詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(3)

2011-06-18 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(3)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「一章 第三の男へ」。この「章」は少し不思議である。最初の「主役」は「ことば」である。ことばがことばのことを語っている。それが途中から「主役」が「第三の男」にかわる。そのことは、あとで感想を書くとして……。

ことばの本性を知らないの? むろん、それは限りなく淫蕩ということ。わたしは老いさらばえているけれど、誰とでも寝るもんね。ことばは女の振りをしようが、男の振りをしようが、両性具有に決まっています。

 私は、この「ことば」の「定義」が大好きである。「寝る」は「セックスをする」と同じような意味でつかわれている。そしてそれは「淫蕩」ということばでも書かれている。色にふけって淫らな行為をする。--うーん、この「ふける」が、たぶん、私をとらえてはなさない。「淫らな行為」はそれはそれでいいんだけれど、それよりも「ふける」が私には関心がある。それも「限りなく」ふける。
 北川が力点を置いているのはどこなのか、私にはよくわからないし、わかろうとする気持ちも私にはないかもしれない。私は北川の書いていることばを土台にして、そこから「誤読」を拡大していきたい。「誤読」にふけりたいのだ。
 「ふける」というのは、私の感覚では、自制心をなくすことである。自分を制御することをやめることである。そして、それは自分でなくなることに賭けるということでもある。セックスをする。誰かと寝る。それは、自分ではなくなるということだ。で、誰になる? そんなことはわからない。わかるのは、自分ではなくなるということだけ。そのためには、男であるとか、女であるとか、両性であるとか--そういうことにすらこだわらない。だいたい自分でなくなり、自分でなくなりながらも、セックスに「ふける」わけだから、男が男でなくなり、その結果誕生したものをたとえば女だと仮定して、その女がまた女でなくなるのだから、到達点を「仮定する(仮想する)」ということが意味を持たない。到達点がない--というのが「ふける」の極致である。到達できない、というのが「ふける」の極致である。
 到達できない--ということは、最初から「矛盾」を抱え込んで、動いているということでもある。それが「ことば」なのだ。それがことばの「本性」なのだ。

 そして、この「矛盾」が、北川が書く「第三の男」に「なる」。「ことば」が「第三の男」になる。--これは、またまた、あとで書くことになるのだが……。
 最初の主役である「ことば」は、ことばを動かしていく。

 わたしからみると、ほんとうに狂ってしまったのは失踪した男、第三の男でした。この男には狂死したMのような、若者を惹きつける輝かしくも脆い王冠の戦歴もなければ、ナルシスの白熱した炎に溶解し、さまざまに変形しながら、世界を全否定する鉄の行為もありません。中毒死したOが、陽も差さない野の陰に這うドクダミ、ゲンノショウコ、ヨモギの根強い活力や陽光を背にしながら誰にも気づかれないで、垣根の隙間に生えているシソ、ハッカ、ヒルガオの深い吐息などに養われながら、創りあげた彼岸の世界もありません。

 この部分がとてもおもしろいのは、MとOを書きながら、それが「第三の男」につながっていくことである。Mはこういう人間だった。そして、それと同じものを「第三の男」は持たなかった。Oはこういう人間だった。そして「第三の男」はそういう人間では絶対にありえなかった。--こう書く時、不思議なことに、「第三の男」がMとOとセックスし、そのセックスに「ふけっている」感じがしてくるのだ。言い換えると、「第三の男」にはMとOと出会い、接することが、自分ではなくなる可能性の一瞬だったのだ。Mとセックスすれば、そのとき「第三の男」はMに「なる」。Oとセックスすれば、そのとき「第三の男」はOに「なる」。このときのセックスというのは、まあ、「比喩」であるけれど、「比喩」でなくたってかまわない。強烈に相手に惹きつけられ、自分が自分でなくなる。セックスしている相手が「自分」になる。「自分」になって、自分を犯していく--その錯覚のなかで、さらにMになり、Oになるという錯覚に酔いしれてしまう。
 そういう不思議な恍惚と歓喜があふれている。
 ね、MとOの生き生きとした描写が、まるでセックスの最中に見る誰かの輝かしい裸に見えて来ない? 
 MとOは、そういう「第三の男」--なんといえばいいのだろうか、自分を受け止め、同時に輝かせてくれる「第三の男」を必要としたのだ。「第三の男」が描写してくれる「自画像」を必要としたのだ。「第三の男」は、それ自身はなんの取り柄もない男として描かれているが、その男は強靱な「鏡」なのだ。
 「ことば」は強靱な「鏡」なのだ。--と、私は突然、「主語」を「第三の男」から「ことば」にかえてしまうのだが、M、Oを映し出す「ことば」があるからこそ、MとOは存在しえる。そしてまた、「ことば」は映し出すべきMとOがいるから動いていくことができる。

この三人、いやそれぞれが複数の存在ですから、十人、いや、百人、もっと、数えきれないほど多くの三人でした。この複数の存在は、また、一人といってもよかったのです。彼らは多面体の複数でありながら、必然的に仮面体の単数でもあったのね。彼らはお互いに愛したり、憎んだり、軽蔑したり、仲間褒めしながら、入れ替わり、立ち替わり、くっついたり、弾け飛んだりしていました。対立者のことばで語るかと思えば、睦み合い、癒着して、凸凹で穴だらけの糸瓜のようでもありました。

 三人は複数の存在であり、また一人であるといってもよかった、というのは、三人は複数の存在に「なり」、また一人にも「なる」と言い換えることができる。
 「多面体の複数でありながら、必然的に仮面体の単数でもあった」は、多面体の複数に「なり」ながら、必然的に仮面体の単数にも「なった」である。
 存在「ある」が、動いて最初の存在ではなく、別の存在に「なる」。そういうことが、ことばのなかで起きる。ことばは、そういう運動を引き起こすのである。そして、そういう「なる」がいちばん顕在化(?)するのが、MとかOとか、いわばエキセントリックな人間(そういう人間のことば)においてではなく、そういう人間から蔑まれる目立たない「第三の男」(第三のことば)なのである。

 「第三の男」「第三のことば」そこで起きているのは何なのか。起きたことは何だったのか。「第三の男」は……。

執拗に泣き喚き、ぶつぶつ同じことをしゃべりながら、遂に天界と地獄の境目を彷徨し始め、やがて小さな尾を引いて行方不明になってしまったのです。それを追いかけてわたしが、この地図にもない海峡の街にやってきたのです。

 「第三の男」を追いかける「ことば=わたし」。そのとき、「ことば」は「第三の男」に「なる」のである。
 MやOの「ことば」(行為)は、さまざまな「美しい」形として記憶されている。それは、すでに北川の作品のなかに書かれている。しかし、そういうことばのほかに、「ことば」にならななかったことば、ことばになろうとして「行方不明」になってしまったことばがあるはずなのだ。「第三の男」としての「ことば」があるはずなのだ。
 北川は、この詩集のなかで、北川のことばを捨てて、「第三の男」の「ことば」になろうとしている--そういう祈り、欲望のようなものを感じる。いままで書いて来なかったことば、書こうとして書けなかったことば。そのことば(鏡)が映し出す「ある時代」を「いま/ここ」に存在させようとしている。北川のことばが「第三の男」の「ことば」に「なる」とき、そこに北川の生きてきた「時代」が「ある」ということが起きるのだ。
 それは「いま/ここ」が「かつて/どこか」に「なる」のか、それとも「かつて/どこか」が「いま/ここ」に「なる」のか。--わからないねえ。やってみないと、わからないねえ。わからないから、私は、北川のことばを追いかけてみる。北川のことばのなかで、しばらく「淫蕩」にふけることにしようと思う。
 「淫蕩」なのだから、何度も何度も果てながら、「消尽」してしまえればおもしろいだろうなあ。
 私が? 北川のことばが?
 それは、これからのお楽しみだ。
 (私は目が悪くて、短時間しか読み書きできないので、少しずつ--というのは、言い訳ではなくて「予告編」です。「予告」することで、ちょっと自分を励ましている。いまは。)


萩原朔太郎 「言語革命」論
北川 透
筑摩書房



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