アブデラティフ・ケシシュ監督「アデル、ブルーは熱い色」(★★★★)
監督 アブデラティフ・ケシシュ 出演 アデル・エグザルコプロス、レア・セドゥー
アデルを演じたアデル・エグザルコプロスが非常にいい。みとれてしまう。感情の動きが、まるで本能のように美しい。(というのは、変な日本語か……。)強くて、どんな批判もはねのけて輝く。悲しむときさえ、それが剥き出しの悲しみであるので、美しい。だれでも味わう悲しみなのに、まるではじめての悲しみのように、それを表現することばがない。そういう美しさがある。
大胆なセックスシーンが話題になっているけれど、セックスというのは余りにも個人的なものであって、他人にはわからない。(私には、美しいシーンかどうかわからない、というべきなのか。)その前と、そのあと、その感情がどれだけ濃密に表現されるかによって、セックスシーンの美しさが変わる。感情が濃密なら、官能も濃密に見えてくる。
アデルがボーイフレンドとセックスする。そのシーンと対比するとわかりやすい。アデルはボーイフレンドとセックスしたあと「何か違う、何か求めているものと違う」というような、うつろな表情になる。物足りない、という顔つきになる。そのためにボーイフレンドから「よくなかったのか」と聞かれたりもする。「よかった」と答えるけれど、満足していない。うれしい、という感じがない。
これと対照的なのが、アデルの家でのセックス。両親に声を聞かれないように、ときには口をふさぎながらセックスする。本能はどこかで抑制されている。でも、とても満足している。そして、そのあと「両親は私達が同じベッドで寝ていると知らない」と語りながらくすくす笑う。まるでティーンエイジャーがはじめてセックスしたような、というより、いっしょに秘密の旅行か何かをしているような、無邪気な表情になる。あどけない。これがすばらしい。純粋というのは、こういうことか、とびっくりする。
セックスにのめりこむ、と書くとちょっと違う。いや、かなり違うなあ。セックスを発見する。自分を発見する、というのが近いと思う。相手にひかれて、同時に相手をひきつける。そのひかれていく自分も、ひきつける自分も、それまではっきりとはわからなかったアデルである。セックスすることによってアデルはアデルになっていく。それをアデルは、自分の視線で、自分の手足をながめるときのようにアップでみつめつづけている。監督が、カメラマンが、あるいは観客が見ているセックス(描写)ではなく、アデルが彼女の肉眼で見ているセックスなのである。ほんとうにほしいものを探しつづけるセックス。そこには「客観的」というものはない。ないのだけれど、それが「主観(欲望/本能)」であると主張することで、主張そのものが「客観」にかわってしまう。言い換えると「本能(欲望)」であるとはっきりわかるから、それを「主観」と批判することの意味がなくなる。主観以外の欲望や本能というものはない。欲望や本能以外のものは「嘘」である。虚偽である。主観だけが真実に触れているのだ。
へえええ、こんな撮り方があったのかと度肝を抜かれる。大胆なセックスシーンに驚いていると、監督の主張の正確さを見落としてしまうことになる。湿布の連続の影像が抱え込む視線の主張を見落としてしまう。アップは、そのままアデルの肉体の距離、他者とアデルの肉体の距離である。アデルが他者に近づき、近づいた他者をとおして自分を見つける。他者のアップは、いわばアデルの鏡に映った姿なのである。アデルはしきりに髪を整えなおすが、そのとき実際の鏡を見ない。自分のからだは自分の手でさわるから「わかる」。「もの」として鏡をアデルは必要としていない。必要なのは、彼女を映してくれる他者という肉体なのだ。
アデルは、自分の内側から自分をみつめている。自分にわかること、できることをしっかりとみつめ、他人が外からながめるアデルに合わせる(迎合する)ということがない。それがくっきりとあらわれているのが職業の選択である。先生になる。画家である恋人は、アデルに対して才能があるのだから文章を書いたらいいのに。好きな文章に携わる仕事をすればいいのに、と勧める。(恋人は、アデルも芸術家であってほしいのだ。)けれどもアデルは、それは自分の本能ではないと自覚していて、文章を書くことを仕事としては選ばない。ここには育ってきた家庭環境も影響しているかもしれないが、それ以上に、自分をみつめるという「癖」が彼女の本能なのだ。
だから(と、言っていいのか……)、アデルは自分の「さびしさ」も見つけ出してしまう。恋人の関心が芸術に向かっていて、自分から遠ざかるとき、不思議なさびしさを見つけ出してしまう。いっしょに暮らしているのに何か距離感を感じる。そのさびしさをまぎらわすために、学校の同僚とデートし、セックスもしてしまう。自分を発見しつづけるからこそ、アデルはどんどん変わっていく。この激しい変化をアデル・エグザルコプロスは非常になまなましく再現している。演技しているというよりも、アデルという役をそのまま生きている感じがする。演技を見ているというよりも、現実の生活を見ている感じになる。影像(スクリーン)という間接的なものを見ているのではない。アデルが自分を発見するように、私はアデルに出合い、アデルを発見している。発見してしまうと、アデルが自分の知っている人間に、さらにそれを超えて自分に見えてくる。恋をしたときの自分の不安やわがまま、おろかさ、それやこれやのあれこれが、肉体の奥からよみがえる。
映画は女性の同性愛を描いているのだが、「女性の同性愛」という部分がアデルのなまなましい本能によって、たったひとつの恋愛に高められているのだ。アデルの恋愛というきわめて個人的な(主観的な)ものを描くことで、逆にそれが普遍になってしまっている。それが絶対的な恋愛(純粋な恋愛)であるからこそ、アデルが自分に見えてくる。
この映画の特徴はアップの多用のほかに、時間の説明がきわめて不親切である。アデルは最初高校生である。その後、幼稚園の先生になり、こどもの成長に合わせるように小学校一年生の先生、二年生(?)の先生というように成長していく。しかし、そのときの「時間」の経過がよくわからない。あっという間に一年がすぎている。
これは、しかし、あえてこういう具合にしているのだろう。
人に出会い、恋をして夢中になり、行き違いがあり、わかれる。そのあいだに人間は成長していく。様々なことを「わかる」。それは一週間のときもあれば五年のとき、あるいは五〇年のときがある。「時間」を時計(歴史?)ではかっても意味はない。気がつくべきなのは、恋愛をして人間は成長するということである。成長するとき、「時間」は肉体のなかにのみこまれ、消えてしまう。私たちは肉体のなかから「時間」を取り出すのではなく、その瞬間瞬間の、気持ちを取り出す。おぼえているのは、わかっているのは、「時間」の長さではなく、自分の気持ちである。肉体である。
恋愛に「時間」はない。だから、人間はいつでも恋愛をする。そして変わっていく。
恋愛以外のシーンも、すばらしい。特に食事のシーンがいい。アデルの家ではパスタを食べるのだが、その食べ方が、非常になまなましい。恋人の家でカキを食べるときの様子とはまったく違う。大きな鍋にパスタがあって、それを「おかわりある?」と聞きながら、だらしなく(?)食う。口に入るだけをフォークで丸めてというのではなく、一口で食べれないものはずるずるとすすり込んで食べる。カキを食べるとき、「生きているカキでないとだめ、ほらぷるぷる動いている」というような講釈はない。それはある意味では、美しいとはいえないシーンだが、そこに肉体がある。アデルの、口をだらしなくあけて眠る顔も、美しくはないが、そこに肉体の本能がある。
補足になってしまうが、アデルの肉眼として動くカメラは、他者の視線をしっかりとらえてからみつきあう。これもおもしろい。アデルは、恋人の家へ行っても展覧会へ行っても、全体を見渡すということはしない。視線が動くのは、恋人に対してと、恋人の視線がどこをみつめているかを追うときだけである。
(t-joy 博多5番スクリーン、2014年04月06日)
監督 アブデラティフ・ケシシュ 出演 アデル・エグザルコプロス、レア・セドゥー
アデルを演じたアデル・エグザルコプロスが非常にいい。みとれてしまう。感情の動きが、まるで本能のように美しい。(というのは、変な日本語か……。)強くて、どんな批判もはねのけて輝く。悲しむときさえ、それが剥き出しの悲しみであるので、美しい。だれでも味わう悲しみなのに、まるではじめての悲しみのように、それを表現することばがない。そういう美しさがある。
大胆なセックスシーンが話題になっているけれど、セックスというのは余りにも個人的なものであって、他人にはわからない。(私には、美しいシーンかどうかわからない、というべきなのか。)その前と、そのあと、その感情がどれだけ濃密に表現されるかによって、セックスシーンの美しさが変わる。感情が濃密なら、官能も濃密に見えてくる。
アデルがボーイフレンドとセックスする。そのシーンと対比するとわかりやすい。アデルはボーイフレンドとセックスしたあと「何か違う、何か求めているものと違う」というような、うつろな表情になる。物足りない、という顔つきになる。そのためにボーイフレンドから「よくなかったのか」と聞かれたりもする。「よかった」と答えるけれど、満足していない。うれしい、という感じがない。
これと対照的なのが、アデルの家でのセックス。両親に声を聞かれないように、ときには口をふさぎながらセックスする。本能はどこかで抑制されている。でも、とても満足している。そして、そのあと「両親は私達が同じベッドで寝ていると知らない」と語りながらくすくす笑う。まるでティーンエイジャーがはじめてセックスしたような、というより、いっしょに秘密の旅行か何かをしているような、無邪気な表情になる。あどけない。これがすばらしい。純粋というのは、こういうことか、とびっくりする。
セックスにのめりこむ、と書くとちょっと違う。いや、かなり違うなあ。セックスを発見する。自分を発見する、というのが近いと思う。相手にひかれて、同時に相手をひきつける。そのひかれていく自分も、ひきつける自分も、それまではっきりとはわからなかったアデルである。セックスすることによってアデルはアデルになっていく。それをアデルは、自分の視線で、自分の手足をながめるときのようにアップでみつめつづけている。監督が、カメラマンが、あるいは観客が見ているセックス(描写)ではなく、アデルが彼女の肉眼で見ているセックスなのである。ほんとうにほしいものを探しつづけるセックス。そこには「客観的」というものはない。ないのだけれど、それが「主観(欲望/本能)」であると主張することで、主張そのものが「客観」にかわってしまう。言い換えると「本能(欲望)」であるとはっきりわかるから、それを「主観」と批判することの意味がなくなる。主観以外の欲望や本能というものはない。欲望や本能以外のものは「嘘」である。虚偽である。主観だけが真実に触れているのだ。
へえええ、こんな撮り方があったのかと度肝を抜かれる。大胆なセックスシーンに驚いていると、監督の主張の正確さを見落としてしまうことになる。湿布の連続の影像が抱え込む視線の主張を見落としてしまう。アップは、そのままアデルの肉体の距離、他者とアデルの肉体の距離である。アデルが他者に近づき、近づいた他者をとおして自分を見つける。他者のアップは、いわばアデルの鏡に映った姿なのである。アデルはしきりに髪を整えなおすが、そのとき実際の鏡を見ない。自分のからだは自分の手でさわるから「わかる」。「もの」として鏡をアデルは必要としていない。必要なのは、彼女を映してくれる他者という肉体なのだ。
アデルは、自分の内側から自分をみつめている。自分にわかること、できることをしっかりとみつめ、他人が外からながめるアデルに合わせる(迎合する)ということがない。それがくっきりとあらわれているのが職業の選択である。先生になる。画家である恋人は、アデルに対して才能があるのだから文章を書いたらいいのに。好きな文章に携わる仕事をすればいいのに、と勧める。(恋人は、アデルも芸術家であってほしいのだ。)けれどもアデルは、それは自分の本能ではないと自覚していて、文章を書くことを仕事としては選ばない。ここには育ってきた家庭環境も影響しているかもしれないが、それ以上に、自分をみつめるという「癖」が彼女の本能なのだ。
だから(と、言っていいのか……)、アデルは自分の「さびしさ」も見つけ出してしまう。恋人の関心が芸術に向かっていて、自分から遠ざかるとき、不思議なさびしさを見つけ出してしまう。いっしょに暮らしているのに何か距離感を感じる。そのさびしさをまぎらわすために、学校の同僚とデートし、セックスもしてしまう。自分を発見しつづけるからこそ、アデルはどんどん変わっていく。この激しい変化をアデル・エグザルコプロスは非常になまなましく再現している。演技しているというよりも、アデルという役をそのまま生きている感じがする。演技を見ているというよりも、現実の生活を見ている感じになる。影像(スクリーン)という間接的なものを見ているのではない。アデルが自分を発見するように、私はアデルに出合い、アデルを発見している。発見してしまうと、アデルが自分の知っている人間に、さらにそれを超えて自分に見えてくる。恋をしたときの自分の不安やわがまま、おろかさ、それやこれやのあれこれが、肉体の奥からよみがえる。
映画は女性の同性愛を描いているのだが、「女性の同性愛」という部分がアデルのなまなましい本能によって、たったひとつの恋愛に高められているのだ。アデルの恋愛というきわめて個人的な(主観的な)ものを描くことで、逆にそれが普遍になってしまっている。それが絶対的な恋愛(純粋な恋愛)であるからこそ、アデルが自分に見えてくる。
この映画の特徴はアップの多用のほかに、時間の説明がきわめて不親切である。アデルは最初高校生である。その後、幼稚園の先生になり、こどもの成長に合わせるように小学校一年生の先生、二年生(?)の先生というように成長していく。しかし、そのときの「時間」の経過がよくわからない。あっという間に一年がすぎている。
これは、しかし、あえてこういう具合にしているのだろう。
人に出会い、恋をして夢中になり、行き違いがあり、わかれる。そのあいだに人間は成長していく。様々なことを「わかる」。それは一週間のときもあれば五年のとき、あるいは五〇年のときがある。「時間」を時計(歴史?)ではかっても意味はない。気がつくべきなのは、恋愛をして人間は成長するということである。成長するとき、「時間」は肉体のなかにのみこまれ、消えてしまう。私たちは肉体のなかから「時間」を取り出すのではなく、その瞬間瞬間の、気持ちを取り出す。おぼえているのは、わかっているのは、「時間」の長さではなく、自分の気持ちである。肉体である。
恋愛に「時間」はない。だから、人間はいつでも恋愛をする。そして変わっていく。
恋愛以外のシーンも、すばらしい。特に食事のシーンがいい。アデルの家ではパスタを食べるのだが、その食べ方が、非常になまなましい。恋人の家でカキを食べるときの様子とはまったく違う。大きな鍋にパスタがあって、それを「おかわりある?」と聞きながら、だらしなく(?)食う。口に入るだけをフォークで丸めてというのではなく、一口で食べれないものはずるずるとすすり込んで食べる。カキを食べるとき、「生きているカキでないとだめ、ほらぷるぷる動いている」というような講釈はない。それはある意味では、美しいとはいえないシーンだが、そこに肉体がある。アデルの、口をだらしなくあけて眠る顔も、美しくはないが、そこに肉体の本能がある。
補足になってしまうが、アデルの肉眼として動くカメラは、他者の視線をしっかりとらえてからみつきあう。これもおもしろい。アデルは、恋人の家へ行っても展覧会へ行っても、全体を見渡すということはしない。視線が動くのは、恋人に対してと、恋人の視線がどこをみつめているかを追うときだけである。
(t-joy 博多5番スクリーン、2014年04月06日)
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