北川透『海の古文書』(10)(思潮社、2011年06月15日発行)
「八章 ソフトボール公判 かつて消された、無数の証言の断片が、いま、飛び交っているよ」。
どうことばを追いかけていけばいいのか、よくわからない。--この章まできて、あ、私の読み方は「誤読」をはるかに踏み外して、とんでもないところへ迷い込んでしまったのかな、としばらく反省した。今まで私が書いてきたことを、この章の感想に、どう引き継いでゆけばいいのかわからないのである。接点がなく、突然、違う世界へ迷い込んだ感じがするのである。これはもちろん私の「誤読」のせいなのだが……。
こういうときは、どうするか。
無責任な言い方になってしまうが、今まで書いてきたことは忘れてしまう。「わたし=ことば」とか、「統辞法」とか、あれやこれやを振り払って、ただそこにあることばを読む。
この部分の「……はですね」という「口調」がまず私に強く響いてくる。「主語」の提示。提示したあと、いったん中断し、「動詞(述語)」を単独で動かす。この「切断」と「連続」の「文体構造」が、なんというか、「うさんくさい」。
その「うさんくささ」は、ほんとうは冒頭の「……はですね」から始まっている。
「……」とは何? 「主語」が明記されていない。そのくせ、それが「主語」であることは、助詞の「は」によって明確にされている。「暗黙」の何かなのかもしない。わからないならわからないでいい、わかるひとにだけわかればいい、という「内輪」のことがらなのかもしれない。
「……」が何かわからないまま、その「……はですね」という「主語」の提示の仕方だけが、ここでは次の文へと引き継がれていく。「この日、どこから出されたのか不明の、被告人召喚状は、その召喚場所を、国立仮装病院心療内科の一九七三号室に指定していました。」とつづけてしまえば、主語「召喚状」と述語「指定していました」は緊密に結びつく。しかし、そうすると、「国立仮装病院心療内科の一九七三号室」が「補語」の位置に成り下がり(?)、ことばのなかに埋没してしまう。
--ということは、逆に言えば「国立仮装病院心療内科の一九七三号室」を新しい「主語」にするために、「召喚状は」という主語は「です」という「述語」を装ったことばによって切り捨てられているのである。「ね」によって、その切断は念押しされているのである。「主語」を交代させるために、「……はですね」ということばが選ばれているのである。
書き出しに戻ると、「……はですね」の「……」が不明確なのは、この「話者」にとって不必要だからである。「主語」はすぐ変わってしまうのだ。「……」から「N地方裁判所のソフトボール公判」へ。そして、この「主語交代」のスピードが引き継がれ、ことばが動いていく。最初から「主語交代」の「主語」だけを追いかけてみると……。
「……」→「N地方裁判所のソフトボール公判」→「召喚状」→「国立仮装病院心療内科の一九七三号室」となる。
そして、その「整理(?)」のあとで、また、「巧妙な」ことばの動きがある。
「そのためにですね」。
それまでは「主語」の提示だったのに、突然、提示しているものが「理由」にすりかわる。今まで書いてきたことは「主語」ではなく、「理由」だったと告げられる。
そして、「テーマ」が「別次元」にかわる。それまでのことばは「理由」のなかにとじこめられ、かっこにくくられる形で、別の次元のテーマが突然登場する。
ことばは、どう動かしてもいいのだけれど、この瞬間、私は、なんだか騙されたような気持ちになる。「うさんくさい」と感じたのは、このためである。
なぜ、そんなことを感じたのか。
ここでは「……はですね」ということばは省略されているからだ。「そのためにですね」と「ですね」ということばだけは「統一」されているが、「文体」の「構造」が微妙に(それとも大きく?)違っている--違っているのに、それを「ですね」ということばを繰り返すことで、引き継いでいるようにみせかけているからだ。
言いなおすと……。
「法廷は裁判所と病院の二つに分裂して現れたのです」は、それまでの「文体」を引き継ぐなら、
となるはずなのに、その文体は採用されていない。なぜ「法廷はですね」と言わなかったのか。書かなかったのか。
この話者が問題にしたいのは「ソフトボール公判」の「内容」ではなく、「公判」が「分裂」しているということを明確にしたいからなのだろう。「分裂」とは何か。「公判」がかみあわないということか。「公判」で繰り広げられることばが「裁判所」と「病院」では受け止められ方が違うこということか。「病院」のことばは「裁判所」には通じないということが「そんなつもりでいったのではないのに、別の意味にとられてしまう」(誤読されてしまう)ということか……。
「ひとつのことば」は、「ひとつの意味」ではない、ということか。常に「分裂」するということか。
詩のなかに、「ひとつ」が「ひとつではない」という、変な例が書かれている。
「タナカエイコウ」「タナカヒデミツ」。漢字で書けば「田中英光」になるだろう。単なる読み方の違いだが、その「単なる読み方」さえ、「ひとつ」が「ふたつ」になる。「分裂」する。
--こういうことがあるから、「ことば」はややこしいのだ。
と、ここまで書いてくると、北川の詩は、やはり「ことば」をめぐっての「哲学」を書いたものなのか--という感じがしてくる「哲学」というのは、すべてを「自分のことば」で書き直すことだ。「他人のことば」を排除し、「自分のことば」にこだわることだ。
その書き直しのクライマックスの部分。
ソフトボールのキャッチボール。これは「比喩」か、現実か。どっちでもない。ただ「自分のことば」で書くとそうなったというだけのことである。他人には「比喩」に見えても、「話者」にとってもは「現実」である。
「ソフトボール」を「ことば」と受け止めるなら、その「キャッチボール」は必ずしも「声」となってやりとりされなくても「キャッチボール」である。被告人のことばを受け止め、自分のことばで言いなおしてみる。その「言い直し」を相手に届けなくても、その「言い直し」のあとに発言される被告人のことばは、傍聴者の「言い直し」の「文体」の影響を受けながら、さらに言いなおされる。
ことばは、どんどん、違ってくる。ずれてくる。「田中英光」のように、単純なことばでも、「タナカエイコウ」にもなれば「タナカヒデミツ」にもなる。
そういう「ことば」に対する認識が、この「八章」の内部を貫いているかもしれない。
*
追加。どうにもわからないことだらけなのだが……。
この詩のタイトルは、私の感じでは「キャッチボール公判」になる。「キャッチボール公判」にしてしまうと、寺山修司になってしまうかもしれないけれど。
なぜ「キャッチボール公判」の感じるかと言えば、クライマックスが「わたし」と「被告人」の「キャッチボール」だからである。「ソフトボール」なら、バット、グラブが出てこないといけない。いや、バットはこの詩のなかに
という具合に出てくるが、うーん。わからない。
それに、ソフトボールというのは基本的に「チーム」のゲームである。バットは「敵(対戦相手)」の象徴かもしれないが、どうも、「相手」も「チームメイト」も「集団」を欠いているようにしか見えない。
「八章」で、私は、完全につまずいた。
「八章 ソフトボール公判 かつて消された、無数の証言の断片が、いま、飛び交っているよ」。
どうことばを追いかけていけばいいのか、よくわからない。--この章まできて、あ、私の読み方は「誤読」をはるかに踏み外して、とんでもないところへ迷い込んでしまったのかな、としばらく反省した。今まで私が書いてきたことを、この章の感想に、どう引き継いでゆけばいいのかわからないのである。接点がなく、突然、違う世界へ迷い込んだ感じがするのである。これはもちろん私の「誤読」のせいなのだが……。
こういうときは、どうするか。
無責任な言い方になってしまうが、今まで書いてきたことは忘れてしまう。「わたし=ことば」とか、「統辞法」とか、あれやこれやを振り払って、ただそこにあることばを読む。
……はですね。十一月二十五日のN地方裁判所のソフトボール公判に、すべて象徴されていました。この日、どこから出されたのか不明の、被告人召喚状はですね。その召喚場所を、国立仮装病院心療内科の一九七三号室に指定していました。そのためですね。法廷は裁判所と病院の二つに分裂して現れたのです……
この部分の「……はですね」という「口調」がまず私に強く響いてくる。「主語」の提示。提示したあと、いったん中断し、「動詞(述語)」を単独で動かす。この「切断」と「連続」の「文体構造」が、なんというか、「うさんくさい」。
その「うさんくささ」は、ほんとうは冒頭の「……はですね」から始まっている。
「……」とは何? 「主語」が明記されていない。そのくせ、それが「主語」であることは、助詞の「は」によって明確にされている。「暗黙」の何かなのかもしない。わからないならわからないでいい、わかるひとにだけわかればいい、という「内輪」のことがらなのかもしれない。
「……」が何かわからないまま、その「……はですね」という「主語」の提示の仕方だけが、ここでは次の文へと引き継がれていく。「この日、どこから出されたのか不明の、被告人召喚状は、その召喚場所を、国立仮装病院心療内科の一九七三号室に指定していました。」とつづけてしまえば、主語「召喚状」と述語「指定していました」は緊密に結びつく。しかし、そうすると、「国立仮装病院心療内科の一九七三号室」が「補語」の位置に成り下がり(?)、ことばのなかに埋没してしまう。
--ということは、逆に言えば「国立仮装病院心療内科の一九七三号室」を新しい「主語」にするために、「召喚状は」という主語は「です」という「述語」を装ったことばによって切り捨てられているのである。「ね」によって、その切断は念押しされているのである。「主語」を交代させるために、「……はですね」ということばが選ばれているのである。
書き出しに戻ると、「……はですね」の「……」が不明確なのは、この「話者」にとって不必要だからである。「主語」はすぐ変わってしまうのだ。「……」から「N地方裁判所のソフトボール公判」へ。そして、この「主語交代」のスピードが引き継がれ、ことばが動いていく。最初から「主語交代」の「主語」だけを追いかけてみると……。
「……」→「N地方裁判所のソフトボール公判」→「召喚状」→「国立仮装病院心療内科の一九七三号室」となる。
そして、その「整理(?)」のあとで、また、「巧妙な」ことばの動きがある。
「そのためにですね」。
それまでは「主語」の提示だったのに、突然、提示しているものが「理由」にすりかわる。今まで書いてきたことは「主語」ではなく、「理由」だったと告げられる。
そして、「テーマ」が「別次元」にかわる。それまでのことばは「理由」のなかにとじこめられ、かっこにくくられる形で、別の次元のテーマが突然登場する。
法廷は裁判所と病院の二つに分裂して現れたのです
ことばは、どう動かしてもいいのだけれど、この瞬間、私は、なんだか騙されたような気持ちになる。「うさんくさい」と感じたのは、このためである。
なぜ、そんなことを感じたのか。
ここでは「……はですね」ということばは省略されているからだ。「そのためにですね」と「ですね」ということばだけは「統一」されているが、「文体」の「構造」が微妙に(それとも大きく?)違っている--違っているのに、それを「ですね」ということばを繰り返すことで、引き継いでいるようにみせかけているからだ。
言いなおすと……。
「法廷は裁判所と病院の二つに分裂して現れたのです」は、それまでの「文体」を引き継ぐなら、
法廷はですね。裁判所と病院の二つに分裂して現れたのです。
となるはずなのに、その文体は採用されていない。なぜ「法廷はですね」と言わなかったのか。書かなかったのか。
この話者が問題にしたいのは「ソフトボール公判」の「内容」ではなく、「公判」が「分裂」しているということを明確にしたいからなのだろう。「分裂」とは何か。「公判」がかみあわないということか。「公判」で繰り広げられることばが「裁判所」と「病院」では受け止められ方が違うこということか。「病院」のことばは「裁判所」には通じないということが「そんなつもりでいったのではないのに、別の意味にとられてしまう」(誤読されてしまう)ということか……。
「ひとつのことば」は、「ひとつの意味」ではない、ということか。常に「分裂」するということか。
詩のなかに、「ひとつ」が「ひとつではない」という、変な例が書かれている。
……これは聞いた話ですがね。オリンポスの山頂では、空気が極めて薄いためにですね。そこへ登ったタナカエイコウさん。ご訂正有難うございました。なにしろ無学なものですから。ええ、そうなんですよ。太宰治のお弟子さんで、太宰の墓の前で自殺した、あの酒呑瞳子タナカヒデミツさんです。
「タナカエイコウ」「タナカヒデミツ」。漢字で書けば「田中英光」になるだろう。単なる読み方の違いだが、その「単なる読み方」さえ、「ひとつ」が「ふたつ」になる。「分裂」する。
--こういうことがあるから、「ことば」はややこしいのだ。
と、ここまで書いてくると、北川の詩は、やはり「ことば」をめぐっての「哲学」を書いたものなのか--という感じがしてくる「哲学」というのは、すべてを「自分のことば」で書き直すことだ。「他人のことば」を排除し、「自分のことば」にこだわることだ。
その書き直しのクライマックスの部分。
……いま、仮装病院一九七三号室に収容されている彼女は、三十七年前のその日、N地裁の二十五号小法廷に、公務執行妨害、器物損壊の罪名による被告人として、出頭していました。傍聴席には、わたし一人しかいません。彼女とわたしは一卵性双生児みたいによく似ていて、誰からも姉妹と間違われました。仮にわたしが法廷に立ったとしても、裁判官も弁護士ですら偽物であることに気付かなかったでしょう。でも、公開していませんでしたが、彼女の国籍は韓国でした。彼女はこの法廷で、とつぜん、裁判官の制止を振り切って、わたしにソフトボールを投げました。私たちは被告席と傍聴席で、楽しげにキャッチボールをしたのです。
ソフトボールのキャッチボール。これは「比喩」か、現実か。どっちでもない。ただ「自分のことば」で書くとそうなったというだけのことである。他人には「比喩」に見えても、「話者」にとってもは「現実」である。
「ソフトボール」を「ことば」と受け止めるなら、その「キャッチボール」は必ずしも「声」となってやりとりされなくても「キャッチボール」である。被告人のことばを受け止め、自分のことばで言いなおしてみる。その「言い直し」を相手に届けなくても、その「言い直し」のあとに発言される被告人のことばは、傍聴者の「言い直し」の「文体」の影響を受けながら、さらに言いなおされる。
ことばは、どんどん、違ってくる。ずれてくる。「田中英光」のように、単純なことばでも、「タナカエイコウ」にもなれば「タナカヒデミツ」にもなる。
そういう「ことば」に対する認識が、この「八章」の内部を貫いているかもしれない。
*
追加。どうにもわからないことだらけなのだが……。
この詩のタイトルは、私の感じでは「キャッチボール公判」になる。「キャッチボール公判」にしてしまうと、寺山修司になってしまうかもしれないけれど。
なぜ「キャッチボール公判」の感じるかと言えば、クライマックスが「わたし」と「被告人」の「キャッチボール」だからである。「ソフトボール」なら、バット、グラブが出てこないといけない。いや、バットはこの詩のなかに
ソフトボールが両膝をついて バッドがその前にひざまずいている
バットがゆるやかに回転して ソフトボールをやさしく愛している
という具合に出てくるが、うーん。わからない。
それに、ソフトボールというのは基本的に「チーム」のゲームである。バットは「敵(対戦相手)」の象徴かもしれないが、どうも、「相手」も「チームメイト」も「集団」を欠いているようにしか見えない。
「八章」で、私は、完全につまずいた。
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