詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(7)

2011-06-22 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(7)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「五章 スケルツォ 狂女の日記風に」。この章では、私は二つのことを書きたい。深津のことはどこかで緊密につながっているのだが、そのつながりをうまくことばにできそうにないので、とりえあず別々に書いてみる。

 まず、一点目。
 ここに書かれているのは、確かに「日記」なのかもしれない。日付がある。ただし、その日付は肝心の部分が伏せ字である。

二〇〇×年×月×日

 で始まり、その日付は「×+1(あるいは2)日」という具合には動いて行かない。ふつうに考えれば「×日」の次の日記は「×+1日」ということになるが、そうではないかもしれない。「×-1日」があってはいけないということはないだろう。

 私が考えたのは、こういうことである。
 私たちが「過去」を語る時、その「過去」とはほんとうの「過去」ではなく「いま/ここ」から呼び出した「過去」である。当然、その「過去」に関することばには、「過去→いま」という時間のなかでおきたことが反映している。どんな「過去」でも「いま/ここ」で書く「過去」は、あくまで「いま」から見た「過去」である。
 「いま」を書く時はどうだろうか。「いま」を書く時も、やはり「過去」は影響してくる。「いま」は単独で「いま」があるのではなく、「過去」からつづいているもの、「過去」から断絶したものがあって「いま」である。その連続と断絶を具体的に書こうとすれば、どうしても「過去」についても書かなければならない。
 「日記」は「その日」の出来事、その日の思いを書くものであるけれど、どうしてもそこには「過去」が影響している。「その日」というものはない。だから「×月×日」に書いたとしても、それが「×日」だけのこととは限らないし、次の日に書いたことがそのまま次の日のことであるとは限らない。
 人間の時間は、「物理」の時間とは違って、何か別のものを引きずっている。

 でも、その別のものって、何?

 北川は「それ故に……。」とすべての「日記」の書き出しをはじめているが、人間が引きずっているものは、たぶん、その「それ故」なのだ。
 「それ故」って何? 「それ」は何を指している?
 あ、これは面倒くさいね。説明ができないね。うまく「過去」(それに「先行する」何か)を、ことばにできないこともある。何かことばにならないまま、「過去」を引きずる--そういうことの方が多いのだ。あるいは、あらゆることが「それ故」になりうるといった方がいいかもしれない。
 「×月×日」というのは、「きょう」であっても、「過去」を引きずってしまっているのだ。

 それ故に……。それ故さんたちが、不意にこの貧しいマンションのワンルームに押し寄せてきた。それ故さんの代表のそれ故氏は、素っ裸のまま、直立不動の姿勢で敬礼した。(略)……それ故氏は、空中に突き出した、かちかちのダダダダウンコにすがりつき、掻き毟り、興奮のあまり、黒い毛を逆立てて震わせて、遂にその場に倒れてしまった。その衝撃で、毛の生えた埴輪のようなそれ故氏の身体には、無数の罅が入り、欠けて歪んで一層複雑に単純化した穴から、ぼろぼろと干からびたミミズや丸虫、小石や使い古されたことばの破片が、ごちゃまぜになって、こぼれ落ちたのだった。それ故に、それ故氏は、この上もなく痛ましかった。それ故に、もっと痛ましかったのは、それ故氏の背後に詰めかけていたそれ故軍団が、それ故氏をたすけ、介護するどころか、代表を見捨てて、一斉に逃散してしまったことだ。それ故に、死語のゴミと化したそれ故氏を、早く片づけるように、これからわたしは管理人に伝えに行かなければならないのだ。

 「使い古されたことば」「死語のゴミ」。「それ故氏」(あるいは、それ故、という表現がもたらすもの)を特徴づけるのは、「古い」「死」であるだろう。「過去」は「古い」であり、「死」なのだ。それは、いつでも「いま」を追いかけてくる。

 次の「×月×日」の日記。

 それ故に……。わたしにその予感があった。それ故に……。それ故氏とその一党が押し寄せてくる前に、あの擂鉢状の地勢の中に造成された団地から、ひそかに脱出し、このワンルームマンションに移ったのだった。あいつらが、それ故に……を連発し、私の正体を暴きたてないではいられないからだ。

 「過去」があるから、過去を振り切るために引っ越した。「過去」のことを「ゆれ故軍団」は「正体」と定義している。「正体」と定義する、つまり「過去」こそが「真実」であるという主張のもとに「過去」はいつでも、「いま」を追いかけてくる。「いま」を突き破って「過去」を噴出させようとする。生き返らせようとする。過去はけっして遠ざからない。そして、過去が接近することで、逆に「未来」が「いま」から遠ざかるということが起きてしまう。「いま」が「未来」へ向かう運動が邪魔されてしまう。
 矛盾が起きてしまう。
 「いま」は「未来」へ向かっているはずなのに、接近してくるのは「過去」である。そして、その「接近」の方法が「それ故」なのだ。「理由」(論理)なのだ。その論理、その論理のことばは、古い、もはや死語であるけれど、追いかけることをやめない。
 
 息絶え絶えになるまで、わたしの逃亡の責任を追及しまくるやつら。でも、わたしは、何時だって、わたしからもっとも遠い誰かだから、おまえは過激なカラスだっただろう、と言われても、わたしは単なる狂った巻尺だったのかも知れないし、底の破れた郵便受けだったのかも知れない。じっさい、いまもわたしは狂女の振りをして日記を書いている。

 「それ故」は「わたし」と「わたし」を結びつける。結びついた時、つまり「わたし=わたし」という関係が「ゆれ故」によって証明された時、それを「正体」と呼ぶのが「それ故軍団」の「数学」である。「ことばの論理」である。「過去」は全体に切断されないものなのである。
 最後の方の「日記」。

それ故に……。われらの王と共に戦え。それ故に……。追うから逃げるな。それ故に……。被告を仮想する無数の時間の糸に絡まれた彼らとわたし。それ故に……。降り注いでいる、真昼の冷たい月の光の下に転がされ。それ故に……。昆虫は羽根をもぎ取られた。
       (谷内注・「もぎ取る」の「もぐ」は原文は漢字。手ヘンに宛てる)

 この「日記」は、私が最初に書いたように「×日+何日」ではない。ここに書かれているのは「×日-何日」、つまり「過去」である。「それ故……」ということばを生きる時、そこでは「時間」は「過去」にならざるをえないのである。

 けれども「わたし」はいつも「わたし=わたし」という関係を生きてはいなかったのだ。この詩集の「基本論理」は「わたし」は「わたしではない」である。「ひとり」は「ひとり」ではない。「ひとり」は「ふたり」になる。「ふたり」は「ひとり」になる。
 イコール(わたし=わたしである)を否定しながら、わたしではなく「なる」。その運動が、この詩集のことばの登場人物たちの「基本」である。

 この「ではない」を利用して、何かに「なる」というのが「詩」なのだ。「それ故に」という「因果関係」を断ち切って、自由に運動していくのが「詩」である--というのは、唐突な定義であるけれど、このことと、私がもうひとつ書きたいことがあると冒頭に書いたこととが関係がある。

 で、もうひとつのこと。
 この「海の古文書」は「現代詩手帖」で連載されたものである。連載詩を書く時、詩人はどんな構想を持っているのだろうか。北川は12回(?)の全体の構造を最初から設計図として持っていたのだろうか。
 「設計図」(つまり、到達すべき世界ともいうべきもの)を持っていても、持っていなくても、まあ、ことばは動かしていけると思う。それは散文の場合も、詩の場合も同じだと思う。私の大好きな森鴎外の「渋江抽斎」は「設計図」なしに書かれた散文の大傑作である。その「渋江抽斎」と比較しながら「散文」と「詩」のことを考えてみると……。
 「散文」の場合、最初に書いたことを「事実」と踏まえて、次の章のことばが動いていく。「それ故」ということばで「事実」を踏まえるかどうかは別にして、「事実」を積み上げることで、ことばの世界を広げていく。
 ところが「詩」はそうではなく、「事実」から、あるいは事実の積み上げる「ストーリー」から逸脱していく。ことばが「事実」から離脱して、別の次元へいってしまう。そこから「事実」を逆照射するというのが「詩」である。
 「散文」と「詩」は、ことばの運動がまったく逆なのだ。
 「詩」は「過去」を(先に書いたことを)踏まえないわけではないが、尊重しない--いや、それから「自由」になろうとする。そういうことばの運動が「連載」の形で動かすというのは、まあ、一首の「矛盾」である。「連載」できないのが「詩」なのだと思う。けれど、北川は「連載」で詩を書く。
 このとき--ちょっとおもしろいことが起きる。
 「五章」の「狂女日記」は「四章」にでできた魯迅の「狂人日記」を踏まえている。引き継いでいる。
 前に書いた「事実」を踏まえるという「散文」の「痕跡」が「それ故」ということばのなかに、残っている。「連載」の形式をとると、どこかで、それは「散文」を引き寄せてしまう。--といっても、これは私の印象にすぎないのだが……。
 この「五章」では、北川は「散文」と「詩」のせめぎ合いのなかで書いているという感じがする。そして、そのせめぎ合いは「連載詩」という形式を選んだために、より強くなっているように思える。

 (「渋江抽斎」のことを書いてしまったので、追加。この作品が不思議なのは、評伝であるにもかかわらず、主役の渋江抽斎が死んでからも作品が延々とつづくことである。死ぬまでが全体の三分の一、残り三分の二には生きた渋江抽斎は出てこない。前に書いた「事実」を踏まえながら進むのが「散文」のことばという定義をあてはめると、とても変な作品ということになる。渋江抽斎が死んでしまったあと、この評伝は散文であることを超越してしまう。散文であるけれど、散文ではない。森鴎外にしか書けなかった「詩」になっている、と私は思っている。--ほんとうは、この森鴎外の「詩」と、北川の書いている「詩」のなかにあらわれる「散文」との対比みたいなことを書きたいのだが、まとまりきらない。)

続・北川透詩集 (現代詩文庫)
北川 透
思潮社



人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダニー・ボイル監督「127時間」(★★★★)

2011-06-22 19:54:04 | 映画
監督 ダニー・ボイル 出演 ジェームズ・フランコ、岩・・・よりも水

 予告編を見た時から「ストーリー」が分かる映画であるが・・・。
 あ、ストーリーは、まあ、予想どおりなのだが、その前がおもしろいねえ。アウトドアのための準備がてきぱきと進む。カメラの切り替えがリズミカルである。留守電の母親の声や、クローゼットの棚の上で手が届かなかった折りたたみナイフ、歩きまわる主人公の足の動き・・・。
 特に美しいと感じたのは、水をポットに満たすシーン。
 蛇口の下にポットを置き、蛇口を開くだけなのだが、そうか、水がポットにいっぱいになる時間で準備ができてしまうのか。実際にはそう言うことは無理で、ポットから水があふれているのだが、そのあふれる水を見ても、いま、あふれたばかりなのだな、と感じさせる新鮮さ(?)がある。部屋の中、水道の水なのに、湧き水みたいだ。ポットの底から湧いてくるみたい。
 このあとも、水の描写がとてもすばらしい。
 岩の割れ目から水に飛び込むシーンのブルーの美しさは当然なのだが、チューブで飲む水(栄養ドリンク?)のチューブから肉体へ流れこむ感じ。流動感。水が重要なポイントになる、ということが暗示されている。
 ポットのなかで少なくなっていく水。袋にため込む尿。それを飲む時の液体の流れ。雨。鉄砲水(の幻・・・)。あるいは、コンタクトを洗浄する工夫。
 映画の大半は、狭い場所で、映し出される素材は限られているのだが、そのなかで水だけが激しく変容する。少なくなればなるほど、その表情(?)というか、少ない水に対して強まってゆく主人公の思いがひしひしと伝わってくる。
 その変化の大きさが、狭い空間を限りなく広げてゆく。その広さは、ポットから喉、体内という動きだけでなく、尿を水がわりに飲む場面に象徴的に表れているのだが、「感覚(味)」にまで踏み込んでゆく。どんな極限状態にあっても、人間の感覚は「もの」に反応する。その瞬間、その狭い空間が一瞬消える。「肉体」が抱え込んでいる「宇宙」の広さというか、そうか、人間はこんなふうに「内部」が大きいのかと驚く。極限に閉じ込められながら、「肉体」そのものを探検し始めるのだ。
 それは、たとえばビデオに残っている女性の胸元を見ながら、オナニーをしようか、「いや、だめだ、やめておけ」と苦悩するシーンにもつながっていく。死ぬかもしれない。そういうときも、こんな無駄(?)なことをしようか、しまいか、悩む。変だけれど、人間の複雑さがいいねえ。狭い所に閉じ込められている――ということを忘れてしまう。
 細部へ細部へと視線が向かうほど、人間の「宇宙」が広がる。
 クライマックスの腕を切断するシーンも同じ。岩に閉じ込められていることを忘れる。神経を切断する瞬間の「痛み」。指で触って「痛い」。ナイフでちょっと触れて「痛い」。どうするんだろうなあ。「気絶するなよ」と言い聞かせながら切ってゆくのだけれど、「壮絶」というのとは違うなあ。何か、誰も知らない「人間」の「いのち」の広がりを獲得してゆく感じがする。「狭い」空間を、人間の「いのち」の巨大さが飲み込み、消化してゆく感じだ。
 で、無事(?)脱出したあとも、水の描写があるね。泥水をごくごく飲む。出会った人にもらった水を飲んで飲んで飲んで飲みほす。それからプールのなかを潜って全身で泳いでゆくシーン。ああ、なんて優しくて、なんて気持ちのいい水なんだろう。

 こういう極限を体験した後、人間はどう変わるだろう。もう、アウトドアの楽しみはやめて、インドア派になる? 主人公は逆だ。自分の「肉体」の内部の広がりの中へ、自然の全部を取り込んでしまうかのように、さらに活動的になってゆく。
 いいなあ。そうなんだろうなあ、と納得させられる。
 ダニー・ボイル作品の中では、「スラムドッグ$ミリオネア」よりはるかにおもしろい。「トレインスポッティング」とどっちがいいか――ちょっと判断が難しい。しかし、傑作であることは間違いない。そういえば、「トレインスポッティング」でも、水が美しかったねえ。世界一汚い水洗トイレにドラッグを落とし、それを拾いに水洗トイレに飛び込む――潜水するシーンの美しさ――やっぱり「トレインスポッティング」の方が好きかな、私は。



トレインスポッティング [DVD]
クリエーター情報なし
角川映画
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林嗣夫「花」「星座」

2011-06-22 12:34:51 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「花」「星座」(「兆」150 、2011年05月10日発行)

 ことばにならないことをことばにしようとする。その矛盾と一緒に詩は生まれる。そして、矛盾の「書き方」にはいくつかある。きのう読んだ河邉由紀恵は「ふわふわの黒いふぁー」という、とてもあいまいなことばをつかっていた。「頭」では絶対にわからないことばである。林嗣夫は、そういうことばはつかわない。あくまで「頭」でもわかることばを追いつづける。
 「花」。

花が倒れた、
といううわさが
いつのまにか広まった

今まで
花のことは忘れていたから
これは小さなニュースである

きっと
深い空のほうに向かって
音もなく倒れこんでいったのだろう

なぜ倒れたのか
倒れることで何が起こったのか

花のなかを流れる時間が
希薄になったためだ、
という人もいれば

花が
花になりすぎたためだ、
という人もいる

いずれにしても
花が倒れることで
世界は一瞬 見通しがよくなったのではないか

しかし
やがて
花が倒れることで空は空の色を失い

風は風ではなくなっていくだろう

 わからないことばはひとつもない。けれど、わからないことはたくさんある。まず、「花」。これは何だろうか。バラ? 菊? 百合? ひまわり? わからない。抽象的である。
 林のことばは簡単なようであって、簡単ではない。直接「頭」に働きかけてきて、「頭」の運動を「抽象」で洗う。「抽象」の世界へと整えていく。
 3連目が特徴的である。
 「深い空のほうに向かって/音もなく倒れこんでいったのだろう」。ここに、「矛盾」が出てくる。「倒れる」というのは立っているものが地に倒れるのである。「空のほうに」倒れるとは「流通言語」ではいわない。「空のほうに」草花はのびる。(木々はのびる。)空のほうに「倒れる」ことはできない。
 できないこと、不可能なことが書かれているので、「頭」は刺激される。どういうことだろう、と考えはじめる。
 「倒れる」には「立っているものが(垂直の状態にあるものが)、地面にその体(?)を横たえること(水平になること)」以外の意味もあるのではないか。
 たとえば「倒れる」には「死ぬ」ということばが含まれていないか。「倒れる」が「死ぬ」なら、死んだ人が「空(天)」へのぼるという言い方をするから、「深い空」へと「倒れる」と「比喩的」に言うことは可能なのではないのか。
 「花」はもしかすると「比喩」かもしれない。バラ、菊、百合、ひまわりというような具体的な「花」の名前を省略したことばではなく、「比喩」である。それは、「誰か」なのかもしれない。花は「比喩」であり、「象徴」なのかもしれない。
 そう思うと「空のほうに」というのもわかる。また2連目の「小さなニュース」というのもわかる。誰それのことを話題にすることはなくなっていた。忘れていた。その人が「死んだ」という知らせとともに、思い出されているのだ。ひとしきり話題になるのだ。
 「比喩」「象徴」とは、ことばの「言い換え」でもある。「頭」で「現実」の存在を思い浮かべながら、それを「別のことば」で言い表す。そのとき、ことばはとても「抽象的」になる。

花のなかを流れる時間が
希薄になったためだ、
という人もいれば

 「花の中を流れる時間」「時間が/希薄にな」る。この「時間」のことを、具体的(?)なことばで言い換えることはむずかしい。林が、花の中にある「何」を「時間」と言い換えたのか、これを言い当てることはとてもむずかしい。
 むずかしいのであるが。
 なんとなくわかったような気もする。なぜか。それは私たちが、「時間が流れる」という表現を知っているからだ。そしてまた「時間」というのは「時計」で計測するものだけをさすことばではないということを知っているからだ。「充実した時間を過ごした」というとき、その「時間」は何分、何時間ではない。時計で測るものとは別の「身体的感覚・感情的印象・精神的印象」を含んでいる。
 「時間」というだれもが知っていることばのなかに、「さまざまな」時間がある。そういうことばのつかい方の「記憶」が、きちんとは意識されないまま動いている。きちんと説明できないまま、動いている。
 「ふわふわの黒いふぁー」は「肉体的」な感覚だったが、「時間」は「頭脳的(抽象的)」な何かなのである。「頭」のなかにあることばも、そういう不透明(?)な動きをする。

花が
花になりすぎたためだ、
という人もいる

 この「花になりすぎた」も、いろいろなことばを動かす。「頂点を過ぎた」という「意味」かもしれないが、「頂点を過ぎる」だけではない。「度を越す」という表現もある。「頂点を過ぎる」と「度を越す」はちょっと違う。かなり違う。違うけれど、どこかで似たところもある。「頭」のなかにある「意味」のいくつかが連絡を取り合って、なんとなく「意味」がわかったような気分になる。
 林のことばは、あくまで「頭」のなかで動くのだ。「頭」のなかにある無意識の「連絡網」を揺り動かして、いままでとは違う「意味」を感じさせるのだ。
 この運動を、「花」だけにとじこめるのではなく、「花」を取り囲むものにまでひろげる。

やがて
花が倒れることで空は空の色を失い

風は風ではなくなっていくだろう

 自然に(野原や花壇で)自然に咲いている「花」のことが書かれているのなら、それは自然の「空」や「風」のことである。けれど「花」が自然の花ではなく、「比喩」「象徴」だとしたら、「空」「風」も「比喩」「象徴」になる。「比喩」「象徴」が重なり合って、それは単に自然のことを書いているだけではなく、私たちが生きるときの人との関係をも書いているのだということがわかる。--「頭」でわかる。

 この「頭」でわかった瞬間に「抒情」が完結する。--この断定は、まあ、性急すぎるかもしれないけれど、私はそんなふうに感じている。

 「頭」のなかにあることばが、いくつかの「意味」を渡り歩きながら、「比喩」(象徴)をくぐりぬけ、「抽象」に耐えられる強度になったとき、そしてそれが林の書いているような自然の美しいもの(たとえば花)と重なったとき、「抒情」は誕生する。美しく、繊細になる。
 林のことばの美しさに気がつく--というのは、実は、自分のなかの美しさに気づくということでもある。私も林のように、こんなふうに美しくなれる可能性がある、と思い、美しくなることをひそかに願うとき、「抒情」は完成する。



 林はもう一篇「星座」という散文詩を書いている。「ことば」の不思議を文学学校で語っている。

言葉がなければ、この世のすべての存在は姿を隠してしまう。「桜」という言葉があるからこそ、桜は意味や価値をまとった「桜」として立ち現われ、そして楽しむことができる。星座の言葉があるからこそ、あの無窮の夜空に水瓶やサソリが姿を現わす。

 「意味や価値」と「立ち現われ」る--ということばが、林の考え方をとてもよくあらわしている。「もの」は「意味や価値」を「まとって」(身につけて)いなければ、人間には「もの」として見えてこない。(姿を隠してしまう。)「もの」が見えるのは、そこに「意味や価値」を見出すからである。そして、その「意味や価値」を「立ち現わ」させるのがことばなのである。
 そして、「意味や価値」が「もの」のなかから「立ち現われる」ものであるとして、「意味や価値」がもし「もの」のなかで「ひとつ」ではないとしたら、どうなるだろう。いくつもの「意味」、いくつもの「価値」がある。そのうちの何かをことばがひっぱりだしてくる。そうして、別のことば(もの)と結びつける。
 このとき、林の考えている「詩」が動く。「花」のように……。

 「星座」では、「もの」から「意味」「価値」を引き出し、「別のもの」と結びつけて、ことばによって「別のもの」を突き動かすという瞬間が書かれている。
 散文詩--と私は先に書いたのだが、短編小説、いや、短いけれど、これは「長篇小説」の世界である。一瞬の感覚(感慨)ではなく、林の言語哲学を語るために考案された言語装置である。

 「花」ではなく、「星座」の方こそ、もっと丁寧に感想を書かなければいけない作品であるということはわかっているのだが、私のことばでは、追いついていけない。傑作である。多くの人に「兆」で読んでもらいたい。





風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス



人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする