岡崎よしゆき「睡眠の岸」ほか(「詩誌酒乱」5、2011年04月28日発行)
岡崎よしゆきのことばは「いま」を呼吸しているかどうかわからない。というのは、いいかげんな言い方になるが、「現代詩」でいう「いま」とは違う気がするということである。けれど、「現代詩」と違う「いま」が「いま」ではないかといえば、そんなことはない。ひとそれぞれの「今」がある。だから、これでいいのだ。
岡崎の「いま」が「現代詩」の「いま」と違って見えるのは、岡崎のことばが、「ひらがな」の動詞に傾くからかもしれない。漢字で書かない。そのとき、漢字で把握していたなにかが解体していく。そして、新しく何かが動きはじめる。
「睡眠の岸」の冒頭。
「呼応して」という「漢字熟語」も出てくるは出てくるのだが、全体のことばを印象づけるのはひらがなの動詞である。特に印象的なのは「みどりにおさめている」の「おさめる」、「ゆめのはがれ」の「はがれ」である。
順序は逆になるのだが、「はがれ」から、私の感じたことを書いてみる。
「はがれ」自体は名詞だが、「はがれる」という動詞派生の名詞なので、読んでいると「はがれ」たままのある「状態」ではなく、はがれるという動きにのみこまれてしまう。 「水流がいたいたしいのはゆめのはがれ」と岡崎は書くが、私は読んでいて、無意識のうちに「水流はいたいたしい。水流から(水から水の)ゆめがはがれる」、(そして光っている)と感じるのである。水から水の夢がはがれながら光り、それが流れていくというのは「大事件」である。そうわかっていて、岡崎はそれを隠す。「動詞」を「名詞」にかえることで、動きをおさえ、さらにことばをかぶせて行く。
「なのか」と疑問を持ち込む形でことばの呼吸を乱し(攪乱し、攪拌し)、「風は平行に呼応して、」とここだけ違う漢字熟語の動詞をつかってことばを迂回させ、「みずはみずにとざれれてゆく」とひらがなにもどる。「水(流)」さえもひらがなにもどる。(平行に呼応して、は考え抜かれた漢字熟語だと思う。)
この部分は、水からはがれた夢に、風が平行して動き(川の流れに平行して風が吹き、水の流れる方向へ風が吹きくだり)、はがれる夢をそっと水面におしつける。そういうかたちで水は水の夢とともに流れ、水は水のままである。水の夢だけが、はがれてどこかへ行ってしまうわけではない。--というようなことを書こうとしているのだと思うけれど、「剥がれ」たものが、「閉ざされていく」。「剥がれ」たものが「本体(みず)」にもどって、その表面となって「水」を閉ざすというこの運動--これは、私がいま書いたように漢字まじりで書いた時では、何かが違うでしょ?
「ひらがな」の場合、ことばが「音」のなか解体し、意味が「ぼんやり」してくる。「はがれ」ると「とざす」がまじってしまう。どっちがどっちの運動だかわからなくなる。くべつはもちなんあるのだが、どっちがどっちでもいいような感じになる。「ひとつ」を感じてしまうのだ。夢が剥がれ、水が水に閉ざされるは、水が水であることの「ひとつ」の「ある」なのだ。
「ひとつの、ある」というのは変な言い方であるが……。
この「ひとつの、ある」と、「おさめている」は深い関係にある。
これを、もし「流通言語」に書き直すとどういうことになるだろうか。少年は何らかの痛み(肉体的か、精神的か、それともその両方かよくわからないが)を抱えている。そして「みどり」を見ている。2連目との関係で言えば「みどり」は「なつくさ」かもしれない。もしかしたら、川の水の「みどり」かもしれない。どうでもいいが、ともかく少年は「みどり」を見つめ、そうすることで「痛み」をこらえている。「痛み」が「声」や肉体の動きになって出てしまうのを「肉体」のうちに押さえ込み、「おさめている(収めている、納めている)」。
だが、岡崎は「肉体」のうちにおめめる、とは書かない。「みどりにおさめる」と書く。そのとき、「みどり」と「いたみ」が「ひとつ」になる。「肉体の内側に納めるように」、岡崎は「いたみ」を「みどり」の(内側に)「おさめる」。
「いたみ」と「みどり」が「ひとつ」になり、「みどり」と「肉体」が「ひとつ」になる。その「ひとつ」は、わけのわからないかたちのまま、強くつながって、とけあっている。「ひとつ」として「ある」という状態になっている。
そして、こういう「ひらがな」で書かれた動詞の運動をみていると--あらゆる動詞が「ひらがな」のなかで融合し「ひとつ」になってしまうかもしれないという不思議な印象が浮かんでくる。ことばは「音」だけであり、その「音」が、「ある」ということがら(?)をめぐって動いているという気がしてくるのである。
「ある」--あることの「意味」。「存在論」をめぐって、岡崎はことばを動かしている。それも「漢字熟語」という「借り物」ではなく、日本語本来の、単独の「動詞」(単独のというのは漢字熟語にはつながらない、というだけの意味であるのが……)で語ろうとしているように思える。
「いま」ではなく、「いま」を超える存在論、その哲学を岡崎は書こうとしている。
「おきわすれられている」は「おきわすられて・ある」ということである。「水音」は「いる」という動詞をとらない。「いる」という動詞とともにあるのは人間とか、動物とか、意思をもって動くことのできる存在が、ある「場」を選んで存在すること(あること)である。
岡崎は、ひらがなによる動詞の洗い直しをしてる、そうすることで哲学をはじめているのかもしれない。「文学」ではなく「哲学」へ向かって動いていくことばで書かれている作品ということになるだろうか。
「風の瘧」。その冒頭。
「白磁をこわしながらたい」が何のことかわからないのだが(わからなくても、詩だから、まあ、いいのだ)、「ゆめからはがれおちてゆく」と「おんなはなめらかにほどけてゆく」の「はがれ」ると「ほどけ」るは、おなじ「ある」を目指していると私には感じられる。そして「時間」をひらがなで「じかん」と書いているところから推測すると、岡崎の「ある」から始まる(あるいは「ある」へと到達する)存在論には、「じかん」が重要な要素をもっている。「時間」を「じかん」とひらがなで語れる「場」を目指してことばを動かしているのだろう。
岡崎よしゆきのことばは「いま」を呼吸しているかどうかわからない。というのは、いいかげんな言い方になるが、「現代詩」でいう「いま」とは違う気がするということである。けれど、「現代詩」と違う「いま」が「いま」ではないかといえば、そんなことはない。ひとそれぞれの「今」がある。だから、これでいいのだ。
岡崎の「いま」が「現代詩」の「いま」と違って見えるのは、岡崎のことばが、「ひらがな」の動詞に傾くからかもしれない。漢字で書かない。そのとき、漢字で把握していたなにかが解体していく。そして、新しく何かが動きはじめる。
「睡眠の岸」の冒頭。
半島のはずれ、湿地のむらのいりぐちになびく帆のうちがわで
少年はいたみをみどりにおさめている
なつくさはながれて 川岸をくゆらし とおくに藍ひかってゆく水
流がいたいたしいのはゆめのはがれ なのかと風は平行に呼応して、
みずはみずにとざされてゆく
「呼応して」という「漢字熟語」も出てくるは出てくるのだが、全体のことばを印象づけるのはひらがなの動詞である。特に印象的なのは「みどりにおさめている」の「おさめる」、「ゆめのはがれ」の「はがれ」である。
順序は逆になるのだが、「はがれ」から、私の感じたことを書いてみる。
「はがれ」自体は名詞だが、「はがれる」という動詞派生の名詞なので、読んでいると「はがれ」たままのある「状態」ではなく、はがれるという動きにのみこまれてしまう。 「水流がいたいたしいのはゆめのはがれ」と岡崎は書くが、私は読んでいて、無意識のうちに「水流はいたいたしい。水流から(水から水の)ゆめがはがれる」、(そして光っている)と感じるのである。水から水の夢がはがれながら光り、それが流れていくというのは「大事件」である。そうわかっていて、岡崎はそれを隠す。「動詞」を「名詞」にかえることで、動きをおさえ、さらにことばをかぶせて行く。
なのかと風は平行に呼応して、みずはみずにとざれれてゆく
「なのか」と疑問を持ち込む形でことばの呼吸を乱し(攪乱し、攪拌し)、「風は平行に呼応して、」とここだけ違う漢字熟語の動詞をつかってことばを迂回させ、「みずはみずにとざれれてゆく」とひらがなにもどる。「水(流)」さえもひらがなにもどる。(平行に呼応して、は考え抜かれた漢字熟語だと思う。)
この部分は、水からはがれた夢に、風が平行して動き(川の流れに平行して風が吹き、水の流れる方向へ風が吹きくだり)、はがれる夢をそっと水面におしつける。そういうかたちで水は水の夢とともに流れ、水は水のままである。水の夢だけが、はがれてどこかへ行ってしまうわけではない。--というようなことを書こうとしているのだと思うけれど、「剥がれ」たものが、「閉ざされていく」。「剥がれ」たものが「本体(みず)」にもどって、その表面となって「水」を閉ざすというこの運動--これは、私がいま書いたように漢字まじりで書いた時では、何かが違うでしょ?
「ひらがな」の場合、ことばが「音」のなか解体し、意味が「ぼんやり」してくる。「はがれ」ると「とざす」がまじってしまう。どっちがどっちの運動だかわからなくなる。くべつはもちなんあるのだが、どっちがどっちでもいいような感じになる。「ひとつ」を感じてしまうのだ。夢が剥がれ、水が水に閉ざされるは、水が水であることの「ひとつ」の「ある」なのだ。
「ひとつの、ある」というのは変な言い方であるが……。
この「ひとつの、ある」と、「おさめている」は深い関係にある。
少年はいたみをみどりにおさめている
これを、もし「流通言語」に書き直すとどういうことになるだろうか。少年は何らかの痛み(肉体的か、精神的か、それともその両方かよくわからないが)を抱えている。そして「みどり」を見ている。2連目との関係で言えば「みどり」は「なつくさ」かもしれない。もしかしたら、川の水の「みどり」かもしれない。どうでもいいが、ともかく少年は「みどり」を見つめ、そうすることで「痛み」をこらえている。「痛み」が「声」や肉体の動きになって出てしまうのを「肉体」のうちに押さえ込み、「おさめている(収めている、納めている)」。
だが、岡崎は「肉体」のうちにおめめる、とは書かない。「みどりにおさめる」と書く。そのとき、「みどり」と「いたみ」が「ひとつ」になる。「肉体の内側に納めるように」、岡崎は「いたみ」を「みどり」の(内側に)「おさめる」。
「いたみ」と「みどり」が「ひとつ」になり、「みどり」と「肉体」が「ひとつ」になる。その「ひとつ」は、わけのわからないかたちのまま、強くつながって、とけあっている。「ひとつ」として「ある」という状態になっている。
そして、こういう「ひらがな」で書かれた動詞の運動をみていると--あらゆる動詞が「ひらがな」のなかで融合し「ひとつ」になってしまうかもしれないという不思議な印象が浮かんでくる。ことばは「音」だけであり、その「音」が、「ある」ということがら(?)をめぐって動いているという気がしてくるのである。
「ある」--あることの「意味」。「存在論」をめぐって、岡崎はことばを動かしている。それも「漢字熟語」という「借り物」ではなく、日本語本来の、単独の「動詞」(単独のというのは漢字熟語にはつながらない、というだけの意味であるのが……)で語ろうとしているように思える。
「いま」ではなく、「いま」を超える存在論、その哲学を岡崎は書こうとしている。
(風は困惑しつづけて)
みずおとは
みえないばしょにいつまでもおきわすれられている
「おきわすれられている」は「おきわすられて・ある」ということである。「水音」は「いる」という動詞をとらない。「いる」という動詞とともにあるのは人間とか、動物とか、意思をもって動くことのできる存在が、ある「場」を選んで存在すること(あること)である。
岡崎は、ひらがなによる動詞の洗い直しをしてる、そうすることで哲学をはじめているのかもしれない。「文学」ではなく「哲学」へ向かって動いていくことばで書かれている作品ということになるだろうか。
「風の瘧」。その冒頭。
爪のなかでめざめた。静謐なうずを記帳して 雲がとまどいをかくさない冬の午後に。かたあしの少女はめまいをおぼえて 河川敷の公園でうずくまりあたまをかかえる 死を水石にとじこめていたのをおもいだして透析はゆめからはがれおちてゆく
乳白色にとじこめられたじかんに鬱積をだかして とおざかる空はおりめからしろく封書される 少女のゆびに蔦が生えてからまり (からまりすすみ)白磁をこわしながらたいおんなはなめらかにほどけてゆく
「白磁をこわしながらたい」が何のことかわからないのだが(わからなくても、詩だから、まあ、いいのだ)、「ゆめからはがれおちてゆく」と「おんなはなめらかにほどけてゆく」の「はがれ」ると「ほどけ」るは、おなじ「ある」を目指していると私には感じられる。そして「時間」をひらがなで「じかん」と書いているところから推測すると、岡崎の「ある」から始まる(あるいは「ある」へと到達する)存在論には、「じかん」が重要な要素をもっている。「時間」を「じかん」とひらがなで語れる「場」を目指してことばを動かしているのだろう。