北川透『海の古文書』(6)(思潮社、2011年06月15日発行)
「四章 トランスミッション」。
この章には「第三の男」が突然Hになって登場する。MとOは登場しない。「語り手」が誰であるか、よくわからない。
「わからない」ことには、気になることと気にならないことがある。
「四章」の「語り手」(主役、主語?)が誰なのかという問題は、わからないけれど、私には気にならない。すでにこの作品のなかで登場人物が次々に入れ替わるのを見てきた殻かもしれない。その登場人物の「特性(?)」のひとつに、「ひとり」は「ふたり」であり、「ふたり」は「複数」であり、「複数」は「ひとり」であるという運動があることを見てきたからかもしれない。
しかし、それ以上に重要なものがあると思う。「ひとり」は「複数」、「複数」は「ひとり」というような「一元論」の「思想」よりも重要なものがあると思う。「文体」である。
北川の文体。
北川の文体--と書いたあと、どう説明していいかわからなくなるのだが、登場人物(その章の「主役・語り手」)がどんなふうに変わろうとも、北川の文体には一貫したリズムと音がある。このリズムと音の「一貫性」が、複数の人物を支えている。そのリズム、音を通って「ひとり」は「ふたり」になり、「ふたり」は「ひとり」になる。
あ、これでは、なんの説明にもならないねえ。
ことばのリズムと音--その一貫性というのは、ほんとうにむずかしい。音楽の場合、あ、これは誰それのメロディーだなあ、誰それのリズムだなあ、誰それの声(楽器の音)だなあということが感覚的にわかるが、それと同じことが「詩のことば」でも起きる。何らかの「癖」のようなものである。
で、北川の文体。
「手がこんなに細くなって/関節やボルトがばらばらに外れてしまった」というときの「ボルト」の突然の闖入。あるいは「聖書や悲劇を失ったアルミニウムの手は」という一行の「聖書」と「悲劇」の出会い、「失った」ということばがそれを結びつける構造、さらに、先の「ボルト」のように突然闖入する「アルミニウム」という「無意味な音」。そういうことろに、北川の「何か」を感じる。
そして、そういう予想外の存在(もの)を結びつけることばの運動の奥に……。
何といえばいいのだろう。この二行のなかの「聞いても」がもっているような「鍛えられたことばの脈絡」があり、それこそが北川の「文体」なのだと感じる。
「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」は「流通言語」に置き換えると、「聞いても」が「邪魔」(独特すぎる)ということがわかる。石畳を車輪が通りすぎていく。そのとき音がする。音が響く。--この二行は、石畳を見ていると、昔、そこを馬車か何かが通り、車輪の音が聞こえた(響いた)ことを思い出す、そういうことしか思い出せないというような「意味合い」を表現しているのだと思う。
「見て-思い出す」という一続きの運動が「聞いても-響きを思い出す」という「動詞」に知らずにかわっている。「見る」が「聞く」にかわっている。「視覚」と「聴覚」が融合し、ひとつの「感覚」と「記憶」になっている。まるで「ひとり」が「ふたり」に、「ふたり」が「ひとり」にかわるように、ある次元で融合し、そこからまた分離してきて動くように。
あ、少し、急いで書きすぎたみたいだ。
「聞いても」は実際は、いま、そこにある(そこに見える)「石畳」に対して「次におれは何に変えられるのだろう」という質問をする、訊ねる、聞いてみるということなのだが、「聞く」ということばをつかった瞬間、かえってくる「答え」(声、音)を「肉体」が受け止めようとして動く。「聞く」が自然に「響き」を「文脈」として組み込んでしまう。
このときの、なんとも説明しにくい肉体、目(視覚)、耳(聴覚)の「連絡」の仕方--そこに「鍛えられた文体」を感じるのだ。「肉体」とことばをきちんと向き合わせて、どの感覚(肉体の器官)とどの感覚が融合し、入れ替わるのかを、書きつづけながら確かめてきた「歴史」のようなものを感じるのである。
トランスミッションということばを北川がどういう「意味」をこめてつかっているのかわからないが、「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」という二行のなかにある、視覚-聴覚の自然な移行の感じは「伝導・変速(これを変化、と言い換えたい)」を「トランスミッション」と呼びたい感じがする。
--ということから、作品にもどって……。
「トランスミッション」は「魯迅」という実在の人物を「トランスミッション」として利用(?)しているということかもしれない。いわば「視覚-聴覚」の移行、変化のように、「魯迅」(とそのことば)を変速(変化)装置として、この詩の登場人物であるM、O、「第三の男」が行き来するということかもしれない。「魯迅とそのことば」は、いわば三人の(そしてそれ以上の)登場人物たちが出会う「場」なのだ。
「魯迅のことば」を読む。そのとき、三人は出会う。三人以上の人間が出会う。そして、「ひとり」になったり「ふたり」になったり「三人」なったりということを繰り返す。それは「魯迅のことば」を読むことで、ひとは「魯迅」になり、また「魯迅」はだれかになり、さらに「ひとり」にもどるというこかもしれない。
ことばは、いつでも「トランスミッション」なのだ。何かを「変える」装置なのである。そして、それは「時代」をも越える--というか、ことばのなかには、どんな時代でも呼び出すことができる。複数の時代を呼び出しながら、「いま/ここ」がより明確になる。「時代」を呼び出し、そのとき生きていた「人間・思想・ことば」を呼び出し、攪拌する。新しいことばを動かす。
そういう作業を、北川は「頭」ではなく「肉体」としてやっている。「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」という二行のなかに生きている力が、そう教えてくれる。
だから、
という「流通言語」では許されないことばの結びつきも安心感がある。糞溜めは誰が見たって「綺麗」ではないし、大量虐殺が「美しい」というのは倫理的に許されない論理だが、「綺麗」「美しい」ということばでしか伝えられない「絶対的な何か」が北川の「肉体」のなかで起きているから、そう書いているのだと信じることができる。
「頭」ではなく、私の「肉体」が北川のことばを信じてしまう。信じこませる「文体」の力が北川のことばにはある。
「四章 トランスミッション」。
この章には「第三の男」が突然Hになって登場する。MとOは登場しない。「語り手」が誰であるか、よくわからない。
「わからない」ことには、気になることと気にならないことがある。
「四章」の「語り手」(主役、主語?)が誰なのかという問題は、わからないけれど、私には気にならない。すでにこの作品のなかで登場人物が次々に入れ替わるのを見てきた殻かもしれない。その登場人物の「特性(?)」のひとつに、「ひとり」は「ふたり」であり、「ふたり」は「複数」であり、「複数」は「ひとり」であるという運動があることを見てきたからかもしれない。
しかし、それ以上に重要なものがあると思う。「ひとり」は「複数」、「複数」は「ひとり」というような「一元論」の「思想」よりも重要なものがあると思う。「文体」である。
北川の文体。
北川の文体--と書いたあと、どう説明していいかわからなくなるのだが、登場人物(その章の「主役・語り手」)がどんなふうに変わろうとも、北川の文体には一貫したリズムと音がある。このリズムと音の「一貫性」が、複数の人物を支えている。そのリズム、音を通って「ひとり」は「ふたり」になり、「ふたり」は「ひとり」になる。
あ、これでは、なんの説明にもならないねえ。
手がこんなに細くなって
関節やボルトがばらばら外れてしまった
次におれは何に変えられるのだろう
黒く裂けた石畳に聞いても
昔の車輪の響きがするだけだ
(忘れられたルー・シュンは、「狂人日記」を書きつづけている。)
聖書や悲劇を失ったアルミニウムの手は
それでも自分を探している
海底に沈んだ危ない歴史の七曲がりの街道に
サーチライトを向けて
(赤い皇帝に回収されても、ルー・シュンはなお「狂人日記」を書く。)
野草が記憶の喉の奥まではびこっているが……
ことばのリズムと音--その一貫性というのは、ほんとうにむずかしい。音楽の場合、あ、これは誰それのメロディーだなあ、誰それのリズムだなあ、誰それの声(楽器の音)だなあということが感覚的にわかるが、それと同じことが「詩のことば」でも起きる。何らかの「癖」のようなものである。
で、北川の文体。
「手がこんなに細くなって/関節やボルトがばらばらに外れてしまった」というときの「ボルト」の突然の闖入。あるいは「聖書や悲劇を失ったアルミニウムの手は」という一行の「聖書」と「悲劇」の出会い、「失った」ということばがそれを結びつける構造、さらに、先の「ボルト」のように突然闖入する「アルミニウム」という「無意味な音」。そういうことろに、北川の「何か」を感じる。
そして、そういう予想外の存在(もの)を結びつけることばの運動の奥に……。
黒く裂けた石畳に聞いても
昔の車輪の響きがするだけだ
何といえばいいのだろう。この二行のなかの「聞いても」がもっているような「鍛えられたことばの脈絡」があり、それこそが北川の「文体」なのだと感じる。
「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」は「流通言語」に置き換えると、「聞いても」が「邪魔」(独特すぎる)ということがわかる。石畳を車輪が通りすぎていく。そのとき音がする。音が響く。--この二行は、石畳を見ていると、昔、そこを馬車か何かが通り、車輪の音が聞こえた(響いた)ことを思い出す、そういうことしか思い出せないというような「意味合い」を表現しているのだと思う。
「見て-思い出す」という一続きの運動が「聞いても-響きを思い出す」という「動詞」に知らずにかわっている。「見る」が「聞く」にかわっている。「視覚」と「聴覚」が融合し、ひとつの「感覚」と「記憶」になっている。まるで「ひとり」が「ふたり」に、「ふたり」が「ひとり」にかわるように、ある次元で融合し、そこからまた分離してきて動くように。
あ、少し、急いで書きすぎたみたいだ。
「聞いても」は実際は、いま、そこにある(そこに見える)「石畳」に対して「次におれは何に変えられるのだろう」という質問をする、訊ねる、聞いてみるということなのだが、「聞く」ということばをつかった瞬間、かえってくる「答え」(声、音)を「肉体」が受け止めようとして動く。「聞く」が自然に「響き」を「文脈」として組み込んでしまう。
このときの、なんとも説明しにくい肉体、目(視覚)、耳(聴覚)の「連絡」の仕方--そこに「鍛えられた文体」を感じるのだ。「肉体」とことばをきちんと向き合わせて、どの感覚(肉体の器官)とどの感覚が融合し、入れ替わるのかを、書きつづけながら確かめてきた「歴史」のようなものを感じるのである。
トランスミッションということばを北川がどういう「意味」をこめてつかっているのかわからないが、「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」という二行のなかにある、視覚-聴覚の自然な移行の感じは「伝導・変速(これを変化、と言い換えたい)」を「トランスミッション」と呼びたい感じがする。
--ということから、作品にもどって……。
「トランスミッション」は「魯迅」という実在の人物を「トランスミッション」として利用(?)しているということかもしれない。いわば「視覚-聴覚」の移行、変化のように、「魯迅」(とそのことば)を変速(変化)装置として、この詩の登場人物であるM、O、「第三の男」が行き来するということかもしれない。「魯迅とそのことば」は、いわば三人の(そしてそれ以上の)登場人物たちが出会う「場」なのだ。
「魯迅のことば」を読む。そのとき、三人は出会う。三人以上の人間が出会う。そして、「ひとり」になったり「ふたり」になったり「三人」なったりということを繰り返す。それは「魯迅のことば」を読むことで、ひとは「魯迅」になり、また「魯迅」はだれかになり、さらに「ひとり」にもどるというこかもしれない。
ことばは、いつでも「トランスミッション」なのだ。何かを「変える」装置なのである。そして、それは「時代」をも越える--というか、ことばのなかには、どんな時代でも呼び出すことができる。複数の時代を呼び出しながら、「いま/ここ」がより明確になる。「時代」を呼び出し、そのとき生きていた「人間・思想・ことば」を呼び出し、攪拌する。新しいことばを動かす。
そういう作業を、北川は「頭」ではなく「肉体」としてやっている。「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」という二行のなかに生きている力が、そう教えてくれる。
だから、
飢えた者の激怒とルサンチマンの糞溜めは綺麗だ……大量虐殺は美しい……
という「流通言語」では許されないことばの結びつきも安心感がある。糞溜めは誰が見たって「綺麗」ではないし、大量虐殺が「美しい」というのは倫理的に許されない論理だが、「綺麗」「美しい」ということばでしか伝えられない「絶対的な何か」が北川の「肉体」のなかで起きているから、そう書いているのだと信じることができる。
「頭」ではなく、私の「肉体」が北川のことばを信じてしまう。信じこませる「文体」の力が北川のことばにはある。
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