詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』

2011-06-16 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(思潮社、2011年06月15日発行)

 北川透『海の古文書』は「現代詩手帖」に連載されていた時に感想を少し書いた。それから時間がたっているので、私の感想は変わっているかもしれない。変わらないかもしれない。変わっていても変わらないかもしれないし、変わらなくても変わっているかもしれない。--まあ、考えても始まらないので、いつものように思いつくままに書いていくしかない。
 「序章 時の行方」の書き出し。私はたいてい書き出しにこだわる。読んだ瞬間に私のなかで動くことばがあり、それについていくというのが私の読み方なので、どうしても「書き出し」が重要なのだ。

 ひとりは狂死
 もう一人はアルコール中毒死
 第三の男は行方知れず

 狂死した男Mも、中毒死した男Oも、失踪したまま生死不明の男Hも、みんなどこかで生きています。

 そんなことを言っては困ります。「狂死」「中毒死」した男には、きちんと死んでもらっていなと、書いてあることに「矛盾」が生じる。「行方不明」は「生死不明」だから生きていてもいいけれど、死んだ人間には死んでいてもらわないと、書かれていることばの何を信じていいのかわからない。北川さん、こんなことでは、困ります。
 --と、書いてみるだけで、私はぜんぜん困らない。むしろ、死んだ男が死んだままだったり、行方不明の男が死んでいて、絶対にあらわれないということの方が困る。M、O、Hとそれぞれの男を思い出す時、その男が「生きている」状態でことばにならないと、その男を動かせない。一緒に動けない。書く、というのは、その対象といっしょに動くということである。たとえ死んだ男のことを書くとしても、その書く瞬間においては、男は「いま/ここ」にことばといっしょに動いている。その「いま/ここ」が「かつて/どこか」であっても、それは「時制」の問題であって、ことばそのものの問題ではない。ことばにとっては「いま/ここ」があるだけだからである。
 「みんなどこかで生きています。」と言い切る北川のことば--それにまず私は引きつけられる。そのまま信じる。死んだ男たちは生きているというのは矛盾である。矛盾であるから、私は、それを信じることができる。ことばは、こうでなくてはいけないと思う。ことばというか、人間の「考え」(思い)、といってもいいかもしれない。矛盾にぶつかって、矛盾を抱えながら動くとと「いま/ここ」がはっきりする。
 矛盾というのは、信じた瞬間に、動きだすものなのである。その動き、動いていくということを私は信じるのだ。
 ということを、北川は、次のように言い換えている。

彼らがいつどのように生きて死んだのか、死んで生きたのか。その行方は、同時にわたしが彼らと共に、生死をかけて時代に殉じた姿を映し出しています。それを見きわめたいと思い、わたしは時空を超えた旅に出たのでした。

 あ、ごめんなさい。北川が私の感じたことを言い換えているのではなく、北川が書いていることを手がかりに、私はそんなふうに感じた、というのが「正しい」時系列だね。
 ことばを動かす。ことばで3人の男を生きる(生きなおす)。それは「わたし」を生きなおすということでもある。「時間」と「空間」を超えて、「いま/ここ」から自在に「いつか/どこか」で生きなおす。ことばによって、どんな「生」と「死」が可能だったかを確かめなおす。--それを「旅」と定義している。
 このことばに誘われて、私は、さっき書いたようなことを考えたのだ。
 でも、そんな時系列は無視して、やはり私は、「私(谷内)の考えていることを北川はこの詩でこんなふうに言い換えている」と言い張るのである。「誤読」するのである。「書かれてしまったことば」(読まれてしまったことば)は、「書いた人」のものではない。「読んだ人」のものである。そして「読む」というのは「知らないこと」を発見することではない。「知っていること」をただ確認するだけのことである。「知らないこと」はわからないままである。いろいろ読んでも、そのとき私は私の知っていることを、そのことばのなかに見つけ出すだけである。確認するだけなのである。
 それは、この詩を書いている北川も同じではないか、という思いが私にはする。ある人間のことを書くということは、ある人間の「知っていること」を確認しながら、それを動かしていくことである。「知っている」ことを積み重ねると、その結果としてどんな人間の可能性が浮かび上がってくるか--その可能性を旅するのだ。
 ひとを思い出す、ひとをことばによって書き留める--それは「時空を超える」ことである。「時空」を超えるのだから、死んでいても生きているし、生きていても死んでいる。それは、どっちでもあるのだ。そして、個人的なことを言えば、北川が書いている3人の男と北川の「旅」に私は直接関与していないが--つまり、私はそのとき北川のことも知らないし、3人の男のことも知らないのだが、「いま/ここ」で北川のことばを読んでいる時、私は北川とも、3人の男ともいっしょに生きている。もちろんそのとき北川の思っている3人の男と、私の思っている3人の男はぴったりとは重ならない。
 「ずれ」る。北川と私も「ずれ」る。そして、その「ずれ」のなかでこそ、私は北川に出会う。3人の男に出会う。それは「ほんもの」の北川でも、「ほんもの」の3人の男でもないのだが、「ほんもの」ではないことによって、「ほんとう」に私が思っている北川であり、3人の男なのだ。
 「ほんもの」と「ほんとう」は違うのである。「ほんもの」は「もの(対象)」であるのに対し、「ほんとう」とは「こと」なのである。「ほんとうのこと」。そして「ほんとうのこと」というとき、「ほんとう」はその「こと」を「する(動詞)」のなかにある。思うこと、書くこと--思った「もの」、書いた「もの」が「ほんもの」であり、思う「こと」、書く「こと」といっしょに「ほんとう」がある。「ほんもの」と「ほんとう」は重なりながら「ずれ」ている。
 この「ずれ」は、なんと言えばいいのだろうか。きのう(2011年06月15日)の夕刊各紙に載っていた「ニュートリノ」の記事にかこつけて言えば、「理論」と「発見」(事実の確認)のようなものである。「理論」と「事実」の間には「ずれ」がある。それは「ことば」と「事実」の関係に似ている。どちらかがどちらかを「説明」するとき、それはぴったり重なって見えるが、それは「説明する」という「ことばの運動」のなかで重なるのであって、「ことば」と「事実」が重なるわけではない。--それに似ている。「ずれ」があるから「重なる」という動きが可能なのだ。「ずれ」がなければ、「重なる」ということもないのだ。

 あ、何か、またとんでもないところへ、それこそ「ずれ」てしまったような気がしないでもないのだが、こんなふうに「ずれ」ないことには接近できない。「誤読」するときだけ、私は読んでいるそのことばに接近している気持ちになる。(あくまで、気持ちです。私が北川に接近していると私が勝手に思っているだけで、他の人から見ればどんどん離れて言っている、勘違いも甚だしいということになるかもしれない。北川も、そう感じているかもしれない。)

 最初にもどる。

 私は、男の生死がどうであろうと、書くという瞬間において、男は「いま/ここ」に「ことば」といっしょに動いている、と書いた。
 この詩の(詩集の)テーマは、その「書くということ」と「ことば」なのだ。
 この詩のなかで「話者」は自分自身を「詐欺師で人殺しの女」と名乗っている。そして住んでいる場所を「地図にも載っていない架空の場所」と言った上で、次のようにことばを動かしていく。

 架空といえば、語り手を引き受けている、わたしの正体だって不明です。気障なことを言えば、わたしは夕暮れにしか姿を現さない五位鷺、詩のことばです。ことばにも肉体があり、性別があるなんて不思議ね。仕事もセックスもしますよ。旅行だって、人殺しだって、魚釣りだって、逆立ちだって、ことばは人間がする、あるいは人間だけはしないあらゆることをします。

 「ことばは人間がする、あるいは人間だけはしないあらゆることをします。」という文が「くせもの」である。「あるいは」が「くせもの」である。つまり、いろんなことばを誘う。どんなふうに「誤読」できるかを誘うのである。私は、こういうことばが大好きである。ここからは自分勝手に読んでいっていいのだ、と思えるからだ。
 「ことばは人間がする、あるいは人間だけはしない」って、どっち? するの? しないの? わからないから、私は私の信じるままに読むのである。「人間がする」「人間がしない」に区別はない。差はない。違うことばで書かれているが、同じ「こと」だ、と私は読んでしまう。「ニュートリノ」のときにつかったことばでいえば、それは「理論」と「事実」のようなもの。「あるい」はということばで重なってしまう「ずれ」である。「ずれ」なんて、その程度のものなのである。
 --この「説明」は、うまくいっているとは思えない。自分で書いておいて、無責任な言い方だけれど……。
 でも、瞬間的に、私はそういうことを感じたのだ。
 何かが重なり、そのとき何かが動く。その動きのなかには、あらゆるものがある。仕事もセックスも。もちろんこれは「比喩」だが、「比喩」のなかに「ほんとう」がある。「いま/ここ」と重なる「こと」がある。その「こと」を呼び出すために「比喩」があるのだ。
 そして、北川の書いていることと私の感じていることは違うかもしれないが、私もことばには「肉体」があると思う。というか、「ことば」に「肉体」を感じたときだけ、そのことばを信じることができる。「肉体」としてのことばは、書き手を離れて動いている。ことばの「肉体」のなかにある「いのち」(本能)に従って動いていく。勝手に動いて、何ものかになってしまう。
 そういうことを、北川は次のように書く。

 私が狂死した男M……と呼ぶのは、仮にそう呼ばれている者という以外の意味はないし、それに特定の誰かを指しているわけでもありません。私たちが生きた時代に、あんな男は何人もいました。また、あの男自身が複数の顔を使い分けてもいました。それはいま語っているわたしが、幾つものよこしま口を持ち、分裂し増殖する複数の眼を持っているのと同じことです。

 ほら「同じこと」と「こと」をつかって、北川は何かを言おうとしているでしょ? その言おうとしている「こと」は、私の書きたかったことです。--なんて。あ、また、まずいことを書いたかな? ほんとうは、これも、北川のことばを強引にねじ曲げて、私は先のように感じた--と書くべきことなのだが。
 北川の書いていることを、少し書き直してみる。つまり、私のことばで「誤読」し直してみる。
 Mをはじめとする3人の男は3人でありながら1人である。それを思う「わたし」である。そして、その「ことば」である。同時に「わたし・ひとり」でありながら「3人」以上でもある。「わたし」は「わたし」でありながら、何人にでも「なる」のである。複数の人間(複数の眼をもって世界を観察する人間)に「なる」のである。書くことによって。ことばによって。
 このときの「ある」と「なる」の関係がおもしろいのだ。
 ことばが動く瞬間、ことばのなかで「誰か」に「なる」。自在に変化する。その複数の「誰か」を統合する(統一)するのは誰か。「なる」を誰が「ある」にかえるのか。「わたし」か。「ことば」か。そういものは存在しない。誰も、何も、統合も統一もしない。その不定型の「エネルギー」そのものが「ことばの肉体」である。人間の「肉体」が成長し、動き回るように、「ことばの肉体」も成長し、動き回るのだ。何かが「ある」としたら、動き回る「エネルギー」という「不定型」が「ある」だけである。
 
 でも、これはとても変な「理論」(?)かなあ。でもね、その私の感じている「変」を北川は、今度は次のように書いてくれている。

 狂死したM、《絶滅の王》が誰に対しても許せなかったのは、ことばと行為の不一致でした。しかし、中毒死したOの認識は、心情を過激化させ、思考を眠り込ませる行為と、それを覚醒させることばの関係の本質は、必ずずれる、不一致にある、ということでした。

 「ずれ」「不一致」。あ、うれしいなあ。このことば。(私の書きたかったことを、北川は、こんなふうに書いてくれているのです。--と、ここでも私は強引に書いてしまうのだ。)
 すべては「ずれ」る。すべては「不一致」である--ということで、北川が何を言いたいのか--を無視して、私は考える。勝手に「誤読」を暴走させる。
 「ことばの肉体」ということば自体、何かから「ずれ」ている。一般的な「流通言語の表現」から「ずれ」ている。私のことばは、流通言語とは「不一致」である。
 しかし、「不一致」でしか語れないのだ。何か書こうとすれば、どうしても「不一致」になる。そして、その「不一致」を私のことばがこうして動いているとしたら、それはやはり、ことば自身に「肉体」があって、そこに存在していると考えた方が、私には納得ができるのである。




わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社



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一色真理『ES』

2011-06-16 11:42:30 | 詩集
一色真理『ES』(土曜美術出版販売、2011年06月20日発行)

 一色真理『ES』は、巻頭の「01 バスの中で」がとてもおもしろい。

バスの中でぼくは生まれた。狛江駅から成城学園前まで行く路線バ
スの中で、父と母が愛し合ったから。父は明照院で、母は若葉町三
丁目で降りていき、ぼくはひとりで大きくならなければならなかった。

バスから降りたとき、ぼくは小学生になっていた。小田急線に乗っ
て 、新宿に着いたときには中学生で、向いの席に座っていた少女
に初めてのキスをした。高校生の間は地下鉄に乗っていたので、長
い長い暗闇だけが窓から見えた。気がつくとそこはお茶ノ水で、ぼ
くは髪の長い大学生。星の一生を研究して論文を書き、後楽園の大
観覧車で恋人と結婚した。

地上に降りたとき、妻は身籠もっていた。ぼくと妻はジャンケンを
して、どちらに歩いていくかを決めた。三人はそれから長い長い間、
坂を登ったり降ったりした。たくさんの夜が自転車に乗ってぼくら
を追いかけてきた。

信号が変わると、息子は道ばたの花になっていた。妻は夜空に陽気
な尾を引く帚星だった。ぼくはひとり深夜バスに乗り込んで、少し
だけ眠ろう。朝は空飛ぶ豚に乗って、あっという間にやってくるは
ずだから。

 ある瞬間が、乗り物(路線バス、小田急線、地下鉄、観覧車、自転車)と地名によって刻印される。そして、そのふたつに関係する「事件」がある。次から次へと起きる「事件」は、マルケスの「神話」のようである。動きが速すぎて、眩暈を感じる。
 この眩暈のなかには、ほんとうは多くのものを省略している、というべきか。書かれることがらは、実は何ひとつ書かれていない。「事件」が乗り物と地名を結びつけながら、動いていくが、そこには「感情」が省略されている。「ぼく」の感情が書かれていない。
 「神話」は、「神」の話である。「神」には「感情」はない。ただ「行動」がある。「神話」は、その「神」の行動を見ながら、人間が「神」に自分の感情を押し付ける形で、自分自身を救済するためのものである。「神」が行動する時、人間の感情は激情にまで高められ、純粋に燃焼に強烈な光を発する。その強烈な光が、世界を鮮やかすぎる光と影とに分類する。私たちは、そこに、世界の断片だけを見ることになる。--この作品に則していうと、その断片とは乗り物と地名である。そして、それに父、母、少女(恋人、妻)をつけくわえることができるかもしれない。登場人物は「人間」であるが、「神話」なので「神」の姿をとっている。つまり、「感情」はそこでは描かれない。「感情」はふりはらわれ、ただ行動がある。
 出会う。愛し合う。身籠もる。出産する(生まれる)。
 このひとつづきの行動のなかには、ひとつ不思議なことがある。どうすることもできなことがらがある。それこそ「神話」でしかありえないこと、「神」の「意思」以外では説明できないことがある。
 出産する--が、生まれる、にかわる瞬間。「主・客」が転換する瞬間。
 突然、世界が交代するのである。--この交代のために、交代を納得する(納得させる?)ためにこそ「神話」というものがある。あらゆる不思議なこと、説明できないことを受け入れる「装置」として「神話」が必要になる。
 産んだ--が、生まれるに変わる瞬間。
 生まれた人間は、世界のことを何ひとつ知らない。産んだ人間が知っていることを、生まれた人間は知らない。激しい断絶があり、その断絶を抱えたまま世界は存在している。その断絶をつなぎとめるために「神話」があり、「神話」のなかに、人は、自分の行動をたたき込む。つまり「神話」を借りて、戦う。暴力を生きる。好き勝手に、自分の思いを代弁させる。そうすることで、人は「神」になる。
 人間のことばで言えば、「世界に参加する」ということになる。自己主張をし、他人と出会いながら、世界を発見していくとうことになる。
 「神」のことば(神話の構造)で、そういうことを言いなおせば、感情のままに行動し、自分だけではなく、他人にまで勝手に動かしてしまう存在になる。

 そんなことまで一色は書いていない。--たしかに書いていない。書いていないように見える。しかし、書かれているのだ。「産んだ」を「生まれた」と「主・客」を逆転させた時から、人は「神話」を生きる運命なのだ。「バスの中でぼくは生まれた」と書き出した瞬間から、一色は「神」として生きている。「バスの中で、母はぼくを産んだ」とも「バスの中で、父と母はぼくを産んだ」とも書けたはずなのに、一色は父と母を「主語」にはしなかったのだから。
 
 一色の、最初の激情は「ぼくは生まれた」に刻印されていると同時に、「ぼくはひとりで大きくならなければならなかった」にも刻印されている。「ひとり」と「ならなかった」。感情、あるいは「ひとり」という感覚は「ぼく」だけのものであり、誰とも共有されない。共有されないことによって、一色は「神話」のなかの「神」になる。「他者」を排除する「非情」な存在になる。
 「非情」というのは、「情」がないということではない。自分の「情」は大切にする。しかし、他人の「感情(情け)」を気にしない。配慮しない、ということである。
 ここから、「神話」の清潔さが生まれる。「他人」のことを配慮しながら行動する「民主主義」では「神」の清潔さは実現できない。
 一色のこの作品における、その証拠。というと、きっと一色は驚く。(この文章を読んでいる他の読者も驚くかもしれない。)
 その証拠は。

少女に初めてのキスをした

 この「少女に」の「に」。キスというのは二人の人間がいて初めて成立する行動である。ひとり「と」ひとりがキスをする。ひとりが、ひとり「に」キスをするのではない。少女「に」キスをするとき、「ぼく(一色)」は「神」なのである。自分自身の感情にしたがい、その感情で「肉体」を動かしている。そのとき、他人(少女)の感情より、自分の感情が絶対的に優先されている。
 そういう瞬間が、誰にでもある。
 (父と)母がぼくを「産んだ」が、ぼくは「生まれた」に変わる時の、自分を絶対的に優先させる「視点」。この「絶対」の感覚が、この詩集を特徴づけるのだ。ある瞬間、「絶対者」となり、世界に対して動いていく。そして、そこに自分の「神話」を作り上げる。少女「に」キスをする。そうして、少女は自分を愛しているという「神話」を作り上げる。

 だが、「神話」だけでは書けないものがある。人間は「神」ではないから、「激情」だけを生きるわけにはゆかない。
 「神話」を人間の体温のなじむところまで引き下ろし、そこで感情を「和解」させないと生きていけない。「神話」を「物語」にまで引き下ろし、そこで「人間」同士として出会わないと、生きていけない。
 --だから、一色は、以後、そういうことを書いていく。「01 バスの中で」では書き切れない「情」を少しずつ丁寧にことばに定着させていくことになる。
 けれど、その一色の意識のなかには「神話」は息づいている。この「01 バスの中で」は一色のことば全体のプロローグなのだ。




歌を忘れたカナリヤは、うしろの山へ捨てましょか
一色 真理
NOVA出版



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