詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(9)

2011-06-24 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(9)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「七章 ソクラテスのくしゃみ」。書き出しの一行。
 
わたしはことばなのにことばに背かれている

 この詩集では「わたし=ことば」という「定義」が何度か出てくる。「ことば」がテーマなのか、「わたし」がテーマなのか。ほんとうの「主語」はどっちなのか。こういう設問の立て方では、きっと北川の「思想」にはたどりつけないだろうと思う。
 どっちがほんとう、などということは、きっと考えてはいけないのだ。どっちも、ほんとう。どっちも、にせもの。そのときそのときの都合(好み?)で、読み進んでいっていいのだと思う。
 たとえば、この一行を、私は「ことば」を主語だと仮定して読み始める。そして、「ことばがことばに背かれている」ということについて考える。考え始めるとき「ことば」は「わたし」として私の意識に働きかけてくる。「ことば」の気持ちはわからないが「わたし=人間」の気持ちならいくらかわかるからである。「ことば」を人間と同じようなものだと考えてみると……。つまり、「ことば」を「わたし」と言い換えなおしてみると、

わたしはわたしに背かれている

 これは、変なようであって、実は日々私たちが(私だけが?)、体験することである。私はたとえばいま北川の詩集を読んで感想を書いているのだが、ちょっとエロサイトの動画でも見てみるかとか、あ、こんなことをしている場合ではないと思いながら、さらに次の動画をクリックしてしまうとか……。そして、それはほんとうに「背かれている」のかどうか、よくわからない。もしかすると北川の詩についてあれこれ書くことの方が私の欲望に背いているのかもしれない。
 区別はないのだ。「わたし」も「ことば」も、どっちでもありうるのだ。
 そう思って読むと……。

一羽の鴎が飛来する すると港が変わった

 この一行は、どうなるだろう。(北川は、この詩のそれぞれの行頭を一字ずつ下げる、あるいは途中から上げていくという形で書いているが、私はその形を考慮せずに引用している。)
 一羽の鴎。これは「ほんもの」なのか。それとも「ことば」なのか。「港」はどうだろう。「ほんもの」だろうか。「ことば」だろうか。
 鴎が飛んでくることによって、港の風景が変わって見える。そういうことは確かにありうる。けれど、それは「ことば」にしないかぎり、「かわった」ということを明確に(?)できない。
 これは、あらゆることについて言えることかもしれない。
 どのようなことがらも「ことば」にしないかぎり、認識にはならない。「変わった」というのは、意識の外の世界であると同時に「認識」のことである。意識の外と内部(認識)は「ことば」を通じて呼応する。

一羽の鴎が飛来する すると港が変わった
建物は移動し 魚市場は空中に躍り上がる

 これは鴎の視点で見つめなおした世界かもしれない。そして、その鴎の見つめなおした世界というのは、実は「ことば」でつかまえた「こと」である。「ことば」が変わってしまえば、その見える世界も変わってしまうだろう。「変わった」ではなく、ことばが「変える」のである。

鴎でなくってもいいさ 一本のベルトや紐
コルセットの発明がおんなの身体を変える

 ここに出でくる「変える」。これである。これは、文を少し変更すれば、

一本のベルトや紐/コルセットの発明「によって」おんなの身体「が」「変わった」

 になる。きのう読んだ部分にでてきた表現を借りれば「統辞法」の問題になってしまう。「統辞法」しだいで、「変わった」も「変える」も同じ「意味」を作り上げてしまう。このとき、「ことば」にはいったい何が起きているのだろうか。そして、私(これは、谷内、という意味)に何が起きているのか--あ、わからないねえ。
 わからないことは、そのまま保留(ほったらかし?)にしておいて……。

鴎でなくってもいい 一行の行商人になる
するときみのあたためている空っぽの卵に
この世の行き場のない不安な視線が集まる

 この「行商人になる」の「なる」は、どうしよう。「なる」とはどういうことか。「ことば」の問題でいえば、自分を「行商人」という「比喩」にしてしまうことか。
 「鴎」も「比喩」かもしれない。「建物は移動し 魚市場は空中に躍り上がる」というのは「比喩(イメージ)」といえるかもしれない。「わたし」が「鴎」に「なる」。そうして、「鴎」の視線で世界を見る--その結果としての風景なのかもしれない。

 ややこしくなったので、最初の一行にもどる。

わたしはことばなのにことばに背かれている

 この場合の「わたしはことばなのに」はどういうことだろうか。「わたし」は「ことば」で「ある」ということなのか。「わたしはことばである」というのは、一首の矛盾だ。わたしはわたし、ことばはことばである、はずである。「わたしはことばである」とは、「わたし」が「ことば」に「なる」ことである。この「なる」というのは「比喩」のようなことがらである。ほんとうは、そうではない。けれど、ことばの力を借りて、そう「する」のである。
 「ことば」の運動のなかには「する」と「なる」が入り乱れている。どこかで、くっついている。そしてそれが「ある」とも分けのわからない形(どこで区切っていいのかわからない形)で溶け合っている。
 この関係(?)を北川は「わたし」「ことば」ではなく、「ネコ」「ネズミ」をつかって描いている部分がある。(あ、ちょっと違うのだけれど、まあ、そんなものだと仮定して……。)

 ネコになれなくても、ネコを仮装するのは簡単じゃん。みんなネコになりたいものは仮装ネコになっちゃえば。心で仮装しても、身体はネズミのままだよ。かまうもんか。われはネコなりと言い続けていれば、きみは正真正銘のネコだよ。

 この「ネコ」「ネズミ」が動物のネコ、ネズミではなく、何かの「比喩」だとしたら、どうなるだろう。「比喩」自体が仮装であり、仮想だが、(仮装・仮想につうじるものがあるのだが)、「言い続けていれば」、つまり「ことば」を動かしつづけていれば、何か、どうしても区別のつかない状態にまで進んでしまう。
 ソクラテスって、自分のことばで何から何まで言い換えようとして、自分の「比喩」というか、あるいは「統辞法」というべきか--ともかくすべてをソクラテスのことばで言い換えようとして、「わからない」(区別がつかない)というところへ到達した。
 --というのが、北川の、この作品の「意味」?
 あ、いや、いま書いたソクラテス論(?)というのは、私の見方に過ぎず、北川はソクラテスをどう見ているか、私にはよくわからないが……。

 また、脱線してしまった。
 どう戻せばもとに戻るのかわからないので、先に進む。

 最初の問いだぜ。なんじはネコを単に模倣したいだけなんだろう。それともネコを偽装したいのか。やっぱりネコを仮装したいんだな。それともネコを仮構するのがのぞみ? フン、答えられんのかい。前途多難だね。

 「模倣」「偽装」「仮装」「仮構」。ここに書かれている「ことば」はどう違うのか。どこが同じなのか。これは、分析しても何もはじまらない。「無意味」である。
 私は直感的に感じたことだけを書いておく。(直感を、論理的にことばにしなおしてみるというのは、どうもできそうにないので。)
 北川は、あらゆる「思想」において(ことばの運動において)、「統辞法」がどのような「位置」を占めるか、あるいはどのような「運動形式」を生み出すのかということを問題にしているように思える。「思想」と「文体」と「統辞法」の関係を、「意味」としてではなく、「詩」として存在させたいと欲望しているように思える。
 (また、変な日本語を書いてしまった。)

 きょうの「日記」に限らず、私の感想は感想になっていないね。
 私は、実は、北川の詩に「統辞法」ということばが出てきたから書くのではないが(いや、そのことばが出てきたから書くのだが)、「文体」(統辞法)が「思想」だと感じている。「文体」に、そのひとの「肉体」を感じ、同時に「統辞法」に「ことばの肉体」を感じている。
 そのことを、どう書いていいのか、まったくわからない。手さぐりで、その場その場で、出会った詩を題材に、あれこれ書いている。
 北川の詩を私は「誤読」しつづけているだけなのだが、北川のことばの動きのなかに、強固な「統辞法」を感じるので、「誤読」を承知で、「誤読」を暴走させたい気持ちになるのだ。私がどんなに私の「誤読」を暴走させようと、北川のことばはまったく無傷のまま、純粋にそこに存在しつづける。そういう安心感がある。それが憎らしくもあるが……。



中原中也論集成
北川 透
思潮社


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榎本櫻湖「増殖する眼球にまたがって--読み殺しサクラコティック般若心経--」

2011-06-24 09:21:05 | 詩(雑誌・同人誌)
榎本櫻湖「増殖する眼球にまたがって--読み殺しサクラコティック般若心経--」(「サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち」3、2011年06月10日発行)

 榎本櫻湖「増殖する眼球にまたがって--読み殺しサクラコティック般若心経--」は「散文詩」という形をとっている--ことになっている。(らしい)。
 「散文詩」の定義はどういうものだろうか。「行分け」でなければ「散文詩」ということになるのか。どうも、この定義はあやしい。たぶん、榎本の今回の詩(だけではないが)は、「行分け」ではないがゆえに「散文詩」と呼ばれるのだろう。榎本自身、「行分け」でないがゆえに「散文詩」と呼んでいるのかもしれない。
 しかし、実際に読んでみると、私の考えている「散文」(たとえば、22日、23日に読んだ林嗣夫や小松弘愛の作品)とはまったく違っている。榎本のことばは「散文」ではない。「散文」とは「事実」を踏まえながら進んで行くことばの運動だと思う。「事実」を積み重ねることで「意味」を明確にし、その「意味」を発展させていくのが「散文」である。--この私の定義からすると、榎本のことばの運動は「散文」ではない。

世界の総体は悉く文字のみによってなりたっているので、《私》ですら例外ではなく、許多のまなざしに射貫かれて、夥しい文字をまえに失明することを免れえぬ恐怖にうち震える《我々》は、さもしい聴覚を頼りに痺れた光線を辿ろうと企てるが、ハビダブル・ゾーン観音、遍く眼球を棚引かせ、鱗粉に塗れた孔雀の羽根で覆われた土地の者よ、帷子に施された約しい刺繍の模様を、撫でる節くれだった指先をもがれる者よ、聞きなさい、飢えの臥す大地に、恙虫の跋扈する大地に、人体模型の内部を埋め尽くすミトコンドリア、枯れる枝葉の垂れる大地に、鬼の狂乱するさまをひたすら凝視め、蝗の転がる畑に出向いて、密かに眠る《聖なる愚者》の纏う襤褸の襞に、そっと豊かな舌を差し入れなさい、
  (谷内注・「もがれる」は「手ヘンに宛」。字が出てこないのでひらがなにした)

 これは冒頭の数行である。これは私の定義では「散文」ではない。まず、「主語」が何かわからない。「述語」が何かわからない。「文」になっていないのである。「文」になっていないから「意味」も存在しない。
 けれど、たとえば「世界の総体は悉く文字のみによってなりたっているので、」はどうか。この部分では「主語」は「世界の総体」である。「述語」は「なりたっている」である。一応「意味」が感じられる。そこに書かれていることが「事実」に値するかどうかは別の問題だが、ともかく「主語」と「述語」があるので、そこから「意味」らしきものを感じることはできる。次の「《私》ですら例外ではなく、」おいては「主語」は「私」であり、「述語」は「例外ではない」になる。前の文とつづけて読むなら、「私」も「文字のみによってなりたっている」ということになる。次の「許多のまなざしに射貫かれて、」は「主語」を補うとすれば「私」、あるいは「世界の総体」ということになる。しかし、それがほんとうに「主語」であるかどうかはわからない。何かわからないものを含みながら、ことばは強引に動いていく。
 「夥しい文字をまえに失明することを免れえぬ恐怖にうち震える《我々》は、」の「我々」は、これまでの「主語」を言い換えたものかもしれない。「世界の総体」「私」と「我々」は重なり合うかもしれない。その「我々」は「夥しい文字をまえに失明する」ではなく、「失明することを免れ得ぬ恐怖にうち震える」ということかもしれないが、ことばが行き来して「主語」「述語」が入り乱れ、煩雑である。「意味」があるかもしれないが、「意味」をつかみ取ることはとてもむずかしい。
 「文」とは言えない。少なくとも「名文」とは言えない。「名文」とはわかりやすい文章のことである。榎本の文はわかりにくい。榎本は、わざとわかりにくく書いている。それは、たぶん、わかりやすい「意味」ではなく、その対極に「詩」があると考えているからだろう。詩は「意味」ではない。だから「意味」を否定するようにしてことばを運動させているのである。

 少し前にもどって、説明しなおす。(私の「誤読」を押し進める。)
 「夥しい文字をまえに失明することを免れえぬ恐怖にうち震える《我々》は、」という文を、私は「我々」は「夥しい文字をまえに失明する」ではなく、「失明することを免れ得ぬ恐怖にうち震える」--と読んだ。この私の「誤読」には、榎本が書いていないことばがつけくわえられている。「ではなく」を補って、私は榎本の「文」を私が納得できるものに書き換えた。この「ではなく」という否定し、逆の方向へことばを動かすというのが榎本の、この詩の特徴である。ひとつの「意味」を提示し、次にそれを否定することでことばを動かしていく。
 私は「ではなく」を補ったけれど、よく読み返すと、同じことばを榎本自身が書いている。「《私》ですら例外ではなく、」と。
 「ではなく」ということばを実際に書くこともあるが、省略することもある。そして省略されるのは、そのことばが榎本の「肉体」そのものになっているからである。何かを書きながら、それを「ではなく」と否定し、ことばを新しい世界へ動かしていく--そのことばの運動、ことばの肉体が、榎本の肉体そのものなのである。
 「さもしい聴覚を頼りに痺れた光線を辿ろうと企てるが、」は「企てるが、それを実行するのではなく、」と読むべきなのだ。「意味」がわからなくなったら、そこに「……ではなく」を補うと、榎本の書いていることばを楽に(?)追いかけることができるようになる。なんといっても、それ以前に書かれていることばを、「……ではなく」と切り捨てて、次のことばの「意味」だけを考えればいいのだから。

 この前に書いたことばを否定し、まったく別のことばに身をゆだねるようにして進むことばの運動--これは、私の定義では、全体に「散文」ではない。
 これは、ことばの暴走であり、「行分け詩」の手法のひとつである。書いてしまったことばを否定し、ただ次のことばだけを、「いま/ここ」ではないところへ突き動かしていく。ことばが、ことば自身の自律運動で、まったく新しい世界を捏造するのにまかせてしまう。こういうことは、行がかわるたびに「空白」を呼び込む「行分け詩」の得意とするところである。
 榎本は、形だけ「散文」風にみせかけながら、実際は「行分け」の「詩」を書いているのである。「意味」ではなく「意味」を否定することで「無意味」を創り出し、その無意味に「詩」ということばを結びつけようとしているのである。
 これは力業だなあ、と思う。榎本の詩は力でぐいぐい押して書いていく詩なのである。

 で。
 というのも変だけれど、こういう力業はたいへんな体力を必要とするので、どうしても途中で「散文」に押し切られるところがある。「散文」(意味)の方が、たぶん、ことばを動かしやすいのだ。
 たとえば、次のようなところ。

鋸の刃はときどきチェロやコントラバスを弾く弓で擦奏され、金属質でありながら柔らかで、グラス・ハーモニカに似た音がするそれは撓り具合で音程が変化し、自在に音階を演奏できるため、特殊な楽器ではあるものの、効果音としてではなく、独奏楽器としても用いられることもあるが、

 ここでは「意味」がストレートに動いている。そして、榎本の「ではなく」は「効果音としてではなく、」という部分に姿を現わしているのだが、これは衰弱した「ではなく」である。「効果音としてではなく、」は省略して、特殊な楽器ではあるものの、独奏楽器としても用いられることもあるが、」とするとき、「意味」が完結になる。
 不必要な「ではなく」が、無意識に入ってしまう瞬間がある。
 こういう部分を捨てて、「ではなく」を実際には書かないまま「ではなく」を含んだ文をつないで行くと、榎本の詩は、とんでもないものになるなあ、と思う。
 榎本の詩は「散文詩」ではないのだけれど、そういう世界へたどりつけば、もう誰も「散文詩」とはいわないだろうと思う。いまはまだ「散文詩」ととらえられているのが残念である。榎本自身も「散文詩」ととらえているように見受けられるので、それが残念である。


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