詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アブデラティフ・ケシシュ監督「アデル、ブルーは熱い色」(★★★★)

2014-04-07 10:01:15 | 映画
アブデラティフ・ケシシュ監督「アデル、ブルーは熱い色」(★★★★)

監督 アブデラティフ・ケシシュ 出演 アデル・エグザルコプロス、レア・セドゥー

 アデルを演じたアデル・エグザルコプロスが非常にいい。みとれてしまう。感情の動きが、まるで本能のように美しい。(というのは、変な日本語か……。)強くて、どんな批判もはねのけて輝く。悲しむときさえ、それが剥き出しの悲しみであるので、美しい。だれでも味わう悲しみなのに、まるではじめての悲しみのように、それを表現することばがない。そういう美しさがある。

 大胆なセックスシーンが話題になっているけれど、セックスというのは余りにも個人的なものであって、他人にはわからない。(私には、美しいシーンかどうかわからない、というべきなのか。)その前と、そのあと、その感情がどれだけ濃密に表現されるかによって、セックスシーンの美しさが変わる。感情が濃密なら、官能も濃密に見えてくる。
 アデルがボーイフレンドとセックスする。そのシーンと対比するとわかりやすい。アデルはボーイフレンドとセックスしたあと「何か違う、何か求めているものと違う」というような、うつろな表情になる。物足りない、という顔つきになる。そのためにボーイフレンドから「よくなかったのか」と聞かれたりもする。「よかった」と答えるけれど、満足していない。うれしい、という感じがない。
 これと対照的なのが、アデルの家でのセックス。両親に声を聞かれないように、ときには口をふさぎながらセックスする。本能はどこかで抑制されている。でも、とても満足している。そして、そのあと「両親は私達が同じベッドで寝ていると知らない」と語りながらくすくす笑う。まるでティーンエイジャーがはじめてセックスしたような、というより、いっしょに秘密の旅行か何かをしているような、無邪気な表情になる。あどけない。これがすばらしい。純粋というのは、こういうことか、とびっくりする。
 セックスにのめりこむ、と書くとちょっと違う。いや、かなり違うなあ。セックスを発見する。自分を発見する、というのが近いと思う。相手にひかれて、同時に相手をひきつける。そのひかれていく自分も、ひきつける自分も、それまではっきりとはわからなかったアデルである。セックスすることによってアデルはアデルになっていく。それをアデルは、自分の視線で、自分の手足をながめるときのようにアップでみつめつづけている。監督が、カメラマンが、あるいは観客が見ているセックス(描写)ではなく、アデルが彼女の肉眼で見ているセックスなのである。ほんとうにほしいものを探しつづけるセックス。そこには「客観的」というものはない。ないのだけれど、それが「主観(欲望/本能)」であると主張することで、主張そのものが「客観」にかわってしまう。言い換えると「本能(欲望)」であるとはっきりわかるから、それを「主観」と批判することの意味がなくなる。主観以外の欲望や本能というものはない。欲望や本能以外のものは「嘘」である。虚偽である。主観だけが真実に触れているのだ。
 へえええ、こんな撮り方があったのかと度肝を抜かれる。大胆なセックスシーンに驚いていると、監督の主張の正確さを見落としてしまうことになる。湿布の連続の影像が抱え込む視線の主張を見落としてしまう。アップは、そのままアデルの肉体の距離、他者とアデルの肉体の距離である。アデルが他者に近づき、近づいた他者をとおして自分を見つける。他者のアップは、いわばアデルの鏡に映った姿なのである。アデルはしきりに髪を整えなおすが、そのとき実際の鏡を見ない。自分のからだは自分の手でさわるから「わかる」。「もの」として鏡をアデルは必要としていない。必要なのは、彼女を映してくれる他者という肉体なのだ。
 アデルは、自分の内側から自分をみつめている。自分にわかること、できることをしっかりとみつめ、他人が外からながめるアデルに合わせる(迎合する)ということがない。それがくっきりとあらわれているのが職業の選択である。先生になる。画家である恋人は、アデルに対して才能があるのだから文章を書いたらいいのに。好きな文章に携わる仕事をすればいいのに、と勧める。(恋人は、アデルも芸術家であってほしいのだ。)けれどもアデルは、それは自分の本能ではないと自覚していて、文章を書くことを仕事としては選ばない。ここには育ってきた家庭環境も影響しているかもしれないが、それ以上に、自分をみつめるという「癖」が彼女の本能なのだ。
 だから(と、言っていいのか……)、アデルは自分の「さびしさ」も見つけ出してしまう。恋人の関心が芸術に向かっていて、自分から遠ざかるとき、不思議なさびしさを見つけ出してしまう。いっしょに暮らしているのに何か距離感を感じる。そのさびしさをまぎらわすために、学校の同僚とデートし、セックスもしてしまう。自分を発見しつづけるからこそ、アデルはどんどん変わっていく。この激しい変化をアデル・エグザルコプロスは非常になまなましく再現している。演技しているというよりも、アデルという役をそのまま生きている感じがする。演技を見ているというよりも、現実の生活を見ている感じになる。影像(スクリーン)という間接的なものを見ているのではない。アデルが自分を発見するように、私はアデルに出合い、アデルを発見している。発見してしまうと、アデルが自分の知っている人間に、さらにそれを超えて自分に見えてくる。恋をしたときの自分の不安やわがまま、おろかさ、それやこれやのあれこれが、肉体の奥からよみがえる。
 映画は女性の同性愛を描いているのだが、「女性の同性愛」という部分がアデルのなまなましい本能によって、たったひとつの恋愛に高められているのだ。アデルの恋愛というきわめて個人的な(主観的な)ものを描くことで、逆にそれが普遍になってしまっている。それが絶対的な恋愛(純粋な恋愛)であるからこそ、アデルが自分に見えてくる。

 この映画の特徴はアップの多用のほかに、時間の説明がきわめて不親切である。アデルは最初高校生である。その後、幼稚園の先生になり、こどもの成長に合わせるように小学校一年生の先生、二年生(?)の先生というように成長していく。しかし、そのときの「時間」の経過がよくわからない。あっという間に一年がすぎている。
 これは、しかし、あえてこういう具合にしているのだろう。
 人に出会い、恋をして夢中になり、行き違いがあり、わかれる。そのあいだに人間は成長していく。様々なことを「わかる」。それは一週間のときもあれば五年のとき、あるいは五〇年のときがある。「時間」を時計(歴史?)ではかっても意味はない。気がつくべきなのは、恋愛をして人間は成長するということである。成長するとき、「時間」は肉体のなかにのみこまれ、消えてしまう。私たちは肉体のなかから「時間」を取り出すのではなく、その瞬間瞬間の、気持ちを取り出す。おぼえているのは、わかっているのは、「時間」の長さではなく、自分の気持ちである。肉体である。
 恋愛に「時間」はない。だから、人間はいつでも恋愛をする。そして変わっていく。

 恋愛以外のシーンも、すばらしい。特に食事のシーンがいい。アデルの家ではパスタを食べるのだが、その食べ方が、非常になまなましい。恋人の家でカキを食べるときの様子とはまったく違う。大きな鍋にパスタがあって、それを「おかわりある?」と聞きながら、だらしなく(?)食う。口に入るだけをフォークで丸めてというのではなく、一口で食べれないものはずるずるとすすり込んで食べる。カキを食べるとき、「生きているカキでないとだめ、ほらぷるぷる動いている」というような講釈はない。それはある意味では、美しいとはいえないシーンだが、そこに肉体がある。アデルの、口をだらしなくあけて眠る顔も、美しくはないが、そこに肉体の本能がある。
 補足になってしまうが、アデルの肉眼として動くカメラは、他者の視線をしっかりとらえてからみつきあう。これもおもしろい。アデルは、恋人の家へ行っても展覧会へ行っても、全体を見渡すということはしない。視線が動くのは、恋人に対してと、恋人の視線がどこをみつめているかを追うときだけである。
                 (t-joy 博多5番スクリーン、2014年04月06日)


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(16)

2014-04-07 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(16)          2014年04月07日(月曜日)

 詩とは矛盾である。矛盾したことばになってしかあらわれることができないものが詩である--とあらためて思う。
 「憧れ」は、おそらく若い男の恋人にささげられた詩。

年をとる前にみまかった美しい死体。
涙ながらに 贅を凝らした廟の壁龕に納められ、
頭の傍らにバラ、足元にジャスミン。
それはそっくり--、
満たされずに終わった憧れ、
一夜の悦びも、光まばゆい翌朝も授からなかった憧れに。

 「美しい死体」ということば自体が、すでに矛盾している。死んでしまったものにとって「美しい」は意味がない。中井久夫が「遺体」ではなく、「死体」という冷たいことばを選んで訳しているのは、そういうことを知っているからであろう。絶対的な断絶は、「遺体」というようなことばの表面の「思いやり」では埋めつくせない。
 この詩の矛盾は、その「死体」と「憧れ」の出合いにある。
 「憧れ」は名詞で書いてしまうとぼんやりしてしまうが、「憧れる」という動詞にするとわかることがある。生きているものしか憧れることができない。生きているから、憧れる。そしてその「憧れる」は「欲望する」に似ている。似ているけれど、違う。どこが違うか。「憧れる」はけっして手に入れることができないものに対してあこがれる。「欲望する」はそれを手に入れてしまう。手に入れてしまえば「憧れ」は消えてしまう。
 手に入らないからこそ、美しい。死んでしまった肉体--それは手に入れることができなかったからこそ美しい。「満たされずに終わった」は欲望が実現せずに終わったという意味だが、だからこそ永遠に美しい。
 「一夜の悦び」「光まばゆい翌朝」はふたつのことばで書かれているが「ひとつ」のことである。

 この詩では、そういう矛盾の結合とは別に、四行目の「それはそっくり--、」が絶妙な訳だと思う。副詞で終わっている。用言がない。(体言でもいいのだが、つながることばがない。)ここでは、たぶん、そっくり「である」、とても似ている、という意味なのだが……。
 この「そっくり」のあとのことばを省略して、「憧れ」の二行がやってくる。突然、やってくる。このスピード、切迫感が、カヴァフィスの「美しい死体(男)」に対する思いの強さを浮き彫りにする。「そっくりである」では間延びしてしまう。倒置法も効果的だ。「憧れにそっくり」という具合に、最後に「そっくり」を持ってくると、「そっくり」と思っている気持ちが遠くなり、あいだにはさまったことばがきざったらしく宙に浮かんでしまう。余韻がなくなる。
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