詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

万亀佳子「落ちる」、長嶋南子「おでん」

2011-06-05 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
万亀佳子「落ちる」、長嶋南子「おでん」(「きょうは詩人」18、2011年03月30日発行)

 万亀佳子「落ちる」が、ずーっとこころに残っている。

水滴ふくらんで
天井から ぽたーり ぽたーり ぽたーり
受けた盥に
ぽっ ぽっ ぽっ 音が落ちる
家は悲しい管のような存在になって
二階の天井と三階の床の間を流れだす
何のために汝
水の道をそれるのか
従順でしなやかな水滴の落ちる
暗く閉塞された場所を流れる心のような
道があったのだ
どこかに

 「何のために汝/水の道をそれるのか」が印象的だ。水道管のどこかがゆるんでいるのか。管の中を通らなければならない水が、そこからそれてこぼれている。それを「道からそれる」と言っているのかもしれない。
 けれど。
 水の道って、何? 水道管を流れること?
 水にはほかの道もある。低いところへ流れる。水道管にしばられる必要はないだろう。きめられた「道」を外れ、そこからこぼれた水は、やはり水らしく、低いところへ流れる。低いところへ落ちる。それも水の「正しい」あり方である。「水の道」を生きているのではないのか。
 水道管という決められた道--その決められた道の小さなほころびをみつけたら、そのほころびを大切にして(?)、そこから本来の水の流れを生きる。
 それは、それること?
 違うような気がする。
 それるのではなく、「ほんとう」を発見するのだ。
 そして、その「ほんとう」というのは「暗く閉塞された場所を流れる心」なのである。隠れているのか、隠しているのか、よくわからないが、こころにはいつでも「隠れ場所」のようなものがある。それは「隠れ場所」と呼ばないときは「閉塞された場所」と呼ばれたりする。そのひとの都合にあわせて揺れ動く何かである。
 こぼれてくる水をみながら、万亀は、その揺れ動きを見ている。そして、その水になってもいるのだ。

何のために汝

 そう呼び掛けたときの、その「汝」という一種の気取った表現(ふつうはつかわない表現)が、それが「水」ではなく「万亀自身」であることを語っているように思う。「水」ではなく万亀自身だからこそ、そのあとに「心」ということばが自然に動くのだ。

 「受けた盥に/ぽっ ぽっ ぽっ 音が落ちる」の「音が落ちる」もいいなあ。「水」そのものが落ちるのではなく、音が落ちる。水を音と呼んだときの「ずれ」。それが何かを拡大していく。そして「水」が「汝」に、「汝」が「(万亀の)心」に変化していく。その中に、「道をそれる」ということばが重なる。
 それは「道をそれたい」という本能、欲望を感じさせる。そして、その本能、欲望に、不思議な美しさを感じる。

どこかに

 そのすべてを受け入れているものがある。それはもしかすると落ちる水の「水源」かもしれない。「落ちること」の中にある「水源」。--あ、これは、矛盾しているね。私の書いていることは矛盾している。
 そして、私は、こういう矛盾に出会ったときに、いつも詩を感じるのだ。
 私のことばでは言えない何か、「未生のことば」がそこにあるような気がするのだ。



 長嶋南子「おでん」は、万亀の詩が「閉塞」(隠された/隠れた)の「本能」あるいは「欲望」が、どこからとも流れ、こぼれ落ちてくるのに対し、なんといえばいいのだろう、最初から開いている。

夜中 息子が
起き出してきて鍋のなかのおでんをつまんでいる
食べて寝てばかりいるので太ってきた
つみれ つぶ貝 牛すじ はんぺん 結びしらたき

夜中 猫が
かまってもらいたくて
寝ているわたしの頭に手を出し爪をたてる
痛くて眠れない つかまえてしめつける
さつま揚げ 厚揚げ ちくわ がんもどき たまご こぶ 猫

自分が生んだのに悩ましい
わたしは何の心配もなく眠りたい
息子に毛布をかけ床にたたきつける 火事場の馬鹿力
なんども足で踏みつける
生あたたかつぐにゃりとした感触
大きな人型の毛布が床にひとやま
こんにゃく じゃがいも ちくわぶ 大根 たこ 息子

 なるほどねえ。息子も猫もおでんにして、ぐつぐつ煮込みたい。ほんとうはひそかに隠しておきたいこと、「それをいっちゃあ、おしまい」を長嶋は言うこと、ことばにすることで解放する。
 それは「隠そうとはしない」を通り越して、「意識」を先回りして開ききってしまう。隠しどころを叩き壊して、こころが自在に動いていくのを待っている。

 このことば--しかし、どこかで万亀と通じているね。うまく言えないけれど。そう、感じる。女の力?
 男には書けないなあ、と思うのだ。



猫笑う
長嶋 南子
思潮社



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アピチャッポン・ウィーラセタクン監督「ブンミおじさんの森」(★★)

2011-06-05 19:24:57 | 映画
監督 アピチャッポン・ウィーラセタクン 出演 タナパット・サーイセイマー

 私はこの映画を福岡ソラリアシネマ3で見た。この劇場はスクリーンそばに大きな「非常出口」の案内がある。その緑色がスクリーンにまで映る。最悪である。森の緑の色が分からない。ほんとうはどんな色? それが気になってしかたがない。どうみても東南アジア特有のモンスーンの緑というだけではつたわらない、妙に薄暗い緑が多いのだが、美しいスクリーンで見たら何色? 冒頭の木につながれていた牛が脱走し、連れ戻される夜明け前(?)の森の色など、くすみ具合がきれいなんだろうなあ。深くてあいまいな色なんだろうなあ。タイのいなかの森へいってみたいなあと誘われるような気分になるだけに、ソラリアシネマ3の不完全なスクリーンが、ほんとうに頭にくる。
 冒頭のシーンや、その他のシーンもほんとうは色が美しい――そう思いながら、見えない色(まだ誰もスクリーンに定着させたことがない色)に恋しながらスクリーンを見つづけたが・・・。
 映画は東洋人には分かりやすすぎて、というか、いつかどこかでぼんやり聞いたことがあり、なんとなく知っているつもりのことなので、逆に分かりにくいかもしれない。輪廻? どこまでが知っていることで、どこからが知らないことなのか、それがわからない。映画で描かれることが、ブンミおじさん特有のことなのか、それとも自分のおじいさん、おばあさんが「なんまいだぶつ」とつぶやきながら聞かせてくれた話、あるいはどこそこのお葬式やお寺で聞いたお坊さんの話か、はっきりと区別がつかない。
あまりにも当たり前のように、死んだ人間が幽霊(?)になってかえってくる、動物になってかえってくるということが描かれているからかもしれない。登場人物が幽霊や猿になってかえってきた人間に対して驚いて見せない。あたりまえの感じで自然に受け入れる。自然すぎておもしろくない。「ブンミおじさんの森」という「固有名詞」の感覚が伝わってこない。「わたしのおじさんの森」という感じになってしまうのである。(私のように、いなかの、山の中で育った人間には、と断りがいるかな?)
この「自然さ」がちょっと逸脱して、猥褻になる部分は、しかし、おもしろい。
 醜い森の女王がなまずとセックスするところが秀逸である。なんといっても、セックスシーンが延々とつづくのがいい。そうか、輪廻というのは、違った生き物のセックスを体験することか、セックスをすることは生まれ変わることか、と感じ、その主張に監督の「思想」を感じるのである。単に、幽霊や猿になった息子が出てくるだけでは、セックスと死(セックスのエクスタシー自体、小さな死、生まれ変わり体験だよね。「死ぬ!」って言うでしょ?)と生まれ変わりの感じが抽象的になるからね。セックスシーンがあるから具体的になる。つまり、肉体で知っている不透明なものになる。これがいい。なまずが「力演」しているのに笑ってしまうが、美しいのは、このときの水の色。透明じゃない。にごっている。あいまいである。この不明瞭の明瞭さ――不明瞭な世界では、セックスのように「触覚」が大事だねえ。触れることで、確かになる。わからないものが、肉体的に納得できる何かに変わる。
 姥捨て山へ行くみたいに、おじさん一行が洞窟のなかへ入っていくシーンもいい。なんだか女の体内へ入っていくよう。手探りのあいまいさがいいよなあ。ここでも魚が出てくる。なまずと違って小さい魚。透明な水のなかに群れている。女王との比較でいえば、今度は男のセックスだね。魚は精子だ。おじさんは、最後の旅に「女体」のなかへはいって行き、そこで「精子」になる。いいなあ。この「精子」は何にでも変わりうる、つまり何にでも輪廻して、生まれ変われるということだな。(と、男である私は勝手に想像する。)
 何にでも生まれ変われるからこそ、死が悲しくない。なんでもない事柄になる。そこには「いのち」は描かれているけれど、ほんとうは死は描かれていないのかもしれない。
 全編を揺さぶっている変な雑音みたいな音も、あいまいでいいなあ。わからなくていいのだ。何かわからないけれど、どこかで聞いたことがある音だなあ――という感じが、映像のトーンととてもあっている。洗練された「音楽」だったらわざとらしくなるよなあ。
 
 感想を書き始めたら、どんどんいい映画に印象が変わっていくのだけれど。あ、でもソラリア3のスクリーンはひどい。で、★は2個のままにしておく。
   (2011年06月03日、ソラリアシネマ3)

 
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誰も書かなかった西脇順三郎(221 )

2011-06-05 15:28:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。 
 私の書いていることは西脇の詩を理解する上で何の役にも立たない。私の感想には、何ひとつ「文学的事実」というか、「文献的」ことがらに関する考察がない。
 私は、ただ、どこをおもしろいと思って読んだか、ということを小学校の児童が口にするような感じで書きつらねたいのである。口の両端を指で引っ張って「岩波文庫」って言ってみろ、「いわなみうんこ」。あ、いまうんことっていなあ、きったっねえなあ、笑ってよろこぶような類のことを書いているにすぎない。
 なぜ「いわなみうんこ」がおかしいか、というようなことは理屈をいっても始まらない。ただ楽しいだけだ。友達が困った顔をするのが楽しいのか、うんこ、うんこと汚いといわれることばをしゃべることがうれしいのか、そんなことはつきつめてもどうしようもない。そういう「ことば」の遊びをへて、ことばが動いているだけなのである。

毎日のように
マクベスの悲劇と梅ぼしのにぎりを
石油会社からもらつた

 ええっ、石油会社がマクベスの悲劇(シェークスピアの本?)と梅干しの入ったにぎり飯を毎日くれる? そんなこと、あるの?
 ないよなあ。
 だから、詩は、次のようにつづいていくのだ。(詩にはつづきがあるのだ。)

毎日のように
マクベスの悲劇と梅ぼしのにぎりを
石油会社からもらつた
青いフロシキにつつんで
赤い実がなつているリンボクの一本の
樹と花が咲いているザクロの
一本の樹が垣根から頭を出している
アパートの前を通つて
ゾウシガヤへ用事に出かける

 「毎日のように」は「ゾウシガヤへ用事に出かける」へとつながるのである。マクベスとおにぎりは、そのときもっているだけのことである。「石油会社からもらつた」は「フロシキ」を説明しているのである。読み返せば、わかるが、前の方から順番に1行1行「意味」を考えながら読んでいくと、変な書き方としか言いようがない。学校の作文でこんな変な文章を書いたら「整理して書きなさい」と指導されるだろう。
 西脇は、しかし、もちろん「わざと」書いている。
 マクベスとおにぎりを石油会社からもらうというのは変--そのへんという感覚をわざと強調する。何かが強調されると「世界」のバランスがくずれる。「世界」をとらえている枠組みが少しだけど、ずれる。ずれると、その隙間から「何か」が見える。この何かは、説明ができない。
 岩波文庫がいわなみうんこにかわるときに見える何か(感じる何か)とは違うけれど、もしかすると同じものかもしれない。「あれっ」「どうして?」わからないけれど、何かが動く。
 リンボクとザクロの書き方も変である。

赤い実がなつているリンボクの一本の樹と
花が咲いているザクロの一本の樹が
垣根から頭を出している

 という行の展開なら、意味がとおりやすい。西脇は、その「意味の通り」をわざとぎくしゃくさせている。ぎくしゃくすることが、なにかしら、ことばを刺激するのである。
 「意味」はかわらない。
 「意味」と「ことば」の緊密な関係がくすぐられる。関節が外され、脱臼する。脱臼は、痛いが、はたからみると、そのぎくしゃくは変な具合に(変だから)楽しい。笑ってはいけないが、笑ってもかまわない。(詩、なのだから。)
 そして、このぎくしゃくした動きを読み通して思い返す時、あ、それはまるで垣根からはみだしているリンボクやザクロノあり方にも見えるねえ。リンボクやザクロは「形式」をはみだして自由に枝を伸ばし、花を咲かせている。西脇のことばも、その「形式」をはみだした運動をまねしているのである。
 「形式」というのは「枠」である。それを破るのは、まあ、子どもの楽しみである。してはいけない、というわれることをするときほど、子どもにとって胸がときめく瞬間はない。そんなことをしたって何になるわけでもない。ただ、それが「できる」ということが楽しいのである。
 西脇の、この奇妙な行をまたがったことばの動かし方--そういうことをしたからといって、特別何かが起きるわけではない。けれど、そういうことができる、そういうことをしても「意味」が生まれてくるし、勘違いの一瞬には何かくすぐられたような感覚になるという快感がある。ただそれだけのために、詩というものがあってもかまわないのだ。
 ゾウシガヤ(雑司ヶ谷)。カタカナで書いたら、突然、音がにぎやかになる。音のにぎやかさが浮き立ってくる。このことも、特に意味があるわけではない。ただ、そう書きたいから書くだけなのである。

 意味ではなく、ただ、そういうふうに書きたいだけ--という、その感じが楽しい。私は、どうしても「意味」を書いてしまう。音だけを動かして、けの音の動きおもしろくない?という具合には書けないなあ。
 だから、西脇の詩が好き。




最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社
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