詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

文屋順『仕舞い』

2011-06-13 23:59:59 | 詩集
文屋順『仕舞い』(思潮社、2011年06月01日発行)

 文屋順『仕舞い』は私にはよくわからない。たとえば「誰もいない」。

今こうして私自身が
この世に存在していることに
どんな意味があるのだろう
確かなことは分からないが
限りなく続いているこの空間に
何らかの法則があって
常に新しい一日が創られ
それを受け止める私が
かろうじて生きているのだろう

 「意味」ということばが3行目に出てくるが、文屋のことばは「意味」が強すぎるのかもしれない。文屋がことばに託した「意味」があって、それが「誤読」することを許してくれない。つまり、好き勝手に読むことができない。
 これは、私にはつらい。
 私はそこにあることばを、書いた人の意図(こめた意味)とは無関係に読むのが好きなのだ。こんなふうに読めるかな? こういう読み方はどうかな? そう考えるのが好きなのだ。そして、どんなふうにでも好き勝手に読ませてくれる詩が好きなのだ。私がどんなふうに「誤読」しようが、その作品自体が独自の力でいつまでも平然としている--そういう詩が好きなのだ。
 文屋のことばは、どこを叩いてみても、私の好き勝手を許してくれる何かがとびだしてこない。とても固い殻の向こう側に何かがあるのだけれど、その何かとはきっと「意味」なのだと思うのだが--うーん、私は、文屋のようには考えることができないのである。「常に新しい一日が創られ/それを受け止める私が/かろうじて生きているのだろう」という不思議な虚無感(?)、敗北感(?)のようなものは、おっ、不思議。こんなことばは知らないなあ。とことん突き動かして、ねじ曲げてみたいなあと思わないわけではないのだが、それに先だつことばが私の考えを完全に超えていて、何が書いてあるのかわからないのだ。

限りなく続いているこの空間に
何らかの法則があって
常に新しい一日が創られ

 この「空間」とは何? 「世界」なら、まだなんとなくわからないでもないけれど「空間」とは何? 空間のなかに法則があり、それが一日を創る? 空間が「一日」という「時間」を創る?
 どうも文屋の「空間」は、私の考えている「空間」とは違う。違いすぎて、何のことかわからない。--いいかえると、文屋は「空間」に私の知らない「意味」をとても強い形でとじこめていて、その強固さの前で、私は動けなくなるのである。
 「空間」を「世界」と読み替えていいのかどうか。あるいは「宇宙」? それとも「神」? 私は神の存在を信じているわけではないが、「この空間(宇宙)」のどこかに「神」がいて、それが「新しい一日を創る」という言い方なら、まあ、聞いたことがあるような気がする。でも、「空間」が「新しい一日を創る」というのは、見当がつかないのだ。
 さらに、なんとなくわかるような気持ちになれそうな「それを受け止める私が/かろうじて生きているのだろう」も、考えはじめると、「空間」の前で再びつまずくのだ。
 「新しい一日」って何? 空間が創り出すものなら、その「一日」は「空間」にならない? 「空間」が「空間」以外のものを創り出せる? もし、創り出すとしたら何を? わからないまま、そうか、文屋は「一日」を「新しい空間」と考えているのか、と思うのだが……。
 とっても、変。
 2連目は、次のように展開する。

古いものを大切にして
前衛を好まず
いつも私の周りで
次々に起きる大きな波に
すっぽり飲み込まれないように
細心の注意を払う
息切れた明日がやってきても
もう驚かなくなった

 「古いもの」「前衛」。あ、これは「空間」ではないね。むしろ「時間」。「歴史」。そして「時間の断絶」。どうも文屋は「時間」を「空間」と呼んでいるように思える。
 「時間」を「空間」と考えるのは、その「時間」が「大きな波」となって文屋を「すっぽり飲み込」むからかもしれない。「大きな」と「すっぽり」という感覚が(印象が)、「時間」を「空間」のように広がったものであると感じさせるのかもしれない。
 「時間」の「意味」は、人間を飲み込む「巨大な空間のようなもの」ということになるのかな?
 「この世」、つまり「いま」という「時間」は「空間」となって「ここ」に広がっている。そして、その広がりのなかから、いつも新しい「時間」が「空間」のように広がりをもって生まれ、私(文屋)を飲み込もうとする。その広がりの一形式に「古い」がある。また別の一形式に「前衛」がある。私(文屋)は、そのどちらにも飲み込まれないようにして、「きょう」の次の「新しい一日」、つまり「明日」を迎えるのだが、あらゆる「空間」に飲み込まれないように注意をはらっているので、それがどんな「広がり(大きさ)」であっても驚かない。
 あ、つらいなあ。こんなふうに、なんというのだろう、「肉体」とは無縁の「頭」のなかのことばを追い掛けるのは、つらいなあ。「意味」の、次から次へと押し寄せてくる攻撃に向き合っている感じがしてくる。
 ちょっと「意味」を弱めてくれない? 詩なんだから「いいかげん」に読んでもいいようにしてくれない?
 なんだか怖いのである。

 そして、この文屋のことばの運動が、まったくどうなっているのかわからないのは、いままで読んできた2連に対して、次のことばが続くからである。

しばらく無音が続いた後
長い間閉ざされていた心の反射板に
甲高い鳥の声が響いてきて
急に賑やかになる
いつの間にか無口な私が
お喋りに夢中になっている

誰もやって来ない
誰もいない
客の少ないローカル線の無人駅で
紅葉の映える山をしみじみ眺める
田んぼには冷たい空気のなかで
置き去りにされたまま
じっと耐えている案山子がいた

 「しばらく無音が続いた後」というのは「時間」だねえ。「長い間」というのも「時間」だねえ。
 「時間」は「空間」だったはずなのに、「時間」にもどっている。
 そうすると、「空間」は?
 「空間」にもどる。「限りなく続いているこの空間」というのは、誰もいない(つまり、空間を邪魔する人間がいない、「古い」とか「前衛」とか、「いま」とは違う「時間」を持ち込む人がいない)空間--田舎の、無人駅の、「空気」にあふれた「空間」。
 そこで文屋は文屋を「置き去りにされた/案山子」と思う。案山子を自己同一視する。そして、1行目へもどるのだ。「今こうして私自身が」案山子のように、置き去りにされてこの「空間」に存在していることにどんな意味があるのか、と問いかけてみるのだ。

 何か、よくわからない。
 この私の読み方はきっと「誤読」なのだろうけれど、この「誤読」にはちっとも楽しみがない。こんなに間違えることができるという喜びがない。ことばを読んで、遊ぶ喜びがない。--いや、これは、私が単に文屋のことばで遊ぶことができないというだけのことなのだが……。
 わからない、ではなく、「怖い」といった方がいいのかもしれない。
 「鬼の歌は歌えない」の1連目。

じわじわ追い詰められる毎日の
何気ない言葉の先端に
ふと立ち現われる醜い動きが
私の心を少しずつ毀していく
まだ何も見ていない
未知の人間性の彼方に
埋もれている貴重な原石を掘り起こして
輝き始めるまで丹念に磨いている

 「まだ何も見ていない/未知の人間性の彼方に/埋もれている貴重な原石」。これが、怖い。いろんなものを見てきた人の、その肉体のなかに沈んでいる原石なら想像できるが、まだ何も見ていない--つまり、「この世」に汚染されていない「未知の人間性」というような、純粋抽象的な「意味」が、あらゆる「誤読」を拒絶しているようで、私は立ちすくんでしまうのである。
 この「意味」だらけのことばの塊は、いったい何だろう。



仕舞い
文屋 順
思潮社



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