詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大崎清夏「うるさい動物」

2011-06-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
大崎清夏「うるさい動物」(「現代詩手帖」2011年06月号)

 大崎清夏「うるさい動物」は03月11日の東日本大震災を契機に書かれた詩である。たくさんの詩が書かれているが、私には、大崎のこの詩が一番納得がいった--というのは奇妙な言い方だが、とてもこころに響いてきた。書かれていることばにとても正直なものを感じた。

言葉を信じるな
「青い大空」を信じるな
「輝く大地」を信じるな
「希望の光」を信じるな
わたしはうるさい動物である
わたしは絶えずおしゃべりしながら歩行する動物である
わたしの見た光景はわたしにしか語ることができないのではない
あなたの見た光景はあなたにしか語ることができないのではない
言葉は嘘つきで夢見がちだ
臆病で出たがりだ
理想ばかり立派で何にも出来ない
言葉は何の力ももっていない
言葉にできることは何もない
だから、言葉を信じるな

 「言葉を信じるな」が痛切である。
 「わたしはうるさい動物である/わたしは絶えずおしゃべりしながら歩行する動物である」は言い換えると、「わたしは、絶えずことばを発しながら(しゃべりながら)歩行する(歩き回る)動物(人間)である」ということになる。「人間」ではなく「動物」という「比喩」がつかわれているのは、「いま/ここ」にいる「わたし(大崎)」を「わたし(大崎)」は「人間」と感じていないからだ。うるさく、しゃべっていはいるが、その「声」はまだほんとうは「ことば」になっていない。「ことば」を話していない--そういう思いが、大崎に「わたしはうるさい動物である」と言わせているのである。また、この「うるさい」には単に「音」が「うるさい」であるだけではなく、「注文が多い」という意味合いが含まれるかもしれない。
 「言葉を信じるな」と、ことばで書いてしまう。この矛盾。そこに「うるささ」が含まれている。わたし(大崎)は「言葉を信じるな」と書く。そのときことばをつかうのだけれど、そのことばは、まだ信じていいものにはなっていない。疑いを持て、ということかもしれない。そのことばはほんとうのなのか、考えろというのである。
 考える--とは、自分のことばで言いなおすことである。自分のことばで、そこに語られていることを語り直すことである。
 「青い大空」を信じるな--は、ほんとうに空が青く大きいか自分のことばで言いなおしてみろ、ということである。大震災の後、空は「青い大空」ということばと一緒にあるのか。いままで「青い大空」と呼んできたものが、「青い大空」ということばとともにあるか。ない。ないなら、言いなおせ。同じように「輝く大地」も言いなおせ。言いなおせるか。言いなおせない。
 「希望の光」になると、その「言いなおせない」という気持ちはもっと強くなるかもしれない。「希望」も「光」も、うさんくさい。大崎のつかっていることばを借りれば「嘘つきで夢見がちである」。「いま/ここ」にぴったりと重なり合わない。ことばは「いま/ここ」で「わたし」や「あなた」が見たこと以外を平気でことばにしてしまうことができるのである。--それは逆に言えば、「いま/ここ」でほんとうにことばにしなければならないことを、ことばはうまく語れないということでもある。
 ことばは--何度か引用したことを繰り返すが、阪神大震災を体験し、そのことを『日々の、すみか』に書いた季村敏夫のことばを借りれば、「出来事」と同じように、「遅れてやってくる」ものなのだ。「いま/ここ」には、すぐにはあらわれない。「遅れて」やってくる。それまでは、何を語っても「ことば」ではないのだ。
 だから、「言葉を信じるな」は、

「いま/ここで語られている」言葉を信じるな

 という意味である。まだ、それは「ことば」ではないのだ。
 こういうことは、多くの人が「実感」としてもっているものかもしれない。「詩の礫」を書いた和合もまたそう感じていたと思う。まだことばになっていない。でも、黙っていては、ことばはいつまでたっても生き返らない。なんとかしてことばを動かす。そのなかから、ことばはことばの力をもう一度取り戻すことができる--そう信じて和合は「詩の礫」を書きつないでいるのだと思う。これはこれで、正直な動きである。
 大崎は、そういう正直を選ばない。もっと懐疑的である。「いま/ここ」でもことばは動く。「言葉を信じるな」と書くことさえできる。だが、それがほんとうのことばかどうか、大崎は疑っている。「言葉を信じるな」ということば自体、大震災の影響を受けて傷ついたことばかもしれない。悲鳴かもしれない。--よく、わからない。

うるさい動物には二億年前のパンゲアの分裂が見える
一万年前のビルマの洞窟に描かれた炎が見える
四〇〇年前の江戸じゅうの川の汚さが見える
六〇年前に二〇代だった杉山千代の不器用な恋愛が見える
クレーの天使が東京の空の雲間に見える
武蔵野の山あいにカフカの城が見える

 これは「いま/ここ」でことばは、こんなふうに「……が見える」と書くこと(動くこと)ができる。この「見える」は「想像することができる」であり、また「創造することができる」(嘘をつき、夢を語ることができる)でもある。そして、そのとき「ことば」は「わたし」でもある。
 だが、そういうとき、ほんとうにそれは「わたし」であり、また「ことば」なのか。「わたし」と「ことば」の関係は、そういう嘘の関係であっていいのか。それとも、「いま/ここ」で語った嘘(夢/夢想)は、ほんとうに嘘なのか。それは大震災で傷ついたことばの悲鳴かもしれない。いや、傷ついたことばが人間に逆襲してきている激しい攻撃かもしれない。そこには「ほんとう」がある、と言えるかもしれない。そこに語られていることが「嘘」だからといって、嘘の中に「ほんとう」がないとは限らない。ことばが語ることがら(内容)が嘘だからといって、そう語るしかない「苦しみ」が嘘だとはだれにも言えない。どこからどこまでが「内容」であり、どこからどこまでが「思い」なのか--わからない。そんなことは、わかるはずがない。

言葉を信じるな
政治家の言葉を信じるな
デモ隊の言葉を信じるな
病人の言葉を信じるな
先生の言葉を信じるな
おんなの言葉を信じるな
武士の言葉を信じるな
セレブリティの言葉を信じるな
労働者の言葉を信じるな
わたしの言葉を信じるな

 これも、すべて「わからない」と言っているのだ。何もわからないのだ。なぜなら、

世界中のだれもが被災している
世界中のだれもが罹患している
世界中のだれもが発症している
世界中のだれもが感染している
言葉を信じるな

 あらゆるものが大震災の影響を受けている。その影響下にあってことばが動いている。それは、ほんとうのことばなのか。ほんとうは、どこにあるのか。--わからない。わからない。大崎は、ソクラテスのように、わからないとしかいわない。大崎は、代震災後にあらわれたソクラテスだ--と思っていたら、最後にメモが付記されていた。

 言葉は人間がさいしょに被る震災で
す。言葉は人間が毎日受けつづけてい
る暴力です。被災し、暴力をふるわれ
て、黙っていることができずに、赤ん
ぼうは言葉を喋り始めます。誰かの言
葉はそのまま、誰かの被災のかたちで
す。何から何までが「今回の震災」な
のか、わたしはずっと、わからずにい
ます。
 
 わからない。ほんとうに、わからないのだ。「出来事」も「ことば」も、大崎には、まだ「遅れて」さえやってきていない。いつか「遅れて」やってくるかどうかさえもわからない。
 もし、あらゆることが「遅れて」さえやってこないならば、どうすればいいのか。
 「いま/ここ」から、「大震災」へと出かけていかなければならないのかもしれない。




現代詩手帖 2011年 06月号 [雑誌]
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誰も書かなかった西脇順三郎(218 )

2011-06-02 10:03:24 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(218 )

 『壌歌』のつづき。

もうアスの神への祈りも
全くおくれてしまった
人間でないものは神々だけだ
死がないものは神々だけだ
苦しみのないものは神々だけだ

 「人間でないものは神々だけだ」以下の3行は、「意味」はわかるが、その「意味」を中心に考えると、「定義」として奇妙であることに気がつく。「人間でないもの」はほんとうに「神々」だけか。たとえば「動物」「植物」、あるいは水や光。音や匂い。それもみんな「神々」? そうでもいいけれど、ここはやっぱり「神々は人間ではない」を言い換えたもの(言い間違えたもの)と受け止めた方が「意味」として通るだろうなあ。動物は死ぬからね。動物が苦しんでいるのを、私はみたことがある。動物が苦しんでいると思うのは私の錯覚かもしれないけれど。
 で、もし、ここで書こうとしていることが「神々は人間ではない」という定義だとすると、なぜ、西脇はそういう書き方をしなかったか。それは「人間でないものは神々だけだ」という音が自然にでてきたからだ。そして、それにあわせて「……ないものは神々だけだ」という音が「音楽」となって繰り返されたのだ。音が「意味」に優先するのである。
 そして。
 この音が意味に優先するということは、「意味」が生まれはじめると、それを壊すという運動が続くことにもあらわれている。西脇は「意味」が独立して歩きはじめるのを好まない。その歩みを叩き折る。
 「神々だけだ」の後に、詩は、こうつづく。

葡萄のたねをナイル河の中へ
はきだしたあのせつない夏の
昔の旅もはるかにかすむ

 葡萄のたねをはきだすという「人間的な」行為。(私は、葡萄の種をはきだすことはしないのだけれど。)この、あまりにも「肉体的」な描写と「神々」定義--これは、なじまないね。そして、そのなじまないことろが、音楽としておもしろい。
 あ、このことばにはこんな音があったのだ、と驚く。葡萄の種をはきだす--そういうことばさえ、音楽として、詩の中に生きるのである。

またセタガヤのフイフイ教会の
ミナレットにムーエゼンと一緒にのぼり
太陽の沈む時
アラの神にぬかずく人たちを
呼ぶある夕暮れもあつた
それはその後の出来ごととして
よくおぼえている

 「世田谷」は漢字で書いてしまうと「意味」になる。「意味」を解体して、音にしてしまうために西脇は「セタガヤ」とカタカナにしている。
 「よぶある夕暮れもあつた」からの3行は、私はとても好きである。なぜ好きかというと--私は、そのことばを思いつかないからである。書いてあることはわかるし、偶然、そういうことばの順序で言うことがあるかもしれない。「それはその後の出来ごととして/よくおぼえている」というのは、何か聞かれて、そんな具合に説明することがあるかもしれない。でも、書く時、そのことばは出てこないなあ。あ、こういう言い方がある。あ、この言い回しの音のなんと美しいことだろう、と私はぼーっとしてみつめてしまう。あ、こういうことば、このことばそのものを、どこかで自分のものとして書いてしまいたい、とひそかに思ってしまうのだ。



Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社



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