詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(8)

2011-06-23 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(8)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「六章 出現罪」。
 「出現罪」ということばは宮沢賢治の「ペンネンネンネンネン・ネムムの伝記」に「出現」している--と北川は書いている。そのことばに刺激されて、北川は「幻惑罪、あるいは幻滅罪」という断章を書いている。

吐き気がするような低劣、性的倒錯、非論理的曖昧、バカ、白痴、ファルスに戯れて、あんたはん、限りなく無型だって。うおっ。無系、無為、無意味にして空と化す、だなんてムチャラクチャラに、ムムムムムムーブメント追求し、噛みつき、飲み込み、消化し、排泄する一本の無官となり、無冠となり、無管となること。(略)権力の統辞法が、襤褸切れを継ぎはぎしてこしらえた、かの懐かしい童謡の処女膜を喰い破って生誕した、可愛い赤ちゃんの老いた産声。ああ、その気色悪いその産声によって、よいか、ナンジは幻惑罪、あるいは幻滅罪として裁かれる。
     (谷内注・「幻惑罪、あるいは幻滅罪」はゴシック体で印刷されている。)

 ここには何が書かれているのか。
 まず「幻惑罪」「幻滅罪」ということばが書かれている。それは賢治が書いた「出現罪」のように、実際には存在しない(と、思う)罪である。作者(宮沢賢治と北川)が作り上げた罪である。「造語」である。
 そして、その「造語」を賢治も北川も「論理的」に説明している。「論理的」といっても、それがほんとうに論理的であるかどうか、よくわからない。「論理的」を装っているという方がいいと思う。
 --というのは、適切な説明にはなっていないかもしれない。
 ここでは、ことばの不思議さが、逆説的(?)に証明されている。
 ことばは、ことばをつなげると、そこに「論理」というものをでっちあげることができる。「論理」というのは、ことばのつながりのことなのである。どんなでたらめであっても、つないでしまえばそれが「論理」になる。あることを「説明」することになる。
 「吐き気がするような低劣、性的倒錯、非論理的曖昧、バカ、白痴、ファルスに戯れて、あんたはん、限りなく無型だって。」とことばをつなげれば、そこに「常軌を逸したでたらめ」な「あんたはん」という人間が見えてくる。そんな人間がいようがいまいが、ことばをつづければ、そのつながりによって、そういう人間が見えてくる。
 これは、ことばと存在のことを考えると、とても不思議である。
 ことばは「もの(対象)」を指し示すだけではなく、「もの(対象)」を作り上げてしまうのだ。「あんたはん」が最初に存在していて、それをことばにしたのが「吐き気がするような低劣、性的倒錯、非論理的曖昧、バカ、白痴、ファルスに戯れて、」ではなく、その一連のことばによって、北川は「あんたはん」という人間を作り上げている。
 ことばは「いま/ここ」にないもの(いないもの)を呼び出すことができるのである。創作することができるのである。
 言い換えよう。
 「統辞法」ということばが作品の中に出てくるが、--私はこういうことには詳しくはない(まったく知らない)ので、適当なことを書くが--統辞法とは、ことばを動かすときの一定の決まりのことだろう。よく国語の試験で、いくつかのことばを並べ替えて「意味の通る文章」をつくるというのがあるが、その「ことばを並べ替えて意味が通るようにする」決まりのようなことを指していると思う。
 そして、不思議なことに、その「統辞法」にのっとってことばを動かせば、そこに「意味」が生まれてきてしまう。つまり、いままでそこにはなかったものが存在してしまう。「統辞法」から「ずれ」てしまうと、たとえば「助詞」ひとつでも「が」を「を」と間違えると「意味」がわからなくなるが、「統辞法」さえ守れば、なんとなく、そこに「意味」が成立してしまう。
 具体的にいうと……。
 「処女膜を喰い破って生誕した、可愛い赤ちゃんの老いた産声」というような「矛盾」さえ、「意味」として理解できるものになる。「可愛い赤ちゃん」がときには信じられないくらい汚い(老いた人間のような)泣き声(産声)を発することも可能性としてあるからだ。この北川の書いた文章の助詞を少しいじって、「処女膜が喰い破って生誕した、可愛い赤ちゃんを老いた産声」に変えてみると、意味がわからない--というか、「読めない」文章になってしまう。
 これはどういうことかというと、「統辞法」さえ守れば、文章が成り立つということである。そして文章が成り立つなら、そこに「意味」が出現し、「意味」があるなら「もの(対象)」も存在するはずだということになる。論理物理学と実証物理学のようなものである。現代では、物理学はまず「論理」が先にあり、それを実験で説明する。事実を確認する。--そういうことが、「文学」でもできるのである。いや、文学は、そういう領域でこそ動くもの、生まれるものかもしれない。

 で、私が何を書きたいかというと……。北川のこの作品から何を感じたかというと……。

 北川は、「文体」をどこまで増やすことができるか、ということを「実証」しようとしているのである。それは北川がこれまでにどれだけ多くの「文体」を体験してきたかを再現するということと同じである。
 この詩集には、M、O、H、それに「わたし(北川?)」という基本的な登場人物がいる。(それ以上にたくさんいると思うが……)。それぞれの人間は、それぞれにことばを語る。そのことばは、それぞれに「意味」を持っている。
 そして不思議なことに、それぞれの「意味」の奥には、無意識の「統辞法」が働いている。共通の「統辞法」が働いている。「統辞法」が共有されているから、そこで語られることが「理不尽」であっても「意味」がわかってしまう。
 これは、ある意味では、とてもおそろしいことである。
 ことばはどんなに「自由」に見えても、つまり、どんなふうに「造語」をつくりあげ、でたらめを書いているようであっても「統辞法」から逃れられていないのである。

 これは、また、逆説的といえばいいいのかどうかよくわからないのだが、北川がほんとうにしてみたいのは「統辞法」の破壊なのではないか、と想像させる。
 どこまでも暴走することば--それは、実のところ、北川の体験した「過去」を引きずっている。「過去」からの「統辞法」のなかで動いている。でたらめ(?)を書けば書くほど「統辞法」の揺るぎなさが浮かび上がるという「矛盾」が起きる。
 この「矛盾」を突き抜けて、「日本語共有の統辞法」ではなく、「北川独自の統辞法」を思い描き、北川はことばと戦っている。「統辞法」そのものと戦っているように感じられる。

 この戦いを「罪」ということばで浮かび上がらせているも、とてもおもしろい。「統辞法」を破壊することは、きっといちばん大きな文学上の「罪」なのである。だからこそ、「罪」を目指しているのである。





谷川俊太郎の世界
北川 透
思潮社



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小松弘愛「うつ」

2011-06-23 08:36:32 | 詩(雑誌・同人誌)
小松弘愛「うつ」(「兆」150 、2011年05月10日発行)

 小松弘愛「うつ」は、新聞の投稿欄の選者をしている小松が出会った作品から書き起こしている。投稿作品は「うつ病を治すには/規則正しい生活をすること」から始まっている。小松は、交ぜ書きに出会った時、ときどき手を加えて漢字熟語に変えているという。ところが。

 「うつ病」には手を加えなかった。「うつ」を煩瑣な二十九画の漢字「鬱」に置き換えるのは病気によくないかもしれない。書道展なんかで見る、やわらかい「をんなもじ」を思い浮かべながらひらがなのままにした。

 そしてこれから、ことばが軽々といろんなところへ飛んで行く。

 わたしは教壇に立っていたとき、「佐藤春夫『田園の憂鬱』」と板書する機会が何度かあり、さして苦労もせず「鬱」の字がかけるようになっていた。そして、この小説のラストで繰り返される「おお、薔薇(そうび)、汝病めり」のフレーズと共に「鬱」の字に愛着を覚えるようになっていた。

 酒造りによい水の湧き出る山間(やまあい)の土地で、同人誌の「夏の合宿」が行われた。そこでは俳句と短歌を一緒にしての、半ば遊びのような「句会・歌会」をもつことが恒例となっていた。「年に一度の歌人」になって出したわたしの一首。

 人前でサラサラサラと鬱の字を書きうれしく躁の側(がわ)へと

 「おお薔薇、汝病めり」の「病」の文字に、投稿作品の「うつ病」と重なる部分があるが、そのほかはあまり関係ない。小松の教員時代の思い出が書かれ、同人誌の集まりで歌を詠んだことが書かれている。
 そこでは、もっぱら「漢字・鬱」のことが書かれている。投稿作品の「病気」のことから、どんどん逸脱していく。
 変だねえ。
 でも、その変だなあ、と思ったころをみはからって(?)、

 「鬱」から「躁」へと言えば、この二つを繰り返しての「躁鬱」気質に悩みながら、多くの小説を書いてきた北杜夫のことが思い出され、投稿詩の「評」もこのことに触れてみようと書きはじめたがうまくゆかず、「病跡学」を引いて、という仕儀になった。

 思い出したように、最初の投稿詩にもどる。もどるけれど、何やら完全にもどるというわけではない。
 この、行ったり来たりというか、逸脱しながらも、ことばが動いていく感じが、「散文詩」らしくて自然だなあと感じる。行分け詩の場合、「もどってくる」ということが、ちょっとむずかしいかもしれない。書いたことばを捨てながら、先へ先へと暴走する。そして、予定外のものを書いてしまう--そういう時に、行分け詩は輝くが、散文詩の場合は事情が違う。
 きのう読んだ林嗣夫の「星座」もそうであったが、「散文詩」の場合、ことばのひとかたまりがひとつの時間を持つ。ことばが先へ進むと同時に、そこで「停滞」する。立ち止まってしまう。多様なものを含んだひとかたまりが、必然的にことばが描き出すものを引き留める。
 その時間が別の段落(かたまり)の時間と重なり、同時にずれる。
 その重なりとずれの間に、作者の「肉体」がふわりと浮いてくる。ふわりと浮いてくる「肉体」を感じる時がある。
 そうして、あ、時間の重なりとずれを見ているのか、それとも作者の「肉体」を見ているのか、一瞬わからなくなる瞬間がある。--まあ、これは「方便」で、作者の「肉体」の浮かび上がり方に、なんとはなしに安心感を覚えるといった方がいいかもしれない。
 小松の作品でいうと、「鬱」の画数を手を動かしながら数えている姿が見えてくる。「鬱」という字を書く姿が見えてくる。私は「鬱」という漢字が書けないので、小松の姿が見えるといっても「完全」ではないのだが、ともかく「手」の動きが小松として浮かび上がってくる。
 詩に書いてあることとは無関係に、というと言い過ぎになるけれど、あ、ここに人間がいる。そうすると、何か「時間」がとても落ち着くのである。「時間」というのは抽象的なものだが、突然、具体的なものに見えてくる。
 これは魅力的だなあ。
 「肉体」をもったほんとうの人間がいる、そしてその肉体のなかで整理しようとして整理できない何かが動いている。その動きに困惑しながらも、なんとか起きていることをことばにしようとして、その肉体は動いていく。
 それを完全に(完璧に?)追いかけるのは、なかなかきびしい(むずかしい、めんどうくさい)けれど、まあ、むずかしいことは、私はしない主義。
 小松には会ったことがないけれど、会えばきっと「鬱の字書いて見せて」なんてことを口走ってしまいそうなくらい、その「肉体」に親しみを感じるのだ。その「鬱」の字を覚える(習得する)までの時間の確かさに安心感を覚えるのだ。

 詩は、このあと、ことばをねじ伏せる、でもなく、ことばにまかせる、でもなく、静かに折り合いをつけている。「うつ」と「鬱」を調和させている。--でも、これは、付録(?)。「鬱」の字を書く小松の「肉体」の存在が、この詩の静かな魅力だ。




銃剣は茄子の支えになって―詩集
小松 弘愛
花神社



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