詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(11)

2011-06-26 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(11)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「九章 三角点 あるいはメイストロム」。
 「八章」でつまずいたから書くのではないが(つまずいたから書くのだが、と書いてもおなじことだが)、詩は、どのように読んでもいい。詩にかぎらず文学も哲学もどのようにも読んでもいいものだと私は思っている。結局、それは自分の知っていることを読むだけなのである。たとえ、このことばはこういう状況のなかでこの意味でつかわれている--というようなことが解説されたとしても、それで何かがわかるわけではないだろう。「解説」を読むときは、詩ではなく、あくまで「解説」のなかのわかることばを探して読んでいるだけである。何かがわかったつもりになっても、それは「解説」がわかったということであって、もとの詩がわかったことになるかどうか、あやしい--と感じている。

 わたしは三人の男たちが、四十年近く前に歩いて登った、という山頂を目指した。ケーブルカーで、いとも簡単に、頂上三角点の標識まで、到達してしまう。雑木の生い茂っている、視界零の頂上、バカな男たちのアホらしいロマンチシズムにも、まったく呆れ果てるわね。山頂というだけで、こんなに世界が見えない場所を、ありがたがって、拝んでいたんですもの。

 この部分の「三人の男たち」は、この詩集に出てくるM、O、Hを思い起こさせる。読んできて、すでにM、O、Hという人間のことを書いているということを知っているので、そう思うのである。だが、そうおもうけれど、私は北川が書いているM、O、Hが誰をさすのか(あるいは、誰と誰を複合したものであるのか)、まったく知らない。知る手がかりもない。それでも、読んだ記憶が、「知っている」こととなって、私を揺さぶる。
 「知っていること」のなかには、「ことば」だけで知っていることも含まれてしまう。これは、ちょっと困ったことなのだけれど(どう困るかを説明するのには、また一苦労するので省略するが)。
 この「知っていること」に「山頂をありがたがるロマンチシズム」が重なってくる。私は子ども時代は山の中に育ったので、山登りというものにはまったく関心がなかった。いまも関心があるわけではないが、その山登りを「ロマンチシズム」と呼ぶ「批判」の仕方を「ことば」として知っている。「山登りが好き、なんてバカである」という「批判」が「ことば」としてすでに存在していることも知っている。だから、北川の書いている「わたし」の「ことば」がわかる。あるいは、わかったような気持ちになる。
 でも、これは、ほんとうに私が私の体験したこと、山登りとか、山登りの好きな男たちに会って、実際に感じたことではない。そういうことも「ことば」を通して感じる、感じると言ってしまうことができてしまう。
 それから、山頂を「視界零」というときの、実際の雑木のせいで見えないということとは別のもの「比喩」としても「理解」してしまう。「誤読」してしまう。ひとが実際に暮らしているわけではない、暮らしの実際があるわけではない「山頂」でいったい「世界」の何が見える? 人間のいない風景--非情な風景しか見えない。山に登ったからといって「世界」が俯瞰できるわけではない、「世界」を見ることにはならない--というようなことばが、勝手に動いてしまう。つまり、北川のここ書いたことばを、北川の書いた意思がどうであれ、私は勝手に私の「知っていること」(知っていると思っていること)と結びつけて「誤読」をするだけなのである。
 そして、ここからが私の「強引」なところなのだが、私がこんなふうに北川を「誤読」するように、きっと北川(あるいは北川の書いている「わたし」)も「三人の男」を「誤読」しているに違いないと思うのだ。私の「誤読」、北川の「誤読」--その「誤読」と「誤読」が出会うという形を通して、私は「いま/ここ」で北川にあっているという気持ちになる。
 言い換えると、突然、あ、北川の書いていることのことばがおもしろい。このことばを追いつづけようという気持ちになる。夢中になる。もっともっと「誤読」したい、という気持ちになる。

次に出会った奴は、変にぼやけているのよ。男か、女か、一人か、二人か、ひょっとしたら、三人かもしれないわね。(略)ひとつに膨らんだり、縮んだり、二つにも三つにも、分割したり、顔はあるけれど目鼻が一つだったり、六つに見えたり、ちょび髭生やしている、裂けた口唇は木の切り株ほどもあり、わたしを見て笑った。

 この「一人」「二人」「三人」が揺れ動き、どれがほんとうかわからないということばは、これまでの北川のことばに出てきた部分と重なる。それは北川(の書いている「わたし」)が、「一人」でありながら、同時に「二人」「三人」であり、その「集合」としての「一人」でもあるということを「意味」する。
 この「わたし」の「認識」は「誤読」というものかもしれないが、それが「誤読」であるから、私は、そこに書かれていることばと「重なる」ことができる。「理解できた」と錯覚することができる。

 でも、こんなことだけでは、おもしろくないね。堂々巡りだね。そう思っていると、突然、「知らない」ことが書かれる。えっ、それって何? わからないよ、と大声を出したくなるようなことばが突然登場する。

わたしが、いちばん怖かったのは、死んだ<男の子>が、< >に包まれて、イヌツゲの灰白色の幹に、吊るされ、風に揺れて、いたこと、だった。その子の、首には、確かに、見覚え、のある、鋸歯状の、楕円の、葉が三枚、ぶら、さがって、いる、の、わ、た、し、は、そ、の、前、で、身、が、竦、ん、で、動、け、な、く、な、っ……

 「浅間山荘事件」といえばいいのかな? 大学闘争からはじまった「リンチ事件」をふと想像してしまうのだが、その「死」を<男の子>と呼ぶことばの運動、さらに「< >に包まれて」ということばのあり方--あ、これが、わからない。わからない、といいながら、私はそこに私の「知っている」リンチ事件を重ね合わせ、何かを知ろうとしている。
 私が目をつぶって避けてきたもの--それが、北川のことばのなかで動いている、と感じてしまう。読点「、」で切断されたことば、切断されながら、それでもそこに「連続」を感じてしまう何か。

ねんねこしゃっしゃりませ
ねんねこしゃっしゃりませ
なんというて おがむんさ
なんというて おがむんさ
あしたこのこのみやまいり
あしたこのこのみやまいり
おしりまるだしめをむいて
おしりまるだしめをむいて
ねんころころろころころり
ねんころころろころころり

 この「子守歌(?)」の不気味さ。怖さ。
 --これを挟んで、北川のことばは、ぱっと変化する。

 包まれているものは、どうしてこんなに、おれたちを不安にさせるんだ。

 北川が何を書きたいのか--。<男の子>という「主語」が、「< >に包まれて」を通って、「包む」ということ、包む「哲学」に突然かわったと私は感じる。
 包む、は、「かっこに閉じて」ということかもしれない。いったん中断し、それを「脇においておいて」ということかもしれない。いろいろな言い方がある。--いろいろな言い方があるということを「知っている」私は、それがいろいろな言い方で言おうとしている何かだと感じる。
 中断、ずらし、保留……。それは「包む」ということなのか。
 「男の子」を包む。何かで包む--そのとき、男の子は「包む」ではなく、「包まれる」である。「包まれる」とは、どういうことだろう。
 北川のことばは、別の視点から動きはじめる。

 渦巻いている者は、両手でわたしの腰を抱いたのよ。渦巻いている者の、律動が、徐々にわたしに伝わり、わたしの身体は、私を離れ、小刻みに震えだしました。何者かに巻き込まれることは、わたしから引き剥がされる、ということでした。

 「包む」は「抱く」に変わる。「手」で「包め」ば「抱く」。「触れあう」より、何か強い力が働く。誰かと強烈に触れ合い、その相手を放さないように力を込める。
 「渦巻いている者」とは「わたしを抱いている人」と同じ意味だろう。
 抱かれれば、抱いているひとの力が「肌」をとおして伝わり、その影響で「わたしの身体は、私を離れ」る。「わたし」が「わたしから引き剥がされる」。--これは、「比喩」である。「肉体」が実際に「肉体」から引き離されることはない。そんなことをすれば死んでしまう。だから、これは「精神」とか「感覚」の問題なのだが、それを「肉体」として書く--この「精神」を「肉体」ということばで書くことに、私はとても強い共感を覚える。
 私も「精神」ということば、「感覚」ということばをつかうが、私は実はその存在を信じていない。「肉体」なら「知っている」が、「精神」「感覚」というものを私は「知らない」からである。
 
 あれやこれやのことば、ことばの「暴力」が「肉体」にどんなふうに影響するか。次の部分は、そういうことを書いているのだと思うが--そういうふうに「誤読」して、私は震えてしまう。北川はそこでは私の「知らない」ことばを書いているのだが、その「知らない」ことを、私の「肉体」は「知っている」と叫んでいるのである。つまり、あ、これこそが私の言いたいことだ、と叫んでいる。共感している。
 詩集の105 ページのなかほどから動いていくことば、それはなんといえばいいのだろう。私にとっては、いっさいの「説明」、いっさいの「言い直し」が不必要なことばである。この詩集の「大好きな部分」である。

わたしはいくつかに分裂し、伸縮し、変形し、狂いだす。渦巻いている者は、わたしを抱いて、浮遊しだしました。空中を旋回している間に、気持ちよく陶酔しているわたしの身体から、脱落していくわたしは、霰のように地上に落下して砕けたのです。渦巻いている者は、彼が抱きかかえている無数の欲望する身体を、すべて同じ意味、同じ価値によって、切り揃えています。(略)渦巻いている者の神聖な無表情に、無数のわたしたちは同一化し、溶けていくのです。その結果、渦巻いている者の、底なしの優しさ、やわらかさに包まれた、無色無臭の毒ガス、粒子状に飛び散る暗い暴力を、胎内深く孕まされていったのでした。

 ここに書かれていることばを、切り貼りし、「同じ意味、同じ価値よって、切り揃え、無数のわたしたちを同一化する暴力」という文章にしてみる。そのとき「主語」はなんだろう。「暴力」の「主体」はなんだろう。「ことば」ではないだろうか。
 そういう「ことばの暴力」を北川は告発している。そういう「ことばの暴力」と戦っている--と私は感じている。



海の古文書
北川 透
思潮社
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岩木誠一郎「飛来するもの」

2011-06-26 18:20:46 | 詩(雑誌・同人誌)
岩木誠一郎「飛来するもの」(ぶーわー」26、2011年05月10日発行)

 岩木誠一郎「飛来するもの」は、とてもすっきりした、静かな詩である。ここ何日か「散文詩」の、非散文的(?)なことばを読んできたので、特にそう感じるのかもしれない。漢字とひらがなのつかいわけにも気配りがある。ことばに対するこだわりが感じられる詩である。

ほそく開いたカーテンのすきまから
月のひかりに濡れた国道がひとすじ
北に向かうのを見ている
伝えることも
分かち合うこともできないものが
つめたさとして降りつもる部屋で

遠ざかるバスの座席には
わたしによく似た影がうずくまり
運ばれてゆくことの
痛みに耳をすませているだろう
ほんの少しの荷物を
胸のあたりに抱えたまま

この先には小さなみずうみがあり
冬になると白鳥が飛来するという
その名を口にしようとすると
くもりはじめたガラスのむこうを
低いエンジン音とともに
もう一台のバスが走り去る

 ひとり部屋にいて、国道を走る車(バス)を見ている。見ながら、いろいろ考えている。その孤独と、悲しみ。そういうものを書いていることが、一読してすぐにわかる。
 しかし、わからないことばがある。
 「伝えることも/分かち合うこともできないものが/つめたさとして降りつもる」と1連目にあるが、これはいったい何のこと? 「降り積もる」は季節が冬で、雪が降り積もるように、くらいの意味なのだろうけれど、「伝えることも/分かち合うこともできないもの」は、あまりに抽象的すぎて、わからない。わからない、と書いているけれど、なんとなく、ひとに伝えたいのに伝わらない悲しみ、寂しさ、孤独……のようなものであることは、想像できる。「冷たい」と悲しみ、寂しさ、孤独がどこかで通い合うからだ。
 そして、岩木がことばを動かすとき、この「つめたさ」ということばのつかい方にあらわれているように、わからないことをなんとか別のことばで補足して「感じ」を浮かび上がらせようとしていることがわかる。
 「伝えることも/分かち合うこともできないもの」ということばだけでは、それが何を指しているか読者にわからなということを、岩木は知っているのである。だから、補足しているのである。
 この補足というか、言い直しは、2連目でもおこなわれる。
 「伝えることも/分かち合うこともできないもの」は「運ばれてゆくことの/痛み」である。そしてそれは「耳をすませて」感じ取るものである。「痛み」というのは触覚に属するものだと思うけれど、岩木はそれを「聴覚(耳)」で聞き取るものと書いている。「耳をすませる」とき、ひとは体を静かに、動かさずに、じっとしている。その「動かない」肉体のなかで感じる「痛み」--それを「耳をすませて」と書いたのだとも受け取れる。何か、感覚が「肉体」のなかで、融合して、ひとつの感覚では伝えられないものを現わそうとしている。
 「ほんの少しの荷物を/胸のあたりに抱えたまま」も同じ補足である。静かに、体を動かさずにいる--その姿勢は、胸のところに小さな荷物を抱えた状態のようである、というのだ。ここに書かれている「ほんの少しの荷物」は「現実」であり、また「比喩」なのだ。「荷物」を抱えていなくても、「ほんの少しの荷物を」抱えるようにしている、ということだ。
 この「ほんの少しの荷物」のように、岩木のことばは「現実」と「比喩」を行き来している。「現実」であると同時に、彼の「心象」なのである。「胸のあたり」の「胸」も肉体の「位置」であると同時に「心象」が動くところ、「こころ」なのである。
 「心象」というのは伝えることができるといえばできるが、それがほんとうに伝わったか、あるいは分かち合えたかは、わからないものである。
 「伝えることも/分かち合うこともできないもの」は3連目でも補足される。
 「この先には小さなみずうみがあり/冬になると白鳥が飛来するという」の「この先」。「ここ」ではない「場所」。「この先」というのは2連目のことばを借りると「ほんの少し先」になる。岩木のことばは、先に書いたことばを引き継ぎ、補足するようにして少しずつ深まり、動いているのだ。「伝えることも/分かち合うこともできないもの」というのは、「ほんの少し」だけ、伝えたい相手(あなた、と仮に呼んでおく)が感じ取っているものとは違うのだ。岩木には違って見えるのだ。その「ほんの少し」の違いが、しかし、とても大切なのだ。それが積み重なって、何か大きな違いになってしまうのだから。
 「ほんの少し先」の湖には「白鳥が飛来するという」。この「白鳥」、「白鳥の飛来」れもまた「伝えることも/分かち合うこともできないもの=伝えたいもの」である。「いま/ここ」にはない。「いま/ここ」であなたが感じているもの(見ているもの)ではない。それは、「いま/ここ」ではなく、「ほんの少し先」にあるのだ。
 それを岩木は伝えたい。けれど「その名」(具体的なことがら)を伝えようとすると、それがうまくことばにならず、そして、あなたは去ってしまった……。
 ほんとうに伝えたいこと「その名」が、白鳥がやっているという「冬」のつめたさ、雪のつめたさで、岩木の部屋をつつんでいる。

 --と書いてきて気がつくのだが、岩木のことばは「散文」の「文法」で書かれている。あることがらを書く。それを踏まえながら、足りない部分を補い、言いなおす。それを繰り返すことで、言いたいことを少しずつ明確にしてゆく。ことばが重なるたびに、それが深まっていく。
 「散文の文法」を踏まえながら、岩木は「ほんの少し」とか「この先」という「小さなことば(おおげさではない、という意味、ひとがごくふつうにつかうという意味)」で読者を立ち止まらせる。「小さなことば」のなかに「言いたいこと」をこめる。感覚も、切り離された感覚ではなく「つめたさ」が「痛み」にかわり、触覚が聴覚にかわるように、どこかでつながっている--なにもかもをつなぎとめる「肉体」を丁寧にくぐらせることで動かしている。
 「抒情詩」こそ、「散文」の感覚が必要な詩形式なのかもしれない。




流れる雲の速さで
岩木 誠一郎
思潮社



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