詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(12)

2011-06-27 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(12)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「十章 二〇一〇年夏、ペルセウス座流星群の下で」。
 私の書いているこの「日記」は詩集の感想という範疇からどんどん逸脱していく。北川のことばを読み、そのことばを「現代詩」のなかに見つめなおす、あるいはそのことばから「現代詩」を見つめなおす--ということからどんと逸脱してゆく。
 これは、私が理解できることは私の知っていることだけだからである。私の知らないことはまったく理解できない。私は昔から、そういう人間である。
 そして、この「知っていること」と「ことば」が絡み合うとき(入り乱れるとき)、とても変なことが起きる。
 すでに書いたことだが、たとえばこの詩集に登場するM、O、Hという人間を私は知らない。「わたし」も誰のことかわからない。そればかりか、実は私は北川を知らない。それなのに、そこに書かれてることばを読み、何度もM、O、Hのことを読んでいると、何か知っている気持ちになる。そして、「わかった」と錯覚してしまう。何も知らないのに、北川がとばが繰り返され、その北川のことばを私が繰り返して読むとき、「これは読んだことがある」という意識に変わる。そして、さらに繰り返されると「これを知っている」という意識に変わる。「知っている」が「わかる」に変わるのはいつかわからないが、わからないはずなのに、「わかった」と錯覚してしまう。
 ここに、何かしら、ことばの不思議な「力」がある。繰り返されると、「事実」ではないことば、「嘘」さえも、そこに「ある」もののように感じられてしまう。この「事実」か「嘘」かわからないものに、たとえば「論理」というものがある--と私は思っている。
 ことばは、繰り返すと、「論理」を生み出してしまう。ほんとうの「論理」、たとえば科学(物理)の「論理」というのは、あくまで「事実」を踏まえて、「事実」をつなぎ合わせてできる「仮説」だが、ことばは「事実」を踏まえなくても「論理」を偽装できる。仮装できる。--というか、繰り返されると、それを「論理」と思ってしまうことがある。
 この「錯覚」(誤解)から、どんなふうに「自由」になっていいのか、私は、実はわからない。
 --きょう、私が考えているのは、そういうことである。
 そして、次の箇所でつまずく。つまり、考え込んでしまう。

 ユウレイは死ぬ。一度は悲劇として、二度目は喜劇として、三度目は茶番だ。

 ここに登場する「繰り返し」は「一度」「二度目」「三度目」ということばであらわされている。繰り返すたびにその「意味」は「悲劇」「喜劇」「茶番」という具合にかわっていく。変わっていくのだから、そこに「意味」はない--とも言えるかもしれないが、また逆に、繰り返されると「意味」は変化するものであるという「意味」を生み出しているとも言える。
 これは、とても変な感覚である。
 繰り返し、反復が「真実」変わってしまうのは、「……は……である」という同義の反復、反復すること(反復できること)で何かが「正しい」と判断できる「証拠」のようなものだからである。「イコール」が「正しい」。
 これに対して、「一度は悲劇として、二度目は喜劇として、三度目は茶番だ。」は「イコールではないから、それは何かを生み出している」と仮定しているのである。そういうことがありうる--と私が、それを繰り返せば、そこに「論理」のようなものが生まれてしまう。
 とても、変である。

 私はきょうもまた私の言いたいことを言えないまま、くだくだと変なことを書いている。--とわかっていながら、書かずにはいられない。そして、書きながらつまずく。
 つまずいて、そこまで動かしてきたことばを、そこに「保留して」(ちょっと、使ってみたかったことばだが、こういう使い方でいいのかな?)……。

 きみはおれを何処までも追いかける。いつまでも、おれが訪れるのを待っている。きみは老いているが、女の語り口をもった、ことばの精なのだ。おれは君の腕に、抱き抱えられるが、きみの腕のなかにはいない。おれはきみの唇によって、語り直されるが、きみのことばからは、すり抜ける。それでいて、おれはきみを支配しようとしていて、きみに跪いている。きみがおれを追いかけず、おれを待たなくなったら、おれは死ぬだろう。

 「おれ」と「きみ」と、「ことば」の関係。「おれ」は「おれのことば」と読み、「きみ」は「きみのことば」であると読むとき、「ことば」というかっこにくくって、それは(おれ+きみ)ことばという「数式」になる。
 --あ、いい数式とは言えないね。
 私は、「おれのことば」を「きみのことば」が繰り返すとき、「ことば」と「ことば」が収斂して消えてしまい、「おれ」と「きみ」が同じものになるということだ。ことばは「別個の存在」を「同じもの」にしてしまう。今まで、この詩集のなかでつかわれてきたことばでいえば、「二人」が「一人」になる。
 こういうときの「ことばの繰り返し」を北川は「語り直す」という表現であらわしている。「繰り返す」のではなく、「語り直す」。
 「語り直す」とき、そこには「繰り返し」以上の「差異」が侵入してくる。その「差異」を指して、「(おれは)きみのことばからは、すり抜けている」と指摘することができる。でも、その「すり抜け」は、「逃走」なのだろうか。そうではなくて、さらなる「語り直し」を要求する方法かもしれない。「主語」が入り乱れるが、それはもしかすると、「語り直す」きみが、わざと仕組んだことかもしれない。さらに追いかけるために、わざと「差異」をつくる、「差異」をつくることで追いかける「理由」をつくる。

 どうとでも言える。どうとでも「語り直せる」。いや、そうではなく、ここから導き出せる「結論」は「ひとつ」かもしれない。
 「語り直す」とこだけが、先行することばを生かす方法である。「語り直さ」なければ、先行することば(おれ、と北川が書いているもの)は死ぬ。そして同時に、「語り直さ」なければ、追いかけていることば(きみ)もまた死ぬのだ。
 Mを、Oを、Hを、さらには「わたし(北川)」を「語り直す」ときだけ、北川のことばは「生きている」。
 この「生きている」というのは、何かを「知る」、いや「知りつづける」ということかもしれない。
 また、「語り直す」ことが「生きている」ということなら、「生きる」ということは「語り直しつづける」ということであり、「語り直しつづけると」、「知りつづける」から「つづける」が消えて、「知る」ということに「到達」できるかもしれない。

 ことばは、その国の「思想」の到達点である--ということばを、ふいに思い出してしまう。


海の古文書
北川 透
思潮社



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青木津奈江『星降る岸辺の叙景』

2011-06-27 10:44:16 | 詩集
青木津奈江『星降る岸辺の叙景』(ふらんす堂、2011年05月20日発行)

 青木津奈江『星降る岸辺の叙景』は静かな、そして美しいことばで書かれている。夾雑物、ノイズがないだけに、少し詩としては弱い印象が残る。つまり、あまり「現代詩」っぽくはない。けれども、とてもしっかりしている。強いものがある。
 「挽歌」という作品。

菜島の朱の鳥居
並んだ舳先に
陽は揺れている

海と山とを行き来する
鳶の鳴く声
か細く響く

三ヶ下海岸
三ヶ岡
凌霄蔓(のうぜんかずら)は風に揺れ
蓬春記念館
音羽楼
密やかなこの路地を

わたしは一人で歩いていける

玉蔵院から
森山神社へ
あなたが纏った経帷子の
脳裏に刻んだ
デスマスク

もう恐くない

黒松林をくぐりぬけ
海に抱かれた公園に
浜萱草(はまかんぞう)が咲いている

 いくつもの固有名詞が出てくる。書き出しの「菜島」をはじめ、そこに出てくる固有名詞(地名)を私はまったく知らない。知らないけれど、それがとても美しく響いてくる。きりつめられて、むだがない。いっさいの修飾語をもたずに、とぎすまされて存在している。
 「わたしは一人で歩いていける」という行があるが、「わたし」が「一人」であるように、その固有名詞は「ひとつ」であることで、青木と向き合っている。あらゆるものを捨て去って、「一人」と「ひとつ」が向き合う。そのとき「ひとつ」はかけがえのないものであり、「ひとつ」であることによって「すべて」なのだ。
 こうした関係の中で、固有名詞ではないもの、普通の名詞(一般名詞)も、かけがえのない「ひとつ」になる。「鳥居」も「舳先」も「鳶」も。そして何よりも、「凌霄蔓」「浜萱草」と漢字で美しく切り詰めて書かれた植物が、まるで結晶のように「こころ」をひとつにする。そのとき「世界」が「ひとつ」になる。ほんとうに結晶する。その透明さが、青木の詩である。
 「夕暮れをさがして」も美しい詩である。

芦名を過ぎたら
とわこさんが乗ってきた
終点
佐島で降りたのは
ふたりだけ

海鳥が鳴いている

水平線
太陽はバーミリオン
広い肩
黒いシルエットを翻して

死んでなんかいない いない いない いない
怒って いるの いるの いるの

太陽はもうすれすれ

海猫が鳴いている
とわこさんの声がする

ああ
夕暮れは
太陽を掴まえにやってきた

海の奥から
クゥー クゥー クゥー

鳴きながら

 もう会えないとわこさん。会えなくなったことに怒っている。
 1連目の「ふたりだけ」の「ふたり」は、「挽歌」で読んできた「ひとつ」である。「ひとつ」(一人)の「わたし」が、「わたし」と「とわこさん」にわかれて向き合い、それからまた「ひとり」に戻る。
 太陽と海が「ひとつ」になる夕暮れ。
 青木は「一人」と「ふたり」の、「ひとつ」の結晶となる。





星降る岸辺の叙景―青木津奈江詩集
青木 津奈江
ふらんす堂



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