楡久子『忙しい主婦の虫干し指令』(詩遊叢書10)(詩遊社、2011年03月21日発行)
楡久子のことばは、やわらかくて、いいかげんである。この、いいかげんという感覚を説明するのはむずかしいが、「許容範囲」があるということである。「適当」であるということである。「適当」かどうかを判断するのは「肉体」であるということである。
ますます、わからない?
たとえば「伊達巻き」。
「三本指でつまむ」が、私の言いたい「いいかげん」である。何CCの小さじ一杯というような「正確」なものではない。ひとの指(ひとの手のひら)は大きさがばらばらだから「三本指でつかむ」量はばらばら--なのだけれど、なぜか似たりよったりである。小さい指は小さい指で(子どもの指は子どもの指で、男の指は男の指で)、なんとなく「かげん」をする。「あんばい」をつける。
この「いいかげん」は、わからない人にはいくらいってもわからない。わかるひとは、まあ、わかる。あ、この前の一掴みはちょっと足りなかったな、多かったな、ということを舌と指が覚えているからである。「肉体」が覚えているからである。どこまでが「舌」、どこまでが「指」という区切りはなくて、どこかわらかないところでつながって覚えている。そして、そのつながりには、「肉体」だけではなく、暮らしもつながっている。つまり、この詩で言えば自分が作るべきものが「急に変更になる」というようなことを含めている。そこにいる、だれそれとの関係を含めている。なんだってそうだが、「暮らし」というのはある程度、その場しだいなのだ。その場の感覚次第なのだ。雨が降っていたり、晴れていたり、朝だったり、夕暮れだったり--それだけで「一掴み」はかわってくる。いつでも「基準」はゆらいでいる。この揺らぎを生き抜くには、「肉体」という「許容範囲」の大きい、何か「図太い」ものが必要なのである。そして、「図太い」ものは時には乱暴にもなるから、ね、「やわらかさ」「やさしさ」でごまかす必要がある。これは、「暮らしの知恵」というものである。
楡は、そういう「暮らしの知恵」のようなものを、自然に呼吸して、ことばになじませている。
それは、いろいろなあらわれ方をするが、次のような形になってくるとき、あ、うれしいなあ。何が書いてあるかかわらないといえばわからないけれど(もちろん、これは、嘘、わからないと言ってみたいだけ、わからないから説明してと楡を困らせたいから言ってみるだけ)、わからないことをいいことに「いいかげん」なことを想像して、にやにやしてしまう。つまり、私の都合で楡のことばを「誤読」して、「そうじゃない」と反論されたら、「だって、わかんないこと書くから(正確に、はっきり書かないから)誤読されるんだろう」と逆に反論できる。--あ、また、変な言い訳が長くなった。
「芙蓉の舌」という作品。
「変なこと」を考えてしまうでしょ? 考えない? まあ、いいか。私は「変なこと」を考える。この場合の「変なこと」というのは、わかるひとにはわかる。わからないひとにはわからない。いいかげんである。詩のなかにも「いい加減」ということばが出でくるが、「いいかげん」はどうしようもなく「いいかげん」である。「まだ、いいだろう」「だめよ」。そうなのだ、そのひとの都合次第なのだ。
そんなことで「暮らし」がスムーズにいくか。いくのである。いい加減だから、ぶつかったような、ぶつからないような、すれちがったような、くすぐられたような、どうとでも解釈すればいい領域を広げながら、つづいてゆくものなのだ。
というようなことをことばにしていたら、ほんとうにいいかげんな感想になってしまったが……。仕方がない。
でも、最後に、ひとこと。
私はすげべだから「変なこと」を想像するのだけれど、その私の想像した「変なこと」以上に「変なこと」がこの詩には書かれている。古い中国の詩を歌にする--というのは、まあ、わかるが、
これは、いったい何? 古い中国の詩を、どこをどんなふうに「誤読」しているのかわからないが、変だねえ。こんな奇妙な詩がある? これが歌になる? 歌になる要素を無理矢理探せば、「川」と「皮」が同音であること。ほんとう「川に流れ込む川はタオタオタオと音をたてる」というようなことなのだろうなあ。あるいは、「川に川が流れ込み、水を増やしてとうとう(たうたう=たおたお)と流れていく」ということなんだろうなあ。その音を「誤読」してしまった。その結果、「皮」とか「タオタオタオ」ということばがでてきてしまった、ということなんだ。
で、どうしてそんなことがおきるかといえば、やっぱり「暮らし」が関係している。
「たお」という犬がいなかった? 犬は水を飲むとき音を立ててたわねえ。それから、あの薄青い舌。何か「皮を剥かれた」何かみたいだわねえ……。と、楡は、「あなた」の言ったことばを勝手に「誤読」する--と、私は勝手に「誤読」する。
「誤読」が重なって(いいかげんな「理解」が重なりながらずれて行って、ということかもしれない)、「妄想」はどんどん拡大していく。
で、ここからがおもしろい。(と、私は思っている。)
「妄想」が拡大する(「誤読」が拡大する)と何が起きるか。--本心がでてくる。ほんとうに思っていること。欲望の深いところに隠れているものが、つまり、ほんとうが顔を出す。
その「ほんとう」とは?
あ、いやだなあ。「変なこと」を考えてしまうということ、でしょ。やっぱり。
楡久子のことばは、やわらかくて、いいかげんである。この、いいかげんという感覚を説明するのはむずかしいが、「許容範囲」があるということである。「適当」であるということである。「適当」かどうかを判断するのは「肉体」であるということである。
ますます、わからない?
たとえば「伊達巻き」。
今年は伊達巻き担当よ
急に変更になる
年末の協力炊事
生まれて初めて玉子八十個を買う
一番出汁を気を入れて引く
すりみを刻む
しゅうゆみりんを入れて
砂糖塩一掴み
つまり三本の指でつまむ
「三本指でつまむ」が、私の言いたい「いいかげん」である。何CCの小さじ一杯というような「正確」なものではない。ひとの指(ひとの手のひら)は大きさがばらばらだから「三本指でつかむ」量はばらばら--なのだけれど、なぜか似たりよったりである。小さい指は小さい指で(子どもの指は子どもの指で、男の指は男の指で)、なんとなく「かげん」をする。「あんばい」をつける。
この「いいかげん」は、わからない人にはいくらいってもわからない。わかるひとは、まあ、わかる。あ、この前の一掴みはちょっと足りなかったな、多かったな、ということを舌と指が覚えているからである。「肉体」が覚えているからである。どこまでが「舌」、どこまでが「指」という区切りはなくて、どこかわらかないところでつながって覚えている。そして、そのつながりには、「肉体」だけではなく、暮らしもつながっている。つまり、この詩で言えば自分が作るべきものが「急に変更になる」というようなことを含めている。そこにいる、だれそれとの関係を含めている。なんだってそうだが、「暮らし」というのはある程度、その場しだいなのだ。その場の感覚次第なのだ。雨が降っていたり、晴れていたり、朝だったり、夕暮れだったり--それだけで「一掴み」はかわってくる。いつでも「基準」はゆらいでいる。この揺らぎを生き抜くには、「肉体」という「許容範囲」の大きい、何か「図太い」ものが必要なのである。そして、「図太い」ものは時には乱暴にもなるから、ね、「やわらかさ」「やさしさ」でごまかす必要がある。これは、「暮らしの知恵」というものである。
楡は、そういう「暮らしの知恵」のようなものを、自然に呼吸して、ことばになじませている。
それは、いろいろなあらわれ方をするが、次のような形になってくるとき、あ、うれしいなあ。何が書いてあるかかわらないといえばわからないけれど(もちろん、これは、嘘、わからないと言ってみたいだけ、わからないから説明してと楡を困らせたいから言ってみるだけ)、わからないことをいいことに「いいかげん」なことを想像して、にやにやしてしまう。つまり、私の都合で楡のことばを「誤読」して、「そうじゃない」と反論されたら、「だって、わかんないこと書くから(正確に、はっきり書かないから)誤読されるんだろう」と逆に反論できる。--あ、また、変な言い訳が長くなった。
「芙蓉の舌」という作品。
「古い中国の詩を歌にしたんだ。
うたってくれないか」
とあなた。
「河に流れ込む皮は、タオタオ
タオといいながらふやけた犬の
皮を下流に流していく」
歌いこむ勢いがついたところで
不規則な金属音。
たおと名付けられた痩せ犬が水
を飲む音だった。
犬の舌はゆらぎ、水を口に運ぶ。
アルマイトの碗の水が減ってい
く。薄青い舌に見とれて私は、
「川に皮が流れ込む場面に、皮
の剥けた梨娘の歌も添えてほし
いの」
と頼む。
レッスンが終わる。
私の一番柔らかな場所を掴んで
あなたは行く。
そうくるか。そこはまずいんだ
けどな。新婚の夫に、
「もういい加減に止めてよ、明
日はコンサートよ、これじゃあ
眠れないわ」
と止めさせた思い出深い場所よ。
本当に困ってしまうわあなた。
「変なこと」を考えてしまうでしょ? 考えない? まあ、いいか。私は「変なこと」を考える。この場合の「変なこと」というのは、わかるひとにはわかる。わからないひとにはわからない。いいかげんである。詩のなかにも「いい加減」ということばが出でくるが、「いいかげん」はどうしようもなく「いいかげん」である。「まだ、いいだろう」「だめよ」。そうなのだ、そのひとの都合次第なのだ。
そんなことで「暮らし」がスムーズにいくか。いくのである。いい加減だから、ぶつかったような、ぶつからないような、すれちがったような、くすぐられたような、どうとでも解釈すればいい領域を広げながら、つづいてゆくものなのだ。
というようなことをことばにしていたら、ほんとうにいいかげんな感想になってしまったが……。仕方がない。
でも、最後に、ひとこと。
私はすげべだから「変なこと」を想像するのだけれど、その私の想像した「変なこと」以上に「変なこと」がこの詩には書かれている。古い中国の詩を歌にする--というのは、まあ、わかるが、
「河に流れ込む皮は、タオタオ
タオといいながらふやけた犬の
皮を下流に流していく」
これは、いったい何? 古い中国の詩を、どこをどんなふうに「誤読」しているのかわからないが、変だねえ。こんな奇妙な詩がある? これが歌になる? 歌になる要素を無理矢理探せば、「川」と「皮」が同音であること。ほんとう「川に流れ込む川はタオタオタオと音をたてる」というようなことなのだろうなあ。あるいは、「川に川が流れ込み、水を増やしてとうとう(たうたう=たおたお)と流れていく」ということなんだろうなあ。その音を「誤読」してしまった。その結果、「皮」とか「タオタオタオ」ということばがでてきてしまった、ということなんだ。
で、どうしてそんなことがおきるかといえば、やっぱり「暮らし」が関係している。
「たお」という犬がいなかった? 犬は水を飲むとき音を立ててたわねえ。それから、あの薄青い舌。何か「皮を剥かれた」何かみたいだわねえ……。と、楡は、「あなた」の言ったことばを勝手に「誤読」する--と、私は勝手に「誤読」する。
「誤読」が重なって(いいかげんな「理解」が重なりながらずれて行って、ということかもしれない)、「妄想」はどんどん拡大していく。
で、ここからがおもしろい。(と、私は思っている。)
「妄想」が拡大する(「誤読」が拡大する)と何が起きるか。--本心がでてくる。ほんとうに思っていること。欲望の深いところに隠れているものが、つまり、ほんとうが顔を出す。
その「ほんとう」とは?
あ、いやだなあ。「変なこと」を考えてしまうということ、でしょ。やっぱり。