田中勲「紙の砦」(「詩的現代(第二次)」8、2014年03月発行)
私は、実は田中勲を10代のころから知っている。私が10代という意味であって、田中が10代であったかどうかわからない。たぶん20代だろうと想像している。会ったことは、ない。その遠い遠い昔、タイトルは忘れてしまったが田中は緑色のインクで印刷された詩集を出したと記憶している。私は、田中勲の詩が好きではなかったのだが、この詩集で「好きではない」から「嫌い」になってしまった。思い込みの付加価値(?)、ことばの演出にぞっとしてしまった。
現代詩はたしかに「わざと」書かれたことばの運動だけれど、それはあくまでことば内部からの運動であって、外からの演出は「みかけ」にすぎない。詩ではない。緑色のインクというのは田中の運動であって、ことばの運動ではない。
田中は詩を書いているのではなく、詩人になろうとしている。詩人になって、それから書いたものを詩であると呼ぼうとしている。
これは私の「感覚の意見」であって、きちんと説明できることではないのだけれど。私の先入観・偏見のようなものかもしれないけれど。
私は、この書き出しのどの部分にも「肉体」を感じることができない。「ぼくは暗い歯根の痛みに耐えながら」ということばさえ、歯根の痛みとは無関係に思えてしまう。歯根の「暗い痛みに耐える」というのは、あまりにも「頭脳的」なことがらである。「歯根の痛み」を「暗い」ということばであらわしたとき、もうすでにそのことばの書き手は「痛みに耐えている」。痛い、痛いと呻いて暴れる替わりに「暗い」と呼んでいるのだから。そういうことばを動かしているのだから。それをさらに「耐えている」と書くとき、「暗い」は用言ではなくなる。「暗い」は形容詞だから「痛み」を修飾するだけ--というのは「学校文法」の世界の決まりであって、「肉体」の感覚からはかけ離れてしまっている。
誰でもが知っている歯根の痛みについて書くときでさえも、田中は「肉体」を「頭のことば」で整理しなおし、その「頭の中の世界」を見せる。
こういう行為を形而上学的ととらえれば、まあ、そうなんだろうねえ。でも、それは形而上学であって、詩ではなくなる。
私は自分の頭の悪さを棚に上げていうのだが(感想、批評というのは、たいていが自分を棚に上げていうものだが)、こういう「頭のよさ」を自慢するような作品が、どうも好きになれない。
「敬意」と「経緯」という同じ音でありながら意味の違ったことば。意味が違うのに、どこか似ているところがない? 通じているものがない? 「私は感じる、だから、それを書く。この複雑な違いが、あなたにはわかるかな?」とでも言っている感じ。
敬意というのは、たしかにそのひとの経緯(生きてきたこれまでのこと)と関係するだろうけれど、自分から経緯をひっぱりだしてきて、それに敬意を結びつけるなんて。いやだね。そんなことばで、田中を「ふりむいて」みつめるなんて、いやだね。
ふつうは、こういうとき、それに気がつかなかったふりをして通りすぎるのが「おとな」の態度なのかもしれないけれど、私は、いったん動いたことばは動かしてしまわないと落ち着かないので書くのだ。
この詩の気持ち悪さは、ほかにもある。「牛や馬のせつない鳴き声」というような「敬意とか経緯とは関係ない」感情へ訴えてくることばをはさみながら、
と中途半端な抒情を括弧に入れて前後を入れ換えながら撒き散らす。(括弧と括弧のあいだには、1連目のようなことばが4行ずつはさまってるだが、省略した。)文章を断片にし、断片性を強調すること、連続する現実から逸脱する個人的な断片を強調することで、そういう断片こそが詩なのだと言おうとする態度--その態度が、私には気に食わない。
緑色のインクである。
気取った態度や活字の色という演出が詩とは、私は思わない。
私は、実は田中勲を10代のころから知っている。私が10代という意味であって、田中が10代であったかどうかわからない。たぶん20代だろうと想像している。会ったことは、ない。その遠い遠い昔、タイトルは忘れてしまったが田中は緑色のインクで印刷された詩集を出したと記憶している。私は、田中勲の詩が好きではなかったのだが、この詩集で「好きではない」から「嫌い」になってしまった。思い込みの付加価値(?)、ことばの演出にぞっとしてしまった。
現代詩はたしかに「わざと」書かれたことばの運動だけれど、それはあくまでことば内部からの運動であって、外からの演出は「みかけ」にすぎない。詩ではない。緑色のインクというのは田中の運動であって、ことばの運動ではない。
田中は詩を書いているのではなく、詩人になろうとしている。詩人になって、それから書いたものを詩であると呼ぼうとしている。
これは私の「感覚の意見」であって、きちんと説明できることではないのだけれど。私の先入観・偏見のようなものかもしれないけれど。
なかば凍えた足の指先から
遠ざかる昭和の階段をふりむくのは
僕の敬意とか経緯とは関係ない
無意識の歩みといえど
(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)
他人まかせの、風雪もくぐったが
世間と自省の流れにそって、しばしば尋ね直す
此処までの途中、
牛や馬の切ない鳴き声が耳をねじ曲げるから
(パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに耐えながら)
風の中の無声を聞き分けていた日々よ)
私は、この書き出しのどの部分にも「肉体」を感じることができない。「ぼくは暗い歯根の痛みに耐えながら」ということばさえ、歯根の痛みとは無関係に思えてしまう。歯根の「暗い痛みに耐える」というのは、あまりにも「頭脳的」なことがらである。「歯根の痛み」を「暗い」ということばであらわしたとき、もうすでにそのことばの書き手は「痛みに耐えている」。痛い、痛いと呻いて暴れる替わりに「暗い」と呼んでいるのだから。そういうことばを動かしているのだから。それをさらに「耐えている」と書くとき、「暗い」は用言ではなくなる。「暗い」は形容詞だから「痛み」を修飾するだけ--というのは「学校文法」の世界の決まりであって、「肉体」の感覚からはかけ離れてしまっている。
誰でもが知っている歯根の痛みについて書くときでさえも、田中は「肉体」を「頭のことば」で整理しなおし、その「頭の中の世界」を見せる。
こういう行為を形而上学的ととらえれば、まあ、そうなんだろうねえ。でも、それは形而上学であって、詩ではなくなる。
私は自分の頭の悪さを棚に上げていうのだが(感想、批評というのは、たいていが自分を棚に上げていうものだが)、こういう「頭のよさ」を自慢するような作品が、どうも好きになれない。
「敬意」と「経緯」という同じ音でありながら意味の違ったことば。意味が違うのに、どこか似ているところがない? 通じているものがない? 「私は感じる、だから、それを書く。この複雑な違いが、あなたにはわかるかな?」とでも言っている感じ。
敬意というのは、たしかにそのひとの経緯(生きてきたこれまでのこと)と関係するだろうけれど、自分から経緯をひっぱりだしてきて、それに敬意を結びつけるなんて。いやだね。そんなことばで、田中を「ふりむいて」みつめるなんて、いやだね。
ふつうは、こういうとき、それに気がつかなかったふりをして通りすぎるのが「おとな」の態度なのかもしれないけれど、私は、いったん動いたことばは動かしてしまわないと落ち着かないので書くのだ。
この詩の気持ち悪さは、ほかにもある。「牛や馬のせつない鳴き声」というような「敬意とか経緯とは関係ない」感情へ訴えてくることばをはさみながら、
(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)
(パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに耐えながら
風の中の無声を聞き分けていた日々よ)
(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
風の中の無声を聞き分けていた日々よ)
(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)
(風の中の無声を聞き分けていた日々よ
パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)
(風の中の無声を聞き分けていた日々よ
PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り)
(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
風の中の無声を聞き分けていた日々よ)
と中途半端な抒情を括弧に入れて前後を入れ換えながら撒き散らす。(括弧と括弧のあいだには、1連目のようなことばが4行ずつはさまってるだが、省略した。)文章を断片にし、断片性を強調すること、連続する現実から逸脱する個人的な断片を強調することで、そういう断片こそが詩なのだと言おうとする態度--その態度が、私には気に食わない。
緑色のインクである。
気取った態度や活字の色という演出が詩とは、私は思わない。
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