詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

郡宏暢「夏」、ブリングル「そしてお重をあけてみました」

2011-06-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
郡宏暢「夏」、ブリングル「そしてお重をあけてみました」(「詩誌酒乱」5、2011年04月28日発行)

 郡宏暢「夏」は、「意味」が生まれそうで、生まれない。ことばが完結せずに動いていく。そのくせ、別な場所で「抒情」という「完結」を差し出す。作品のなかにも「別の場所」ということばが出てくるが、「いま/ここ」と「いまではない/ここではない」ものが同時に見つめられている。その「差異」が「抒情」を結晶化させる。

予感
から崩れ始める夏の
刻まれた影をつなぎ合わせれば
ここではない別の場所
夏から逃れ 通り過ぎた場所の
踵の散らばった路地や
陽の差さないベッド
私たちはよごれた足先だけを丹念に洗って
短い眠りにつく

 ことばが完結せずに動いていく--というのは「つなぎ合わせれば」、それがどうなるか(どうなったか)が、「動詞」として表現されないということを指して書いたことばである。「つなぎ合わせれば」「別の場所」がどうするのというのだろう。浮かび上がってくる。思い出される、ということかもしれない。その「動詞」を郡は郡自身のなかに隠し、読者の想像にまかせる。
 これは一種の罠である。
 省かれた動詞、隠された動詞--それを想像するということは、郡の想像力に加担し、その世界へ入っていくということである。
 この詩の場合、「別の場所」の「場所」そのものは、結局わからない。「場所」ではなく、その「場所」でしたこと、歩き回ったこと、そして「足先だけを丹念に洗って」眠ったこと--断片的な「肉体」の記憶が書かれるだけである。その「肉体」の記憶を追い掛けながら、読者は(私は)、自分の「肉体」の記憶をたどる。
 自分の「肉体」しかことばを確認する手立てがない時、どうしたって、それは「抒情」になる。自分にとじこもる。「丹念」とか「短い」とか、そういうことばとともにある肉体と精神の「ある状態」。
 青春というと変かもしれないが、まあ、青春だな。人間というのは、だれでも「いま/ここ」より少し前なら、それは「若かった」と感じ、何歳であろうとそれを「青春」と思いたがるものである。そういうこころの動き--これを、私はおおざっぱに「抒情」と呼んでしまう。
 その「状態」のなかで、「肉体」がしようとしてできなかったことを、「哀しみ」でみつめなおす--それを「抒情」というべきか。
 あれっ、ついさっき書いたことと、ちょっと違う。
 どっちの「抒情」の定義が正しい? もう少し、整理して書けないか……。と自分で自分に問いかけてみるが、
 まあ、どっちでもいいのだ。ことばは、その周辺をうろついている。いいかげんにしておいてかまわないだろう。詩、なのだから。
 ともかく、ああ、抒情だねえ。抒情詩だねえ、と思いながら、私は郡のことばを追っていく。

裂け目から
手を差し入れ
柔らかい何かを引きずり出す
そのまま夜が破れてしまうのだとしたら

 ここが、美しい。何が書いてあるか「意味」はわからない。だから美しい。何の裂け目か問わない。ただ「裂け目」という「破綻」に誘われ、手を差し入れる。なかに何があるか。何もない--と詩は「抒情」ではなくなる。柔らかい--つまり、輪郭のはっきりしない不透明なものを引きずり出す。そのときの、不思議な「期待」というか、こころの動きがここに書かれているのだが、その次の

そのまま夜が破れてしまうのだとしたら

 この1行が、あいまいで、とてもいい。「夜」って何? 「裂け目」って「夜の裂け目」だったのか? その「裂け目」が、ひっぱりだしたものによって、「裂け目」ではいられなくなって、完全に破れてしまう。開ききってしまう?
 何か、突然、具体的な「肉体」の動き、肉体の(手の)感触から、「形而上学」にかわってしまう。「精神」にかわってしまう。
 あ、「抒情」とは「肉体」の不透明さを「精神」のうそっぱち(はったり)で「透明」にしてみせることなんだなあ、透明にできなくても、透明を感じさせる一瞬を浮かび上がらせることなんだなあ、と思う。
 「夜が破れる」--この、「比喩」でしか語れない何か、そこに「抒情」が結晶する。でも、その結晶って何?
 あ、これは問い詰めてはいけないことがらなのである。詩なのだから、いいかげんにしておけばいいのである。
 でもね。
 郡は説明してしまう。
 詩は(詩のことばは)、以後、「抒情」に塗れて、ちょっと苦しい。

わずかばかりのまどろみは
懐かしい隔たりに満ちたものになっているはずなのに

 「夜が破れる」は「まどろみ」(1連目では「短い眠り」と書かれていた)が破れるということ--と郡は説明してしまう。「裂け目から/手を差し入れ/柔らかい何かを引きずり出す」というのは「眠りの裂け目から」夢へと「手を差し入れ、柔らかい何か(夢で見ようとした何か)を引きずり出すということであり、夢から夢の何かが引きずり出された結果、夢は破綻し、眠りも覚める。それが「夜が破れる」ということ。
 あ、これでは、なんだかうるさいねえ。説明が(意味が)強すぎてしまう。

かつてこの街を満たしていた暴力のにおいも
いまは立ち去り
色の無い風の通り道となった街路で
誰のものでもない踵を拾い集める夢を見ながら
私も
お前も
暗いニュースが舞い降りるのを待っているのだ

 どこで、郡のことばはおかしくなったのだろうか。「短い眠り」を「まどろみ」と言い換えたときかもしれない。「短い眠り」が「夜」の間は、まだ、想像力を刺激し、読者に(私に)勝手なことを思いを許してくれたが、「まどろみ」で想像力の枠が限定されたのがつまずきかもしれない。「まどろみ」は奇妙に「文語」的なのである。「文学」的なのである。「古い」のである。
 で、その「古さ」にひっぱられて、「かつて」という「過去」へとことばが動いてゆく。1連目の「別の場所」は「いまではない/ここではない」だった。「いまではない」は「将来」でもありえるはずだった。けれど、その「いまではない」を2連目で「かつて」(過去)に限定してしまった。
 記憶を抱えて、人間は、同時に知らない世界(未来)へと歩いていけるものだが、郡は、記憶を抱えて「かつて」(過去)へ歩いてゆく。そうすると、せっかく、1連目で「完結」を拒んでいたものが、一気に「完結」してしまう。時間は「過去-いま」という「枠」のなかでおさまってしまう。「枠」のなかでおさまってしまうから、せめてもの「暴力」として「抒情」がその枠のなかで暴れる。
 「暗いニュース」の「暗い」の、抒情まみれの--なんとも気持ち悪くなる感じ。抒情の念押しがつらいなあ。
 この念押しで作品が完成するといえるはいえるけれど--うーん、私は、違う方向へ動いていくことばが読みたかったなあ。「完成」への意識が、ことばをしばりつけすぎているのかもしれない。



 別な形で、いま書いたことを補足すると……。
 ブリングル「そしてお重をあけてみました」。

メデューサの蛇さん
憂鬱なうどん
咲きそうで咲かない白木蓮
ばかり
くす玉だよー
めでたいよー
どんがすかどんがすかどんどんどん
こだまをよける
入射角と反射角
計算なんてできないから
感覚的によける
わたしの内側で
乱反射する価値観
よけたりぶつかったり
定まらないけど
プラス思考で
ファンファーレを鳴らす

 「計算できないから/感覚的によける」。いいかげんでしょ? 「計算」でしばらないのだ。「計算」(つじつまあわせ)が始まると、せっかく開いた想像力が閉じてしまう。もちろん想像力を硬く閉ざして凝縮し、結晶化してしまえばそれはそれでいいのだけれど、その結晶を「どこで」(いまではない/ここではない、どの別の場所で)ことばにするかが、とてもむずかしい。
 ブリングルは、郡のように「完結」をめざさない。ただ、ことばを開いてゆく。そうして、とんでもないところへ出てしまう。

うねる価値観
ぱっくり
傷口がひらく
嘘つきの舌先がちろり
重い口をあけ
ひねり
身をよじらせて
尾っぽを
ぱくんちょと
くわえる

のみこんで
輪をつくる
メビウスの蛇さん

 あれっ、メデューサとメビウスって同じ? 間違っていない? でも、いいか。ことばは、間違えるためにある。正解にたどりつくためではなく、正解を叩き壊し、間違いへと突き進むためにある。
 ブリングルの書いていることは間違っている。だからこそ、その間違いのなかにある可能性がおもしろいのだ。人間は間違えることができる。それは、そして「間違い」を反省し、正しいことをするために間違えるのではなく、ただ、もっともっと間違えることができるということを知るためにこそ間違えるのである。




次曲がります (現代詩の新鋭)
ブリングル御田
土曜美術社出版販売



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六月博多座大歌舞伎(夜の部)

2011-06-12 22:52:05 | その他(音楽、小説etc)
六月博多座大歌舞伎(夜の部)(2011年06月12日、博多座)

 「仮名手本忠臣蔵 七段目 祇園一力茶屋の場」「英執着獅子」「魚屋宗五郎」。
 「仮名手本」の幸四郎はひどかった。芝居のおもしろさは「肉体」のおもしろさである。人間の「肉体」は似ているようで似ていない。動く瞬間、動く限界の位置がそれぞれ違う。歌舞伎というのは肉体の誇張である。ふつうは人間の肉体はそんなふうには動かないのだが、動きを拡大することで、肉体のなかにあることばにならないものを見せるということに特徴があると私は思っているのだが、幸四郎の芝居は「肉体」が動かない。「台詞」だけが動く。台詞でストーリーを説明するだけである。極端に言うと、台詞を言ってしまってから、肉体の動きがそれを追いかけている。これでは小学生の「学芸会」である。緊張して台詞を忘れてしまいそう、忘れないうちにちゃんといわなくっちゃ……と焦っている小学生の学芸会である。
 魁春が、梅玉から、夫は殺された--と知らされ、ことばをなくす場面と比較するとわかりやすい。人間のことばというのは、いつでも肉体から遅れて動く。肉体が先に動いて、それからことばがやってくる。この動きを、幸四郎は先にことばを発してから肉体を動かしている。--まあ、「好意的」に言えば、幸四郎の役は「酔っぱらったふり」をしている、つまり芝居をしている役所なのだから、芝居そのものを演じているということを演じて見せた演技といえるかもしれないけれど。ねえ、そんなばかな、である。
 藤十郎の「英執着獅子」は前半の恋する姫の部分はよかった。手、指先の動きなど、まるで少女である。(口がぱくぱく動いてしまうのは、息がつづかないからなのだろう。まあ、みなかったことにする。)しかし、後半の獅子の踊りはつらいねえ。特に、獅子のたてがみをふりまわすところなど、一生懸命はわかるけれど、それがそのまま動きにでてしまう。たてがみがまわりきらない。腰を中心に上半身がまわらないのだ。芝居というのは役者が苦しい姿勢をしたときに美しく見えるというが、それはあくまで苦しみを隠しているとき。たとえば、姫を演じたときの、腰を落としたままの動き。けれど獅子のように、苦しみが見えてしまうと、なんだかはらはらしてしまう。
 「魚屋宗五郎」は特別すばらしいわけではないと思うけれど、幸四郎と藤十郎がつらかっただけに、菊五郎がかっこよかった。酔っぱらいの感じも幸四郎の酔っぱらいとは大違い。華がある。酔って乱れる。片肌脱いで、裾も乱れて、褌までちらりと見せる。そのとき舞台が活気づくのである。芝居小屋の空気が生き生きしてくるのである。芝居というのは、芝居を見るんじゃない。役者の肉体を見るのだ、ということがその瞬間わかる。よっ払いというのは現実ではみっともないが、それは現実の「人間」が不格好だからである。菊五郎のように色男なら、乱れたところが華となって輝くのである。菊五郎の芝居は、それをみて「人間性」の本質を感じる(人間はこういう存在なのだ、と実感する)ということはないのだが、やっぱりいい男だなあ、色男だなあ、持てるだろうなあと人をうらやましがらせるところがある。役者の「特権」を持っている。と、あらためて思った。



 博多座の観客のマナーは相変わらず悪い。お喋りが耐えない。台詞が始まるまで芝居ではないと思っているのかもしれない。だから「英執着獅子」のように、役者がしゃべらないとき、踊りのときがひどい。ひそひそ声がうぉーんという感じで歌舞伎座全体に広がる。全方向からノイズが聞こえてくる。まいる。


歌舞伎名作撰 白浪五人男 浜松屋から滑川土橋の場まで [DVD]
クリエーター情報なし
NHKエンタープライズ
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誰も書かなかった西脇順三郎(224 )

2011-06-12 09:18:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅱ」の部分。

生存競争は自然の法則で
この生物のたたりは
ある朝ヒルガオの咲く時刻に
十字架につけられなければならない

 書き出しの4行。2行目の「たたり」がおもしろい。「法則」は科学的なことばだが「たたり」は宗教的というか、人間的なことばだ。ふたつのことばが出会うと、そこに違いと同時に何らかの共通性が浮かび上がってくる。この問題をことばをつくして書いていけば「哲学」になるかもしれない。西脇はそういう領域へは足を踏み込まない。実際はいろいろ考察しているかもしれないが、ことばのうえではさらりと駆け抜ける。この軽さがとても美しい。人は--まあ、私がそのいちばんの例かもしれないが、自分が気づいたとも思うことは延々と書きたがる。西脇は考えたいやつは考えればいい、という感じで「ヒント」だけ書くと、さっさと先へ進んでしまう。そこに軽さがある。
 それにしても、この「たたり」はいいなあ。「音」に深みがある。「法則」よりも「肉体」に迫ってくる。「法則」が「頭」に響いてくるのに対し、「たたり」は「肉体」に響いてくる。「法則」が「高尚/聖/純」に対し「たたり」は「低/俗/濁」である。まあ、こんな「分類」は、ようするに「流通言語」の問題にすぎないが……。

太陽は自然現象の一部に
すぎないがいまのところその領域で
人間の存在をたすけている
そういうことは昔セタで
アワモチとショウチュウを飲もうとする
瞬間に微風のようにうららかに
背中をかすつて行つた

 前半の「哲学的(?)」なことばの動きと後半の俗な感じのぶつかりあいが気持ちがいい。「高尚」なのものは窮屈である。「頭」に働きかけてくるからである。この窮屈を西脇は「俗」で叩きこわし、解放する。
 私の読み落としか--私が、無意識的にそうしているのかもしれないが、この逆はない。「俗」を「聖」がたたきこわすという楽しみ(?)は西脇のことばの運動にはない。必ず「聖」を「俗」がたたきこわし、窮屈なことばの運動をたのしい「音楽」に変えてしまう。

 「俗」を「聖」たたきこわす--は、「俗」を「聖」に高める、というのが一般的な言い方かもしれない。--もし、そうだとすると、私が「聖」を「俗」がたたきこわすと書いたことは、ほんとうは「聖」を「俗」に高めると言っていいかもしれない。
 実際、西脇の書いている「俗」は、私の知らない「俗」である。「俗」ととりええず私は書いているのだが、それは書かれた瞬間から「美」、それも「新しい美」になっている。「俗」が「美」に高められている。--この「高める」ということばを西脇が好むかどうかはわからないが、「俗」と思われていたものが、「俗」の範疇から超越して、新しい力を獲得しているのを感じる。
 誰も気がつかなかったその「新しさ」--そこに、西脇の詩がある。

 「セタ」というのは日本の地名である。瀬田か勢多か、もっとほかの文字か、私は東京(たぶん)の地名には詳しくないのでわからないが、西脇の住んでいた地名だろう。それをカタカナで書くことで、いったん「俗(現実、形而下)」から切り離して、ことばを軽くする。そのあと「アワモチとショウチュウを飲もうとする」という突然の飛躍がある。「俗」そのものの噴出がある。
 しかし、それよりもおもしろいのは、

瞬間に微風のようにうららかに

 この行の「うららか」だ。それは冒頭の「たたり」と同じように、「肉体」につよく働きかけてくる。「音」そのものがひとつの世界を持っている。
 その「うららか」の「か」の音の響きを引き継いで、せな「か」を「か」すつていつた、と音が動いていく。
 「太陽は……」のことばは、いわば「哲学」。つまりそれは「頭」のことば。もしそのことばが「肉体」をかすっていくとしたら、それは「頭」をかすっていくはずである。実際、「頭をかすめた」という表現があるくらいだ。ところが、「あたま」では「うららか」の「か」がない。だから、西脇は「あたま」ではなく「せなか」を選んでいるのだが、この「頭」から「背中」への移行が、不思議だねえ。「頭をかすつて行つた」だったらがっかりするくらいつまらないのに、「背中をかすつて行つた」だと途端にたのしくなる。そうか、「頭」も「背中」も同じ「肉体」なのか、「肉体」であることおいて同じなんだという当たり前のことにふっと気がつき、何かしら安心するのである。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
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