詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(5)

2011-06-20 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(5)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「三章 もう一つの「北東紀行」」。
 この章は「おれ」ということばから始まる。

おれはやっと一歩を踏み出した
すでに遠い過去において 境界線を越えていたのも知らずに

 「おれ」が「誰」であるか、わからない。わからないことは、私は気にしない。誰だっていいと思っている。ことばというのは、読む時、それが「誰」であれ、「私」でしかない。この作品に登場するMとかOとか第三の男とか、あるいは書いている北川とか、そういうことは私は区別をしない。それは、すべて私(谷内)である。私の書きたいこと(書こうとしてことばにならなかったこと)が、北川の書いていることばを通して、そこに「ある」というだけである。北川のことばを読みながら、私は私の書こうとして書けなかったことばを読むのである。
 だから、冒頭の「おれ」が、次に「なぜ、わたしはあなたと付き合う気になったのでしょう。」と「主語」が変わっても気にならない。「主語」というのは、変わっていくのものなのだ、と思っている。
 ということは、またあとで書くことにして(書かないかもしれないが)、冒頭の2行にもどる。

おれはやっと一歩を踏み出した
すでに遠い過去において 境界線を越えていたのも知らずに

 ここには「矛盾」がある。「やっと一歩を踏み出した」と「遠い過去において 境界線を超えていた」は「矛盾」する。「矛盾」ということばが適切ではないかもしれないけれど、「いま」が「一歩」なら、「過去」の「境界線を越え」たは何なのか。「境界線」と「越える」という動詞は何なのか。
 「知らず」に越えていた境界線を、「いま」越えたと気がついたということなのか。--少し似ている(?)が違うと思う。たぶん「過去」というのは、「いま」に噴出してくるから「過去」なのだ。「すでに遠い過去において 境界線を越えていたのも知らずに」というのは、ほんとうは、一歩踏み出してみれば「過去に、すでに境界線を越えていた」ということに気がついた。境界線を越えたという過去が、「いま」はじめて見えてきたということなのだ。「知らずに」は「いま、知った」ということなのだ。
 「一歩踏み出す」というのは「いま」から「未来」へ進むことと重なるが、その「一歩」は「未来」へ進むというよりも、「未来」へ「過去」を浮かび上がらせるということなのだ。「未来」へ進むということは「境界線を越えた」という「過去」ヘ進むことなのだ。
 ね、「矛盾」しているでしょ? 変でしょ?

方角は決まっている おれが知らない間に跨いだ境界は
灰と巻貝ではない 爆弾と糞でもない アリンコとモスクワでもない
扇風機と敗北でもない 沈黙と電流でもない 驢馬と裏切りでもない
乱痴気騒ぎの蜘蛛の巣を引き裂いて
まっすぐに線路を東北へ
ひとつの大きな時辰儀に触れる
最果ての地方へ……

 「跨いだ境界」、「越えた境界線」とは何か。ここでは「ない」という否定のことばで語られるだけである。否定と否定の繰り返し。何ひとつ「肯定」されない。そこでは実際に「何を境界線として越えた」のか書かれていない。
 書かれていないのに、書かれていると感じる。書かれていないからこと、書かれていると感じてしまう。否定されているにもかかわらず、灰も巻貝も、爆弾も糞も、アリンコもモスクワも、扇風機も敗北も、沈黙も電流も、驢馬も裏切りも「越えた」のは間違いないのだ。「越えた」からこそ、それは「ことば」として書くことができる。「越えていない」何かは、ことばにはならない。知っていることか、ひとは書くことができない。知っていることしか、ひとは読むことができない。知らないことが書かれている場合は--たとえば、この北川のように、私の体験したことではないことが書かれている場合は、私はそのことばのなかに私の知っていることを探しながら読むのであって、知らないことはいくら探しても見つからない。
 灰、巻貝、爆弾、糞、アリンコ、モスクワ、扇風機、敗北、沈黙、電流、驢馬、裏切り--そういうことばと一緒に生きている「過去」を、「おれ」は「越えた」のである。
 それにしても、この不思議なことばの連結はなんだろう。どこにどんな脈絡があるのか。それは、まあ、北川の個人的な「歴史」に詳しい文献学者が調べてくれることだろう。私は、個人的な歴史を読むということには関心がない。先に書いたように読むのは北川のことばかもしれないが、それは表面的なことであって、実際は私の過去を読んでいる、読むことしかできない。そして、こうした一種の「でたらめ」なことばの動き、脈絡がわからないままに登場してくる「名詞」を読むと、一種の「酩酊」に誘われる。そして、わけがわからないまま、陶酔してしまう。何に?
 前後するのだが、北川は、こう書いている。

幾つものことばなき車輪が飛び交い 巨大なヘルメットの
黒い列車が 襲撃や衝突を繰り返していたのではないか
連結したり 分離したり 横転したりしていたではないか
その度に硬直したり ゆるんだり 引きちぎれたりする韻律の
快楽と怖れに陶酔していたではないか

 「列車」が何を「象徴」しているか--それは、書かない。おもしろいと感じるのは、「列車」が何を語るのであれ、また「衝突」や「連結」「分離」が何を語るのであれ、そのとき、「ことば」はその度に「硬直したり ゆるんだり」する。そして「引きちぎれ」もする。それは、「意味」が破壊され、「無意味」になるということかもしれないが、そういう時にも「ことば」には「韻律の/快楽」がある。「快楽」というのは「恐怖」と表裏一体であり、(つまり、私の愛用していることばで言えば「快楽」と「恐怖」は「矛盾」のなかで固く結びついたもので、分離できないものであり)、その瞬間、ことばは「意味」ではなく「韻律」に酔っているのだ。陶酔しているのだ。「ことば」にはそういう不思議な力がある。「無意味」な「陶酔」を引き出す力が。そして、それはきっと「本能」の結びついているのだと思う。「陶酔」のなかで選び取ることば--それは、本能を裏切らない何か。「過去」よりももっと遠くから人間を動かしている力なのだと思う。

 で、何が言いたいのかというと……。

 灰、巻貝、爆弾、糞、アリンコ、モスクワ、扇風機、敗北、沈黙、電流、驢馬、裏切り--そういうことばをなぜ北川は選んできて書いているか。それは「韻律」の「陶酔」によって選んでいるのである。そのことばに「意味」があるというよりも、そのことばが気持ちいいから書いているのである。「……ではない」「……ではない」と否定を繰り返すだけで、何ひとつ「境界線」そのものを特定することばを書かないのは、「境界線」を特定するものがあったとしてもそれが「韻律」として快感ではないからだ。快感に従って、北川はことばを動かしている。それだけである。
 それだけであるけれど、それ以上でもある。陶酔を引き起こす韻律--そのことばを書く時、無意識に北川は「過去」を掘り起こしている。何が北川の肉体に刻印されたのかを書いてしまう。不愉快なものではなく、何らかの快感のなかで、何かしらの「幻」を見せてくれたことばを書いているのである。「灰」ということばで夢見た何か、「巻貝」ということばとともに夢見た何か……そういう「幻」の「混合体」として「過去」がある。そこには「敗北」「沈黙」「裏切り」というような、ちょっとセンチメンタルを刺激することばもある。

 こうしたことばを引き継いで、「主役」は「おれ」から「わたし」へと突然変化する。「おれ」が選びとることばではなく「わたし」が選び取ることばの「韻律」が動いていくのである。
 そこには「意味」もあれば「無意味」もあるが、私が私を読みとるのは、次のような部分である。私が私の「誤読」を押し付けるのは、次のような部分である。

不思議でした。あなたのことは何も知らないのに、最初から、わたしはあなたの、あなたはわたしの分身でした。一人でありながら、二人の旅。しかも、二人はそれぞれの分身と共にあり、二人は一人でありながら四人、四人は八人、八人は……無数の分身を生み出し、それでも、わたしはあなたの、あなたはわたしの分身だったのです。

 ここでも「ある」は「なる」なのだ。一人は二人に「なる」、二人は一人に「なる」。変化する。「無数の分身を生み出し」ということばがあるが、その「なる」は「生み出す」ということでもある。
 誰かと出会い、ことばをかわす。そのとき、ことばは他人のことばの影響を受けて変わると同時に、その人自身の「過去」から気がつかなかったことばを「いま」「ここ」へ噴出させる。それが「生み出す」ということ。そのことばは、一義的にはそれを発したひとのが生み出したものかもしれないが、他者の刺激がなければ生み出されなかったことばであるから、他者こそがそのことばを生み出した(生み出させた)ということになる。こういうことは、ある出会いが「必然」であればあるほど、強烈に起きる。

一昨夜のわたしたちは姉妹でした。あなたはわたしの可愛い妹。でも、わたしたちは一晩詠み明かした相聞歌の中で、絶えず入れ替わっていました。

 主・客の入れ替わり。主・客を超えた入れ替わり。そういう時も、「ことば」を「主役」にしてみると、そこには「韻律の快楽」が一貫している--と私は感じている。
 北川の書いている詩の「意味」(内容)を私は理解していない。勝手に「誤読」するだけであるが、そのとき、私のなかで起きているのは「韻律の快楽」である。読んでいて、気持ちがいい。「韻律」に「肉体」が反応するのである。「肉体」が勝手に反応して、自分勝手に陶酔し、陶酔も通り越し、「エクスタシー」へと行ってしまう。「自分」ではなくなる。わけがわからないまま、詩集のことばに傍線を引いたりするのである。

麻薬常習者のささくれた表層の文体に変わり、句読点も匂いも失った、

 この部分も、「ことば」というか、他者との出会いとことばの変化、文体の変化のことを書いているのだが。
 うーん。
 「句読点」と「匂い」の突然の出会い。そして「失った」という動詞。
 この「無意味」な美しさ--無意味というのは、単に私には脈絡がわからないというだけのことなのだが--に、私は何度も何度も何度も何度も、そこを読み返してしまう。何もかわらない。何も起きない。でも、大好きなのだ。その部分が。





溶ける、目覚まし時計
北川 透
思潮社



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坂多瑩子「赤い屋根の家」

2011-06-20 11:29:42 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「赤い屋根の家」(「ぶらんこのり」11、2011年06月25日発行)

 坂多瑩子「赤い屋根の家」は、わからないのことろもあるのだけれど、わからないところはわからなくていい--というのが私の読み方なので、わかるところ(勝手に共感するところと言った方かいいのかな)だけ、書くことにする。

年老いた犬がやってきて
私はお前だよというから
違う
おまえは
茶色の毛はすりきれてるし
きたなくて
後ろ足は棒みたいにつっぱっている
あたしじゃないよ
それでも懐かしそうな目をするから
連れてかえってやった
するとたしかにあたしだ
あたしは
あたしが好きでないから
捨ててやろうとおもった
それである日
赤い屋根の家ごと
みんな
井戸にすてた

 「するとたしかにあたしだ/あたしは/あたしが好きでないから/捨ててやろうとおもった」という部分がとても気に入った。
 人間には誰だって「好きな部分」と「好きではない部分」がある。--と、書いて、私は実は、違うと思う。「好きではない部分」というのは、実は、ない。「好きではない」と思っている部分こそ、どうにも捨てられない。ちょうど、この詩の前半に書かれている「年老いた犬」のようなものである。「あたしじゃない」といいたいのだが「懐かしそうな目」で見つめ返してくる。
 この「懐かしい」がいいなあ。
 「懐かしい」とは何だろう。どういう感覚だろう。「よく知っている」ということかもしれない。「よく知っている」を通り越して、自分が知らないことまで知っているということかもしれない。無意識のほんとう、本能のほんとう--とでもいうべきものかもしれない。
 そして、よくよく正直に考えてみると「あたしじゃない」と否定したものこそ、「たしかにあたしだ」なのだ。「なつかしい・あたし」なのだ。それは、「たしか」なことである。
 だから(?)という接続詞でいいのかどうか、まあ、よくわからないが、「懐かしい」と「たしかに」というのは、どこかでつながっている。強引に言ってしまえば、私がさっき書いた「ほんとう」とつながっている。「ほんとう」だから「たしか」なのだ。そしてそれは「ほんとう」だから「懐かしい」。
 それは、ちょっと視点をずらして考えると--あ、「いま/ここ」が嘘である、ということにならない?
 「いま/ここ」が「好き」なふりをしているが、同時に「むり」をしている。「いま/ここ」は「懐かしく」ない。「ほんとう」に思えない。「ほんとう」であり、「たしか」なのは、あの「懐かしい」何かなのだ。
 でも、そんなことは認めるわけには行かない。「いま/ここ」を生きているのだから。「懐かしく」「たしか」なもの、「あたしの・ほんとう」を振り切って「いま/ここ」を生きているのだから。
 だから、そういう「思い」を引き起こすものは、「捨ててやる」しか、ほかに方法がないのだ。

 でも、これって、こういうことって、矛盾だよねえ。どこかが変な具合にもつれあっていて、変じゃない?としか言えない何かだ。

 でも(と私は繰り返すのだ)、だからこそ「ほんとう」なのだと思う。何かを自分のことばで言いなおすと、どうしてもわけのわからないことにぶつかってしまう。どっちが「ほんとう」なのか、わからなくなる。茶色の毛のすりきれて、きたない犬が「あたし」なのか、それともそれをきたないと思っているのが「あたし」なのか。「あたし」が犬ではないという証拠はどこにあるのか。
 もしかしたら、「犬」が「この犬はきたない」と思っている「坂多瑩子」のことを詩に書いているのかもしれない。「ほんとうは犬のおれが詩を書いてやっているのに、自分で書いているつもりになっている。人間って世話の焼けるやつだね」と思っているのかもしれない。--というのは、私のことばの暴走だけれど。

 でも(と、また繰り返してみる)、こうした「矛盾」を正直に書いたことばのなかに、やはり人間はいるのだと思う。矛盾していると感じながら、その矛盾をなんとか潜り抜けようともがく。そこに、詩があるのだと思う。「ほんとう」に触れる一瞬があるのだと思う。


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