詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(13)

2011-06-28 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(13)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「十一章 対位法 あるいは波間に消えるメモたちの群れ」。
 ことばは不思議である。あることばが動く。そうすると、それにつられて別のことばが動いてしまう。このとき、「ふたつ」のことばにとどういう関係があるのか。「ふたつ」のことばは動くことで「ひとつ」になるのか。そのとき、その「ひとつ」とは何か。「第三のことば」か……。
 「十一章」は、いくつかの「メモ」で構成されている。それぞれの「メモ」同士も、互いに動くことばかもしれないが、ひとつのメモのなかにも、ひとつことばの動きに誘われて動く別のことばがある。
 <溺死シタモノ>という最初の「メモ」。

そんなものものしいバリケードの海に浮いているのは
そらぞらしいウソの約束 吸いかけの煙草 パンの切れ端
そざつなプラン 変色したノート 汚物にまみれた下着や皇室記事
それていく蛇行デモ 割れた頭蓋 薄いコンドームの夢
そんなあぶくのなかで泳いでいて どうするのって聞いたの
そうしたら 向こう岸がある と言うのよ
そんなのあんたたちだけが勝手に見ている夢のカナンでしょう
そんなの剥がれ易いペラペラの緑の半島でしょう と必死に呼びかけた
そんなことすべて分かっている という振りをしながら
そっけなく泳いでいったわ あいつらは

 それぞれの行頭は「そ」ではじまっている。これも、ことばがことばを呼ぶひとつの方法である。互いに「そ」ではじまりながら、ことばが動いていく。「そ」ではじまるということによって「ひとつ」になっている。
 そういう「形式」とは別に、また呼びかけあうことばがある。8行目に「呼びかけた」ということばが書かれているが、ことばは呼びかけうのである。8行目の「呼びかけた」は「わたし」が「あいつらに」呼びかけたという意味であるけれど、そのときことばもことばに対して呼びかけているのである。
 ことばがことばに対して「呼びかける」というのは……。
 たとえば1行目。「バリケードの海」。この「海」は「比喩」である。「バリケードでできた海」(バリケードが延々とつづいて、波のように見え--かな?)、「バリケードで囲まれた海」かもしれない。そのとき「バリケード」って何? ほんもの? それとも「そらぞらしい約束」? そして、その「海」には、ほんものの海に浮いているように、「吸いかけの煙草」「パンの切れ端」が浮いている? そこにある?
 どこからがほんもので、どこからが「偽物」というか、「比喩」なのか、わからなくなる--としたら、そのとき、そのことばとともにあるものは何? たとえば私は「大学闘争」のときの「バリケード」を思い出す。バリケードの内部には何があっただろう。「そらぞらしいウソの約束」があり、「吸いかけの煙草」「パンの切れ端」があっただろう。「ウソの約束」は「そざつなプラン」だったかもしれない。「ウソの約束」は「変色」してしまった。「プラン」は「ノートのなかで変色」してしまった。バリケードの内部に「汚物にまみれた下着」があり、また「皇室記事」が書かれた週刊誌(?)、雑誌、新聞があっただろう。また殴り合い(割れた頭蓋)や、みだれたセックス(コンドーム)があったかもしれない。何もかもがあって、それが「海」だったかもしれない。「バリケード」ではなく、その内部こそが「海」だったかもしれない。
 「比喩」と「事実」が入り乱れてしまう。「比喩」だったものが「ほんもの」になり、「事実」が「比喩」なる。「事実」として語っていることも、受け手が「比喩」として理解し、また別のことばを向き合わせるということがある。
 「そんなあぶくの中で泳いでいて どうするの」
 「向こう岸がある」
 「比喩」としての「泳ぐ」、そのことばが「比喩」としての「向こう岸」を呼び寄せる。そして、そんなふうに「対話」が成り立った瞬間、「比喩」はいったい何なんだろう。「比喩」ではなく、というより、「比喩」を超越した何かになっていないだろうか。「事実」をも超越して「ほんもの」--「ほんとうに考えたこと」(思想)になってしまっていないだろうか。
 --もちろん、こういうことこそ「ウソ」である。
 「ウソ」なのだけれど、それはことばだけが呼び寄せることができる何かでもある。
 これは、めんどうくさい。
 こんな「ウソ」と向き合って、ことばを動かすのは、とても難しい。どうやって、そのことばが「ほんもの」であるか点検するのはむずかしい。
 最初の「ひとつ」のことばは何だったのか。それと正確に向き合った「別のことば(ふたつめのことば)」は何か。そして、その「ふたつ」のことばが出会うことで、動いたことばは、いったい「ひとつ」なのか。「ひとつ」だとしたら、どっちのことばを引き継いでいるのか。「ひとつ」だとして、それがどちらのことばも引き継がす、まったく新しく生まれたことば(第三のことば)ということはありえないか。
 よくわからない。
 だいたい、私の書いているこの「日記」のことば自体が、北川の書いていることばとほんとうに向き合っているのものなのかどうかもわからない。私は北川のことばをよむことから始めた。それは確かだが、最初に向き合ったからといって、向き合いつづけているとはかぎらない。
 でも。
 こういう動きも「対位法」ではないのか。
 「呼びかけ」にしたがおうが、背こうが、何かの動きに反応し、別の動きが始まること--そういう運動のすべてを「対位法」と呼ぶと、拡大解釈になるだろうか。もしそうだとして、拡大解釈すると、何が問題になるだろう。何かいけないことになるのだろう。

 また、脱線・暴走してしまった。
 もっと別な形で詩の「感想」を書くべきなのかもしれない。
 この章では、<関節ヲ折ラレタモノ>という「メモ」も大好きである。

もうおしまいさ!があっちこっちに降って湧いた
長いブーツを履いた雌犬が視界を横切った直後だった
黄葉や爪や毛穴の演奏は止まるところを知らなかった
そこには野狐もいなければ司祭も作動しなかった
排水装置も動かず定点観測も聞こえてこなかった
起こったのは首にテーブルクロスを巻きつけた
おんぼろマネキンのすすり泣きだけだった
長い廊下が日の丸を畳んでステンレスの倉庫に運んでた
脳無しめとわめいたのは支離滅裂なホットケーキだった
あるいは朝鮮人参や雲泥の差や無線のキーボードだった
棲家を失ったモノたちはみな関節を折られていた
赤く腫れた空にだらりと首を垂れてぶら下がっていた

 「長いブーツを履いた雌犬」はある時代の風俗を連想させる。長いブーツを履いた若い女性があふれた時代があった。だが、だからといって、このことばが、その「時代」を要約したものかどうかはわからない。「雌犬」が「比喩」かどうかはわからない。
 「司祭」や「定点観測」は「比喩」なのか。
 この12行のなかには、何が過剰なのか。あるいは何かが省略されているために、その欠如が「過剰」のように見えてしまうのか--わからない。わからないけれど、「司祭」という名詞に「作動しなかった」という動詞がむすびつく瞬間、私は何かを感じる。(私の知っている「統辞法」が激しく揺さぶられ、何かが見えたような気がする。--錯覚だが、それを私は「見えた」と断言したい気持ちになる。)「司祭」と「定点観測」が「呼びかけあっている」ようにも感じる。「ホットケーキ」と「キーボード」の音の響き具合も、「呼びかけ」あうことばというものを意識しないことには納得できない。どんな脈絡があるのかわからないが、私は「ホットケーキ」と「キーボード」は「対」になっていると感じる。「司祭」と「定点観測」が「対」になっているように。
 そして、この「対」--呼びかけ、呼びあう何かがことばを動かすいちばんの力だと感じる。

 「統辞法」と「対位法」は、ことばの運動の「基本」なのだ。

 これでは何を言ったことにもならないのだけれど。感想にはならないし、もちろん批評にもならない。ただ、私は感じるのである。そして、考えたのである。
 この詩集の最初にでてきたM、O、Hという3人の男。それはとりあえず(?)3人であって、ほんとうはもっと多いかもしれない。その3人と北川は会った。つまり、3人のことばと向き合った。それは、それぞれ「ことば」の「統辞法」と向き合うということでもある。向き合ったときから、北川のことばは動きはじめる。「対位法」によって、動いてしまう。北川のことばが動けば、それに反応して3人のことばも動く。そうして、最初のことばというのは、次々に変化して、別なものになる。
 北川は、そういうことばを追っている。書き留めている--書き留めながら、北川自身のことばをさらに更新している。新しくしている。


続・北川透詩集 (現代詩文庫)
北川 透
思潮社
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季村敏夫「今できることから」

2011-06-28 22:17:03 | 詩(雑誌・同人誌)
季村敏夫「今できることから」(「やまかわうみ」創刊号、2011年06月15日発行)

 季村敏夫「今できることから」には「神戸の震災から学んだこと」というサブタイトルがついている。東日本大震災後に書かれたものである。
 季村は阪神大震災の後『日々の、すみか』(書肆山田)というすばらしい詩集を書いた。季村の、その詩集のすごさは、「祝福」という詩のなかに、

出来事は遅れてあらわれた。

 と、正確に書き記したことである。
 阪神大震災が遅れてあらわれた? 冗談じゃない。早すぎた。つまり、予想もしないときに、阪神を襲ったのではないのか。
 だが、季村は「遅れてあらわれた」と書いたのだ。

出来事は遅れてあらわれた。月夜に笑いがまき起こり、その横で顔を覆っている人影が在った。思いもよらぬ放心、悲嘆などが入り混じり、その後、私達のなかで出来事は生起した。

 阪神大震災は、起きた直後には何が起きたかのか誰にもわからなかった。しばらくは、それを語ることばがなかった。ずーっと遅れて、人と寄り添い、語り合い、ことばをかわしているうちに、いろんな感情がゆっくりと共有され、それから「私達のなかで」阪神大震災というものがはじめて起きた。ことばはいつでも遅れてやってくるのである。
 和合亮一は「詩の礫」のなかで

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

と書いたが「事象」を「出来事」と読み直し、「意味」を「私達のなかで生起した・出来事」と読み直すなら、すでに、季村は和合の問いへの答えを書いている。「意味」はある。「意味」とは「笑い」「放心」「悲嘆」がいりまじりながら、それでも「人(人影)」が「在る」ということである。
 この温かく、深く、静かで、強靱な哲学はどうやって季村のものになったのか。季村は、どうやって、それを掴んだのか。
 「今できることから」は、それを、とても静かに語ってる。

 転げまわった。わたしは素っ頓狂だった。どこで、何を、どのようにしていたのか、思い出せないところも少なくない。もうなにも見たくはない。なにも読めない。書きたくもない。どうなったんだオレタチは、どうかゆるして欲しい、突如うずくまってむせび泣く、自分が普通ではなかった。
 ところが妻は、自宅が一部損壊程度ですんだからか、さっさと家を出て避難所に向かっていた。なんと能天気な、いきなり、身のほど知らずの借財を抱えたので、明日の資金繰りや先への不安におびえるわたしには、最初は理解不能であった。
 そんなある日、「お父さん、一度、わたしと出かけてみない」、こう誘われ、妻に従った。長田区と須磨区の境い目の高取中学校の校庭に突っ立つわたしの脳天からつま先まで、激しい電流が走った。電流に刺し貫かれ、がたがたふるえた。ぼろぼろになってもけなげでつましい、じいちゃんばあちゃんの姿に、こちらの方が教えられたからだ。
 こんなことはこれまで、予測もつかないことだった。自分のなかにあるあざとさが砕かれたこと、いうまでもない。校庭にたたずむ姿そのものに、つましさを感じ、なぜこのことをこれまで忘れていたのか。ひとは、こういう姿から何度も立ち上がってきたのだ、そう教えられたのだった。

 季村は、「教えられた」と書いている。「予測もつかなかった」とも書いてる。「なぜ、忘れていたのか」とも書いている。
 ひとは、自分の忘れていたことを、ひとから教えてもらって気がつく。
 ここで季村が書いているのは「つましさ」ということを「教えられた」ということだが、それは「つましさ」だけに終わる「概念」ではない。「つましさ」から始まる人間の力であり、また阪神大震災から立ち上がる力であり、それこそが「遅れてあらわれた出来事」(事象の後、事後の「意味」)である。

 季村は、それを自分で掴んだ、自分でみつけたとは書かない。ここに、季村の哲学の強さがある。「教えられた」とは、その「教えるもの」が季村以外のひと(誰か)のなかにある。「教えられた」と書くとき、季村は、たとえば「つましさ(つましく生きながら立ち上がる生き方)」を、その誰かと「共有」するのである。「教えられたもの」が季村の「忘れていたもの」であるということは、その「つましさ」はかつて誰かと「共有」していたということでもある。この「共有」の「歴史」、「共有」の「時間」--それが人間をさらに強く結びつける。「教えられたもの」の重要さを、「時間」のなかで押し広げるのだ。

 きっかけは、いつも向こう側から訪れる。外部である。わたしの場合、妻であり、妻の友人であり、避難所で出会ったひとびとである。何気ない風の香りや草のそよぎもきっかけになるだろう。映画のあるシーンや絵画からの感動なども。

 「きっかけは、いつも向こう側から訪れる。外部である。」この文章の「向こう側」と「外部」は同じものである。つまり、自分以外から。自分以外のものが自分のなかにあるもの(忘れていたもの)を教えてくれる。それは、かつて人間が「共有」していたもの。そして、これから「共有」していくもの。
 自分で発見したのではなく、教えてもらったと書くとき、季村は「ひとり」ではない。季村の書いている「哲学」は、それが誕生したときから「共有」されている。
 出来事が遅れてあらわれるのはなぜか。
 出来事が「共有」されるのに「時間」がかかるからだ。「共有」されて、はじめて「出来事」になる。
 だからこそ、季村は、次のように書く。

 とにかく外へ、清水の舞台から飛び降りるように飛び出すことだ。顔と顔をつきあわせる場へ。すると身体に訪れるものがある。出会いという波動である。上段に構え、大きなことをおもわない方がいい。自分にできる場所から、おもむろに外へ出る一歩を。いつもの通りに淡々と、いつもより少し慎ましく。これが、神戸の地震から学んだことである。

 「共有」には「出会い」が必要なのだ。「身体」が必要なのだ。--このことばを、深くこころに抱えていたい。





日々の、すみか
季村 敏夫
書肆山田
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ドロタ・ケンジェルザヴスカ監督「木漏れ日の家で」(★★★)

2011-06-28 09:07:09 | 映画
ドロタ・ケンジェルザヴスカ監督「木漏れ日の家で」(★★★)

監督 ドロタ・ケンジェルザヴスカ 出演 ダヌタ・シャフラルスカ、犬(フィラデルフィア)

 年老いた女性の映画というと「八月の鯨」をすぐに思い出す。「八月の鯨」は姉妹の話だった。「木漏れ日の家で」はひとりで暮らしている。話し相手は犬だけである。
 家はきれいに手入れされているが、古いので、痛んでもいる。それはちょうど主人公の女性の姿でもある。白髪できれいに髪をといている。みかけも、さっぱりしている。それでも体は傷んでいる。病院へゆくのだが、そこの女医の態度にも傷ついている。体もここも傷ついている。彼女には、息子がいるが、頼りにならない。息子は、女性の家を売り飛ばして「資産」を手にしたいと思っている。手ぐすねを引いている。この家をどうするか……をめぐって、ストーリーは進んでゆく。

 この女性の楽しみが「のぞき」というのが、とてもいい。
 静かな郊外の家なので、まわりからひとの話し声が聞こえてくる。しかし、室内での会話までは聞こえてこない。そこで双眼鏡を取り出して、近所の家をのぞいているのである。ただし、双眼鏡といってもそんなに精度のいいものではないので、ひとの表情がくっきりわかるというようなものではない。
 女性は、いわば「間接的」に状況を把握している。この、不思議な「接点」というか、距離のとり方が、この映画をおもしろくしている。成り金がいて、子どもたちに音楽を教えているボランティアのカップルがいる。そのせいで、なかなか「静かな時間」というものももてない。ときには子どもたちも侵入してくる。わずらわしい。
 小さな接触、かぎられた接点で、女性は自分の外で起きていることをぼんやりと知り、そこからまた自分の状態をぼんやりと把握するのである。はっきりしない「ぼんやり」と「ぼんやり」の間を、「ひとりごと」が埋めていく。「ひとりごと」をとおして、女性は、「八月の鯨」の姉妹のように「対話」をするのである。犬を相手に、ぐちをこぼす。その「対話」のなかに、女性の「暮らし」が見えてくる。犬は反論しないし、意見を言わないので(当たり前だが)、彼女の内面はだんだん煮詰まってきて、重たくなってくる。解放されない「うらみ」のようなものが溜まってくる。
 古びた家、カーテンのない窓が女性の外観のありかただとすれば、つぶやかれる「ひとりごと」は彼女の内観をあらわしている。
 映画は、最後の小さな出来事(家を音楽家のカップルにゆずるということ)をのぞいて、たんたんと進むのだが、いま書いた「のぞき」もそうだが、「伏線」がとてもきいている。「外」と「内」が交錯する瞬間を、とても自然に描き出している。とてもいい「脚本」である。
 私が特に気に入っているのは犬の使い方である。食いしん坊である。しつけも完全であるとは言えない。だらしがないところがある。「自由」なところがある。雌犬なので、飼い主の女性よりも、息子の方を気に入っている。息子がくるとべったりと身を寄せている。その犬がある夜、急にそわそわする。
 「どうしたの?」
 女性はベッドから起き出して、双眼鏡を取り出す。隣家に息子が来ている。どうも家を売る商談をしているらしい。家のなかの会話は聞こえないが、息子夫婦が隣家をでてからの会話は聞こえる。そのことばを聞きながら、女性は息子が冷たくて、冷たいと感じていた息子の連れ合いの方がやさしいということ知ったりする。
 この映画のキーポイントが、犬によって、ほんとうに自然に描かれるのである。犬は車の音やにおいに敏感である。女性が気がつかないことも気づく。近くまでやってきたのが大好きな男なら、そわそわして当たり前である。
 最後の家を音楽家のカップルゆずるシーンにも、いろいろな伏線が生きてきている。ピアノの下に隠していた宝石、ゆっくりと紅茶を飲みたいけれどお気に入りの場所まで紅茶を運んでいくと、そのときはもう紅茶は冷めている……など。書きはじめると、長くなりそうなことがたくさんある。

 また白黒の映像がとても美しい。女性の白髪が印象的だし、飼っている犬(ボーダーコリー)の白黒、目が動くとき白目がちらちらする感じもモノクロだからこそという感じで生き生きしている。古びた家の中で、磨かれたガラスの透明感、床に広がる光、そして庭にあふれる木漏れ日も、とても自然である。カラーだと「情報」が多すぎて、静かな感じがしなくなるだろうと思った。
                         (2011年06月23日、KBC2)




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