万亀佳子「落ちる」、長嶋南子「おでん」(「きょうは詩人」18、2011年03月30日発行)
万亀佳子「落ちる」が、ずーっとこころに残っている。
「何のために汝/水の道をそれるのか」が印象的だ。水道管のどこかがゆるんでいるのか。管の中を通らなければならない水が、そこからそれてこぼれている。それを「道からそれる」と言っているのかもしれない。
けれど。
水の道って、何? 水道管を流れること?
水にはほかの道もある。低いところへ流れる。水道管にしばられる必要はないだろう。きめられた「道」を外れ、そこからこぼれた水は、やはり水らしく、低いところへ流れる。低いところへ落ちる。それも水の「正しい」あり方である。「水の道」を生きているのではないのか。
水道管という決められた道--その決められた道の小さなほころびをみつけたら、そのほころびを大切にして(?)、そこから本来の水の流れを生きる。
それは、それること?
違うような気がする。
それるのではなく、「ほんとう」を発見するのだ。
そして、その「ほんとう」というのは「暗く閉塞された場所を流れる心」なのである。隠れているのか、隠しているのか、よくわからないが、こころにはいつでも「隠れ場所」のようなものがある。それは「隠れ場所」と呼ばないときは「閉塞された場所」と呼ばれたりする。そのひとの都合にあわせて揺れ動く何かである。
こぼれてくる水をみながら、万亀は、その揺れ動きを見ている。そして、その水になってもいるのだ。
そう呼び掛けたときの、その「汝」という一種の気取った表現(ふつうはつかわない表現)が、それが「水」ではなく「万亀自身」であることを語っているように思う。「水」ではなく万亀自身だからこそ、そのあとに「心」ということばが自然に動くのだ。
「受けた盥に/ぽっ ぽっ ぽっ 音が落ちる」の「音が落ちる」もいいなあ。「水」そのものが落ちるのではなく、音が落ちる。水を音と呼んだときの「ずれ」。それが何かを拡大していく。そして「水」が「汝」に、「汝」が「(万亀の)心」に変化していく。その中に、「道をそれる」ということばが重なる。
それは「道をそれたい」という本能、欲望を感じさせる。そして、その本能、欲望に、不思議な美しさを感じる。
そのすべてを受け入れているものがある。それはもしかすると落ちる水の「水源」かもしれない。「落ちること」の中にある「水源」。--あ、これは、矛盾しているね。私の書いていることは矛盾している。
そして、私は、こういう矛盾に出会ったときに、いつも詩を感じるのだ。
私のことばでは言えない何か、「未生のことば」がそこにあるような気がするのだ。
*
長嶋南子「おでん」は、万亀の詩が「閉塞」(隠された/隠れた)の「本能」あるいは「欲望」が、どこからとも流れ、こぼれ落ちてくるのに対し、なんといえばいいのだろう、最初から開いている。
なるほどねえ。息子も猫もおでんにして、ぐつぐつ煮込みたい。ほんとうはひそかに隠しておきたいこと、「それをいっちゃあ、おしまい」を長嶋は言うこと、ことばにすることで解放する。
それは「隠そうとはしない」を通り越して、「意識」を先回りして開ききってしまう。隠しどころを叩き壊して、こころが自在に動いていくのを待っている。
このことば--しかし、どこかで万亀と通じているね。うまく言えないけれど。そう、感じる。女の力?
男には書けないなあ、と思うのだ。
万亀佳子「落ちる」が、ずーっとこころに残っている。
水滴ふくらんで
天井から ぽたーり ぽたーり ぽたーり
受けた盥に
ぽっ ぽっ ぽっ 音が落ちる
家は悲しい管のような存在になって
二階の天井と三階の床の間を流れだす
何のために汝
水の道をそれるのか
従順でしなやかな水滴の落ちる
暗く閉塞された場所を流れる心のような
道があったのだ
どこかに
「何のために汝/水の道をそれるのか」が印象的だ。水道管のどこかがゆるんでいるのか。管の中を通らなければならない水が、そこからそれてこぼれている。それを「道からそれる」と言っているのかもしれない。
けれど。
水の道って、何? 水道管を流れること?
水にはほかの道もある。低いところへ流れる。水道管にしばられる必要はないだろう。きめられた「道」を外れ、そこからこぼれた水は、やはり水らしく、低いところへ流れる。低いところへ落ちる。それも水の「正しい」あり方である。「水の道」を生きているのではないのか。
水道管という決められた道--その決められた道の小さなほころびをみつけたら、そのほころびを大切にして(?)、そこから本来の水の流れを生きる。
それは、それること?
違うような気がする。
それるのではなく、「ほんとう」を発見するのだ。
そして、その「ほんとう」というのは「暗く閉塞された場所を流れる心」なのである。隠れているのか、隠しているのか、よくわからないが、こころにはいつでも「隠れ場所」のようなものがある。それは「隠れ場所」と呼ばないときは「閉塞された場所」と呼ばれたりする。そのひとの都合にあわせて揺れ動く何かである。
こぼれてくる水をみながら、万亀は、その揺れ動きを見ている。そして、その水になってもいるのだ。
何のために汝
そう呼び掛けたときの、その「汝」という一種の気取った表現(ふつうはつかわない表現)が、それが「水」ではなく「万亀自身」であることを語っているように思う。「水」ではなく万亀自身だからこそ、そのあとに「心」ということばが自然に動くのだ。
「受けた盥に/ぽっ ぽっ ぽっ 音が落ちる」の「音が落ちる」もいいなあ。「水」そのものが落ちるのではなく、音が落ちる。水を音と呼んだときの「ずれ」。それが何かを拡大していく。そして「水」が「汝」に、「汝」が「(万亀の)心」に変化していく。その中に、「道をそれる」ということばが重なる。
それは「道をそれたい」という本能、欲望を感じさせる。そして、その本能、欲望に、不思議な美しさを感じる。
どこかに
そのすべてを受け入れているものがある。それはもしかすると落ちる水の「水源」かもしれない。「落ちること」の中にある「水源」。--あ、これは、矛盾しているね。私の書いていることは矛盾している。
そして、私は、こういう矛盾に出会ったときに、いつも詩を感じるのだ。
私のことばでは言えない何か、「未生のことば」がそこにあるような気がするのだ。
*
長嶋南子「おでん」は、万亀の詩が「閉塞」(隠された/隠れた)の「本能」あるいは「欲望」が、どこからとも流れ、こぼれ落ちてくるのに対し、なんといえばいいのだろう、最初から開いている。
夜中 息子が
起き出してきて鍋のなかのおでんをつまんでいる
食べて寝てばかりいるので太ってきた
つみれ つぶ貝 牛すじ はんぺん 結びしらたき
夜中 猫が
かまってもらいたくて
寝ているわたしの頭に手を出し爪をたてる
痛くて眠れない つかまえてしめつける
さつま揚げ 厚揚げ ちくわ がんもどき たまご こぶ 猫
自分が生んだのに悩ましい
わたしは何の心配もなく眠りたい
息子に毛布をかけ床にたたきつける 火事場の馬鹿力
なんども足で踏みつける
生あたたかつぐにゃりとした感触
大きな人型の毛布が床にひとやま
こんにゃく じゃがいも ちくわぶ 大根 たこ 息子
なるほどねえ。息子も猫もおでんにして、ぐつぐつ煮込みたい。ほんとうはひそかに隠しておきたいこと、「それをいっちゃあ、おしまい」を長嶋は言うこと、ことばにすることで解放する。
それは「隠そうとはしない」を通り越して、「意識」を先回りして開ききってしまう。隠しどころを叩き壊して、こころが自在に動いていくのを待っている。
このことば--しかし、どこかで万亀と通じているね。うまく言えないけれど。そう、感じる。女の力?
男には書けないなあ、と思うのだ。
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