加藤幸子「鶇(つぐみ)」ほか(「鶺鴒通信」Λ春号、2011年04月08日発行)
加藤幸子「鶇(つぐみ)」は庭にやってくる一羽のつぐみのことを描いている。一羽でやってくるのはペアリングの相手を探しているのである。(ペアリングは大陸へ帰ってからで、いまは体力づくりのために庭の林檎を食べている、という具合にも読めるが、私はつぐみの習性を知らないので、適当に書いておく。)
ふいに登場する「わたし」にびっくりしてしまう。つぐみをみながら加藤はそれが「わたし」だと感じているのだ。
ここで書かれている「複数のかたち」とは海を越えて日本へやってくる時の「集団」のかたち、ペアリングの相手を探すための「単独」行動というかたち。
この、一義的には「集団」か「単独」かという「かたち」が、しかし、「人間」か「鳥(つぐみ)」か、に私には感じられてしたかがないのである。つぐみへの同化(?)の仕方がとても自然なので、あ、そうか、人間というのはいろんな「かたち」を生きることができるのだなあと思う。
そして、このとき、「いろんなかたち」を生きるためにつかうのが「ことば」なのだ。「ことば」をつかって動く想像力というものなのだ。
こんなことはわざわざ書かなくてもいいのかもしれないが、そういうとても自然なことばと人間の関係が美しく結晶している。
これは庭のつぐみの様子を描いているだけなのだが、あ、もし私がつぐみになって加藤の庭に行って「ポピリョン ポピリョン」と鳴いて求愛したら、加藤はつぐみになってそれに答えてくれるかなあ、というような想像をしてしまうのだ。
「ポピリョン ポピリョン」。加藤の周りで、つぐみが無邪気にさえずりながら、しかし熱心に求愛したら、加藤はそのままつぐみになってしまうに違いない--そんなことを思わせる。
どうしてこんなことを思ったのかなあ。
詩を読み返してみた。
一羽のつぐみ。そこから「孤独」ということばを引き出している。そして「好きではないだろう」と書いている。私は加藤のことを個人的には何も知らないが、ひとりで暮らしているのかもしれない。ひとりで暮らしているけれど「孤独が好きではない」。「孤独が好きではないだろう」と書いた瞬間から、加藤にはつぐみと加藤の区別がなくなっている。「いのち」がつながっているのだ。
そして、この「いのち」のつながりが「複数のかたち」へと自然につながっていく。「いのち」はあるときは「つぐみ」のかたちをとる。あるときは「人間」のかたちをとる。加藤がいま「人間」なのは、たまたまなのだ。
たまたま「人間」のかたちをとっているだけだから、つぐみの長い渡りの旅も、相手を探すために歌の練習をすることも、それからまた大陸へ帰っていく「夢」も、自分自身のこととして書くことができるのである。
加藤には何かしら「複数のかたち」を自在に行き来することができる「いのち」の不思議なかたち、「いのち」がそれぞれのかたちになる前の「記憶」のようなものがあるのかもしれない。
「記憶」という作品とつづけて読むと、そのことがいっそう強く感じられる。
この詩でも「わたし」が突然出てくる。「わたし」は「獲物を取るために……」以後のことばを動かした人間なのだが、ことばを動かすことで「竜」の気持ちになり、突然、あ、私は「竜」ではなかったのだと気づいた感じで「わたし」ということばがとびだしてくる。
変な言い方になるが。
「竜」のことをまるで自分のことのように思う。そして実際、ことばのなかで「竜」そのものになるのだが、そのときの「一体感」が逆に加藤に「人間であることの記憶」を呼び覚ますという感じである。
--ここに書いてあることと逆じゃないか、という声が聞こえてきそうなのだけれど。そして、確かに、そんなふうに読むとここに書いてあることと逆のことを語ることになってしまうのだが、私には、加藤がいったん「竜」になるからこそ「人間(わたし)」であることを強く意識するというふうに感じられるのだ。「竜」という「いのちのかたち」を実感した後、「人間」という「いのちのかたち」にかえる。そして、そこにはただ「いのちのかたち」というものがあるだけで、「竜」であろうが「人間」であろうが、いっしょなのだという「決意」のようなもの、「思想」が感じられる。
これは「鶇」の詩の場合も同じだ。大陸から日本に渡ってくるときの様子を想像し、それをことばにしてみた瞬間、加藤は「つぐみ」というかたちを生きていた。そして、「つぐみ」であることに気がついた瞬間、あわてて(?)「人間」というかたちにもどって「わたしだって」と「わたし」ということばを発したのだ。
加藤の「わたし」は、ふつうの「わたし」とは違うのだ。
「わたし以外のいのちのかたち」を潜り抜けることで、「わたし」というもののありかたを再認識する。「わたし」は「人間」である。けれど「人間といういのちのかたち」はたまたまなのであって、それは「つぐみといういのちのかたち」、「竜といういのちのかたち」と「複数のかたち」を自在に生きるものなのだ。
そして、この「複数のかたち」をいきる「いのち」にとっては一億二五〇〇万年前も一億二五〇〇万年後も関係がない。「もの」の「かたち」を超越するように、どんな「時間」も超越する。いや、超越ではなく、融合させる。「ことば」以前の「いのち」の「場」へ帰っていく。そこから一気に、どこへでも噴出してゆく。
「ことば以前」へ帰り、そこから「ことば」を超越していくという特権的運動をするために「ことば」がある。「わたし」が存在しなければならない。
加藤幸子「鶇(つぐみ)」は庭にやってくる一羽のつぐみのことを描いている。一羽でやってくるのはペアリングの相手を探しているのである。(ペアリングは大陸へ帰ってからで、いまは体力づくりのために庭の林檎を食べている、という具合にも読めるが、私はつぐみの習性を知らないので、適当に書いておく。)
孤独が好きなわけではないだろう
あの<大陸>からこの<島>に渡ってく
るときには 隣りの羽音が聞こえるほど
密集していたはず
集合と分散 そういうかたち
わたしだって生きるあいだ複数のかたち
を選択している
ふいに登場する「わたし」にびっくりしてしまう。つぐみをみながら加藤はそれが「わたし」だと感じているのだ。
ここで書かれている「複数のかたち」とは海を越えて日本へやってくる時の「集団」のかたち、ペアリングの相手を探すための「単独」行動というかたち。
この、一義的には「集団」か「単独」かという「かたち」が、しかし、「人間」か「鳥(つぐみ)」か、に私には感じられてしたかがないのである。つぐみへの同化(?)の仕方がとても自然なので、あ、そうか、人間というのはいろんな「かたち」を生きることができるのだなあと思う。
そして、このとき、「いろんなかたち」を生きるためにつかうのが「ことば」なのだ。「ことば」をつかって動く想像力というものなのだ。
こんなことはわざわざ書かなくてもいいのかもしれないが、そういうとても自然なことばと人間の関係が美しく結晶している。
ポピリョン ポピリョン
まだ会わぬ相手のために歌の練習をする
これは庭のつぐみの様子を描いているだけなのだが、あ、もし私がつぐみになって加藤の庭に行って「ポピリョン ポピリョン」と鳴いて求愛したら、加藤はつぐみになってそれに答えてくれるかなあ、というような想像をしてしまうのだ。
「ポピリョン ポピリョン」。加藤の周りで、つぐみが無邪気にさえずりながら、しかし熱心に求愛したら、加藤はそのままつぐみになってしまうに違いない--そんなことを思わせる。
どうしてこんなことを思ったのかなあ。
詩を読み返してみた。
孤独が好きなわけではないだろう
一羽のつぐみ。そこから「孤独」ということばを引き出している。そして「好きではないだろう」と書いている。私は加藤のことを個人的には何も知らないが、ひとりで暮らしているのかもしれない。ひとりで暮らしているけれど「孤独が好きではない」。「孤独が好きではないだろう」と書いた瞬間から、加藤にはつぐみと加藤の区別がなくなっている。「いのち」がつながっているのだ。
そして、この「いのち」のつながりが「複数のかたち」へと自然につながっていく。「いのち」はあるときは「つぐみ」のかたちをとる。あるときは「人間」のかたちをとる。加藤がいま「人間」なのは、たまたまなのだ。
たまたま「人間」のかたちをとっているだけだから、つぐみの長い渡りの旅も、相手を探すために歌の練習をすることも、それからまた大陸へ帰っていく「夢」も、自分自身のこととして書くことができるのである。
加藤には何かしら「複数のかたち」を自在に行き来することができる「いのち」の不思議なかたち、「いのち」がそれぞれのかたちになる前の「記憶」のようなものがあるのかもしれない。
「記憶」という作品とつづけて読むと、そのことがいっそう強く感じられる。
一億二五〇〇万年前
前肢に羽根をつけた竜がいた
獲物を取るためにより速く
走りたいとか
彼女に見せたいとか
崖を駆けあがるのに楽したいとか
いろんな理由があったにせよ
突然からだが空に浮かんだときの
竜の驚きははかり知れない
異次元の世界に連れて行かれた
初めて味わう軽やかさ
一億二五〇〇万年後
わたしに竜の感触が伝わってくる
そしてある日 両腕を翼に
つけ変えてみた
この詩でも「わたし」が突然出てくる。「わたし」は「獲物を取るために……」以後のことばを動かした人間なのだが、ことばを動かすことで「竜」の気持ちになり、突然、あ、私は「竜」ではなかったのだと気づいた感じで「わたし」ということばがとびだしてくる。
変な言い方になるが。
「竜」のことをまるで自分のことのように思う。そして実際、ことばのなかで「竜」そのものになるのだが、そのときの「一体感」が逆に加藤に「人間であることの記憶」を呼び覚ますという感じである。
--ここに書いてあることと逆じゃないか、という声が聞こえてきそうなのだけれど。そして、確かに、そんなふうに読むとここに書いてあることと逆のことを語ることになってしまうのだが、私には、加藤がいったん「竜」になるからこそ「人間(わたし)」であることを強く意識するというふうに感じられるのだ。「竜」という「いのちのかたち」を実感した後、「人間」という「いのちのかたち」にかえる。そして、そこにはただ「いのちのかたち」というものがあるだけで、「竜」であろうが「人間」であろうが、いっしょなのだという「決意」のようなもの、「思想」が感じられる。
これは「鶇」の詩の場合も同じだ。大陸から日本に渡ってくるときの様子を想像し、それをことばにしてみた瞬間、加藤は「つぐみ」というかたちを生きていた。そして、「つぐみ」であることに気がついた瞬間、あわてて(?)「人間」というかたちにもどって「わたしだって」と「わたし」ということばを発したのだ。
加藤の「わたし」は、ふつうの「わたし」とは違うのだ。
「わたし以外のいのちのかたち」を潜り抜けることで、「わたし」というもののありかたを再認識する。「わたし」は「人間」である。けれど「人間といういのちのかたち」はたまたまなのであって、それは「つぐみといういのちのかたち」、「竜といういのちのかたち」と「複数のかたち」を自在に生きるものなのだ。
そして、この「複数のかたち」をいきる「いのち」にとっては一億二五〇〇万年前も一億二五〇〇万年後も関係がない。「もの」の「かたち」を超越するように、どんな「時間」も超越する。いや、超越ではなく、融合させる。「ことば」以前の「いのち」の「場」へ帰っていく。そこから一気に、どこへでも噴出してゆく。
「ことば以前」へ帰り、そこから「ことば」を超越していくという特権的運動をするために「ことば」がある。「わたし」が存在しなければならない。
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