北川透『海の古文書』(思潮社、2011年06月15日発行)
北川透『海の古文書』は「現代詩手帖」に連載されていた時に感想を少し書いた。それから時間がたっているので、私の感想は変わっているかもしれない。変わらないかもしれない。変わっていても変わらないかもしれないし、変わらなくても変わっているかもしれない。--まあ、考えても始まらないので、いつものように思いつくままに書いていくしかない。
「序章 時の行方」の書き出し。私はたいてい書き出しにこだわる。読んだ瞬間に私のなかで動くことばがあり、それについていくというのが私の読み方なので、どうしても「書き出し」が重要なのだ。
そんなことを言っては困ります。「狂死」「中毒死」した男には、きちんと死んでもらっていなと、書いてあることに「矛盾」が生じる。「行方不明」は「生死不明」だから生きていてもいいけれど、死んだ人間には死んでいてもらわないと、書かれていることばの何を信じていいのかわからない。北川さん、こんなことでは、困ります。
--と、書いてみるだけで、私はぜんぜん困らない。むしろ、死んだ男が死んだままだったり、行方不明の男が死んでいて、絶対にあらわれないということの方が困る。M、O、Hとそれぞれの男を思い出す時、その男が「生きている」状態でことばにならないと、その男を動かせない。一緒に動けない。書く、というのは、その対象といっしょに動くということである。たとえ死んだ男のことを書くとしても、その書く瞬間においては、男は「いま/ここ」にことばといっしょに動いている。その「いま/ここ」が「かつて/どこか」であっても、それは「時制」の問題であって、ことばそのものの問題ではない。ことばにとっては「いま/ここ」があるだけだからである。
「みんなどこかで生きています。」と言い切る北川のことば--それにまず私は引きつけられる。そのまま信じる。死んだ男たちは生きているというのは矛盾である。矛盾であるから、私は、それを信じることができる。ことばは、こうでなくてはいけないと思う。ことばというか、人間の「考え」(思い)、といってもいいかもしれない。矛盾にぶつかって、矛盾を抱えながら動くとと「いま/ここ」がはっきりする。
矛盾というのは、信じた瞬間に、動きだすものなのである。その動き、動いていくということを私は信じるのだ。
ということを、北川は、次のように言い換えている。
あ、ごめんなさい。北川が私の感じたことを言い換えているのではなく、北川が書いていることを手がかりに、私はそんなふうに感じた、というのが「正しい」時系列だね。
ことばを動かす。ことばで3人の男を生きる(生きなおす)。それは「わたし」を生きなおすということでもある。「時間」と「空間」を超えて、「いま/ここ」から自在に「いつか/どこか」で生きなおす。ことばによって、どんな「生」と「死」が可能だったかを確かめなおす。--それを「旅」と定義している。
このことばに誘われて、私は、さっき書いたようなことを考えたのだ。
でも、そんな時系列は無視して、やはり私は、「私(谷内)の考えていることを北川はこの詩でこんなふうに言い換えている」と言い張るのである。「誤読」するのである。「書かれてしまったことば」(読まれてしまったことば)は、「書いた人」のものではない。「読んだ人」のものである。そして「読む」というのは「知らないこと」を発見することではない。「知っていること」をただ確認するだけのことである。「知らないこと」はわからないままである。いろいろ読んでも、そのとき私は私の知っていることを、そのことばのなかに見つけ出すだけである。確認するだけなのである。
それは、この詩を書いている北川も同じではないか、という思いが私にはする。ある人間のことを書くということは、ある人間の「知っていること」を確認しながら、それを動かしていくことである。「知っている」ことを積み重ねると、その結果としてどんな人間の可能性が浮かび上がってくるか--その可能性を旅するのだ。
ひとを思い出す、ひとをことばによって書き留める--それは「時空を超える」ことである。「時空」を超えるのだから、死んでいても生きているし、生きていても死んでいる。それは、どっちでもあるのだ。そして、個人的なことを言えば、北川が書いている3人の男と北川の「旅」に私は直接関与していないが--つまり、私はそのとき北川のことも知らないし、3人の男のことも知らないのだが、「いま/ここ」で北川のことばを読んでいる時、私は北川とも、3人の男ともいっしょに生きている。もちろんそのとき北川の思っている3人の男と、私の思っている3人の男はぴったりとは重ならない。
「ずれ」る。北川と私も「ずれ」る。そして、その「ずれ」のなかでこそ、私は北川に出会う。3人の男に出会う。それは「ほんもの」の北川でも、「ほんもの」の3人の男でもないのだが、「ほんもの」ではないことによって、「ほんとう」に私が思っている北川であり、3人の男なのだ。
「ほんもの」と「ほんとう」は違うのである。「ほんもの」は「もの(対象)」であるのに対し、「ほんとう」とは「こと」なのである。「ほんとうのこと」。そして「ほんとうのこと」というとき、「ほんとう」はその「こと」を「する(動詞)」のなかにある。思うこと、書くこと--思った「もの」、書いた「もの」が「ほんもの」であり、思う「こと」、書く「こと」といっしょに「ほんとう」がある。「ほんもの」と「ほんとう」は重なりながら「ずれ」ている。
この「ずれ」は、なんと言えばいいのだろうか。きのう(2011年06月15日)の夕刊各紙に載っていた「ニュートリノ」の記事にかこつけて言えば、「理論」と「発見」(事実の確認)のようなものである。「理論」と「事実」の間には「ずれ」がある。それは「ことば」と「事実」の関係に似ている。どちらかがどちらかを「説明」するとき、それはぴったり重なって見えるが、それは「説明する」という「ことばの運動」のなかで重なるのであって、「ことば」と「事実」が重なるわけではない。--それに似ている。「ずれ」があるから「重なる」という動きが可能なのだ。「ずれ」がなければ、「重なる」ということもないのだ。
あ、何か、またとんでもないところへ、それこそ「ずれ」てしまったような気がしないでもないのだが、こんなふうに「ずれ」ないことには接近できない。「誤読」するときだけ、私は読んでいるそのことばに接近している気持ちになる。(あくまで、気持ちです。私が北川に接近していると私が勝手に思っているだけで、他の人から見ればどんどん離れて言っている、勘違いも甚だしいということになるかもしれない。北川も、そう感じているかもしれない。)
最初にもどる。
私は、男の生死がどうであろうと、書くという瞬間において、男は「いま/ここ」に「ことば」といっしょに動いている、と書いた。
この詩の(詩集の)テーマは、その「書くということ」と「ことば」なのだ。
この詩のなかで「話者」は自分自身を「詐欺師で人殺しの女」と名乗っている。そして住んでいる場所を「地図にも載っていない架空の場所」と言った上で、次のようにことばを動かしていく。
「ことばは人間がする、あるいは人間だけはしないあらゆることをします。」という文が「くせもの」である。「あるいは」が「くせもの」である。つまり、いろんなことばを誘う。どんなふうに「誤読」できるかを誘うのである。私は、こういうことばが大好きである。ここからは自分勝手に読んでいっていいのだ、と思えるからだ。
「ことばは人間がする、あるいは人間だけはしない」って、どっち? するの? しないの? わからないから、私は私の信じるままに読むのである。「人間がする」「人間がしない」に区別はない。差はない。違うことばで書かれているが、同じ「こと」だ、と私は読んでしまう。「ニュートリノ」のときにつかったことばでいえば、それは「理論」と「事実」のようなもの。「あるい」はということばで重なってしまう「ずれ」である。「ずれ」なんて、その程度のものなのである。
--この「説明」は、うまくいっているとは思えない。自分で書いておいて、無責任な言い方だけれど……。
でも、瞬間的に、私はそういうことを感じたのだ。
何かが重なり、そのとき何かが動く。その動きのなかには、あらゆるものがある。仕事もセックスも。もちろんこれは「比喩」だが、「比喩」のなかに「ほんとう」がある。「いま/ここ」と重なる「こと」がある。その「こと」を呼び出すために「比喩」があるのだ。
そして、北川の書いていることと私の感じていることは違うかもしれないが、私もことばには「肉体」があると思う。というか、「ことば」に「肉体」を感じたときだけ、そのことばを信じることができる。「肉体」としてのことばは、書き手を離れて動いている。ことばの「肉体」のなかにある「いのち」(本能)に従って動いていく。勝手に動いて、何ものかになってしまう。
そういうことを、北川は次のように書く。
ほら「同じこと」と「こと」をつかって、北川は何かを言おうとしているでしょ? その言おうとしている「こと」は、私の書きたかったことです。--なんて。あ、また、まずいことを書いたかな? ほんとうは、これも、北川のことばを強引にねじ曲げて、私は先のように感じた--と書くべきことなのだが。
北川の書いていることを、少し書き直してみる。つまり、私のことばで「誤読」し直してみる。
Mをはじめとする3人の男は3人でありながら1人である。それを思う「わたし」である。そして、その「ことば」である。同時に「わたし・ひとり」でありながら「3人」以上でもある。「わたし」は「わたし」でありながら、何人にでも「なる」のである。複数の人間(複数の眼をもって世界を観察する人間)に「なる」のである。書くことによって。ことばによって。
このときの「ある」と「なる」の関係がおもしろいのだ。
ことばが動く瞬間、ことばのなかで「誰か」に「なる」。自在に変化する。その複数の「誰か」を統合する(統一)するのは誰か。「なる」を誰が「ある」にかえるのか。「わたし」か。「ことば」か。そういものは存在しない。誰も、何も、統合も統一もしない。その不定型の「エネルギー」そのものが「ことばの肉体」である。人間の「肉体」が成長し、動き回るように、「ことばの肉体」も成長し、動き回るのだ。何かが「ある」としたら、動き回る「エネルギー」という「不定型」が「ある」だけである。
でも、これはとても変な「理論」(?)かなあ。でもね、その私の感じている「変」を北川は、今度は次のように書いてくれている。
「ずれ」「不一致」。あ、うれしいなあ。このことば。(私の書きたかったことを、北川は、こんなふうに書いてくれているのです。--と、ここでも私は強引に書いてしまうのだ。)
すべては「ずれ」る。すべては「不一致」である--ということで、北川が何を言いたいのか--を無視して、私は考える。勝手に「誤読」を暴走させる。
「ことばの肉体」ということば自体、何かから「ずれ」ている。一般的な「流通言語の表現」から「ずれ」ている。私のことばは、流通言語とは「不一致」である。
しかし、「不一致」でしか語れないのだ。何か書こうとすれば、どうしても「不一致」になる。そして、その「不一致」を私のことばがこうして動いているとしたら、それはやはり、ことば自身に「肉体」があって、そこに存在していると考えた方が、私には納得ができるのである。
北川透『海の古文書』は「現代詩手帖」に連載されていた時に感想を少し書いた。それから時間がたっているので、私の感想は変わっているかもしれない。変わらないかもしれない。変わっていても変わらないかもしれないし、変わらなくても変わっているかもしれない。--まあ、考えても始まらないので、いつものように思いつくままに書いていくしかない。
「序章 時の行方」の書き出し。私はたいてい書き出しにこだわる。読んだ瞬間に私のなかで動くことばがあり、それについていくというのが私の読み方なので、どうしても「書き出し」が重要なのだ。
ひとりは狂死
もう一人はアルコール中毒死
第三の男は行方知れず
狂死した男Mも、中毒死した男Oも、失踪したまま生死不明の男Hも、みんなどこかで生きています。
そんなことを言っては困ります。「狂死」「中毒死」した男には、きちんと死んでもらっていなと、書いてあることに「矛盾」が生じる。「行方不明」は「生死不明」だから生きていてもいいけれど、死んだ人間には死んでいてもらわないと、書かれていることばの何を信じていいのかわからない。北川さん、こんなことでは、困ります。
--と、書いてみるだけで、私はぜんぜん困らない。むしろ、死んだ男が死んだままだったり、行方不明の男が死んでいて、絶対にあらわれないということの方が困る。M、O、Hとそれぞれの男を思い出す時、その男が「生きている」状態でことばにならないと、その男を動かせない。一緒に動けない。書く、というのは、その対象といっしょに動くということである。たとえ死んだ男のことを書くとしても、その書く瞬間においては、男は「いま/ここ」にことばといっしょに動いている。その「いま/ここ」が「かつて/どこか」であっても、それは「時制」の問題であって、ことばそのものの問題ではない。ことばにとっては「いま/ここ」があるだけだからである。
「みんなどこかで生きています。」と言い切る北川のことば--それにまず私は引きつけられる。そのまま信じる。死んだ男たちは生きているというのは矛盾である。矛盾であるから、私は、それを信じることができる。ことばは、こうでなくてはいけないと思う。ことばというか、人間の「考え」(思い)、といってもいいかもしれない。矛盾にぶつかって、矛盾を抱えながら動くとと「いま/ここ」がはっきりする。
矛盾というのは、信じた瞬間に、動きだすものなのである。その動き、動いていくということを私は信じるのだ。
ということを、北川は、次のように言い換えている。
彼らがいつどのように生きて死んだのか、死んで生きたのか。その行方は、同時にわたしが彼らと共に、生死をかけて時代に殉じた姿を映し出しています。それを見きわめたいと思い、わたしは時空を超えた旅に出たのでした。
あ、ごめんなさい。北川が私の感じたことを言い換えているのではなく、北川が書いていることを手がかりに、私はそんなふうに感じた、というのが「正しい」時系列だね。
ことばを動かす。ことばで3人の男を生きる(生きなおす)。それは「わたし」を生きなおすということでもある。「時間」と「空間」を超えて、「いま/ここ」から自在に「いつか/どこか」で生きなおす。ことばによって、どんな「生」と「死」が可能だったかを確かめなおす。--それを「旅」と定義している。
このことばに誘われて、私は、さっき書いたようなことを考えたのだ。
でも、そんな時系列は無視して、やはり私は、「私(谷内)の考えていることを北川はこの詩でこんなふうに言い換えている」と言い張るのである。「誤読」するのである。「書かれてしまったことば」(読まれてしまったことば)は、「書いた人」のものではない。「読んだ人」のものである。そして「読む」というのは「知らないこと」を発見することではない。「知っていること」をただ確認するだけのことである。「知らないこと」はわからないままである。いろいろ読んでも、そのとき私は私の知っていることを、そのことばのなかに見つけ出すだけである。確認するだけなのである。
それは、この詩を書いている北川も同じではないか、という思いが私にはする。ある人間のことを書くということは、ある人間の「知っていること」を確認しながら、それを動かしていくことである。「知っている」ことを積み重ねると、その結果としてどんな人間の可能性が浮かび上がってくるか--その可能性を旅するのだ。
ひとを思い出す、ひとをことばによって書き留める--それは「時空を超える」ことである。「時空」を超えるのだから、死んでいても生きているし、生きていても死んでいる。それは、どっちでもあるのだ。そして、個人的なことを言えば、北川が書いている3人の男と北川の「旅」に私は直接関与していないが--つまり、私はそのとき北川のことも知らないし、3人の男のことも知らないのだが、「いま/ここ」で北川のことばを読んでいる時、私は北川とも、3人の男ともいっしょに生きている。もちろんそのとき北川の思っている3人の男と、私の思っている3人の男はぴったりとは重ならない。
「ずれ」る。北川と私も「ずれ」る。そして、その「ずれ」のなかでこそ、私は北川に出会う。3人の男に出会う。それは「ほんもの」の北川でも、「ほんもの」の3人の男でもないのだが、「ほんもの」ではないことによって、「ほんとう」に私が思っている北川であり、3人の男なのだ。
「ほんもの」と「ほんとう」は違うのである。「ほんもの」は「もの(対象)」であるのに対し、「ほんとう」とは「こと」なのである。「ほんとうのこと」。そして「ほんとうのこと」というとき、「ほんとう」はその「こと」を「する(動詞)」のなかにある。思うこと、書くこと--思った「もの」、書いた「もの」が「ほんもの」であり、思う「こと」、書く「こと」といっしょに「ほんとう」がある。「ほんもの」と「ほんとう」は重なりながら「ずれ」ている。
この「ずれ」は、なんと言えばいいのだろうか。きのう(2011年06月15日)の夕刊各紙に載っていた「ニュートリノ」の記事にかこつけて言えば、「理論」と「発見」(事実の確認)のようなものである。「理論」と「事実」の間には「ずれ」がある。それは「ことば」と「事実」の関係に似ている。どちらかがどちらかを「説明」するとき、それはぴったり重なって見えるが、それは「説明する」という「ことばの運動」のなかで重なるのであって、「ことば」と「事実」が重なるわけではない。--それに似ている。「ずれ」があるから「重なる」という動きが可能なのだ。「ずれ」がなければ、「重なる」ということもないのだ。
あ、何か、またとんでもないところへ、それこそ「ずれ」てしまったような気がしないでもないのだが、こんなふうに「ずれ」ないことには接近できない。「誤読」するときだけ、私は読んでいるそのことばに接近している気持ちになる。(あくまで、気持ちです。私が北川に接近していると私が勝手に思っているだけで、他の人から見ればどんどん離れて言っている、勘違いも甚だしいということになるかもしれない。北川も、そう感じているかもしれない。)
最初にもどる。
私は、男の生死がどうであろうと、書くという瞬間において、男は「いま/ここ」に「ことば」といっしょに動いている、と書いた。
この詩の(詩集の)テーマは、その「書くということ」と「ことば」なのだ。
この詩のなかで「話者」は自分自身を「詐欺師で人殺しの女」と名乗っている。そして住んでいる場所を「地図にも載っていない架空の場所」と言った上で、次のようにことばを動かしていく。
架空といえば、語り手を引き受けている、わたしの正体だって不明です。気障なことを言えば、わたしは夕暮れにしか姿を現さない五位鷺、詩のことばです。ことばにも肉体があり、性別があるなんて不思議ね。仕事もセックスもしますよ。旅行だって、人殺しだって、魚釣りだって、逆立ちだって、ことばは人間がする、あるいは人間だけはしないあらゆることをします。
「ことばは人間がする、あるいは人間だけはしないあらゆることをします。」という文が「くせもの」である。「あるいは」が「くせもの」である。つまり、いろんなことばを誘う。どんなふうに「誤読」できるかを誘うのである。私は、こういうことばが大好きである。ここからは自分勝手に読んでいっていいのだ、と思えるからだ。
「ことばは人間がする、あるいは人間だけはしない」って、どっち? するの? しないの? わからないから、私は私の信じるままに読むのである。「人間がする」「人間がしない」に区別はない。差はない。違うことばで書かれているが、同じ「こと」だ、と私は読んでしまう。「ニュートリノ」のときにつかったことばでいえば、それは「理論」と「事実」のようなもの。「あるい」はということばで重なってしまう「ずれ」である。「ずれ」なんて、その程度のものなのである。
--この「説明」は、うまくいっているとは思えない。自分で書いておいて、無責任な言い方だけれど……。
でも、瞬間的に、私はそういうことを感じたのだ。
何かが重なり、そのとき何かが動く。その動きのなかには、あらゆるものがある。仕事もセックスも。もちろんこれは「比喩」だが、「比喩」のなかに「ほんとう」がある。「いま/ここ」と重なる「こと」がある。その「こと」を呼び出すために「比喩」があるのだ。
そして、北川の書いていることと私の感じていることは違うかもしれないが、私もことばには「肉体」があると思う。というか、「ことば」に「肉体」を感じたときだけ、そのことばを信じることができる。「肉体」としてのことばは、書き手を離れて動いている。ことばの「肉体」のなかにある「いのち」(本能)に従って動いていく。勝手に動いて、何ものかになってしまう。
そういうことを、北川は次のように書く。
私が狂死した男M……と呼ぶのは、仮にそう呼ばれている者という以外の意味はないし、それに特定の誰かを指しているわけでもありません。私たちが生きた時代に、あんな男は何人もいました。また、あの男自身が複数の顔を使い分けてもいました。それはいま語っているわたしが、幾つものよこしま口を持ち、分裂し増殖する複数の眼を持っているのと同じことです。
ほら「同じこと」と「こと」をつかって、北川は何かを言おうとしているでしょ? その言おうとしている「こと」は、私の書きたかったことです。--なんて。あ、また、まずいことを書いたかな? ほんとうは、これも、北川のことばを強引にねじ曲げて、私は先のように感じた--と書くべきことなのだが。
北川の書いていることを、少し書き直してみる。つまり、私のことばで「誤読」し直してみる。
Mをはじめとする3人の男は3人でありながら1人である。それを思う「わたし」である。そして、その「ことば」である。同時に「わたし・ひとり」でありながら「3人」以上でもある。「わたし」は「わたし」でありながら、何人にでも「なる」のである。複数の人間(複数の眼をもって世界を観察する人間)に「なる」のである。書くことによって。ことばによって。
このときの「ある」と「なる」の関係がおもしろいのだ。
ことばが動く瞬間、ことばのなかで「誰か」に「なる」。自在に変化する。その複数の「誰か」を統合する(統一)するのは誰か。「なる」を誰が「ある」にかえるのか。「わたし」か。「ことば」か。そういものは存在しない。誰も、何も、統合も統一もしない。その不定型の「エネルギー」そのものが「ことばの肉体」である。人間の「肉体」が成長し、動き回るように、「ことばの肉体」も成長し、動き回るのだ。何かが「ある」としたら、動き回る「エネルギー」という「不定型」が「ある」だけである。
でも、これはとても変な「理論」(?)かなあ。でもね、その私の感じている「変」を北川は、今度は次のように書いてくれている。
狂死したM、《絶滅の王》が誰に対しても許せなかったのは、ことばと行為の不一致でした。しかし、中毒死したOの認識は、心情を過激化させ、思考を眠り込ませる行為と、それを覚醒させることばの関係の本質は、必ずずれる、不一致にある、ということでした。
「ずれ」「不一致」。あ、うれしいなあ。このことば。(私の書きたかったことを、北川は、こんなふうに書いてくれているのです。--と、ここでも私は強引に書いてしまうのだ。)
すべては「ずれ」る。すべては「不一致」である--ということで、北川が何を言いたいのか--を無視して、私は考える。勝手に「誤読」を暴走させる。
「ことばの肉体」ということば自体、何かから「ずれ」ている。一般的な「流通言語の表現」から「ずれ」ている。私のことばは、流通言語とは「不一致」である。
しかし、「不一致」でしか語れないのだ。何か書こうとすれば、どうしても「不一致」になる。そして、その「不一致」を私のことばがこうして動いているとしたら、それはやはり、ことば自身に「肉体」があって、そこに存在していると考えた方が、私には納得ができるのである。
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