことだろう。よく国語の試験で、いくつかのことばを並べ替えて「意味の通る文章」をつくるというのがあるが、その「ことばを並べ替えて意味が通るようにする」決まりのようなことを指していると思う。
そして、不思議なことに、その「統辞法」にのっとってことばを動かせば、そこに「意味」が生まれてきてしまう。つまり、いままでそこにはなかったものが存在してしまう。「統辞法」から「ずれ」てしまうと、たとえば「助詞」ひとつでも「が」を「を」と間違えると「意味」がわからなくなるが、「統辞法」さえ守れば、なんとなく、そこに「意味」が成立してしまう。
具体的にいうと……。
「処女膜を喰い破って生誕した、可愛い赤ちゃんの老いた産声」というような「矛盾」さえ、「意味」として理解できるものになる。「可愛い赤ちゃん」がときには信じられないくらい汚い(老いた人間のような)泣き声(産声)を発することも可能性としてあるからだ。この北川の書いた文章の助詞を少しいじって、「処女膜が喰い破って生誕した、可愛い赤ちゃんを老いた産声」に変えてみると、意味がわからない--というか、「読めない」文章になってしまう。
これはどういうことかというと、「統辞法」さえ守れば、文章が成り立つということである。そして文章が成り立つなら、そこに「意味」が出現し、「意味」があるなら「もの(対象)」も存在するはずだということになる。論理物理学と実証物理学のようなものである。現代では、物理学はまず「論理」が先にあり、それを実験で説明する。事実を確認する。--そういうことが、「文学」でもできるのである。いや、文学は、そういう領域でこそ動くもの、生まれるものかもしれない。
で、私が何を書きたいかというと……。北川のこの作品から何を感じたかというと……。
北川は、「文体」をどこまで増やすことができるか、ということを「実証」しようとしているのである。それは北川がこれまでにどれだけ多くの「文体」を体験してきたかを再現するということと同じである。
この詩集には、M、O、H、それに「わたし(北川?)」という基本的な登場人物がいる。(それ以上にたくさんいると思うが……)。それぞれの人間は、それぞれにことばを語る。そのことばは、それぞれに「意味」を持っている。
そして不思議なことに、それぞれの「意味」の奥には、無意識の「統辞法」が働いている。共通の「統辞法」が働いている。「統辞法」が共有されているから、そこで語られることが「理不尽」であっても「意味」がわかってしまう。
これは、ある意味では、とてもおそろしいことである。
ことばはどんなに「自由」に見えても、つまり、どんなふうに「造語」をつくりあげ、でたらめを書いているようであっても「統辞法」から逃れられていないのである。
これは、また、逆説的といえばいいいのかどうかよくわからないのだが、北川がほんとうにしてみたいのは「統辞法」の破壊なのではないか、と想像させる。
どこまでも暴走することば--それは、実のところ、北川の体験した「過去」を引きずっている。「過去」からの「統辞法」のなかで動いている。でたらめ(?)を書けば書くほど「統辞法」の揺るぎなさが浮かび上がるという「矛盾」が起きる。
この「矛盾」を突き抜けて、「日本語共有の統辞法」ではなく、「北川独自の統辞法」を思い描き、北川はことばと戦っている。「統辞法」そのものと戦っているように感じられる。
この戦いを「罪」ということばで浮かび上がらせているも、とてもおもしろい。「統辞法」を破壊することは、きっといちばん大きな文学上の「罪」なのである。だからこそ、「罪」を目指しているのである。

「六章 出現罪」。
「出現罪」ということばは宮沢賢治の「ペンネンネンネンネン・ネムムの伝記」に「出現」している--と北川は書いている。そのことばに刺激されて、北川は「幻惑罪、あるいは幻滅罪」という断章を書いている。
吐き気がするような低劣、性的倒錯、非論理的曖昧、バカ、白痴、ファルスに戯れて、あんたはん、限りなく無型だって。うおっ。無系、無為、無意味にして空と化す、だなんてムチャラクチャラに、ムムムムムムーブメント追求し、噛みつき、飲み込み、消化し、排泄する一本の無官となり、無冠となり、無管となること。(略)権力の統辞法が、襤褸切れを継ぎはぎしてこしらえた、かの懐かしい童謡の処女膜を喰い破って生誕した、可愛い赤ちゃんの老いた産声。ああ、その気色悪いその産声によって、よいか、ナンジは幻惑罪、あるいは幻滅罪として裁かれる。
(谷内注・「幻惑罪、あるいは幻滅罪」はゴシック体で印刷されている。)
ここには何が書かれているのか。
まず「幻惑罪」「幻滅罪」ということばが書かれている。それは賢治が書いた「出現罪」のように、実際には存在しない(と、思う)罪である。作者(宮沢賢治と北川)が作り上げた罪である。「造語」である。
そして、その「造語」を賢治も北川も「論理的」に説明している。「論理的」といっても、それがほんとうに論理的であるかどうか、よくわからない。「論理的」を装っているという方がいいと思う。
--というのは、適切な説明にはなっていないかもしれない。
ここでは、ことばの不思議さが、逆説的(?)に証明されている。
ことばは、ことばをつなげると、そこに「論理」というものをでっちあげることができる。「論理」というのは、ことばのつながりのことなのである。どんなでたらめであっても、つないでしまえばそれが「論理」になる。あることを「説明」することになる。
「吐き気がするような低劣、性的倒錯、非論理的曖昧、バカ、白痴、ファルスに戯れて、あんたはん、限りなく無型だって。」とことばをつなげれば、そこに「常軌を逸したでたらめ」な「あんたはん」という人間が見えてくる。そんな人間がいようがいまいが、ことばをつづければ、そのつながりによって、そういう人間が見えてくる。
これは、ことばと存在のことを考えると、とても不思議である。
ことばは「もの(対象)」を指し示すだけではなく、「もの(対象)」を作り上げてしまうのだ。「あんたはん」が最初に存在していて、それをことばにしたのが「吐き気がするような低劣、性的倒錯、非論理的曖昧、バカ、白痴、ファルスに戯れて、」ではなく、その一連のことばによって、北川は「あんたはん」という人間を作り上げている。
ことばは「いま/ここ」にないもの(いないもの)を呼び出すことができるのである。創作することができるのである。
言い換えよう。
「統辞法」ということばが作品の中に出てくるが、--私はこういうことには詳しくはない(まったく知らない)ので、適当なことを書くが--統辞法とは、ことばを動かすときの一定の決まりのことだろう。よく国語の試験で、いくつかのことばを並べ替えて「意味の通る文章」をつくるというのがあるが、その「ことばを並べ替えて意味が通るようにする」決まりのようなことを指していると思う。
そして、不思議なことに、その「統辞法」にのっとってことばを動かせば、そこに「意味」が生まれてきてしまう。つまり、いままでそこにはなかったものが存在してしまう。「統辞法」から「ずれ」てしまうと、たとえば「助詞」ひとつでも「が」を「を」と間違えると「意味」がわからなくなるが、「統辞法」さえ守れば、なんとなく、そこに「意味」が成立してしまう。
具体的にいうと……。
「処女膜を喰い破って生誕した、可愛い赤ちゃんの老いた産声」というような「矛盾」さえ、「意味」として理解できるものになる。「可愛い赤ちゃん」がときには信じられないくらい汚い(老いた人間のような)泣き声(産声)を発することも可能性としてあるからだ。この北川の書いた文章の助詞を少しいじって、「処女膜が喰い破って生誕した、可愛い赤ちゃんを老いた産声」に変えてみると、意味がわからない--というか、「読めない」文章になってしまう。
これはどういうことかというと、「統辞法」さえ守れば、文章が成り立つということである。そして文章が成り立つなら、そこに「意味」が出現し、「意味」があるなら「もの(対象)」も存在するはずだということになる。論理物理学と実証物理学のようなものである。現代では、物理学はまず「論理」が先にあり、それを実験で説明する。事実を確認する。--そういうことが、「文学」でもできるのである。いや、文学は、そういう領域でこそ動くもの、生まれるものかもしれない。
で、私が何を書きたいかというと……。北川のこの作品から何を感じたかというと……。
北川は、「文体」をどこまで増やすことができるか、ということを「実証」しようとしているのである。それは北川がこれまでにどれだけ多くの「文体」を体験してきたかを再現するということと同じである。
この詩集には、M、O、H、それに「わたし(北川?)」という基本的な登場人物がいる。(それ以上にたくさんいると思うが……)。それぞれの人間は、それぞれにことばを語る。そのことばは、それぞれに「意味」を持っている。
そして不思議なことに、それぞれの「意味」の奥には、無意識の「統辞法」が働いている。共通の「統辞法」が働いている。「統辞法」が共有されているから、そこで語られることが「理不尽」であっても「意味」がわかってしまう。
これは、ある意味では、とてもおそろしいことである。
ことばはどんなに「自由」に見えても、つまり、どんなふうに「造語」をつくりあげ、でたらめを書いているようであっても「統辞法」から逃れられていないのである。
これは、また、逆説的といえばいいいのかどうかよくわからないのだが、北川がほんとうにしてみたいのは「統辞法」の破壊なのではないか、と想像させる。
どこまでも暴走することば--それは、実のところ、北川の体験した「過去」を引きずっている。「過去」からの「統辞法」のなかで動いている。でたらめ(?)を書けば書くほど「統辞法」の揺るぎなさが浮かび上がるという「矛盾」が起きる。
この「矛盾」を突き抜けて、「日本語共有の統辞法」ではなく、「北川独自の統辞法」を思い描き、北川はことばと戦っている。「統辞法」そのものと戦っているように感じられる。
この戦いを「罪」ということばで浮かび上がらせているも、とてもおもしろい。「統辞法」を破壊することは、きっといちばん大きな文学上の「罪」なのである。だからこそ、「罪」を目指しているのである。
![]() | 谷川俊太郎の世界 |
北川 透 | |
思潮社 |
