北川透『海の古文書』(12)(思潮社、2011年06月15日発行)
「十章 二〇一〇年夏、ペルセウス座流星群の下で」。
私の書いているこの「日記」は詩集の感想という範疇からどんどん逸脱していく。北川のことばを読み、そのことばを「現代詩」のなかに見つめなおす、あるいはそのことばから「現代詩」を見つめなおす--ということからどんと逸脱してゆく。
これは、私が理解できることは私の知っていることだけだからである。私の知らないことはまったく理解できない。私は昔から、そういう人間である。
そして、この「知っていること」と「ことば」が絡み合うとき(入り乱れるとき)、とても変なことが起きる。
すでに書いたことだが、たとえばこの詩集に登場するM、O、Hという人間を私は知らない。「わたし」も誰のことかわからない。そればかりか、実は私は北川を知らない。それなのに、そこに書かれてることばを読み、何度もM、O、Hのことを読んでいると、何か知っている気持ちになる。そして、「わかった」と錯覚してしまう。何も知らないのに、北川がとばが繰り返され、その北川のことばを私が繰り返して読むとき、「これは読んだことがある」という意識に変わる。そして、さらに繰り返されると「これを知っている」という意識に変わる。「知っている」が「わかる」に変わるのはいつかわからないが、わからないはずなのに、「わかった」と錯覚してしまう。
ここに、何かしら、ことばの不思議な「力」がある。繰り返されると、「事実」ではないことば、「嘘」さえも、そこに「ある」もののように感じられてしまう。この「事実」か「嘘」かわからないものに、たとえば「論理」というものがある--と私は思っている。
ことばは、繰り返すと、「論理」を生み出してしまう。ほんとうの「論理」、たとえば科学(物理)の「論理」というのは、あくまで「事実」を踏まえて、「事実」をつなぎ合わせてできる「仮説」だが、ことばは「事実」を踏まえなくても「論理」を偽装できる。仮装できる。--というか、繰り返されると、それを「論理」と思ってしまうことがある。
この「錯覚」(誤解)から、どんなふうに「自由」になっていいのか、私は、実はわからない。
--きょう、私が考えているのは、そういうことである。
そして、次の箇所でつまずく。つまり、考え込んでしまう。
ここに登場する「繰り返し」は「一度」「二度目」「三度目」ということばであらわされている。繰り返すたびにその「意味」は「悲劇」「喜劇」「茶番」という具合にかわっていく。変わっていくのだから、そこに「意味」はない--とも言えるかもしれないが、また逆に、繰り返されると「意味」は変化するものであるという「意味」を生み出しているとも言える。
これは、とても変な感覚である。
繰り返し、反復が「真実」変わってしまうのは、「……は……である」という同義の反復、反復すること(反復できること)で何かが「正しい」と判断できる「証拠」のようなものだからである。「イコール」が「正しい」。
これに対して、「一度は悲劇として、二度目は喜劇として、三度目は茶番だ。」は「イコールではないから、それは何かを生み出している」と仮定しているのである。そういうことがありうる--と私が、それを繰り返せば、そこに「論理」のようなものが生まれてしまう。
とても、変である。
私はきょうもまた私の言いたいことを言えないまま、くだくだと変なことを書いている。--とわかっていながら、書かずにはいられない。そして、書きながらつまずく。
つまずいて、そこまで動かしてきたことばを、そこに「保留して」(ちょっと、使ってみたかったことばだが、こういう使い方でいいのかな?)……。
「おれ」と「きみ」と、「ことば」の関係。「おれ」は「おれのことば」と読み、「きみ」は「きみのことば」であると読むとき、「ことば」というかっこにくくって、それは(おれ+きみ)ことばという「数式」になる。
--あ、いい数式とは言えないね。
私は、「おれのことば」を「きみのことば」が繰り返すとき、「ことば」と「ことば」が収斂して消えてしまい、「おれ」と「きみ」が同じものになるということだ。ことばは「別個の存在」を「同じもの」にしてしまう。今まで、この詩集のなかでつかわれてきたことばでいえば、「二人」が「一人」になる。
こういうときの「ことばの繰り返し」を北川は「語り直す」という表現であらわしている。「繰り返す」のではなく、「語り直す」。
「語り直す」とき、そこには「繰り返し」以上の「差異」が侵入してくる。その「差異」を指して、「(おれは)きみのことばからは、すり抜けている」と指摘することができる。でも、その「すり抜け」は、「逃走」なのだろうか。そうではなくて、さらなる「語り直し」を要求する方法かもしれない。「主語」が入り乱れるが、それはもしかすると、「語り直す」きみが、わざと仕組んだことかもしれない。さらに追いかけるために、わざと「差異」をつくる、「差異」をつくることで追いかける「理由」をつくる。
どうとでも言える。どうとでも「語り直せる」。いや、そうではなく、ここから導き出せる「結論」は「ひとつ」かもしれない。
「語り直す」とこだけが、先行することばを生かす方法である。「語り直さ」なければ、先行することば(おれ、と北川が書いているもの)は死ぬ。そして同時に、「語り直さ」なければ、追いかけていることば(きみ)もまた死ぬのだ。
Mを、Oを、Hを、さらには「わたし(北川)」を「語り直す」ときだけ、北川のことばは「生きている」。
この「生きている」というのは、何かを「知る」、いや「知りつづける」ということかもしれない。
また、「語り直す」ことが「生きている」ということなら、「生きる」ということは「語り直しつづける」ということであり、「語り直しつづけると」、「知りつづける」から「つづける」が消えて、「知る」ということに「到達」できるかもしれない。
ことばは、その国の「思想」の到達点である--ということばを、ふいに思い出してしまう。
「十章 二〇一〇年夏、ペルセウス座流星群の下で」。
私の書いているこの「日記」は詩集の感想という範疇からどんどん逸脱していく。北川のことばを読み、そのことばを「現代詩」のなかに見つめなおす、あるいはそのことばから「現代詩」を見つめなおす--ということからどんと逸脱してゆく。
これは、私が理解できることは私の知っていることだけだからである。私の知らないことはまったく理解できない。私は昔から、そういう人間である。
そして、この「知っていること」と「ことば」が絡み合うとき(入り乱れるとき)、とても変なことが起きる。
すでに書いたことだが、たとえばこの詩集に登場するM、O、Hという人間を私は知らない。「わたし」も誰のことかわからない。そればかりか、実は私は北川を知らない。それなのに、そこに書かれてることばを読み、何度もM、O、Hのことを読んでいると、何か知っている気持ちになる。そして、「わかった」と錯覚してしまう。何も知らないのに、北川がとばが繰り返され、その北川のことばを私が繰り返して読むとき、「これは読んだことがある」という意識に変わる。そして、さらに繰り返されると「これを知っている」という意識に変わる。「知っている」が「わかる」に変わるのはいつかわからないが、わからないはずなのに、「わかった」と錯覚してしまう。
ここに、何かしら、ことばの不思議な「力」がある。繰り返されると、「事実」ではないことば、「嘘」さえも、そこに「ある」もののように感じられてしまう。この「事実」か「嘘」かわからないものに、たとえば「論理」というものがある--と私は思っている。
ことばは、繰り返すと、「論理」を生み出してしまう。ほんとうの「論理」、たとえば科学(物理)の「論理」というのは、あくまで「事実」を踏まえて、「事実」をつなぎ合わせてできる「仮説」だが、ことばは「事実」を踏まえなくても「論理」を偽装できる。仮装できる。--というか、繰り返されると、それを「論理」と思ってしまうことがある。
この「錯覚」(誤解)から、どんなふうに「自由」になっていいのか、私は、実はわからない。
--きょう、私が考えているのは、そういうことである。
そして、次の箇所でつまずく。つまり、考え込んでしまう。
ユウレイは死ぬ。一度は悲劇として、二度目は喜劇として、三度目は茶番だ。
ここに登場する「繰り返し」は「一度」「二度目」「三度目」ということばであらわされている。繰り返すたびにその「意味」は「悲劇」「喜劇」「茶番」という具合にかわっていく。変わっていくのだから、そこに「意味」はない--とも言えるかもしれないが、また逆に、繰り返されると「意味」は変化するものであるという「意味」を生み出しているとも言える。
これは、とても変な感覚である。
繰り返し、反復が「真実」変わってしまうのは、「……は……である」という同義の反復、反復すること(反復できること)で何かが「正しい」と判断できる「証拠」のようなものだからである。「イコール」が「正しい」。
これに対して、「一度は悲劇として、二度目は喜劇として、三度目は茶番だ。」は「イコールではないから、それは何かを生み出している」と仮定しているのである。そういうことがありうる--と私が、それを繰り返せば、そこに「論理」のようなものが生まれてしまう。
とても、変である。
私はきょうもまた私の言いたいことを言えないまま、くだくだと変なことを書いている。--とわかっていながら、書かずにはいられない。そして、書きながらつまずく。
つまずいて、そこまで動かしてきたことばを、そこに「保留して」(ちょっと、使ってみたかったことばだが、こういう使い方でいいのかな?)……。
きみはおれを何処までも追いかける。いつまでも、おれが訪れるのを待っている。きみは老いているが、女の語り口をもった、ことばの精なのだ。おれは君の腕に、抱き抱えられるが、きみの腕のなかにはいない。おれはきみの唇によって、語り直されるが、きみのことばからは、すり抜ける。それでいて、おれはきみを支配しようとしていて、きみに跪いている。きみがおれを追いかけず、おれを待たなくなったら、おれは死ぬだろう。
「おれ」と「きみ」と、「ことば」の関係。「おれ」は「おれのことば」と読み、「きみ」は「きみのことば」であると読むとき、「ことば」というかっこにくくって、それは(おれ+きみ)ことばという「数式」になる。
--あ、いい数式とは言えないね。
私は、「おれのことば」を「きみのことば」が繰り返すとき、「ことば」と「ことば」が収斂して消えてしまい、「おれ」と「きみ」が同じものになるということだ。ことばは「別個の存在」を「同じもの」にしてしまう。今まで、この詩集のなかでつかわれてきたことばでいえば、「二人」が「一人」になる。
こういうときの「ことばの繰り返し」を北川は「語り直す」という表現であらわしている。「繰り返す」のではなく、「語り直す」。
「語り直す」とき、そこには「繰り返し」以上の「差異」が侵入してくる。その「差異」を指して、「(おれは)きみのことばからは、すり抜けている」と指摘することができる。でも、その「すり抜け」は、「逃走」なのだろうか。そうではなくて、さらなる「語り直し」を要求する方法かもしれない。「主語」が入り乱れるが、それはもしかすると、「語り直す」きみが、わざと仕組んだことかもしれない。さらに追いかけるために、わざと「差異」をつくる、「差異」をつくることで追いかける「理由」をつくる。
どうとでも言える。どうとでも「語り直せる」。いや、そうではなく、ここから導き出せる「結論」は「ひとつ」かもしれない。
「語り直す」とこだけが、先行することばを生かす方法である。「語り直さ」なければ、先行することば(おれ、と北川が書いているもの)は死ぬ。そして同時に、「語り直さ」なければ、追いかけていることば(きみ)もまた死ぬのだ。
Mを、Oを、Hを、さらには「わたし(北川)」を「語り直す」ときだけ、北川のことばは「生きている」。
この「生きている」というのは、何かを「知る」、いや「知りつづける」ということかもしれない。
また、「語り直す」ことが「生きている」ということなら、「生きる」ということは「語り直しつづける」ということであり、「語り直しつづけると」、「知りつづける」から「つづける」が消えて、「知る」ということに「到達」できるかもしれない。
ことばは、その国の「思想」の到達点である--ということばを、ふいに思い出してしまう。
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