北川透『海の古文書』(2)(思潮社、2011年06月15日発行)
「序章 時の彼方」のつづき。
毎日一章ずつ感想を書いていけるかなあと思っていたのだが、すでに破綻。「ことば」と「ずれ」について、もう少し書いておきたい。感想なのか、私の考えなのか、そしてそれはほんとうに私の考えたことなのか、それとも北川のことばが私のなかで暴走しているのを私が追いかけているだけなのか、区別がつかないけれど、この区別がつかないということが「読む」ことの愉悦である。だから、私はことばに酔ったまま、酔っぱらいの妄想を暴走させる。酔っぱらった時だけ見えるものもあるのだ、と私は思っているのだ。
「ことば」と「行為」の「落差」、あるいは「ずれ」。「ずれ」てしまう「こと」。これを北川は「レトリック」と言いなおしている。「レトリック」は一般的に「修辞学」(美辞学)と呼ばれているが、その「修辞(美辞)」とは「ほんもの」から「ずれ」ているということだろう。「ほんとう」は美しくはない。けれど、それを美しく「する」。美しいものならば、より美しく「する」。それは、ことばのなかで「もの」がより美しく「なる」ということだろう。「ある」から「なる」への運動。そこには「変化」がある。そして「変化」があるということは、もとの「もの」とことばによって書かれた「もの」の間には「落差」「ずれ」があるということだ。
「ずれ」「落差」は、しかし、あってはいけないのか。「科学」なら、あってはいけないだろう。けれど「暮らし」のなかにあって、「ずれ」があってはいけないのか。--これは、ちょっとややこしい。むずかしい。
で。
私は少し視点をずらして考えてみる。
なぜ人間は「ずれ」を許してしまうのか。「ことば」を、「レトリック」を許してしまうのか。たとえば、「殺す」という表現。
映画「十二人の怒れる男」のなかに、こんなシーンがある。容疑者の少年は「殺してやる」と叫んでいた。だから殺意があった。少年が犯人だ、と主張していた男が、議論の過程で興奮して、ヘンリー・フォンダをののしるとき、思わず「殺してやる」と言ってしまう。その「殺してやる」には、ほんとうに「殺意」があるか。ない。ただ、興奮して言っただけのことばである。殺意はない。しかし、それでは男が「嘘」を言ったのかといえば、そうではない。その「ことば」は「ほんもの」ではない。しかし、「ほんとう」が含まれている。その「ほんとう」は、「怒り」の気持ちである。容疑者がいる。彼が犯人である。彼は有罪である、と評決してしまえば自分たちはここから解放され自由になれる。はやく自由になりたい。評決の議論なんて、もう、これで十分、あれこれくだくだと疑問点を並べるな、という「ほんとう」が含まれている。
「ほんとう」はそのまま「ことば」になることかあるかもしれないが、ならないこともある。「ことば」は「ほんとう」ではないが、ことばは「ほんとう」を含む。その「ほんとう」はことばどおりではない。ことばにすることによって、一瞬「ほんとう」に近づく。
いま私が書いたことは、あまり、いい例ではない。(書く前は、違うことが見えていたのだが、実際にことばを動かしてみたら、思ったようにことばは動いていかなかった。どこかで、つまずいてしまった。--こういうことは、つまりうまく書けなかったことは消してしまえばいいのかもしれないが、そのまま残しておくのが私の癖である。)
誰かを「殺す」と書く。(言う)。そのとき、一瞬、自分の望んでいる「世界」が見える。それは「幻視」である。それは「幻視」、つまりまぼろし、つまり嘘。けれど、その嘘とともにある「思い」は「ほんとう」の思いである。「殺す」ということばそのものとつながっているわけではない。「ほんとう」は「殺したい」のではなく、「議論から逃れ、自由になりたい」なのだが、そういうことは評議員なのでいえない。無責任になってしまう。だから「こんな議論をやめて、自由になろうじゃないか」と言うかわりに「殺してやる」と言ってしまうのだが、言った瞬間にことばが違っていることに気がつき、「十二人の怒れる男」の男はうろたえる。
けれど、詩は、うろたえなくていい。「現実」ではないのだから。それはあくまで「表現」であることを、だれもが知っている。だから「殺す」と詩人は書く。書いてしまう。そして「書く」ことによって、「ほんとう」を見る。確認する。
それは「読む」人間もおなじである。書かれていることば、それは思っている「こと」の「断片(端)」である。「ことば」は「こと・端」。その「端」に「ほんとう」の「断片」がある。一分がある。ことばは、その一部を定着させ、さらに拡大することができる。そういう力がある。「端」っこに「ある」ものは「全体」ではない。けれど、それは「ほんとう」である可能性があるものなのだ。そこから「全体」をつくっていくことが、もしかすると可能かもしれない……。
「レトリック」こそ「ほんとう」なのだ。「レトリック」を含まないものは「ほんもの」ではあっても「ほんとう」ではない--というと言いすぎるのだが、「ほんとう」は「レトリック」の「ずれ」のなかにあるのだ。
「殺す」は極端すぎて、いい例とはいえなかったが、ごく単純な「比喩」、たとえばきみのほほえみはバラだというときの「レトリック」、ほほえみをバラという「比喩」で表現する時、その嘘のなかには、きみのほほえみを自分がいちばん美しいと思っているという「ほんとう」がある。そして、それは「バラ」ということばをつかったとき、言った当人のこころのなかで「ほんとう」になる。ほかの人の目には「気障な嘘」にすぎないが、言った当人にとっては「ほんとう」。それが「ほんとう」の気持ち。
私のことばでは、くだくだと同じことばの繰り返しになってしまうことを、北川は次のように美しく書いている。
ここでは北川自身が「レトリック」をつかっている。「タンポポの綿毛を武装し」。そういうとき、北川の見ている「ほんとう」がある。そういう「ほんとう」を含みながら、北川の「レトリック」はさらに続いて行く。
「タンポポの綿毛」とは「心弱い人たち」である。「彼」はそういう人たちを結集し、結集しながらそれがまた「タンポポの綿毛」であることを自覚もしていた。この瞬間、北川と「彼」が重なり合う。そういう「タンポポの綿毛」しか結集できない「彼」にできることは、ヒロイズムを自覚しながら、敗北することである。敗北のなかに、「闘争した」という「痕跡」を残すことである。「痕跡」のなかには「ほんとう」がある。「政治闘争」の「夢」は敗北することで「ほんもの」にはならなかったが、そこには「ほんとう」の「夢」があった。「夢」と同時に、その「夢」でしか語れない「遠く--永遠」があったということになる。
この「遠く--永遠」は、詩の最後に、もう一度「レトリック(比喩)」として出てくる。
「永遠の古代」とは人間の原始の夢である。理想である。それは「レトリック」のなかでしか生き返らない。生きていけない。けれども、そうであるからこそ、ひとは「ことば」を生きる。「レトリック」を生きる。
火炎樹、焼けただれた樹木、胎児--それは「ほんもの」ではない。けれど「ほんとう」である。そして、それは北川とともに生きた3人の男の「ほんとう」である。北川はことばを書くことで、北川であり、同時に「3人の男」に「なる」。その「なる」という瞬間に「ほんとう」が「ある」。
「序章 時の彼方」のつづき。
毎日一章ずつ感想を書いていけるかなあと思っていたのだが、すでに破綻。「ことば」と「ずれ」について、もう少し書いておきたい。感想なのか、私の考えなのか、そしてそれはほんとうに私の考えたことなのか、それとも北川のことばが私のなかで暴走しているのを私が追いかけているだけなのか、区別がつかないけれど、この区別がつかないということが「読む」ことの愉悦である。だから、私はことばに酔ったまま、酔っぱらいの妄想を暴走させる。酔っぱらった時だけ見えるものもあるのだ、と私は思っているのだ。
《一行書く度に一人を殺す》という、Oの詩のことばと行為の埋めようもない落差を、Mはいつも疑っていました。Mにとって人を殺すといえば文字通り行為を意味します。Oはその疑い深い目に耐えられず、酔っていなければならなかったのでした。彼にとっては行為とことばのずれ、レトリックのなかにこそ、世界を遠くまで幻視する根拠があったにもかかわらず……。
「ことば」と「行為」の「落差」、あるいは「ずれ」。「ずれ」てしまう「こと」。これを北川は「レトリック」と言いなおしている。「レトリック」は一般的に「修辞学」(美辞学)と呼ばれているが、その「修辞(美辞)」とは「ほんもの」から「ずれ」ているということだろう。「ほんとう」は美しくはない。けれど、それを美しく「する」。美しいものならば、より美しく「する」。それは、ことばのなかで「もの」がより美しく「なる」ということだろう。「ある」から「なる」への運動。そこには「変化」がある。そして「変化」があるということは、もとの「もの」とことばによって書かれた「もの」の間には「落差」「ずれ」があるということだ。
「ずれ」「落差」は、しかし、あってはいけないのか。「科学」なら、あってはいけないだろう。けれど「暮らし」のなかにあって、「ずれ」があってはいけないのか。--これは、ちょっとややこしい。むずかしい。
で。
私は少し視点をずらして考えてみる。
なぜ人間は「ずれ」を許してしまうのか。「ことば」を、「レトリック」を許してしまうのか。たとえば、「殺す」という表現。
映画「十二人の怒れる男」のなかに、こんなシーンがある。容疑者の少年は「殺してやる」と叫んでいた。だから殺意があった。少年が犯人だ、と主張していた男が、議論の過程で興奮して、ヘンリー・フォンダをののしるとき、思わず「殺してやる」と言ってしまう。その「殺してやる」には、ほんとうに「殺意」があるか。ない。ただ、興奮して言っただけのことばである。殺意はない。しかし、それでは男が「嘘」を言ったのかといえば、そうではない。その「ことば」は「ほんもの」ではない。しかし、「ほんとう」が含まれている。その「ほんとう」は、「怒り」の気持ちである。容疑者がいる。彼が犯人である。彼は有罪である、と評決してしまえば自分たちはここから解放され自由になれる。はやく自由になりたい。評決の議論なんて、もう、これで十分、あれこれくだくだと疑問点を並べるな、という「ほんとう」が含まれている。
「ほんとう」はそのまま「ことば」になることかあるかもしれないが、ならないこともある。「ことば」は「ほんとう」ではないが、ことばは「ほんとう」を含む。その「ほんとう」はことばどおりではない。ことばにすることによって、一瞬「ほんとう」に近づく。
いま私が書いたことは、あまり、いい例ではない。(書く前は、違うことが見えていたのだが、実際にことばを動かしてみたら、思ったようにことばは動いていかなかった。どこかで、つまずいてしまった。--こういうことは、つまりうまく書けなかったことは消してしまえばいいのかもしれないが、そのまま残しておくのが私の癖である。)
誰かを「殺す」と書く。(言う)。そのとき、一瞬、自分の望んでいる「世界」が見える。それは「幻視」である。それは「幻視」、つまりまぼろし、つまり嘘。けれど、その嘘とともにある「思い」は「ほんとう」の思いである。「殺す」ということばそのものとつながっているわけではない。「ほんとう」は「殺したい」のではなく、「議論から逃れ、自由になりたい」なのだが、そういうことは評議員なのでいえない。無責任になってしまう。だから「こんな議論をやめて、自由になろうじゃないか」と言うかわりに「殺してやる」と言ってしまうのだが、言った瞬間にことばが違っていることに気がつき、「十二人の怒れる男」の男はうろたえる。
けれど、詩は、うろたえなくていい。「現実」ではないのだから。それはあくまで「表現」であることを、だれもが知っている。だから「殺す」と詩人は書く。書いてしまう。そして「書く」ことによって、「ほんとう」を見る。確認する。
それは「読む」人間もおなじである。書かれていることば、それは思っている「こと」の「断片(端)」である。「ことば」は「こと・端」。その「端」に「ほんとう」の「断片」がある。一分がある。ことばは、その一部を定着させ、さらに拡大することができる。そういう力がある。「端」っこに「ある」ものは「全体」ではない。けれど、それは「ほんとう」である可能性があるものなのだ。そこから「全体」をつくっていくことが、もしかすると可能かもしれない……。
「レトリック」こそ「ほんとう」なのだ。「レトリック」を含まないものは「ほんもの」ではあっても「ほんとう」ではない--というと言いすぎるのだが、「ほんとう」は「レトリック」の「ずれ」のなかにあるのだ。
「殺す」は極端すぎて、いい例とはいえなかったが、ごく単純な「比喩」、たとえばきみのほほえみはバラだというときの「レトリック」、ほほえみをバラという「比喩」で表現する時、その嘘のなかには、きみのほほえみを自分がいちばん美しいと思っているという「ほんとう」がある。そして、それは「バラ」ということばをつかったとき、言った当人のこころのなかで「ほんとう」になる。ほかの人の目には「気障な嘘」にすぎないが、言った当人にとっては「ほんとう」。それが「ほんとう」の気持ち。
私のことばでは、くだくだと同じことばの繰り返しになってしまうことを、北川は次のように美しく書いている。
彼はことばがすべてだ、という確信のなかで、疑い深いカミの目を否定できなかった。彼はMがタンポポの綿毛を武装し、ちっぽけな暴動へと組織する行為を、ただ、ことばもなく見詰めるほかなかったのです。
ここでは北川自身が「レトリック」をつかっている。「タンポポの綿毛を武装し」。そういうとき、北川の見ている「ほんとう」がある。そういう「ほんとう」を含みながら、北川の「レトリック」はさらに続いて行く。
周りの心弱い人たちを惹きつける、Mの自己犠牲のヒロイズムに対するコンプレックス。それを消すためにこそ、彼は鉄と土石が吼え合う政治闘争の現場に赴き、背中を焼かれて一本の火炎樹になりました。
「タンポポの綿毛」とは「心弱い人たち」である。「彼」はそういう人たちを結集し、結集しながらそれがまた「タンポポの綿毛」であることを自覚もしていた。この瞬間、北川と「彼」が重なり合う。そういう「タンポポの綿毛」しか結集できない「彼」にできることは、ヒロイズムを自覚しながら、敗北することである。敗北のなかに、「闘争した」という「痕跡」を残すことである。「痕跡」のなかには「ほんとう」がある。「政治闘争」の「夢」は敗北することで「ほんもの」にはならなかったが、そこには「ほんとう」の「夢」があった。「夢」と同時に、その「夢」でしか語れない「遠く--永遠」があったということになる。
この「遠く--永遠」は、詩の最後に、もう一度「レトリック(比喩)」として出てくる。
わたしは身体よりも心を真っ黒焦げにした彼を、抱き抱えて介抱しましたが、あんなに弱々しく、意気地のない樹木を見たことがありません。焼け爛れた半死の幹が孕んだ胎児は無言でした。最初に三者の同盟を離脱する、寄る辺ない一本の樹木。《絶滅の王》を拒絶する無言の胎児。それを狂死したMが口を極めて罵ったことは言うまでもありません。ばらばらに断ち切られて行く錆びた鎖の上を、永遠の古代ががらんがらんと通り過ぎていきました。
「永遠の古代」とは人間の原始の夢である。理想である。それは「レトリック」のなかでしか生き返らない。生きていけない。けれども、そうであるからこそ、ひとは「ことば」を生きる。「レトリック」を生きる。
火炎樹、焼けただれた樹木、胎児--それは「ほんもの」ではない。けれど「ほんとう」である。そして、それは北川とともに生きた3人の男の「ほんとう」である。北川はことばを書くことで、北川であり、同時に「3人の男」に「なる」。その「なる」という瞬間に「ほんとう」が「ある」。
近代日本詩人選 15 | |
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