詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石峰意佐雄「いま という」、池田順子「わたし」

2011-06-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石峰意佐雄「いま という」、池田順子「わたし」(「解纜」147 、2011年03月30日発行)

 石峰意佐雄「いま という」は不思議な詩である。私には悪い癖があって、こういう不思議な詩に出会うと、作者が何を考えたか、どう感じたかを無視して自分の考えを追ってしまう。「誤読」に拍車がかかってしまう。「誤読」が暴走してしまう。

いま というものに圧倒される
いま という これは
時間であるのか むしろ
空間であるのか
いま は いま
としかいうことができない

 「いま」は「時間であるのか」。「時間」でしょう。「空間であるのか」。えっ、空間を指して「いま」という表現をするひとはいない。「ここ」ならわかるが、なぜ、こんなことを石峰は書くのか。
 「いま は いま/としかいうことができない」と、石峰は「空間であるのか」という問いを否定してことばを収めているが、変な書き出しである。
 否定されているのだけれど「いま」は「空間ではないのか」ということばが、頭にこびりついて離れない。

悠久の時 があることは識っている
いま を生きながら そのことは
知識としても 思弁を以てしても
認識できる

 「悠久の時」。うーん。私は石峰のように簡単には考えられない。「悠久の時」ということばは知識として知っている。そういう表現があること、そういう表現をつかって言い表したいことがあることがある、ということは知っている。そのことについて考えること、そのことについて、こうやってことばを動かしてみることはできる。けれど「悠久の時」があるかどうかは、実は知らない。
 石峰の「認識できる」とは、私のことばで言いなおすと「考えることができる(考えてみることができる)」にしかならない。
 「いま」は「空間であるのか」という問いには、不思議な力があって(わけのわからない力があって)ぐいと引きつけられるのだが、そのぐいと引きつけられたものが、この連では遠くなる。わけのわからないもの、どうしてこんなふうに考えるのか、ことばが動くのか--という疑問が消え、あ、これはこういうことなんだろうなあ、と私なりに言いなおすことができる。そして、いま書いたように、私はこう考えるという具合に、私の考えを石峰のことばにつきあわせて動かし、石峰の書いていることを私なりに「批判」してみることもできる。
 そして、このときも、あれっ、あの「空間であるのか」という問いは、どこへいったのだろうと疑問に思いつづけている。
 そうすると、3連目。

いま という無限小に他ならないこのときに
他ならぬこのわたしが どうして
生きているのか 不思議だ

 ここで、私はびっくりしたのである。「いま」は確かに「無限小」かもしれない。けれど、この「小さい」を石峰はどんなふうに考えているのか。感じているのか。
 そう考えたとき、ここに「空間」がふいにもどってくるのである。
 --と書いても、ここから先は石峰の考え(感じ)なのか、私が石峰のことばを「誤読」してそう感じているのか、じつは区別がつかないのだけれど。言い換えると、私は私の考えに夢中になってしまって、石峰のことを忘れて、「いま」を「空間」と考えるとはこういうことか、と勝手に考えはじめてしまうのだ。
 石峰は「いま」を「空間」と考えている。「いま」という一瞬が「無限小」ものなら、その「空間」も「無限小」であるだろう。「時間」が小さくて「空間」が大きいというのは、思考の中で一種の混乱を引き起こす。大と小は対極にある、矛盾する「概念」だからである。だから「いま」という「空間」を「無限小」と仮定して、考えを動かしてみる。ことばを動かしてみる。
 そうすると、すぐにつまずく。
 「わたし」、この「肉体」は「無限小」ではない。ある「大きさ」をもっている。この「ある大きさ」をもった存在が、どうして「いま」という「無限小」の「空間」におさまり切れるのか。矛盾している。おかしい。不思議だ。
 石峰の「いま」は「空間であるのか」という問いは、そういう形になって、石峰の思考(思弁)に反逆してくる。「認識」の修正を迫ってくる。
 この思考の変化(思弁の変化)、あるいは認識の変化に「わたし」が「空間」的存在としてかかわってくる--そこに石峰の「思想」の特徴がある、と私は感じる。

意識したときがつねに いま
であるということは
いわば 不思議が必然されている
としかいいようがない
世界は そこでしか開けない

いま このしゅんかん このわたしを以てしてはじめて
世界がとてつもなく広がっている
と感じられる
世界とは ひろがりでしかありえない

 「空間」は「広がり」(広がる)ということばにかわっている。それは私には「意識」の運動としての広がりというよりも「肉体」の延長としての広がりのように感じられる。「世界」を開いていくのは「わたし」なのである。
 この「わたし」は石峰のことばでいえば「意識」なのだが、私がこの「意識」を「肉体」と感じてしまうのは、純粋意識(?)なら、そのとき開いていく「世界」は過去-現在-未来という「時間」の形をとってもいいはずなのに、どうも違うのである。「意識」は過去-現在-未来という広がりよりも、「いま」を起点にして「いまの世界」(いまの空間)へ広がっていくように感じられる。それは「いま」、「わたし」の「肉体」が動きうる場(空間)として「世界」をとらえているように感じられるのだ。
 石峰は「肉体」ということばをつかっていないのだが、どこかに「肉体」が深く隠れている。石峰ふうに言えば「肉体が必然されている」。その「肉体」が峰のことばを動かしている。そう「誤読」してしまう。

いま がなければ
世界は存在しない

いま とはつねに
わたしがなければ存在しない

 最後の「わたし」を「わたしの意識」ではなく、「わたしの肉体」ということばを補って私は読んでしまうのである。1連目に登場した「空間であるのか」という問いは、「わたしの肉体」が必然的にもってしまう「空間領域」が「無限小」の「枠」を突き破っていること、「わたし」が存在するとき「無限小」という概念が必然として破綻するということと深く結びついているのだ。
 矛盾、破綻を必然的に含みながらことばが動く--そこから、世界も始まれば、詩も始まる。



 池田順子「わたし」。この「わたし」は「肉体」をもたない。--というか、「手紙」のことであり、そこに書かれたことば、のことである。

たくさんある
ことばから
ゆっくり
掬うように
ひっぱりだされて
あれこれさわられて
ちがう
みたい

また
もとへとかえされ
捨てられたり
拾いだされたりして
わたしが
できた

 「掬う」という動詞は「手」を思い起こさせる。「掬う」ということばとともに「手」が動きだす。手が「ひっぱりだし」、手が「触る」。
 思考の動きを「比喩」をつかって書いているのだが、「あれこれさわられて」が、とてもいい。ことばを手で触ることはできない。でも、触るのだ。そして、そのときの「触覚」で「ちがう」と感じもするのだ。
 きっとそういうとき、手はことばではなく、「肉体」に触っているのだ。それは「ことばの肉体」なのか、「恋人の肉体」なのか、あるいは「わたしの肉体」なのか--まあ、いろいろ考えられるのけれど、そういうことはいいかげんに(適当に)考えておいて、かっこよく(?)いうと判断保留にしておいて、あ、この「あれこれさわられて」が切なくていいなあ、と思う。
 この「さわられ」る「肉体」は石峰のどこかに隠れている「肉体」とは違って、世界を広げない。むしろ逆だね。広がってしまう世界を「一点」に集める。「無限小」にする「肉体」である。
 切ない--というのは、それが「無限小」であっても、それに触ることができる、そして実感できる、そこからこころが動きはじめるということだね。こんな小さいこと--そこから、こころが動いてしまう。
 恋、だねえ。





詩集 反響
石峰 意佐雄
近代文芸社
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是枝裕和監督「奇跡」(★★★★★)

2011-06-08 09:17:36 | 映画
監督 是枝裕和 出演 前田航基、前田旺志郎

 楽しいシーンがいっぱいあるのだが、一か所、涙が出るくらい笑い転げたところがある。まわりの観客に申し訳ない、と思うくらい笑ってしまった。
 兄(前田航基)が「家族4人で暮らしたい」と夢を語る。その夢を聞いた弟(前田旺志郎)が、その夜夢をみる。離婚の原因が語られる。父親がミュージシャンになる夢を捨てきれず職を転々としている。そのことに対して母親が怒鳴り散らしている。食べ物をぶつけたりする。兄の方は両親の間を取り持つのに懸命である。弟の方は食べることに夢中で自分だけ皿を持ってけんかの場所を離れる。そして、「あんなの(けんかしている家族)、絶対いやだ」という。家族が嫌いなのじゃないけれど、けんかしているのが嫌いなのだ。
 この矛盾--矛盾と言っていいのかどうかわからないけれど、生きるというのは、まあ、こういうことだろうなあ。何にでも好きと嫌いがある。嫌いを受け入れながら好きを優先しているのかもしれない。そこに「嘘」が入ってくる余地がある。--そういう面倒くさいことは、まあ、おいておいて……。と、いいたいけれど、この「嘘」が、ある意味でこの映画のテーマでもあるし、是枝監督のテーマでもあるかもしれない。家族がある。家族がいる。そのとき、そこには「嘘」が入ってくる。それは「必要」なものである。
 最後のシーンが、その「嘘」の美しさ。
 子どもたちの「家出」というか「冒険」。子どもたちは「友達の家で勉強してくる」と言っているようである。その「嘘」はばれてしまっている。兄が家に着くなり、おじいちゃん(橋爪功)に「ばれていない」と聞く。「大丈夫、ばれていない」。それが「嘘」なのだけれど、大人は子どものために「嘘」をつく。そうやって、子どもの「こころ」を守る。
 今か今かと心配で孫が帰ってくるのを待っているおばあちゃん(樹木希林)が、孫の姿に気がつくと待っていたことを隠してぱっと家のなかに引き返す。いいなあ。どこへ行っていたかも聞かない。母親も、子どもの無事を確認したいのをぐっとこらえて顔も見ずに受け答えする。この「嘘」。子どもは大人の「嘘」に守られて「ほんとう」を生きる。そのとき子ども「嘘」をついているのだけれど、その「嘘」のなかには「ほんとう」がある。
 この「嘘」と「ほんとう」の両立は、論理的には「矛盾」になるのだけれど、この「矛盾」が「思想」というものである。「思想」(暮らし)というものは、いつだって「矛盾」を含みながら動いているのである。
 あ、変なことを書いてしまったなあ。
 映画の魅力から、ちょっと遠ざかってしまった。で、映画に、引き返そう。
 是枝監督の映画では「食べる」シーンがいつもおもしろい。いきいきしている。楽しい。最初に書いた夫婦喧嘩のシーンでも食卓である。弟は、ちゃっかり(?)食べることを貫いている。たこ焼きを買って、たこだけ取り出して食べたり、自分で育てたトマトをまるかじりしたり。助けてくれた見知らぬ老夫婦の家で、出前に「馬刺し」があるか聞いたり。それから、かるかんをつくったり。--このかるかんづくりもていねいでいいなあ。ちゃんと山芋を買うところ、グラニュー糖を買うところまで映画にしている。映像化している。材料を買うところ(わざわざ原田芳雄を連れ歩かなくても材料はそろうのだけれど、連れ回すところ)など、いいでしょ? 山芋をすりおろすとき、ただすりおろすのではなく「円を描いて」なんて、ね。食べ物、その「もの」にこだわる感じが。「生きる」というのは「食べる」ことなんだなあ、と見ながら感想が脱線していく。こういう瞬間に、私は映画の至福を感じる。映画に近づいたという感じがする。子ども(子役)がすばらしいので、子どもに視線がひっぱられてしまうけれど、それを支える「背景」(地)としての映画の部分もすばらしい。「地」がしっかりしているから、子どもの表情がいきいきしてくる。
 子どもたちでは--それぞれの「夢」を語るシーンがいいなあ。「脚本」どおりなのかな? 違うだろうなあ。「脚本」もあるけれど、アドリブもある。子どものことばの調子と、顔の表情が、一瞬「演技」の枠をはみだす。映画の完成度(?)からいうと、そういう部分は「正しくない」のかもしれないが、そこが、おもしろい。子どもが「役」を演じている--というのを、見ていて忘れる。あ、「ほんとう」を語っていると思う。その「ほんとう」により近づけるために、主役の二人もアドリブで対応する。(二人には、いや、ほかの子どもたちにもまあ、基本的な展開は与えられているだろうけれど)。カメラの前で子どもが自分の夢を語る--そういう「ドキュメント」風の手触り(てれや、困惑をふくんだ正直さ)が、なかなかいい。こういう「なま」を見てしまうと、そこで展開される「嘘」(脚本の世界)が「嘘」ではなく、「ほんとう」になる。子どもたちの「ほんとう」の肉体が全体を「ほんとう」に染めてしまう。いや、内側から「ほんとう」へとひっくりかえしてしまう。そこに「映画の力」がある。
 これは「映画」なのだけれど、「映画」じゃない。「映画」を超える「映画」だ。子どもは「演技」をしているのだけれど、「演技」じゃない。「ほんとう」が自然に出てくる。樹木希林の演技とくらべるとわかる。樹木希林は「ほんとう」を演じるという「嘘」をついている。子どもたちは「嘘」のなかで「ほんとう」を隠しきれない。隠しきれない何か、抑えようとしても出てきてしまうものが、スクリーンからあふれてくる。
 「八日目の蝉」の対極にある映画だね。
                     (2011年06月07日、ソラリアシネマ2)


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