詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(2)

2011-06-17 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(2)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「序章 時の彼方」のつづき。
 毎日一章ずつ感想を書いていけるかなあと思っていたのだが、すでに破綻。「ことば」と「ずれ」について、もう少し書いておきたい。感想なのか、私の考えなのか、そしてそれはほんとうに私の考えたことなのか、それとも北川のことばが私のなかで暴走しているのを私が追いかけているだけなのか、区別がつかないけれど、この区別がつかないということが「読む」ことの愉悦である。だから、私はことばに酔ったまま、酔っぱらいの妄想を暴走させる。酔っぱらった時だけ見えるものもあるのだ、と私は思っているのだ。

《一行書く度に一人を殺す》という、Oの詩のことばと行為の埋めようもない落差を、Mはいつも疑っていました。Mにとって人を殺すといえば文字通り行為を意味します。Oはその疑い深い目に耐えられず、酔っていなければならなかったのでした。彼にとっては行為とことばのずれ、レトリックのなかにこそ、世界を遠くまで幻視する根拠があったにもかかわらず……。

 「ことば」と「行為」の「落差」、あるいは「ずれ」。「ずれ」てしまう「こと」。これを北川は「レトリック」と言いなおしている。「レトリック」は一般的に「修辞学」(美辞学)と呼ばれているが、その「修辞(美辞)」とは「ほんもの」から「ずれ」ているということだろう。「ほんとう」は美しくはない。けれど、それを美しく「する」。美しいものならば、より美しく「する」。それは、ことばのなかで「もの」がより美しく「なる」ということだろう。「ある」から「なる」への運動。そこには「変化」がある。そして「変化」があるということは、もとの「もの」とことばによって書かれた「もの」の間には「落差」「ずれ」があるということだ。
 「ずれ」「落差」は、しかし、あってはいけないのか。「科学」なら、あってはいけないだろう。けれど「暮らし」のなかにあって、「ずれ」があってはいけないのか。--これは、ちょっとややこしい。むずかしい。
 で。
 私は少し視点をずらして考えてみる。
 なぜ人間は「ずれ」を許してしまうのか。「ことば」を、「レトリック」を許してしまうのか。たとえば、「殺す」という表現。
 映画「十二人の怒れる男」のなかに、こんなシーンがある。容疑者の少年は「殺してやる」と叫んでいた。だから殺意があった。少年が犯人だ、と主張していた男が、議論の過程で興奮して、ヘンリー・フォンダをののしるとき、思わず「殺してやる」と言ってしまう。その「殺してやる」には、ほんとうに「殺意」があるか。ない。ただ、興奮して言っただけのことばである。殺意はない。しかし、それでは男が「嘘」を言ったのかといえば、そうではない。その「ことば」は「ほんもの」ではない。しかし、「ほんとう」が含まれている。その「ほんとう」は、「怒り」の気持ちである。容疑者がいる。彼が犯人である。彼は有罪である、と評決してしまえば自分たちはここから解放され自由になれる。はやく自由になりたい。評決の議論なんて、もう、これで十分、あれこれくだくだと疑問点を並べるな、という「ほんとう」が含まれている。
 「ほんとう」はそのまま「ことば」になることかあるかもしれないが、ならないこともある。「ことば」は「ほんとう」ではないが、ことばは「ほんとう」を含む。その「ほんとう」はことばどおりではない。ことばにすることによって、一瞬「ほんとう」に近づく。
 いま私が書いたことは、あまり、いい例ではない。(書く前は、違うことが見えていたのだが、実際にことばを動かしてみたら、思ったようにことばは動いていかなかった。どこかで、つまずいてしまった。--こういうことは、つまりうまく書けなかったことは消してしまえばいいのかもしれないが、そのまま残しておくのが私の癖である。)
 誰かを「殺す」と書く。(言う)。そのとき、一瞬、自分の望んでいる「世界」が見える。それは「幻視」である。それは「幻視」、つまりまぼろし、つまり嘘。けれど、その嘘とともにある「思い」は「ほんとう」の思いである。「殺す」ということばそのものとつながっているわけではない。「ほんとう」は「殺したい」のではなく、「議論から逃れ、自由になりたい」なのだが、そういうことは評議員なのでいえない。無責任になってしまう。だから「こんな議論をやめて、自由になろうじゃないか」と言うかわりに「殺してやる」と言ってしまうのだが、言った瞬間にことばが違っていることに気がつき、「十二人の怒れる男」の男はうろたえる。
 けれど、詩は、うろたえなくていい。「現実」ではないのだから。それはあくまで「表現」であることを、だれもが知っている。だから「殺す」と詩人は書く。書いてしまう。そして「書く」ことによって、「ほんとう」を見る。確認する。
 それは「読む」人間もおなじである。書かれていることば、それは思っている「こと」の「断片(端)」である。「ことば」は「こと・端」。その「端」に「ほんとう」の「断片」がある。一分がある。ことばは、その一部を定着させ、さらに拡大することができる。そういう力がある。「端」っこに「ある」ものは「全体」ではない。けれど、それは「ほんとう」である可能性があるものなのだ。そこから「全体」をつくっていくことが、もしかすると可能かもしれない……。
 「レトリック」こそ「ほんとう」なのだ。「レトリック」を含まないものは「ほんもの」ではあっても「ほんとう」ではない--というと言いすぎるのだが、「ほんとう」は「レトリック」の「ずれ」のなかにあるのだ。
 「殺す」は極端すぎて、いい例とはいえなかったが、ごく単純な「比喩」、たとえばきみのほほえみはバラだというときの「レトリック」、ほほえみをバラという「比喩」で表現する時、その嘘のなかには、きみのほほえみを自分がいちばん美しいと思っているという「ほんとう」がある。そして、それは「バラ」ということばをつかったとき、言った当人のこころのなかで「ほんとう」になる。ほかの人の目には「気障な嘘」にすぎないが、言った当人にとっては「ほんとう」。それが「ほんとう」の気持ち。

 私のことばでは、くだくだと同じことばの繰り返しになってしまうことを、北川は次のように美しく書いている。

彼はことばがすべてだ、という確信のなかで、疑い深いカミの目を否定できなかった。彼はMがタンポポの綿毛を武装し、ちっぽけな暴動へと組織する行為を、ただ、ことばもなく見詰めるほかなかったのです。

 ここでは北川自身が「レトリック」をつかっている。「タンポポの綿毛を武装し」。そういうとき、北川の見ている「ほんとう」がある。そういう「ほんとう」を含みながら、北川の「レトリック」はさらに続いて行く。

周りの心弱い人たちを惹きつける、Mの自己犠牲のヒロイズムに対するコンプレックス。それを消すためにこそ、彼は鉄と土石が吼え合う政治闘争の現場に赴き、背中を焼かれて一本の火炎樹になりました。

 「タンポポの綿毛」とは「心弱い人たち」である。「彼」はそういう人たちを結集し、結集しながらそれがまた「タンポポの綿毛」であることを自覚もしていた。この瞬間、北川と「彼」が重なり合う。そういう「タンポポの綿毛」しか結集できない「彼」にできることは、ヒロイズムを自覚しながら、敗北することである。敗北のなかに、「闘争した」という「痕跡」を残すことである。「痕跡」のなかには「ほんとう」がある。「政治闘争」の「夢」は敗北することで「ほんもの」にはならなかったが、そこには「ほんとう」の「夢」があった。「夢」と同時に、その「夢」でしか語れない「遠く--永遠」があったということになる。
 この「遠く--永遠」は、詩の最後に、もう一度「レトリック(比喩)」として出てくる。

わたしは身体よりも心を真っ黒焦げにした彼を、抱き抱えて介抱しましたが、あんなに弱々しく、意気地のない樹木を見たことがありません。焼け爛れた半死の幹が孕んだ胎児は無言でした。最初に三者の同盟を離脱する、寄る辺ない一本の樹木。《絶滅の王》を拒絶する無言の胎児。それを狂死したMが口を極めて罵ったことは言うまでもありません。ばらばらに断ち切られて行く錆びた鎖の上を、永遠の古代ががらんがらんと通り過ぎていきました。

 「永遠の古代」とは人間の原始の夢である。理想である。それは「レトリック」のなかでしか生き返らない。生きていけない。けれども、そうであるからこそ、ひとは「ことば」を生きる。「レトリック」を生きる。
 火炎樹、焼けただれた樹木、胎児--それは「ほんもの」ではない。けれど「ほんとう」である。そして、それは北川とともに生きた3人の男の「ほんとう」である。北川はことばを書くことで、北川であり、同時に「3人の男」に「なる」。その「なる」という瞬間に「ほんとう」が「ある」。






近代日本詩人選 15
北川 透
筑摩書房
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一色真理『ES』(2)

2011-06-17 11:17:27 | 詩集
一色真理『ES』(2)(土曜美術出版販売、2011年06月20日発行)

 「07 喪失」という作品も,とても好きだ。

ぼくは立ち上がれない、と言って、椅子になってしまった。
もう横たわることも、眠りに落ちることもないだろう。
悲しみがすぐその背を黒く塗りつぶした。
それから窓の外は永遠の真昼だ。

高すぎる空に向かって、一度ごけ公園のサイレンが大声で叫んだ。
それでも草に埋もれた噴水は黙りこくったまま、ずっと考えている。
ここからいなくなったのは、誰だったのかと。

 「ぼく」が「椅子になる」というのは「比喩」である。「比喩」ということは、それは「現実」ではないということである。物理(生物?)の現象として「現実」ではないのだが、心情としては「現実」よりもはるかに「現実」である。人が何と言おうが、「こころ」は「椅子」になってしまったぼくしか認めない。
 「椅子」にはいろんな「意味」があるだろう。つまり、「椅子」ということばを発する時、そのことばに託した夢、願い、祈りがある。「椅子」というもののなかに、「ぼく」がなりたいと思っている何かが、つまり「意味」がある。それは、しっかりと立っているということかもしれない。誰かによりかからずに、「椅子」一個で立っているという状態かもしれない。何かを座らせている、何かを座らせるもの、という「意味」かもしれない。そして、それはもしかしたら何かを座らせたい(休ませたい)という「ぼく」の「いのり」を裏返しにして表現したものかもしれない。あるいは、いま私が書いたことのすべて、そしてそれ以上のものを含んでいるかもしれない。--何かはっきりしないが、「比喩」であるかぎり、そこには「いま/ここ」にないものが含まれている。「いま/ここ」にいる「ぼく」の状態を超えるものが託されている。
 「椅子」がたとえ自分では歩けない存在であるとしても、そういう否定的というか、マイナスの要素を含んだものだとしても、そのマイナスを超える何かが。想像されているのである。そして、マイナスを含んでいるということは、何かしらの悲しみを連想させる。悲しいこと、つらいことが「椅子」になることによって「乗り越えられる」と思うからこそ、「椅子」になるのである。
 一色は、そして、幸福ではなく、いま私が書いた「マイナス」の要素だけを書いている。「もう横たわることも、眠りに落ちることもないだろう。」これは、つまり、横たわること、眠るというやすらぎを捨ててでも「椅子」になりたい「何か」が「ぼく」にはあって、その「何か」は横たわる、眠るということを「代価」としてはらってもかまわないと思うだけの何かなのである。
 何であるか、一色は、はっきりとは書かない。はっきり書いていないから、想像力が駆り立てられる。

悲しみがすぐその背を黒く塗りつぶした。

 この1行は、いろいろな読み方ができる。「その背」をどう読むか。「椅子」の「背」であろうか。「椅子の背」とは「椅子の背もたれ」の「後ろ側」、つまり人間の背中が接しない部分のことだろうか。
 私は、少し違うふうに読んだ。「その背」を「椅子」のある部屋の壁、つまり「椅子」が背にしいてる「背景」と思った。「ぼく」が「椅子」になった瞬間、その部屋の壁は悲しみで黒く塗りつぶされた。あるいは、悲しみが壁を塗りつぶし、そのために壁が黒くなった。
 --これでは、悲しすぎるだろうか。
 たしかに悲しすぎるのだが、その悲しみの過剰が、たぶん一種の救いなのだ。悲しみが「背後」(椅子の背)となることで、もうどこにも行かない。それは、この部屋にとじこめられている。そこで完結している。「椅子」は悲しみをこの部屋で完結させるために存在するのである。言い換えると、「ぼく」は悲しみを完結させるために、あえて「椅子」になるのである。
 もしそうであるなら、「ぼく」の願い(祈り)、「比喩」に託したものは悲しみの「完結」である。それがどれだけ大きなものであってもいい。この部屋で完結する。椅子は、その悲しみを背負うのである。その上に乗せて、悲しみを休ませ、椅子自身は、その悲しみを休ませるために生きるのである。
 そのとき、部屋は悲しみで完結するがゆえに、「窓の外」(部屋の外)は明るい「永遠の真昼」である。
 「外部」の「永遠の真昼」を手に入れるために、「ぼく」はあえて「椅子」になることを選んだのである。

 ここには、どうすることもできない「矛盾」がある。いくら「外部」が「永遠の真昼」であっても、「ぼく」が「椅子」であるかぎり、外へは出て行けない。それは見えるだけで、自分自身では「体験」できない。ああ、そんなことはわかっている。わかっているが、たとえ出ていけなくても「永遠の真昼」をみたいのだ。それが「ことば」にすぎないもの、幻であっても、「ことば」にしたいのだ。ことばを口にする、声にすることでしか、自分のものにできない「夢」というものがあるのだ。

 2連目は、この矛盾をもう一度別のことばで繰り返したものである。「ここからいなくなったのは」「ぼく」であるということは明白である。1行目に「ぼくは(略)椅子になってしまった。」と書いている。「ぼく」がいなくなり「椅子」がかわりにここで生きているのである。
 わかっているけれど、「誰だったのか。」と問わずにはいられない。それは、「椅子」でありながら、やはり「ぼく」でありたいという「願い」(欲望)があるからだ。その欲望があるなら「椅子」にならなければいいじゃないか--というのは、人間が「矛盾」を生きることを知らない人間の考えることだ。
 「矛盾」なのかへ人間は飛びこんでいく。そのなかで、自分が自分でなくなり、新しく生まれ変わることを願うのが人間の唯一できることがらである。





DOUBLES
一色 真理
沖積舎



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