郡宏暢「夏」、ブリングル「そしてお重をあけてみました」(「詩誌酒乱」5、2011年04月28日発行)
郡宏暢「夏」は、「意味」が生まれそうで、生まれない。ことばが完結せずに動いていく。そのくせ、別な場所で「抒情」という「完結」を差し出す。作品のなかにも「別の場所」ということばが出てくるが、「いま/ここ」と「いまではない/ここではない」ものが同時に見つめられている。その「差異」が「抒情」を結晶化させる。
ことばが完結せずに動いていく--というのは「つなぎ合わせれば」、それがどうなるか(どうなったか)が、「動詞」として表現されないということを指して書いたことばである。「つなぎ合わせれば」「別の場所」がどうするのというのだろう。浮かび上がってくる。思い出される、ということかもしれない。その「動詞」を郡は郡自身のなかに隠し、読者の想像にまかせる。
これは一種の罠である。
省かれた動詞、隠された動詞--それを想像するということは、郡の想像力に加担し、その世界へ入っていくということである。
この詩の場合、「別の場所」の「場所」そのものは、結局わからない。「場所」ではなく、その「場所」でしたこと、歩き回ったこと、そして「足先だけを丹念に洗って」眠ったこと--断片的な「肉体」の記憶が書かれるだけである。その「肉体」の記憶を追い掛けながら、読者は(私は)、自分の「肉体」の記憶をたどる。
自分の「肉体」しかことばを確認する手立てがない時、どうしたって、それは「抒情」になる。自分にとじこもる。「丹念」とか「短い」とか、そういうことばとともにある肉体と精神の「ある状態」。
青春というと変かもしれないが、まあ、青春だな。人間というのは、だれでも「いま/ここ」より少し前なら、それは「若かった」と感じ、何歳であろうとそれを「青春」と思いたがるものである。そういうこころの動き--これを、私はおおざっぱに「抒情」と呼んでしまう。
その「状態」のなかで、「肉体」がしようとしてできなかったことを、「哀しみ」でみつめなおす--それを「抒情」というべきか。
あれっ、ついさっき書いたことと、ちょっと違う。
どっちの「抒情」の定義が正しい? もう少し、整理して書けないか……。と自分で自分に問いかけてみるが、
まあ、どっちでもいいのだ。ことばは、その周辺をうろついている。いいかげんにしておいてかまわないだろう。詩、なのだから。
ともかく、ああ、抒情だねえ。抒情詩だねえ、と思いながら、私は郡のことばを追っていく。
ここが、美しい。何が書いてあるか「意味」はわからない。だから美しい。何の裂け目か問わない。ただ「裂け目」という「破綻」に誘われ、手を差し入れる。なかに何があるか。何もない--と詩は「抒情」ではなくなる。柔らかい--つまり、輪郭のはっきりしない不透明なものを引きずり出す。そのときの、不思議な「期待」というか、こころの動きがここに書かれているのだが、その次の
この1行が、あいまいで、とてもいい。「夜」って何? 「裂け目」って「夜の裂け目」だったのか? その「裂け目」が、ひっぱりだしたものによって、「裂け目」ではいられなくなって、完全に破れてしまう。開ききってしまう?
何か、突然、具体的な「肉体」の動き、肉体の(手の)感触から、「形而上学」にかわってしまう。「精神」にかわってしまう。
あ、「抒情」とは「肉体」の不透明さを「精神」のうそっぱち(はったり)で「透明」にしてみせることなんだなあ、透明にできなくても、透明を感じさせる一瞬を浮かび上がらせることなんだなあ、と思う。
「夜が破れる」--この、「比喩」でしか語れない何か、そこに「抒情」が結晶する。でも、その結晶って何?
あ、これは問い詰めてはいけないことがらなのである。詩なのだから、いいかげんにしておけばいいのである。
でもね。
郡は説明してしまう。
詩は(詩のことばは)、以後、「抒情」に塗れて、ちょっと苦しい。
「夜が破れる」は「まどろみ」(1連目では「短い眠り」と書かれていた)が破れるということ--と郡は説明してしまう。「裂け目から/手を差し入れ/柔らかい何かを引きずり出す」というのは「眠りの裂け目から」夢へと「手を差し入れ、柔らかい何か(夢で見ようとした何か)を引きずり出すということであり、夢から夢の何かが引きずり出された結果、夢は破綻し、眠りも覚める。それが「夜が破れる」ということ。
あ、これでは、なんだかうるさいねえ。説明が(意味が)強すぎてしまう。
どこで、郡のことばはおかしくなったのだろうか。「短い眠り」を「まどろみ」と言い換えたときかもしれない。「短い眠り」が「夜」の間は、まだ、想像力を刺激し、読者に(私に)勝手なことを思いを許してくれたが、「まどろみ」で想像力の枠が限定されたのがつまずきかもしれない。「まどろみ」は奇妙に「文語」的なのである。「文学」的なのである。「古い」のである。
で、その「古さ」にひっぱられて、「かつて」という「過去」へとことばが動いてゆく。1連目の「別の場所」は「いまではない/ここではない」だった。「いまではない」は「将来」でもありえるはずだった。けれど、その「いまではない」を2連目で「かつて」(過去)に限定してしまった。
記憶を抱えて、人間は、同時に知らない世界(未来)へと歩いていけるものだが、郡は、記憶を抱えて「かつて」(過去)へ歩いてゆく。そうすると、せっかく、1連目で「完結」を拒んでいたものが、一気に「完結」してしまう。時間は「過去-いま」という「枠」のなかでおさまってしまう。「枠」のなかでおさまってしまうから、せめてもの「暴力」として「抒情」がその枠のなかで暴れる。
「暗いニュース」の「暗い」の、抒情まみれの--なんとも気持ち悪くなる感じ。抒情の念押しがつらいなあ。
この念押しで作品が完成するといえるはいえるけれど--うーん、私は、違う方向へ動いていくことばが読みたかったなあ。「完成」への意識が、ことばをしばりつけすぎているのかもしれない。
*
別な形で、いま書いたことを補足すると……。
ブリングル「そしてお重をあけてみました」。
「計算できないから/感覚的によける」。いいかげんでしょ? 「計算」でしばらないのだ。「計算」(つじつまあわせ)が始まると、せっかく開いた想像力が閉じてしまう。もちろん想像力を硬く閉ざして凝縮し、結晶化してしまえばそれはそれでいいのだけれど、その結晶を「どこで」(いまではない/ここではない、どの別の場所で)ことばにするかが、とてもむずかしい。
ブリングルは、郡のように「完結」をめざさない。ただ、ことばを開いてゆく。そうして、とんでもないところへ出てしまう。
あれっ、メデューサとメビウスって同じ? 間違っていない? でも、いいか。ことばは、間違えるためにある。正解にたどりつくためではなく、正解を叩き壊し、間違いへと突き進むためにある。
ブリングルの書いていることは間違っている。だからこそ、その間違いのなかにある可能性がおもしろいのだ。人間は間違えることができる。それは、そして「間違い」を反省し、正しいことをするために間違えるのではなく、ただ、もっともっと間違えることができるということを知るためにこそ間違えるのである。
郡宏暢「夏」は、「意味」が生まれそうで、生まれない。ことばが完結せずに動いていく。そのくせ、別な場所で「抒情」という「完結」を差し出す。作品のなかにも「別の場所」ということばが出てくるが、「いま/ここ」と「いまではない/ここではない」ものが同時に見つめられている。その「差異」が「抒情」を結晶化させる。
予感
から崩れ始める夏の
刻まれた影をつなぎ合わせれば
ここではない別の場所
夏から逃れ 通り過ぎた場所の
踵の散らばった路地や
陽の差さないベッド
私たちはよごれた足先だけを丹念に洗って
短い眠りにつく
ことばが完結せずに動いていく--というのは「つなぎ合わせれば」、それがどうなるか(どうなったか)が、「動詞」として表現されないということを指して書いたことばである。「つなぎ合わせれば」「別の場所」がどうするのというのだろう。浮かび上がってくる。思い出される、ということかもしれない。その「動詞」を郡は郡自身のなかに隠し、読者の想像にまかせる。
これは一種の罠である。
省かれた動詞、隠された動詞--それを想像するということは、郡の想像力に加担し、その世界へ入っていくということである。
この詩の場合、「別の場所」の「場所」そのものは、結局わからない。「場所」ではなく、その「場所」でしたこと、歩き回ったこと、そして「足先だけを丹念に洗って」眠ったこと--断片的な「肉体」の記憶が書かれるだけである。その「肉体」の記憶を追い掛けながら、読者は(私は)、自分の「肉体」の記憶をたどる。
自分の「肉体」しかことばを確認する手立てがない時、どうしたって、それは「抒情」になる。自分にとじこもる。「丹念」とか「短い」とか、そういうことばとともにある肉体と精神の「ある状態」。
青春というと変かもしれないが、まあ、青春だな。人間というのは、だれでも「いま/ここ」より少し前なら、それは「若かった」と感じ、何歳であろうとそれを「青春」と思いたがるものである。そういうこころの動き--これを、私はおおざっぱに「抒情」と呼んでしまう。
その「状態」のなかで、「肉体」がしようとしてできなかったことを、「哀しみ」でみつめなおす--それを「抒情」というべきか。
あれっ、ついさっき書いたことと、ちょっと違う。
どっちの「抒情」の定義が正しい? もう少し、整理して書けないか……。と自分で自分に問いかけてみるが、
まあ、どっちでもいいのだ。ことばは、その周辺をうろついている。いいかげんにしておいてかまわないだろう。詩、なのだから。
ともかく、ああ、抒情だねえ。抒情詩だねえ、と思いながら、私は郡のことばを追っていく。
裂け目から
手を差し入れ
柔らかい何かを引きずり出す
そのまま夜が破れてしまうのだとしたら
ここが、美しい。何が書いてあるか「意味」はわからない。だから美しい。何の裂け目か問わない。ただ「裂け目」という「破綻」に誘われ、手を差し入れる。なかに何があるか。何もない--と詩は「抒情」ではなくなる。柔らかい--つまり、輪郭のはっきりしない不透明なものを引きずり出す。そのときの、不思議な「期待」というか、こころの動きがここに書かれているのだが、その次の
そのまま夜が破れてしまうのだとしたら
この1行が、あいまいで、とてもいい。「夜」って何? 「裂け目」って「夜の裂け目」だったのか? その「裂け目」が、ひっぱりだしたものによって、「裂け目」ではいられなくなって、完全に破れてしまう。開ききってしまう?
何か、突然、具体的な「肉体」の動き、肉体の(手の)感触から、「形而上学」にかわってしまう。「精神」にかわってしまう。
あ、「抒情」とは「肉体」の不透明さを「精神」のうそっぱち(はったり)で「透明」にしてみせることなんだなあ、透明にできなくても、透明を感じさせる一瞬を浮かび上がらせることなんだなあ、と思う。
「夜が破れる」--この、「比喩」でしか語れない何か、そこに「抒情」が結晶する。でも、その結晶って何?
あ、これは問い詰めてはいけないことがらなのである。詩なのだから、いいかげんにしておけばいいのである。
でもね。
郡は説明してしまう。
詩は(詩のことばは)、以後、「抒情」に塗れて、ちょっと苦しい。
わずかばかりのまどろみは
懐かしい隔たりに満ちたものになっているはずなのに
「夜が破れる」は「まどろみ」(1連目では「短い眠り」と書かれていた)が破れるということ--と郡は説明してしまう。「裂け目から/手を差し入れ/柔らかい何かを引きずり出す」というのは「眠りの裂け目から」夢へと「手を差し入れ、柔らかい何か(夢で見ようとした何か)を引きずり出すということであり、夢から夢の何かが引きずり出された結果、夢は破綻し、眠りも覚める。それが「夜が破れる」ということ。
あ、これでは、なんだかうるさいねえ。説明が(意味が)強すぎてしまう。
かつてこの街を満たしていた暴力のにおいも
いまは立ち去り
色の無い風の通り道となった街路で
誰のものでもない踵を拾い集める夢を見ながら
私も
お前も
暗いニュースが舞い降りるのを待っているのだ
どこで、郡のことばはおかしくなったのだろうか。「短い眠り」を「まどろみ」と言い換えたときかもしれない。「短い眠り」が「夜」の間は、まだ、想像力を刺激し、読者に(私に)勝手なことを思いを許してくれたが、「まどろみ」で想像力の枠が限定されたのがつまずきかもしれない。「まどろみ」は奇妙に「文語」的なのである。「文学」的なのである。「古い」のである。
で、その「古さ」にひっぱられて、「かつて」という「過去」へとことばが動いてゆく。1連目の「別の場所」は「いまではない/ここではない」だった。「いまではない」は「将来」でもありえるはずだった。けれど、その「いまではない」を2連目で「かつて」(過去)に限定してしまった。
記憶を抱えて、人間は、同時に知らない世界(未来)へと歩いていけるものだが、郡は、記憶を抱えて「かつて」(過去)へ歩いてゆく。そうすると、せっかく、1連目で「完結」を拒んでいたものが、一気に「完結」してしまう。時間は「過去-いま」という「枠」のなかでおさまってしまう。「枠」のなかでおさまってしまうから、せめてもの「暴力」として「抒情」がその枠のなかで暴れる。
「暗いニュース」の「暗い」の、抒情まみれの--なんとも気持ち悪くなる感じ。抒情の念押しがつらいなあ。
この念押しで作品が完成するといえるはいえるけれど--うーん、私は、違う方向へ動いていくことばが読みたかったなあ。「完成」への意識が、ことばをしばりつけすぎているのかもしれない。
*
別な形で、いま書いたことを補足すると……。
ブリングル「そしてお重をあけてみました」。
メデューサの蛇さん
憂鬱なうどん
咲きそうで咲かない白木蓮
ばかり
くす玉だよー
めでたいよー
どんがすかどんがすかどんどんどん
こだまをよける
入射角と反射角
計算なんてできないから
感覚的によける
わたしの内側で
乱反射する価値観
よけたりぶつかったり
定まらないけど
プラス思考で
ファンファーレを鳴らす
「計算できないから/感覚的によける」。いいかげんでしょ? 「計算」でしばらないのだ。「計算」(つじつまあわせ)が始まると、せっかく開いた想像力が閉じてしまう。もちろん想像力を硬く閉ざして凝縮し、結晶化してしまえばそれはそれでいいのだけれど、その結晶を「どこで」(いまではない/ここではない、どの別の場所で)ことばにするかが、とてもむずかしい。
ブリングルは、郡のように「完結」をめざさない。ただ、ことばを開いてゆく。そうして、とんでもないところへ出てしまう。
うねる価値観
ぱっくり
傷口がひらく
嘘つきの舌先がちろり
重い口をあけ
ひねり
身をよじらせて
尾っぽを
ぱくんちょと
くわえる
蛇
のみこんで
輪をつくる
メビウスの蛇さん
あれっ、メデューサとメビウスって同じ? 間違っていない? でも、いいか。ことばは、間違えるためにある。正解にたどりつくためではなく、正解を叩き壊し、間違いへと突き進むためにある。
ブリングルの書いていることは間違っている。だからこそ、その間違いのなかにある可能性がおもしろいのだ。人間は間違えることができる。それは、そして「間違い」を反省し、正しいことをするために間違えるのではなく、ただ、もっともっと間違えることができるということを知るためにこそ間違えるのである。
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