詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中勲「紙の砦」

2014-04-04 11:13:36 | 詩(雑誌・同人誌)
田中勲「紙の砦」(「詩的現代(第二次)」8、2014年03月発行)

 私は、実は田中勲を10代のころから知っている。私が10代という意味であって、田中が10代であったかどうかわからない。たぶん20代だろうと想像している。会ったことは、ない。その遠い遠い昔、タイトルは忘れてしまったが田中は緑色のインクで印刷された詩集を出したと記憶している。私は、田中勲の詩が好きではなかったのだが、この詩集で「好きではない」から「嫌い」になってしまった。思い込みの付加価値(?)、ことばの演出にぞっとしてしまった。
 現代詩はたしかに「わざと」書かれたことばの運動だけれど、それはあくまでことば内部からの運動であって、外からの演出は「みかけ」にすぎない。詩ではない。緑色のインクというのは田中の運動であって、ことばの運動ではない。
 田中は詩を書いているのではなく、詩人になろうとしている。詩人になって、それから書いたものを詩であると呼ぼうとしている。
 これは私の「感覚の意見」であって、きちんと説明できることではないのだけれど。私の先入観・偏見のようなものかもしれないけれど。

なかば凍えた足の指先から
遠ざかる昭和の階段をふりむくのは
僕の敬意とか経緯とは関係ない
無意識の歩みといえど

(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
 パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)

他人まかせの、風雪もくぐったが
世間と自省の流れにそって、しばしば尋ね直す
此処までの途中、
牛や馬の切ない鳴き声が耳をねじ曲げるから

(パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに耐えながら)
 風の中の無声を聞き分けていた日々よ)

 私は、この書き出しのどの部分にも「肉体」を感じることができない。「ぼくは暗い歯根の痛みに耐えながら」ということばさえ、歯根の痛みとは無関係に思えてしまう。歯根の「暗い痛みに耐える」というのは、あまりにも「頭脳的」なことがらである。「歯根の痛み」を「暗い」ということばであらわしたとき、もうすでにそのことばの書き手は「痛みに耐えている」。痛い、痛いと呻いて暴れる替わりに「暗い」と呼んでいるのだから。そういうことばを動かしているのだから。それをさらに「耐えている」と書くとき、「暗い」は用言ではなくなる。「暗い」は形容詞だから「痛み」を修飾するだけ--というのは「学校文法」の世界の決まりであって、「肉体」の感覚からはかけ離れてしまっている。
 誰でもが知っている歯根の痛みについて書くときでさえも、田中は「肉体」を「頭のことば」で整理しなおし、その「頭の中の世界」を見せる。
 こういう行為を形而上学的ととらえれば、まあ、そうなんだろうねえ。でも、それは形而上学であって、詩ではなくなる。

 私は自分の頭の悪さを棚に上げていうのだが(感想、批評というのは、たいていが自分を棚に上げていうものだが)、こういう「頭のよさ」を自慢するような作品が、どうも好きになれない。
 「敬意」と「経緯」という同じ音でありながら意味の違ったことば。意味が違うのに、どこか似ているところがない? 通じているものがない? 「私は感じる、だから、それを書く。この複雑な違いが、あなたにはわかるかな?」とでも言っている感じ。
 敬意というのは、たしかにそのひとの経緯(生きてきたこれまでのこと)と関係するだろうけれど、自分から経緯をひっぱりだしてきて、それに敬意を結びつけるなんて。いやだね。そんなことばで、田中を「ふりむいて」みつめるなんて、いやだね。
 ふつうは、こういうとき、それに気がつかなかったふりをして通りすぎるのが「おとな」の態度なのかもしれないけれど、私は、いったん動いたことばは動かしてしまわないと落ち着かないので書くのだ。

 この詩の気持ち悪さは、ほかにもある。「牛や馬のせつない鳴き声」というような「敬意とか経緯とは関係ない」感情へ訴えてくることばをはさみながら、

(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
 パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)

(パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに耐えながら
 風の中の無声を聞き分けていた日々よ)

(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
 風の中の無声を聞き分けていた日々よ)

(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
 パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)

(風の中の無声を聞き分けていた日々よ
 パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)

(風の中の無声を聞き分けていた日々よ
 PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り)

(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
 風の中の無声を聞き分けていた日々よ)

 と中途半端な抒情を括弧に入れて前後を入れ換えながら撒き散らす。(括弧と括弧のあいだには、1連目のようなことばが4行ずつはさまってるだが、省略した。)文章を断片にし、断片性を強調すること、連続する現実から逸脱する個人的な断片を強調することで、そういう断片こそが詩なのだと言おうとする態度--その態度が、私には気に食わない。
 緑色のインクである。
 気取った態度や活字の色という演出が詩とは、私は思わない。
迷宮を小脇に
田中 勲
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(13) 

2014-04-04 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(13)          

 「裏切り」は「中断」の続編のような詩である。不死であるはずのアキレスだが、

だが ある日 長老連が参内、
「アキレス トロヤに殺さる」と言上。
テティス すなわち紫の衣を脱ぎ捨て、
引き裂き、指輪 腕輪を抜きとって
床の上に投げつけた。

 「すなわち」について中井久夫は「即座に」の意味であると注釈に書いているが、この訳はとても中井らしい。中井の訳には様々な文体が交錯する。「すなわち」は漢文体。「即ち」である。「漢語林」(大修館書店)に「会即帯剣擁盾入軍門」がある。前後の区別がないくらいに、すぐその場で。だから、中井の訳も「テティスはその場で紫の衣を脱ぎ捨て」であっても同じ「意味」になるのだが、中井は「すなわち」を選びとっている。なぜだろう。私が想像するに、ことばのスピードが違う。「その場で」は何か間延びがする。中井が注釈している「即座に」でも間延びがする。そして、その「間延び」の原因(?)は「場」「座」ということばが象徴的だが、そこに空間を引き寄せてしまう。まわりが見えてしまう。「すなわち」には「場(空間)」を感じさせる要素がない。「すなわち」はさんでいることばが直に接続する感じがする。「色即是空」の「即」に近い。ふたつがひとしい。「ひきつづいて」という感じではなく「同時」。
 これは、こう言った方がいいのかもしれない。
 「すなわち」からあと、中井はテティスの行動を、そういう順序で行動したかのように書いているが(ことばなので、そう書くしかないのだが)、これはほんとうは、

テティスすなわち紫の衣を脱ぎ捨て、
「すなわち」引き裂き、「すなわち」指輪 腕輪を抜きとって
「すなわち」床の上に投げつけた。

 である。一続きの行動ではなく、全部が「ひとつ」に凝縮する形で「ひとつ」。行動の、肉体の動きがテティトスによって「ひとつ」に凝縮する。分離できない。衣を脱ぎ捨てることはすなわち引き裂くことであり、それはすなわち指輪、腕輪を投げすてること。指輪、腕輪も、すなわち権力の「衣装」である、と補足すれば「すなわち」と訳した中井の意図に近づくだろうか。
 口語、俗語の文体としては、テティトスの次の台詞。俗人のような口調が生々しい。

あのうたげで弁舌さわやか べらべらしゃべったあの神が?

 この詩でもカヴァフィスは史実(神話的事実)より人間の「こと」を書いている。
           (注・漢語林の引用、「会」は正しくは「口」へんに「会」)

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