詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(6)

2011-06-21 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(6)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「四章 トランスミッション」。
 この章には「第三の男」が突然Hになって登場する。MとOは登場しない。「語り手」が誰であるか、よくわからない。
 「わからない」ことには、気になることと気にならないことがある。
 「四章」の「語り手」(主役、主語?)が誰なのかという問題は、わからないけれど、私には気にならない。すでにこの作品のなかで登場人物が次々に入れ替わるのを見てきた殻かもしれない。その登場人物の「特性(?)」のひとつに、「ひとり」は「ふたり」であり、「ふたり」は「複数」であり、「複数」は「ひとり」であるという運動があることを見てきたからかもしれない。
 しかし、それ以上に重要なものがあると思う。「ひとり」は「複数」、「複数」は「ひとり」というような「一元論」の「思想」よりも重要なものがあると思う。「文体」である。
 北川の文体。
 北川の文体--と書いたあと、どう説明していいかわからなくなるのだが、登場人物(その章の「主役・語り手」)がどんなふうに変わろうとも、北川の文体には一貫したリズムと音がある。このリズムと音の「一貫性」が、複数の人物を支えている。そのリズム、音を通って「ひとり」は「ふたり」になり、「ふたり」は「ひとり」になる。
 あ、これでは、なんの説明にもならないねえ。

手がこんなに細くなって
関節やボルトがばらばら外れてしまった
次におれは何に変えられるのだろう
黒く裂けた石畳に聞いても
昔の車輪の響きがするだけだ
(忘れられたルー・シュンは、「狂人日記」を書きつづけている。)

聖書や悲劇を失ったアルミニウムの手は
それでも自分を探している
海底に沈んだ危ない歴史の七曲がりの街道に
サーチライトを向けて
(赤い皇帝に回収されても、ルー・シュンはなお「狂人日記」を書く。)
野草が記憶の喉の奥まではびこっているが……

 ことばのリズムと音--その一貫性というのは、ほんとうにむずかしい。音楽の場合、あ、これは誰それのメロディーだなあ、誰それのリズムだなあ、誰それの声(楽器の音)だなあということが感覚的にわかるが、それと同じことが「詩のことば」でも起きる。何らかの「癖」のようなものである。
 で、北川の文体。
 「手がこんなに細くなって/関節やボルトがばらばらに外れてしまった」というときの「ボルト」の突然の闖入。あるいは「聖書や悲劇を失ったアルミニウムの手は」という一行の「聖書」と「悲劇」の出会い、「失った」ということばがそれを結びつける構造、さらに、先の「ボルト」のように突然闖入する「アルミニウム」という「無意味な音」。そういうことろに、北川の「何か」を感じる。
 そして、そういう予想外の存在(もの)を結びつけることばの運動の奥に……。

黒く裂けた石畳に聞いても
昔の車輪の響きがするだけだ

 何といえばいいのだろう。この二行のなかの「聞いても」がもっているような「鍛えられたことばの脈絡」があり、それこそが北川の「文体」なのだと感じる。
 「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」は「流通言語」に置き換えると、「聞いても」が「邪魔」(独特すぎる)ということがわかる。石畳を車輪が通りすぎていく。そのとき音がする。音が響く。--この二行は、石畳を見ていると、昔、そこを馬車か何かが通り、車輪の音が聞こえた(響いた)ことを思い出す、そういうことしか思い出せないというような「意味合い」を表現しているのだと思う。
 「見て-思い出す」という一続きの運動が「聞いても-響きを思い出す」という「動詞」に知らずにかわっている。「見る」が「聞く」にかわっている。「視覚」と「聴覚」が融合し、ひとつの「感覚」と「記憶」になっている。まるで「ひとり」が「ふたり」に、「ふたり」が「ひとり」にかわるように、ある次元で融合し、そこからまた分離してきて動くように。
 あ、少し、急いで書きすぎたみたいだ。
 「聞いても」は実際は、いま、そこにある(そこに見える)「石畳」に対して「次におれは何に変えられるのだろう」という質問をする、訊ねる、聞いてみるということなのだが、「聞く」ということばをつかった瞬間、かえってくる「答え」(声、音)を「肉体」が受け止めようとして動く。「聞く」が自然に「響き」を「文脈」として組み込んでしまう。
 このときの、なんとも説明しにくい肉体、目(視覚)、耳(聴覚)の「連絡」の仕方--そこに「鍛えられた文体」を感じるのだ。「肉体」とことばをきちんと向き合わせて、どの感覚(肉体の器官)とどの感覚が融合し、入れ替わるのかを、書きつづけながら確かめてきた「歴史」のようなものを感じるのである。

 トランスミッションということばを北川がどういう「意味」をこめてつかっているのかわからないが、「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」という二行のなかにある、視覚-聴覚の自然な移行の感じは「伝導・変速(これを変化、と言い換えたい)」を「トランスミッション」と呼びたい感じがする。

 --ということから、作品にもどって……。
 「トランスミッション」は「魯迅」という実在の人物を「トランスミッション」として利用(?)しているということかもしれない。いわば「視覚-聴覚」の移行、変化のように、「魯迅」(とそのことば)を変速(変化)装置として、この詩の登場人物であるM、O、「第三の男」が行き来するということかもしれない。「魯迅とそのことば」は、いわば三人の(そしてそれ以上の)登場人物たちが出会う「場」なのだ。
 「魯迅のことば」を読む。そのとき、三人は出会う。三人以上の人間が出会う。そして、「ひとり」になったり「ふたり」になったり「三人」なったりということを繰り返す。それは「魯迅のことば」を読むことで、ひとは「魯迅」になり、また「魯迅」はだれかになり、さらに「ひとり」にもどるというこかもしれない。
 ことばは、いつでも「トランスミッション」なのだ。何かを「変える」装置なのである。そして、それは「時代」をも越える--というか、ことばのなかには、どんな時代でも呼び出すことができる。複数の時代を呼び出しながら、「いま/ここ」がより明確になる。「時代」を呼び出し、そのとき生きていた「人間・思想・ことば」を呼び出し、攪拌する。新しいことばを動かす。
 そういう作業を、北川は「頭」ではなく「肉体」としてやっている。「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」という二行のなかに生きている力が、そう教えてくれる。
 だから、

飢えた者の激怒とルサンチマンの糞溜めは綺麗だ……大量虐殺は美しい……

 という「流通言語」では許されないことばの結びつきも安心感がある。糞溜めは誰が見たって「綺麗」ではないし、大量虐殺が「美しい」というのは倫理的に許されない論理だが、「綺麗」「美しい」ということばでしか伝えられない「絶対的な何か」が北川の「肉体」のなかで起きているから、そう書いているのだと信じることができる。
 「頭」ではなく、私の「肉体」が北川のことばを信じてしまう。信じこませる「文体」の力が北川のことばにはある。



窯変論―アフォリズムの稽古
北川 透
思潮社
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斎藤恵子「往来」、河邉由紀恵「ガーデン」

2011-06-21 09:50:03 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤恵子「往来」、河邉由紀恵「ガーデン」(「どぅるかまら」10、2011年06月10日発行)

 斎藤恵子「往来」は、ある「声」を書いている。

路のわきに枯れた百合
褐色になったつぼみがうながれていた
わたしは黒ずむ茎を手折った
 あらあら手がよごれるよ
通りがかりのひとの声
色彩が消えてゆく

細い茎は腕の中でぬるみ
ぶちの赤い花弁をひろげた
 美しいでしょ
見捨てられたものの声
腕の中でいっそう大きくひらいた
ほばほばと光る芯のしべ
花を抱いた姿をショーウインドウに映す
じぶんのかおばかりが見え
やがて
ぼやけて花弁ばかりになり
百合はショーウインドウの飾花になっていた

 「あらあら手がよごれるよ」。これは「いま/ここ」で誰かが斎藤にかけたことばなのか。それとも斎藤が百合を手折ろうとした時「かつて/どこか」であったことを思い出したのか。よくわからない。また、実際に百合を斎藤が手折ろうとしたのかどうかも、よくわからない。
 次の連で「百合はショーウインドウの飾花になっていた」とあるが、ショーウインドウの百合を見て、昔のこと思い出したのかもしれない。子どもの時、枯れた百合を手折ろうとしたら通りかかった誰かが「あらあら手がよごれるよ」と注意(?)してくれたことを思い出したのかもしれない。
 ことばのなかで、時間が入り乱れる。「色彩が消えていく」というのは、思い出の中である部分が明るくなったりぼんやりしている描写である、と考えると、その時間の入り乱れが濃くなる。
 「美しいでしょ」は、もっといろいろな時間のなかで聞こえる。腕のなかに抱える前に斎藤がすでに聞いた声かもしれない。路端で先ながら、枯れている百合、そのうなだれたつぼみが、すばやくささやいた声かもしれない。「枯れて見えるけれど、ほんとうはそうじゃないの。美しいのよ。よく見て。ほら、美しいでしょ」という声を聞いて、斎藤は思わず百合を引き寄せ手折ったのかもしれない。そんな、あってはならない百合と少女の会話が聞こえたから、誰かが「あらあら手がよごれるよ」と言ったのかもしれない。よごれるのは「手」だけではないのだ。「手」がよごれれば、「肉体」のなかにあるものもよごれるのだ。
 そして、実際に「肉体」のなかがよごれたからこそ--百合の毒(?)に染まったからこそ、「美しいでしょ」が鮮明に聞こえる。
 百合から手(肉体)、肉体からその内部へと動く何か。それは「細い茎は腕の中でぬるみ」の「ぬるみ」ということばが、しっかりと把握している。「肉体」の温度と百合の「茎」の温度がまじりあい、浸透し合うのだ。
 何行か前に、私は「時間が入り乱れる」と書いたが、時間が浸透し合う、と書くべきだった。何かに手を触れると、その触れた「対象(たとえば百合)」と「肉体」のあいだで、「体温」の行き来がある。百合が冷たいとき、人間の「体温」が百合に移り、おなじ「ぬるさ」になるだけではなく、その「ぬるさ」を「肉体」は感じ、自分のうちにとりこんでしまう。その相互作用がある。
 それは「声」、ことばの場合も起きる。
 誰かが何かを言う。そのことばと「肉体」が触れあう。「声」を聞くということは、「ことば」が「肉体」に触れるということであり、「肉体」に触れたものは「肉体」のなかへ浸透してくる。「肉体」のなかへいったん入ってしまえば、それは誰のことば? 誰の「声」?
 その声がはっきり聞こえるとしたら、それは外から聞こえるのではなく、「肉体」の内から聞こえるのでは? 「肉体」のなかにある何かが、外にある「声」を引き寄せ、「肉体」の内で、別のことばに変えてしまうのでは?
 --そんなことは斎藤は書いていない。たしかに書いていない。けれども、私はそんなことを考えてしまうのだ。
 ショーウンドウに映っているのは「じぶんの顔」、百合はショーウインドウのなかにある。「わたし」と百合とのあいだには、ガラスがある。けれど、そのガラスは斎藤がことばを動かしているあいだ、消えていた。ガラスを超えて、「わたし」と百合が浸透し合っていた。「美しいでしょ」ということばといっしょに。何かが浸透しあい、ふっと入れ代わる。その瞬間が、すばやく書き留められている。

 この何かが浸透しあう感じ、入れ代わる感じを「夕明り」では、斎藤は次のように書いている。

小さな窓を夕明りがひらいてくる
しずかに宙がえりする白

 「宙がえり」。おもしろいねえ。宙返りって、どういうこと? 宙返りしても、その存在はもとのまま。もとの位置、もとの姿にもどるから宙返り。けれど、それが元にもどるあいだに、くるり、何かが入れ代わる時間があったのだ。
 宙返りした「白」自体も、宙返りすることで何かを見ただろうけれど、その宙返りをみた斎藤も宙返り以上の何かを見ている。それが斎藤の「肉体」に浸透してきて、もう一度外に出る時、それが詩の2行になったのだ。



 河邉由紀恵「ガーデン」も、ことばにして説明するとめんどうくさい(これはうまく書けないということをごまかしていうときの私の口癖かな……)。何か、ことばでは説明しにくいけれど「肉体」でははっきりと感じ取れるものをきちんと書いている。

春の風はしだれ桜の枝をゆらし
黄ばんだミモザの花をちらすだろう

そのため空気がうすくなったことにわたしはきづくが
そばにいるあなたはきづかない
というぐあいに ときにちいさな影をもはこんでくる

庭にいれば
わたしはしあわせなのだろうか
いや じつのことろすこしは不安ではないのか
ちどめ草をぬきながら考える

たとえばふた月まえに地獄坂の階段をおりた底のほうの店におきわすれた
ふわふわの黒いふぁーのことをわたしはわすれようとして
庭にいるのではないのか

 2連目では、「ちいさな影」が論理的にしっかりとことばにされている。それとは逆に4連目の「ふわふわの黒いふぁー」は論理的じゃないね。
 2連目は論理的ゆえに、「抒情的」にも見える。「抒情」というのは「論理」というか、「頭」でことばを整理することと、どこかでつながっている。「頭」で整理されたことばは一種の「ことばの共有ルール」をもっている。そのために人とひとをつなぎ、そのつながりのなかで、ひとはなんとなく安心する。私も同じように感じる--と安心していえるのが、たぶん「抒情」の重要な要素なのだと思う。
 それと比べてみるとわかりやすいが「ふわふわの黒いふぁー」って、変だよね。それ、わかる--でも、「わかる」とは言いたくない。こういう共感はごく親しい間柄ならいいけれど、知らないひとの前では隠しておきたいねえ。共通のことばにならないもの、「頭や「精神」で整理されたものではないことばというのは、「なんだそれは、ちゃんとした日本語(論理的な日本語?)で言えよ」と叱られそうで、人前では言えないねえ。
 でも、そういうことばが、いいなあ。
 「論理」でも「頭」でも「精神」でもなく、ただそこに「ある」としか言えないもの、「肉体」の安心感がある。「抒情」が「頭」の安心感なら、「ふわふわの黒いふぁー」は「肉体」の安心感だねえ。

 この河邉の「声」は、斎藤の「あらあら手がよごれるよ」「美しいでしょ」と、どこかでつながっている。その「どこか」と、それが「どんなふうな」つながり方をしているか--ということを、ほんとうは書かないと「批評」にならないのだけれど。
 書けない。
 ややこしくて、めんどうくさい。--ようするに、私のことばは、そこまで書けない。でも、そこのことろをほんとうは書きたいと思っていることだけは、書いておきたい。





夕区
斎藤 恵子
思潮社


桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社



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