詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(10)

2011-06-25 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(10)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「八章 ソフトボール公判 かつて消された、無数の証言の断片が、いま、飛び交っているよ」。
 どうことばを追いかけていけばいいのか、よくわからない。--この章まできて、あ、私の読み方は「誤読」をはるかに踏み外して、とんでもないところへ迷い込んでしまったのかな、としばらく反省した。今まで私が書いてきたことを、この章の感想に、どう引き継いでゆけばいいのかわからないのである。接点がなく、突然、違う世界へ迷い込んだ感じがするのである。これはもちろん私の「誤読」のせいなのだが……。
 こういうときは、どうするか。
 無責任な言い方になってしまうが、今まで書いてきたことは忘れてしまう。「わたし=ことば」とか、「統辞法」とか、あれやこれやを振り払って、ただそこにあることばを読む。

 ……はですね。十一月二十五日のN地方裁判所のソフトボール公判に、すべて象徴されていました。この日、どこから出されたのか不明の、被告人召喚状はですね。その召喚場所を、国立仮装病院心療内科の一九七三号室に指定していました。そのためですね。法廷は裁判所と病院の二つに分裂して現れたのです……

 この部分の「……はですね」という「口調」がまず私に強く響いてくる。「主語」の提示。提示したあと、いったん中断し、「動詞(述語)」を単独で動かす。この「切断」と「連続」の「文体構造」が、なんというか、「うさんくさい」。
 その「うさんくささ」は、ほんとうは冒頭の「……はですね」から始まっている。
 「……」とは何? 「主語」が明記されていない。そのくせ、それが「主語」であることは、助詞の「は」によって明確にされている。「暗黙」の何かなのかもしない。わからないならわからないでいい、わかるひとにだけわかればいい、という「内輪」のことがらなのかもしれない。
 「……」が何かわからないまま、その「……はですね」という「主語」の提示の仕方だけが、ここでは次の文へと引き継がれていく。「この日、どこから出されたのか不明の、被告人召喚状は、その召喚場所を、国立仮装病院心療内科の一九七三号室に指定していました。」とつづけてしまえば、主語「召喚状」と述語「指定していました」は緊密に結びつく。しかし、そうすると、「国立仮装病院心療内科の一九七三号室」が「補語」の位置に成り下がり(?)、ことばのなかに埋没してしまう。
 --ということは、逆に言えば「国立仮装病院心療内科の一九七三号室」を新しい「主語」にするために、「召喚状は」という主語は「です」という「述語」を装ったことばによって切り捨てられているのである。「ね」によって、その切断は念押しされているのである。「主語」を交代させるために、「……はですね」ということばが選ばれているのである。
 書き出しに戻ると、「……はですね」の「……」が不明確なのは、この「話者」にとって不必要だからである。「主語」はすぐ変わってしまうのだ。「……」から「N地方裁判所のソフトボール公判」へ。そして、この「主語交代」のスピードが引き継がれ、ことばが動いていく。最初から「主語交代」の「主語」だけを追いかけてみると……。
 「……」→「N地方裁判所のソフトボール公判」→「召喚状」→「国立仮装病院心療内科の一九七三号室」となる。
 そして、その「整理(?)」のあとで、また、「巧妙な」ことばの動きがある。
 「そのためにですね」。
 それまでは「主語」の提示だったのに、突然、提示しているものが「理由」にすりかわる。今まで書いてきたことは「主語」ではなく、「理由」だったと告げられる。
 そして、「テーマ」が「別次元」にかわる。それまでのことばは「理由」のなかにとじこめられ、かっこにくくられる形で、別の次元のテーマが突然登場する。

法廷は裁判所と病院の二つに分裂して現れたのです

 ことばは、どう動かしてもいいのだけれど、この瞬間、私は、なんだか騙されたような気持ちになる。「うさんくさい」と感じたのは、このためである。
 なぜ、そんなことを感じたのか。
 ここでは「……はですね」ということばは省略されているからだ。「そのためにですね」と「ですね」ということばだけは「統一」されているが、「文体」の「構造」が微妙に(それとも大きく?)違っている--違っているのに、それを「ですね」ということばを繰り返すことで、引き継いでいるようにみせかけているからだ。
 言いなおすと……。
 「法廷は裁判所と病院の二つに分裂して現れたのです」は、それまでの「文体」を引き継ぐなら、

法廷はですね。裁判所と病院の二つに分裂して現れたのです。

 となるはずなのに、その文体は採用されていない。なぜ「法廷はですね」と言わなかったのか。書かなかったのか。
 この話者が問題にしたいのは「ソフトボール公判」の「内容」ではなく、「公判」が「分裂」しているということを明確にしたいからなのだろう。「分裂」とは何か。「公判」がかみあわないということか。「公判」で繰り広げられることばが「裁判所」と「病院」では受け止められ方が違うこということか。「病院」のことばは「裁判所」には通じないということが「そんなつもりでいったのではないのに、別の意味にとられてしまう」(誤読されてしまう)ということか……。

 「ひとつのことば」は、「ひとつの意味」ではない、ということか。常に「分裂」するということか。
 詩のなかに、「ひとつ」が「ひとつではない」という、変な例が書かれている。

 ……これは聞いた話ですがね。オリンポスの山頂では、空気が極めて薄いためにですね。そこへ登ったタナカエイコウさん。ご訂正有難うございました。なにしろ無学なものですから。ええ、そうなんですよ。太宰治のお弟子さんで、太宰の墓の前で自殺した、あの酒呑瞳子タナカヒデミツさんです。

 「タナカエイコウ」「タナカヒデミツ」。漢字で書けば「田中英光」になるだろう。単なる読み方の違いだが、その「単なる読み方」さえ、「ひとつ」が「ふたつ」になる。「分裂」する。
 --こういうことがあるから、「ことば」はややこしいのだ。
 と、ここまで書いてくると、北川の詩は、やはり「ことば」をめぐっての「哲学」を書いたものなのか--という感じがしてくる「哲学」というのは、すべてを「自分のことば」で書き直すことだ。「他人のことば」を排除し、「自分のことば」にこだわることだ。

 その書き直しのクライマックスの部分。

 ……いま、仮装病院一九七三号室に収容されている彼女は、三十七年前のその日、N地裁の二十五号小法廷に、公務執行妨害、器物損壊の罪名による被告人として、出頭していました。傍聴席には、わたし一人しかいません。彼女とわたしは一卵性双生児みたいによく似ていて、誰からも姉妹と間違われました。仮にわたしが法廷に立ったとしても、裁判官も弁護士ですら偽物であることに気付かなかったでしょう。でも、公開していませんでしたが、彼女の国籍は韓国でした。彼女はこの法廷で、とつぜん、裁判官の制止を振り切って、わたしにソフトボールを投げました。私たちは被告席と傍聴席で、楽しげにキャッチボールをしたのです。

 ソフトボールのキャッチボール。これは「比喩」か、現実か。どっちでもない。ただ「自分のことば」で書くとそうなったというだけのことである。他人には「比喩」に見えても、「話者」にとってもは「現実」である。
 「ソフトボール」を「ことば」と受け止めるなら、その「キャッチボール」は必ずしも「声」となってやりとりされなくても「キャッチボール」である。被告人のことばを受け止め、自分のことばで言いなおしてみる。その「言い直し」を相手に届けなくても、その「言い直し」のあとに発言される被告人のことばは、傍聴者の「言い直し」の「文体」の影響を受けながら、さらに言いなおされる。
 ことばは、どんどん、違ってくる。ずれてくる。「田中英光」のように、単純なことばでも、「タナカエイコウ」にもなれば「タナカヒデミツ」にもなる。
 そういう「ことば」に対する認識が、この「八章」の内部を貫いているかもしれない。



 追加。どうにもわからないことだらけなのだが……。
 この詩のタイトルは、私の感じでは「キャッチボール公判」になる。「キャッチボール公判」にしてしまうと、寺山修司になってしまうかもしれないけれど。
 なぜ「キャッチボール公判」の感じるかと言えば、クライマックスが「わたし」と「被告人」の「キャッチボール」だからである。「ソフトボール」なら、バット、グラブが出てこないといけない。いや、バットはこの詩のなかに

ソフトボールが両膝をついて バッドがその前にひざまずいている
バットがゆるやかに回転して ソフトボールをやさしく愛している

 という具合に出てくるが、うーん。わからない。
 それに、ソフトボールというのは基本的に「チーム」のゲームである。バットは「敵(対戦相手)」の象徴かもしれないが、どうも、「相手」も「チームメイト」も「集団」を欠いているようにしか見えない。

 「八章」で、私は、完全につまずいた。




海の古文書
北川 透
思潮社



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高塚謙太郎「光沢のある背表紙のみちみち」、望月遊馬「ねむりのまえの、ひと眠り」

2011-06-25 13:47:29 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「光沢のある背表紙のみちみち」、望月遊馬「ねむりのまえの、ひと眠り」(「サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち」3、2011年06月10日発行)

 高塚謙太郎「光沢のある背表紙のみちみち」は、「散文」を粘着力として利用している。「文」には「構造」というものがある。それはほとんどことばの肉体と同じ意味になるが、その構造の力、肉体の力で、いくつかのことばを結びつける。粘着力と書いたが、結合力といった方がいいのかもしれない。
 「無限と倫理」の書き出し。

折にふれてはささやきあう間柄にしても、伸びつづける月夜の裏道ほどの価値がそのロープからいくらほど垂れさがっていたのか、いつわりのない野の道、ほんの束の間の織物、手編みの喉仏、いくらでもなしくずしに耳元に結びつける。ひとつの柑橘をした支えする足指に眼差しのあとがカラフルに鳴りだすにしても、輪唱の月影から降りたった江里巣をめぐる物語ほどのループに浮かび上がる私か、ほどなくかそけくにごった茶碗にそそがれるわたり、絶望はそのぶんだけ熾烈で悦楽気味に変化をみせるだろうに。

 ことばが「もの」ではなく、次々に「比喩」になっていく。「比喩」というのは「いま/ここ」にないものを借りて「いま/ここ」を語ること。ことばだけができる不思議な運動であり、「比喩」があるとき、そこに「意味」がある。その「意味」がわかろうがわかるまいが、あまり関係がない。「伸びつづける月夜の裏道」「ロープ」--このふたつの、どっちが「比喩」なのか。どっちでもいい。「伸びつづける」のか、それとも「垂れさがっていた」のか。それも、どっちでもいい。--どっちでもいい、と書いてしまうと高塚には少し申し訳ない気もしないでもないのだが、それは、私には区別がつかない。区別がつかないものは、わからないまま、そのまま受け入れる。そのとき、何かわからないけれど「意味」が生まれてくる。「月夜の裏道」だけでは存在しなかった「意味」、「ロープ」だけでは存在しなかった「意味」。それは細くて長い。何かをつなぐ。(道はある点と別の点を結ぶ時に道になる。)その「結ぶ」ということのなかに、「手編みの喉仏」という変なものまでつながってくる。これも何かの「比喩」だなあ。何かの「象徴」だなあ。でも、何かわからない。わからないけれど「手編みの喉仏」というのは不思議で、見てみたいなあというような気持ちになる。何か変なところに迷い込んでしまったなあ、と思う。
 この感覚は、それにつづく文を読むとさらに強くなる。そこに書いてあることもはっきりとはわからない。いや、実際にはぼんやりとすらわからないのだが。「喉仏」「耳元」「鳴る」「輪唱」ということばが、そこに「声」を浮かび上がらせる。「声」ということばをつかわずに、「声」を浮かび上がらせる。
 そういう、ことば自身の力を高塚はしっかりと育てている。高塚の肉体にしている。これがおもしろい。
 そこには、まだ「意味」にならない「意味」がある。それは「声」と私が仮に呼んだものにいくらか似ている。
 榎本のことばが、前に書いたことばを否定して「無意味」へ暴走するのに対して、高塚は前に書いたことばを利用しながら、まだ「いま/ここ」に存在していないことばを「過去」から引き寄せるようにして浮かび上がらさせる。
 そして、こういう運動のために、ちょっと不思議な工夫もする。「倫理と無限」の書き出し。

くるまるままに敷物のふちを笑う、耳のかわいい犬と歩いた。野に見えるくるぶしを明るくみせる彼女たちの笑う、

 「くるまる」「見える」「くるぶし」「明るく」「みせる」--このことばのなかに頻繁にあらわれる「る」の響き。丸い感じ。「意味」はわからないけれど、そこにことばがあり、そのことばが何か「同じ何か」を呼吸している感じがつたわってくる。
 その、ことばが呼吸している「同じ何か」--それが、「いま/ここ」にないことばなのだ。「意味」なのだ。高塚は、そういうものを不思議な形で呼び寄せ、結ぼうとする。結ぶといっても、きちんとした結び目があるわけではなく、そばに引き寄せ、そこで遊ばせている感じだ。
 こいう「意味」以前の感覚は楽しい。



 望月遊馬「ねむりのまえの、ひと眠り」も不思議な文体である。

今日の雪はとても眩しかった。手のひらのむこうで、ハンドバッグが輝いていた。それよりも眩しかった。それで午後のある立方体には雨の降る仕組みがあり、そこでは、スコップを片手に土を掘っている、埋めている、紙の白いところは、埋められたいくつかのシーンが蘇って、ドレッシングのなかのオリーブのような歪んだ顔で、駅にむかって歩いていて、ハンドバッグを片手に桃色の尻をまわして土のなかに入っていった、その瞬間のことが沈んでいく瞼の奥では知られていた。

 なんのこと? 何かよくわからない。そして、そのわからなさは、高塚の時とは違って、互いが結びつかないところに原因(?)がある。
 不思議なのは、そういうことはわからないのに、雪も手のひらもハンドバッグもまぶしいも、ことばとしてわかるということだ。意味がわからないなら、ことばもわからなければいいのに、ことばそのものはわかる。どうも人間とことばの関係、意味の関係は複雑であいまいだ。
 このわからないことに対して(望月はわかっている、と反論するかもしれないが)、「それで」と望月は「理由」を書く。
 でも、理由になっていない。
 そこでは「それで」を受ける「述語」がない。そのために「意味」が形成されない。とというより、「それで」ということばがあるこめに、「意味」が解体するという感じが強くなる。「意味」がないのに、「それで」だけがある。しかも解体するのに「仕組み」という論理的(?)なことばをつかっている。
 最後の「瞼の奥では知られていた」ということばを手がかりにすれば、ここに書かれているのはタイトルが暗示しているように「眠りの前の」一瞬の、夢のようなものかもしれない。現実が解体し、新しく関係をつくる前の、ばらばらの状態。ふつう、こういうばらばらは「矛盾」「混沌」というものに傾いていくのだが、望月の場合は、矛盾でも混沌でもない。なぜだろう。高塚のことばと違って、ことばとことばが結びつかない、つなげるものがない。そのために、「距離」があるのだ。ことばとことばの間に。
 高塚のことばが結びつき(距離の密着感)を味わう詩他とすれば、望月の詩はことばの「距離」の美しさを味わうしかもしれない--と書いて、私は、ふと江代充の詩を思い出した。存在(世界)の解体と、解体された「もの」の距離の感じがどこかで通い合っている感じがする。
 具体例もあげずに、こんなことを書くのはいけないのかもしれないが……。



さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社



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