北川透『海の古文書』(9)(思潮社、2011年06月15日発行)
「七章 ソクラテスのくしゃみ」。書き出しの一行。
この詩集では「わたし=ことば」という「定義」が何度か出てくる。「ことば」がテーマなのか、「わたし」がテーマなのか。ほんとうの「主語」はどっちなのか。こういう設問の立て方では、きっと北川の「思想」にはたどりつけないだろうと思う。
どっちがほんとう、などということは、きっと考えてはいけないのだ。どっちも、ほんとう。どっちも、にせもの。そのときそのときの都合(好み?)で、読み進んでいっていいのだと思う。
たとえば、この一行を、私は「ことば」を主語だと仮定して読み始める。そして、「ことばがことばに背かれている」ということについて考える。考え始めるとき「ことば」は「わたし」として私の意識に働きかけてくる。「ことば」の気持ちはわからないが「わたし=人間」の気持ちならいくらかわかるからである。「ことば」を人間と同じようなものだと考えてみると……。つまり、「ことば」を「わたし」と言い換えなおしてみると、
これは、変なようであって、実は日々私たちが(私だけが?)、体験することである。私はたとえばいま北川の詩集を読んで感想を書いているのだが、ちょっとエロサイトの動画でも見てみるかとか、あ、こんなことをしている場合ではないと思いながら、さらに次の動画をクリックしてしまうとか……。そして、それはほんとうに「背かれている」のかどうか、よくわからない。もしかすると北川の詩についてあれこれ書くことの方が私の欲望に背いているのかもしれない。
区別はないのだ。「わたし」も「ことば」も、どっちでもありうるのだ。
そう思って読むと……。
この一行は、どうなるだろう。(北川は、この詩のそれぞれの行頭を一字ずつ下げる、あるいは途中から上げていくという形で書いているが、私はその形を考慮せずに引用している。)
一羽の鴎。これは「ほんもの」なのか。それとも「ことば」なのか。「港」はどうだろう。「ほんもの」だろうか。「ことば」だろうか。
鴎が飛んでくることによって、港の風景が変わって見える。そういうことは確かにありうる。けれど、それは「ことば」にしないかぎり、「かわった」ということを明確に(?)できない。
これは、あらゆることについて言えることかもしれない。
どのようなことがらも「ことば」にしないかぎり、認識にはならない。「変わった」というのは、意識の外の世界であると同時に「認識」のことである。意識の外と内部(認識)は「ことば」を通じて呼応する。
これは鴎の視点で見つめなおした世界かもしれない。そして、その鴎の見つめなおした世界というのは、実は「ことば」でつかまえた「こと」である。「ことば」が変わってしまえば、その見える世界も変わってしまうだろう。「変わった」ではなく、ことばが「変える」のである。
ここに出でくる「変える」。これである。これは、文を少し変更すれば、
になる。きのう読んだ部分にでてきた表現を借りれば「統辞法」の問題になってしまう。「統辞法」しだいで、「変わった」も「変える」も同じ「意味」を作り上げてしまう。このとき、「ことば」にはいったい何が起きているのだろうか。そして、私(これは、谷内、という意味)に何が起きているのか--あ、わからないねえ。
わからないことは、そのまま保留(ほったらかし?)にしておいて……。
この「行商人になる」の「なる」は、どうしよう。「なる」とはどういうことか。「ことば」の問題でいえば、自分を「行商人」という「比喩」にしてしまうことか。
「鴎」も「比喩」かもしれない。「建物は移動し 魚市場は空中に躍り上がる」というのは「比喩(イメージ)」といえるかもしれない。「わたし」が「鴎」に「なる」。そうして、「鴎」の視線で世界を見る--その結果としての風景なのかもしれない。
ややこしくなったので、最初の一行にもどる。
この場合の「わたしはことばなのに」はどういうことだろうか。「わたし」は「ことば」で「ある」ということなのか。「わたしはことばである」というのは、一首の矛盾だ。わたしはわたし、ことばはことばである、はずである。「わたしはことばである」とは、「わたし」が「ことば」に「なる」ことである。この「なる」というのは「比喩」のようなことがらである。ほんとうは、そうではない。けれど、ことばの力を借りて、そう「する」のである。
「ことば」の運動のなかには「する」と「なる」が入り乱れている。どこかで、くっついている。そしてそれが「ある」とも分けのわからない形(どこで区切っていいのかわからない形)で溶け合っている。
この関係(?)を北川は「わたし」「ことば」ではなく、「ネコ」「ネズミ」をつかって描いている部分がある。(あ、ちょっと違うのだけれど、まあ、そんなものだと仮定して……。)
この「ネコ」「ネズミ」が動物のネコ、ネズミではなく、何かの「比喩」だとしたら、どうなるだろう。「比喩」自体が仮装であり、仮想だが、(仮装・仮想につうじるものがあるのだが)、「言い続けていれば」、つまり「ことば」を動かしつづけていれば、何か、どうしても区別のつかない状態にまで進んでしまう。
ソクラテスって、自分のことばで何から何まで言い換えようとして、自分の「比喩」というか、あるいは「統辞法」というべきか--ともかくすべてをソクラテスのことばで言い換えようとして、「わからない」(区別がつかない)というところへ到達した。
--というのが、北川の、この作品の「意味」?
あ、いや、いま書いたソクラテス論(?)というのは、私の見方に過ぎず、北川はソクラテスをどう見ているか、私にはよくわからないが……。
また、脱線してしまった。
どう戻せばもとに戻るのかわからないので、先に進む。
「模倣」「偽装」「仮装」「仮構」。ここに書かれている「ことば」はどう違うのか。どこが同じなのか。これは、分析しても何もはじまらない。「無意味」である。
私は直感的に感じたことだけを書いておく。(直感を、論理的にことばにしなおしてみるというのは、どうもできそうにないので。)
北川は、あらゆる「思想」において(ことばの運動において)、「統辞法」がどのような「位置」を占めるか、あるいはどのような「運動形式」を生み出すのかということを問題にしているように思える。「思想」と「文体」と「統辞法」の関係を、「意味」としてではなく、「詩」として存在させたいと欲望しているように思える。
(また、変な日本語を書いてしまった。)
きょうの「日記」に限らず、私の感想は感想になっていないね。
私は、実は、北川の詩に「統辞法」ということばが出てきたから書くのではないが(いや、そのことばが出てきたから書くのだが)、「文体」(統辞法)が「思想」だと感じている。「文体」に、そのひとの「肉体」を感じ、同時に「統辞法」に「ことばの肉体」を感じている。
そのことを、どう書いていいのか、まったくわからない。手さぐりで、その場その場で、出会った詩を題材に、あれこれ書いている。
北川の詩を私は「誤読」しつづけているだけなのだが、北川のことばの動きのなかに、強固な「統辞法」を感じるので、「誤読」を承知で、「誤読」を暴走させたい気持ちになるのだ。私がどんなに私の「誤読」を暴走させようと、北川のことばはまったく無傷のまま、純粋にそこに存在しつづける。そういう安心感がある。それが憎らしくもあるが……。
「七章 ソクラテスのくしゃみ」。書き出しの一行。
わたしはことばなのにことばに背かれている
この詩集では「わたし=ことば」という「定義」が何度か出てくる。「ことば」がテーマなのか、「わたし」がテーマなのか。ほんとうの「主語」はどっちなのか。こういう設問の立て方では、きっと北川の「思想」にはたどりつけないだろうと思う。
どっちがほんとう、などということは、きっと考えてはいけないのだ。どっちも、ほんとう。どっちも、にせもの。そのときそのときの都合(好み?)で、読み進んでいっていいのだと思う。
たとえば、この一行を、私は「ことば」を主語だと仮定して読み始める。そして、「ことばがことばに背かれている」ということについて考える。考え始めるとき「ことば」は「わたし」として私の意識に働きかけてくる。「ことば」の気持ちはわからないが「わたし=人間」の気持ちならいくらかわかるからである。「ことば」を人間と同じようなものだと考えてみると……。つまり、「ことば」を「わたし」と言い換えなおしてみると、
わたしはわたしに背かれている
これは、変なようであって、実は日々私たちが(私だけが?)、体験することである。私はたとえばいま北川の詩集を読んで感想を書いているのだが、ちょっとエロサイトの動画でも見てみるかとか、あ、こんなことをしている場合ではないと思いながら、さらに次の動画をクリックしてしまうとか……。そして、それはほんとうに「背かれている」のかどうか、よくわからない。もしかすると北川の詩についてあれこれ書くことの方が私の欲望に背いているのかもしれない。
区別はないのだ。「わたし」も「ことば」も、どっちでもありうるのだ。
そう思って読むと……。
一羽の鴎が飛来する すると港が変わった
この一行は、どうなるだろう。(北川は、この詩のそれぞれの行頭を一字ずつ下げる、あるいは途中から上げていくという形で書いているが、私はその形を考慮せずに引用している。)
一羽の鴎。これは「ほんもの」なのか。それとも「ことば」なのか。「港」はどうだろう。「ほんもの」だろうか。「ことば」だろうか。
鴎が飛んでくることによって、港の風景が変わって見える。そういうことは確かにありうる。けれど、それは「ことば」にしないかぎり、「かわった」ということを明確に(?)できない。
これは、あらゆることについて言えることかもしれない。
どのようなことがらも「ことば」にしないかぎり、認識にはならない。「変わった」というのは、意識の外の世界であると同時に「認識」のことである。意識の外と内部(認識)は「ことば」を通じて呼応する。
一羽の鴎が飛来する すると港が変わった
建物は移動し 魚市場は空中に躍り上がる
これは鴎の視点で見つめなおした世界かもしれない。そして、その鴎の見つめなおした世界というのは、実は「ことば」でつかまえた「こと」である。「ことば」が変わってしまえば、その見える世界も変わってしまうだろう。「変わった」ではなく、ことばが「変える」のである。
鴎でなくってもいいさ 一本のベルトや紐
コルセットの発明がおんなの身体を変える
ここに出でくる「変える」。これである。これは、文を少し変更すれば、
一本のベルトや紐/コルセットの発明「によって」おんなの身体「が」「変わった」
になる。きのう読んだ部分にでてきた表現を借りれば「統辞法」の問題になってしまう。「統辞法」しだいで、「変わった」も「変える」も同じ「意味」を作り上げてしまう。このとき、「ことば」にはいったい何が起きているのだろうか。そして、私(これは、谷内、という意味)に何が起きているのか--あ、わからないねえ。
わからないことは、そのまま保留(ほったらかし?)にしておいて……。
鴎でなくってもいい 一行の行商人になる
するときみのあたためている空っぽの卵に
この世の行き場のない不安な視線が集まる
この「行商人になる」の「なる」は、どうしよう。「なる」とはどういうことか。「ことば」の問題でいえば、自分を「行商人」という「比喩」にしてしまうことか。
「鴎」も「比喩」かもしれない。「建物は移動し 魚市場は空中に躍り上がる」というのは「比喩(イメージ)」といえるかもしれない。「わたし」が「鴎」に「なる」。そうして、「鴎」の視線で世界を見る--その結果としての風景なのかもしれない。
ややこしくなったので、最初の一行にもどる。
わたしはことばなのにことばに背かれている
この場合の「わたしはことばなのに」はどういうことだろうか。「わたし」は「ことば」で「ある」ということなのか。「わたしはことばである」というのは、一首の矛盾だ。わたしはわたし、ことばはことばである、はずである。「わたしはことばである」とは、「わたし」が「ことば」に「なる」ことである。この「なる」というのは「比喩」のようなことがらである。ほんとうは、そうではない。けれど、ことばの力を借りて、そう「する」のである。
「ことば」の運動のなかには「する」と「なる」が入り乱れている。どこかで、くっついている。そしてそれが「ある」とも分けのわからない形(どこで区切っていいのかわからない形)で溶け合っている。
この関係(?)を北川は「わたし」「ことば」ではなく、「ネコ」「ネズミ」をつかって描いている部分がある。(あ、ちょっと違うのだけれど、まあ、そんなものだと仮定して……。)
ネコになれなくても、ネコを仮装するのは簡単じゃん。みんなネコになりたいものは仮装ネコになっちゃえば。心で仮装しても、身体はネズミのままだよ。かまうもんか。われはネコなりと言い続けていれば、きみは正真正銘のネコだよ。
この「ネコ」「ネズミ」が動物のネコ、ネズミではなく、何かの「比喩」だとしたら、どうなるだろう。「比喩」自体が仮装であり、仮想だが、(仮装・仮想につうじるものがあるのだが)、「言い続けていれば」、つまり「ことば」を動かしつづけていれば、何か、どうしても区別のつかない状態にまで進んでしまう。
ソクラテスって、自分のことばで何から何まで言い換えようとして、自分の「比喩」というか、あるいは「統辞法」というべきか--ともかくすべてをソクラテスのことばで言い換えようとして、「わからない」(区別がつかない)というところへ到達した。
--というのが、北川の、この作品の「意味」?
あ、いや、いま書いたソクラテス論(?)というのは、私の見方に過ぎず、北川はソクラテスをどう見ているか、私にはよくわからないが……。
また、脱線してしまった。
どう戻せばもとに戻るのかわからないので、先に進む。
最初の問いだぜ。なんじはネコを単に模倣したいだけなんだろう。それともネコを偽装したいのか。やっぱりネコを仮装したいんだな。それともネコを仮構するのがのぞみ? フン、答えられんのかい。前途多難だね。
「模倣」「偽装」「仮装」「仮構」。ここに書かれている「ことば」はどう違うのか。どこが同じなのか。これは、分析しても何もはじまらない。「無意味」である。
私は直感的に感じたことだけを書いておく。(直感を、論理的にことばにしなおしてみるというのは、どうもできそうにないので。)
北川は、あらゆる「思想」において(ことばの運動において)、「統辞法」がどのような「位置」を占めるか、あるいはどのような「運動形式」を生み出すのかということを問題にしているように思える。「思想」と「文体」と「統辞法」の関係を、「意味」としてではなく、「詩」として存在させたいと欲望しているように思える。
(また、変な日本語を書いてしまった。)
きょうの「日記」に限らず、私の感想は感想になっていないね。
私は、実は、北川の詩に「統辞法」ということばが出てきたから書くのではないが(いや、そのことばが出てきたから書くのだが)、「文体」(統辞法)が「思想」だと感じている。「文体」に、そのひとの「肉体」を感じ、同時に「統辞法」に「ことばの肉体」を感じている。
そのことを、どう書いていいのか、まったくわからない。手さぐりで、その場その場で、出会った詩を題材に、あれこれ書いている。
北川の詩を私は「誤読」しつづけているだけなのだが、北川のことばの動きのなかに、強固な「統辞法」を感じるので、「誤読」を承知で、「誤読」を暴走させたい気持ちになるのだ。私がどんなに私の「誤読」を暴走させようと、北川のことばはまったく無傷のまま、純粋にそこに存在しつづける。そういう安心感がある。それが憎らしくもあるが……。
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