詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

楡久子『忙しい主婦の虫干し指令』

2011-06-01 23:59:59 | 詩集
楡久子『忙しい主婦の虫干し指令』(詩遊叢書10)(詩遊社、2011年03月21日発行)

 楡久子のことばは、やわらかくて、いいかげんである。この、いいかげんという感覚を説明するのはむずかしいが、「許容範囲」があるということである。「適当」であるということである。「適当」かどうかを判断するのは「肉体」であるということである。
 ますます、わからない?
 たとえば「伊達巻き」。

今年は伊達巻き担当よ
急に変更になる
年末の協力炊事
生まれて初めて玉子八十個を買う
一番出汁を気を入れて引く
すりみを刻む
しゅうゆみりんを入れて
砂糖塩一掴み
つまり三本の指でつまむ

 「三本指でつまむ」が、私の言いたい「いいかげん」である。何CCの小さじ一杯というような「正確」なものではない。ひとの指(ひとの手のひら)は大きさがばらばらだから「三本指でつかむ」量はばらばら--なのだけれど、なぜか似たりよったりである。小さい指は小さい指で(子どもの指は子どもの指で、男の指は男の指で)、なんとなく「かげん」をする。「あんばい」をつける。
 この「いいかげん」は、わからない人にはいくらいってもわからない。わかるひとは、まあ、わかる。あ、この前の一掴みはちょっと足りなかったな、多かったな、ということを舌と指が覚えているからである。「肉体」が覚えているからである。どこまでが「舌」、どこまでが「指」という区切りはなくて、どこかわらかないところでつながって覚えている。そして、そのつながりには、「肉体」だけではなく、暮らしもつながっている。つまり、この詩で言えば自分が作るべきものが「急に変更になる」というようなことを含めている。そこにいる、だれそれとの関係を含めている。なんだってそうだが、「暮らし」というのはある程度、その場しだいなのだ。その場の感覚次第なのだ。雨が降っていたり、晴れていたり、朝だったり、夕暮れだったり--それだけで「一掴み」はかわってくる。いつでも「基準」はゆらいでいる。この揺らぎを生き抜くには、「肉体」という「許容範囲」の大きい、何か「図太い」ものが必要なのである。そして、「図太い」ものは時には乱暴にもなるから、ね、「やわらかさ」「やさしさ」でごまかす必要がある。これは、「暮らしの知恵」というものである。
 楡は、そういう「暮らしの知恵」のようなものを、自然に呼吸して、ことばになじませている。
 それは、いろいろなあらわれ方をするが、次のような形になってくるとき、あ、うれしいなあ。何が書いてあるかかわらないといえばわからないけれど(もちろん、これは、嘘、わからないと言ってみたいだけ、わからないから説明してと楡を困らせたいから言ってみるだけ)、わからないことをいいことに「いいかげん」なことを想像して、にやにやしてしまう。つまり、私の都合で楡のことばを「誤読」して、「そうじゃない」と反論されたら、「だって、わかんないこと書くから(正確に、はっきり書かないから)誤読されるんだろう」と逆に反論できる。--あ、また、変な言い訳が長くなった。
 「芙蓉の舌」という作品。

「古い中国の詩を歌にしたんだ。
うたってくれないか」
とあなた。
「河に流れ込む皮は、タオタオ
タオといいながらふやけた犬の
皮を下流に流していく」
歌いこむ勢いがついたところで
不規則な金属音。
たおと名付けられた痩せ犬が水
を飲む音だった。

犬の舌はゆらぎ、水を口に運ぶ。
アルマイトの碗の水が減ってい
く。薄青い舌に見とれて私は、
「川に皮が流れ込む場面に、皮
の剥けた梨娘の歌も添えてほし
いの」
と頼む。
レッスンが終わる。

私の一番柔らかな場所を掴んで
あなたは行く。
そうくるか。そこはまずいんだ
けどな。新婚の夫に、
「もういい加減に止めてよ、明
日はコンサートよ、これじゃあ
眠れないわ」
と止めさせた思い出深い場所よ。
本当に困ってしまうわあなた。

 「変なこと」を考えてしまうでしょ? 考えない? まあ、いいか。私は「変なこと」を考える。この場合の「変なこと」というのは、わかるひとにはわかる。わからないひとにはわからない。いいかげんである。詩のなかにも「いい加減」ということばが出でくるが、「いいかげん」はどうしようもなく「いいかげん」である。「まだ、いいだろう」「だめよ」。そうなのだ、そのひとの都合次第なのだ。
 そんなことで「暮らし」がスムーズにいくか。いくのである。いい加減だから、ぶつかったような、ぶつからないような、すれちがったような、くすぐられたような、どうとでも解釈すればいい領域を広げながら、つづいてゆくものなのだ。
 というようなことをことばにしていたら、ほんとうにいいかげんな感想になってしまったが……。仕方がない。
 でも、最後に、ひとこと。
 私はすげべだから「変なこと」を想像するのだけれど、その私の想像した「変なこと」以上に「変なこと」がこの詩には書かれている。古い中国の詩を歌にする--というのは、まあ、わかるが、

「河に流れ込む皮は、タオタオ
タオといいながらふやけた犬の
皮を下流に流していく」

 これは、いったい何? 古い中国の詩を、どこをどんなふうに「誤読」しているのかわからないが、変だねえ。こんな奇妙な詩がある? これが歌になる? 歌になる要素を無理矢理探せば、「川」と「皮」が同音であること。ほんとう「川に流れ込む川はタオタオタオと音をたてる」というようなことなのだろうなあ。あるいは、「川に川が流れ込み、水を増やしてとうとう(たうたう=たおたお)と流れていく」ということなんだろうなあ。その音を「誤読」してしまった。その結果、「皮」とか「タオタオタオ」ということばがでてきてしまった、ということなんだ。
 で、どうしてそんなことがおきるかといえば、やっぱり「暮らし」が関係している。
 「たお」という犬がいなかった? 犬は水を飲むとき音を立ててたわねえ。それから、あの薄青い舌。何か「皮を剥かれた」何かみたいだわねえ……。と、楡は、「あなた」の言ったことばを勝手に「誤読」する--と、私は勝手に「誤読」する。
 「誤読」が重なって(いいかげんな「理解」が重なりながらずれて行って、ということかもしれない)、「妄想」はどんどん拡大していく。
 で、ここからがおもしろい。(と、私は思っている。)
 「妄想」が拡大する(「誤読」が拡大する)と何が起きるか。--本心がでてくる。ほんとうに思っていること。欲望の深いところに隠れているものが、つまり、ほんとうが顔を出す。
 その「ほんとう」とは?
 あ、いやだなあ。「変なこと」を考えてしまうということ、でしょ。やっぱり。

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誰も書かなかった西脇順三郎(217 )

2011-06-01 09:03:39 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 長い中断をはさむことになった。東日本大震災があり、その後和合亮一の「詩の礫」を読んだ。「詩の礫」を読んでいるあいだ、私は和合のことばに夢中になった。ことばが徐々に変わっていく--というのがおもしろかった。
 和合のことばが徐々に変わっていくことと比較していいのかどうかわからないが、西脇のことばは変わらない。そのことに、びっくりして、ちょっとつまずいた時間だった。

 『壌歌』を読みはじめる。そして、西脇のことばがなぜ変わらないのかということをまず考えてしまった。

野原をさまよう神々のために
まずたのむ右や
左の椎の木立のダンナへ
椎の実の渋さは脳髄を
つき通すのだが
また「シュユ」の実は
あまりにもあますぎる!

 最初の3行は、この作品の「発句」のようなものである。これからはじまる「世界」へのあいさつである。--と、ふと書いて、ふと気づくのである。
 西脇は「いま/ここ」を書かない。いや「いま/ここ」を書くのだが、それは「いま/ここ」を「目的地」としていない。ことばは「いま/ここ」にある世界をめざしていない。
 和合の「詩の礫」のことばが「いま/ここ」にこだわり、「いま/ここ」をどうやってことばにするかということを考えつづけていたのに対し、西脇は「いま/ここ」にあいさつをして、そのあとはただ「ことば」の運動に身をまかせるのである。
 そこに「いま/ここ」がたまたま重なり合ったとしても、それは重要ではない。
 「いま/ここ」とは無関係に、ことばがことばを喚起しながら動きつづけること、「いま/ここ」から自由になって動くことが西脇にとっての詩なのだ。
 1行目「野原をさまよう神々のために」と西脇は書くが、その「神々」とは何か、だれか。だれでもない。何でもない。「無意味」である。野原をさまよう「無意味」。
 ことばから「意味」を取り去る。そのとき、何が残るか。音が残る。音は、音楽のはじまりである。西脇は、野原をさまよう「無意味」の「音楽」をつくりだしていくのである。「いま/ここ」の「意味」を「音楽」の「無意味」にかえる。「いま/ここ」にはしばられない。「いま/ここ」はことばの目的地ではないのだ。「いま/ここ」から離れた「音楽」が「目的地」なのだ。

まずたのむ右や
左の椎の木立のダンナへ

 これは、いわゆる物乞いの「あいさつ」の音楽である。「右や左のだんなさま」。その響きにあわせて、野原をさまよう「音楽」のために、何か音をください、「無意味」をくださいと呼び掛ける。
 西脇が書いていることが「無意味/意味」に関係してくることは、次の「脳髄」ということばからも窺い知ることができる。椎の実の「渋さ」、そしてシュユ(ごしゅゆ)の「あまさ」。それを西脇は「のど」や「舌」ではなく、「脳髄」で受け止めている。「意味」を判断する器官で受け止めている。
 味は「味覚」を離れる。肉体を離れる。あるいは西脇にとって「肉体」とは「脳髄」だけなのである、と言った方がわかりやすいかもしれない。西脇のことばは「脳髄」(脳)のなかで鳴り響く「音楽」が唯一の現実なのだ。
 それは、次の展開をみれば明らかである。

ああサラセンの都に
一夜をねむり
あの驢馬の鈴に
めをさまし市場を
窓からながめる時は
空はコンペキに遠く
光りは宝石を暗黒にする!

 1行目の「野原」がどこの「野原」であったのか、わからないが、しゅゆを「あまりにあますぎる!」ということばのなかに封印した後、ことばは「野原」とは遠くに来てしまっている。サラセンの「都」、「市場」をながめる窓。「いま/ここ」は「野原」とは違っている。
 さらにいえば「都」や「市場」すらも、すでにそこでは置き去りにされている。「渋さ」「あまさ」に狂った(?)脳髄は、「都」も「市場」も通り越して、空のコンペキの「遠さ」、光によって「暗黒」になった宝石の、その「暗黒」へと、ことばのすべてを「突き通す」(音楽を貫き通す)のである。
 私は便宜上、空のコンペキの「遠さ」、光によって「暗黒」になった宝石の、その「暗黒」--というような書き方をしたが、そのとき私の感じているのは、そこに書いた「意味」ではない。「コンペキに遠く」という、その言い方、「光りは宝石を暗黒にする!」という言い方、音の動きである。その音の中で「コンペキ」「遠く」「宝石」「暗黒」という音が、まるで「もの」そのもののように響き「個性」にひかれるのである。「コンペキ」と「暗黒(あんこく)」が響きあい、「とお」く、と「ほお」せきとが響きあうのも感じ、「意味」ではないものが動いていると感じるのである。

 この西脇の「音楽」と、和合の詩について一緒に考えることは、私にはむずかしかった。--そのことを、きょう、あらためて気がついた。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店



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