詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

財部鳥子「葱嶺まで」ほか

2011-06-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
財部鳥子「葱嶺まで」ほか(「鶺鴒通信」Λ春号、2011年04月08日発行)

 東日本大震災後、どうも私自身のことばへの「好み」がかわってきたように思う。うまく言えないが、いままでと同じようにことばが動いていかない。他人のことばを読んでも、自分でことばを書いても。
 そんな感じで、感想を書こう書こうと思いながら、そのままになっている作品がいくつかある。
 財部鳥子「葱嶺まで」。気にかかったところ、傍線を引いたところがある。

葱嶺にあこがれていたころのわたしは若く
その嶺を黄金が領ずるところとゆめみていた
キルギス人たちは探検記の奥深く陥没し
探検の馬たちは不幸なクサビ形をしていた

それは砂漠の花のかたち 無音に消えるかたち
ふたたび出会わないかたちだ
今日 読んだ先達の詩集のには「私のなかを寂寥が吹きすぎ」
とありその言葉は空想の嶺をはるかに吹いて去った

 ことばの奥に「漢語」のリズムがある。「領ずるところ」というような表現に「漢語」のリズムを感じる。漢語、といっても私は中国語を知らないし、漢文もわかりはしないのだが、簡単にいうと漢字の力(凝縮と解放)を借りてすばやく動く運動、そのリズムをうちに秘めたことば--そういうものを感じるということである。
 「探検の馬たち」という表現にも、同じものを感じる。書いていることはわかる、けれど、そういうことばを「日常」ではつかわない。それは「日常」を超えた(あるいは結晶させた)、「日常」とは別の次元--なんといえばいいのかなあ、一種、非情の世界のことばである。「非情」というのは「情けがない」という意味ではなく、情けを気にしないで動く「自然」(宇宙)のことば、ということになる。
 非情のことば--それはいつでも美しい。美しすぎて、ちょっと困る。その「困る」という感覚が、大震災後、私のこころの奥に揺れている。
 でも、まあ、書いてみるかなあ。どんなふうに私のことばが動くか、それはいままでと同じなのか、ほんとうに違っているのか--それも確かめたいし……。

 この作品のなかで、私が傍線を引いたのは「無音に消えるかたち」という部分である。とても印象に残ったのだ。読んだ瞬間、私は何かを感じたのだ。でも、その感じたことを私はメモしていない。(いつも読んだ瞬間に余白に私は何かを書き込むのだけれど、何も書いていない。)
 これから書くことは、最初に読んだ時の感想とは違っているかもしれない。同じかもしれない。わからない。いま、感じるのは。

無音

 そのことば--そこに、ことばには反して「音」があるという感じだ。「音」がないのではない。「音」は「消えていく音」なのだ。消えていくというのは、そこに存在していた音そのものが消えるというのではなく、この世界から「音」を奪っていくということだ。そして、聞こえてくるのは、その「音」が奪われる時の「悲鳴」のようなものである。
 聞こえないけれど、聞こえる音。--それが無音。
 鼓膜をふるわせる音ではないけれど、鼓膜を通過して(通り越して、超越して?)こころに直接届く音。--それが、無音。
 それは、想像する時にだけ、人間が聞くことができる音、ということかもしれない。
 何か、この想像する時だけ、そこに存在するものがある--という感じが「非情」と通い合うのである。
 「非情」というのは、もしかすると「情けを配慮しない」ではなく、あまりにも「情け」と密着しているために、逆に違ったもの、反対のものに感じられるものなのかもしれない。
 それは「そこにある対象」には存在しない。けれど、それについて何かを思うときの人間のこころのなかに「ある」。その「こころのなか」と完全に一体になっているために、そこにあるかどうか判断する必要のないもの。それが「非情」の「情」である。
 あ、何を書いているか、わからないね。私のことばはこんなふうに暴走する。だから、もとにもどる。考え直す。

無音に消える

 そのとき、「無音」の「音」というのは、そこには存在しない。対象のうちには存在しない。けれど、何かが消えるということを見つめる時、そしてその消えるものを想像する時、それに呼応するようにして「こころ」が聞き取ってしまう「音」にならない「音」、「音以前の音」の--それこそ、「かたち」(姿)、つまり「耳」ではなく「目」で見てしまう何か。
 あ、ますます混乱してくる。

無音

 そのことばとともにあるものを、私は「耳」ではなく、たとえば「目」で見ているのだ。「目」で見ているから、目は音を聞く器官ではないから「無音」と呼ぶしかないのである。けれど、その「音」は「肉体」のなか、たとえば「こころ」という領域では「耳であり目である器官」(目と耳が融合している変な器官)で感じてしまうのだ。
 「非情」に触れると、「肉体」が変化する。「耳」は「耳」のままではいられない。「目」は「目」のままではいられない。人間に対して何の配慮もしない何かに触れるとは、人間の「肉体」に対して何の配慮もしないものに触れるということである。そういう時、人間の肉体は「耳」は「耳」のままではいられない。「目」は「目」のままではいられない。そこにある「不思議」と向き合うために、「肉体」を超えるなにかになる。
 対象が「非情」であるとき人間も「非情」になる。その出会いが、いままで存在しなかった「美」を結晶させる。
 そういう「美」と財部が出会っていると感じる。そして、それは実際の「葱嶺」とは関係がない。(たぶん)。財部は実際の中国(?)の風景ではなく、そのことを書いた「ことば」に触れて、そういう「美」の世界へ旅している。--そこで結晶した「美」。それを、私は美しいと感じたから傍線を引いたのだと思う。いまも、それを私は美しいと思うけれど、いま感じている美しさが、この作品を読んだ時に最初に感じた美しさであるかどうか、わからない。



 財部は馬慶珍の「きりぎりす」を翻訳している。

彼が左右の羽根を打ち合わせてなくときには右羽根の短い箇所が左と揃うのを私は見届けた。先天的な発育不全なのだ。こんな障害を持った虫が、彼の天職を尽くして鳴きやまないのには、まったく感嘆するほかはない。

 この「天職」ということばに、私はやはり傍線を引いている。中国語でも「天職」というのかどうかわからないが、この「天」は「非情」である。「天」は「非情」の代名詞である。「天」(非情)に触れた時、人は誰でもびっくりするのである。
 たぶん、そんなことを私は感じたのだと思う。
 で、この短編のおもしろいのは、その「天職」を観察するうちに、作者の視点が変わっていくところである。

 しかし、彼が障害者の身で職務に忠実だとだけ思ってはならない。

 ということばを挟んで「天職」「職務」が、人間がかってにおしつけたもの、「想像野産物」であることが考察されていくのだが--そして、それにともない「非情」が「情」へと変わっていくのだが、まあ、これは長くなるので引用しない。「鶺鴒通信」で読んでもらうしかない。
 この変化--そこに「葱嶺まで」と同じように、「ことば」が関係していることが、私にはおもしろいと思う。「天職」も「職務」も原文にあることば、つまり馬慶珍のことばなのかもしれないが、「天職」ということばを書かなければ、きっとこの短編は違ったものになるなあと思うのだ。

 この、財部の向き合っていることばの力--それは、大震災の後も同じように動いていくものだろうか。
 書きながら、私は、少し不安なのである。
 私は財部が書いていることばが好きである。好きであるけれど、それをずっと持続したまま動かして行って、どこで大震災後のことばとうまく出会うことができるのか、よくわからない。--わからないまま、ともかく、きょうはこんなふうに書いてみた。




財部鳥子詩集 (現代詩文庫)
財部 鳥子
思潮社



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アトム・エゴヤン監督「クロエ」(★★)

2011-06-14 11:54:20 | 映画
監督 アトム・エゴヤン 出演 ジュリアン・ムーア、リーアム・ニーソン、アマンダ・サイフリッド

 ことばが「妄想」を呼ぶ、ことばから「妄想」が暴走する。まるでフランス映画のような映画だねえ。--しかし、これを、どうやって映像にするか。むずかしいなあ。
 セックスをことばは、いまはどこにでもあふれているので、それ自体は、もはやエロチックですらなくなってしまっている。たとえ、それを「清純」なアマンダ・サイフリッドが口にしても、である。ことばを超えるエロチック、しかも嘘のエロチシズムが必要なのだが、具現化されているとは思えない。アマンダ・サイフリッドの表情にそそられない。あ、これは私が男だから? アマンダ・サイフリッドが誘っているのが女だから? もし、女性から観てアマンダ・サイフリッドが魅惑的なら、この映画は成功しているということになるのだけれど。
 ジュリアン・ムーアは、どうなんだろうか。「妄想」か「現実」--ではなく、彼女にとっては「妄想」が「現実」なのだが、その「妄想」が「ことば」によって引き起こされるのか、それともアマンダ・サイフリッドの姿によって引き起こされるものなのか。ジュリアン・ムーアは、あくまで「ことば」に反応しているけれど、そう? そんなもの? あ、これはさっき書いたことと関係してくるなあ。アマンダ・サイフリッドがどう見えるかということと関係してくる。
 うーん。
 クライマックス。ジュリアン・ムーアとリーアム・ニーソンがパブ(?)で会っているところへアマンダ・サイフリッドが偶然あらわれる。彼女に対するリーアム・ニーソンの態度(表情)からジュリアン・ムーアがアマンダ・サイフリッドの嘘に気づく。--そんなふうに人間の表情に敏感なジュリアン・ムーアが、「ことば」を語るアマンダ・サイフリッドの表情に何を感じていたかが、ちょっとわからない。
 わからないように、隠していた?
 それなら名演?
 自分の容姿に自身をなくし、自分自身にいらだつ感じは、いいなあというか、うまいなあと思うのだけれど。
 ジュリアン・ムーアとアマンダ・サイフリッドの「欲望」のずれ--これは、映画ではなく「ことば」そのもの、つまり「小説」の方がくっきりと表現できたのかも。あるいは、ジュリアン・ムーア、アマンダ・サイフリッドではなく、もっとヨーロッパっぽい(フランスっぽい)役者なら、おもしろかったのかなあ。どうも、二人の「肉体」には不透明さが足りない。つまり、ことばではわからないけれど、視線や触覚、嗅覚、聴覚が引きつけられていくという感じがしない。ほら、小道具に「音楽(聴覚)」「ローション(触覚、嗅覚)」が人間の欲望の奥に動いているということを暗示するものが丁寧につかわれているのにね。脚本家の意図と監督の演出方針、俳優の人間がかみあっていないのかな? ほかの役者で観てみたいという気持ちだけが残った。
                     (2011年06月13日、ソラリアシネマ3)



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