大橋政人「花の温度」(「独合点」119 、2014年03月15日発行)
大橋政人「花の温度」に、はっとした。あ、こんなことを思うのか、とびっくりした。
花(花びら)にさわって温度を確かめたことはない。だいたい花というのは「見る」ものであって「さわる」ものではないからね。何かのことでさわったことはあるが、たとえば散りかけた花びらをむしるとか、においをかいだときにくちびるが触れてしまったとか……でも、温度を確かめようとしたことはない。確かめようとしたことはないが、そういわれれば花びらは熱くはない。それを思い出す。意識しなくてもおぼえてしまうこと、というものはあるのだろう。
暖房をあげても熱くならないかどうか、私は知らないが、まあ、そうだろうなあと思う。少なくとも「熱くて/さわれない」というようなことにはならない。
と、思う。
でも、考えると変だなあ。自分で実際に確かめたことでもないのに、それをほんとうだと思う。
同時に、大橋はどうしてこんなことを考えたのかなあ、とも思う。
わからないけれど、このわからない瞬間に、ぱっと大橋が見えてくる。そうか、大橋というのは、こういう人間なのか。
で、「こういう人間」の「こういう」を説明しようとすると、どう書いていいかわからない。
変だね。変だけれど、何か気持ちがいい。
うーん、こういう納得(?)の仕方が、また、実に、不思議。
笑ってしまう。馬鹿馬鹿しい、というのではなくて、そうだなあ、「無意味」といえばいいのかなあ。こんなことを考えたって、感じたって、何の意味もない。その場かぎりのこと。こんなことに気がつかなくたっていいし、忘れたっていい。
でも、こういう「無意味」といっしょにいるのはいいねえ。
この「無意味」に、大橋の一行一行の「短さ」がとてもあっている。各連をそれぞれ一行にしてしまっても「意味」は変わらない。けれど、印象は変わる。
散文にしてしまうと、もっと違ってしまう。
窮屈になる。この窮屈というのは「意味」がつよく迫ってくるからである。花びらの温度なんて何の意味もないのに、それに「意味」があるかのように迫ってくる。論理が形作られてしまう。
これでは、だめなんだね。
ばらばらに近い感じ。ふっと思いついたことを、間をいっぱい広げて、つながらないようにする。人間というのはどうしても意味を求めるから(意味を求めてことばをつないでしまうから)、どれだけばらばらにしたっていいのである。
多くの詩は、この「ばらばら」な感じをつくりだすために、比喩やあれやこれやの「逸脱」を繰り広げるのだけれど、大橋は「空白」を持ち込むだけ。「空白」にも「意味」はない。何も書かれていないのだからね。その「無意味」の「空白」で、「無意味」をそっとつつんで見せる。
だから、なんというのだろう、読んだあと、美しい空白を見たような感じになる。空白にこころがあらわれたような気持ちになる。
とてもいいなあ。
でもね。
最後の三行の「ことば遊び」、「気も」「着物」、「知れない」「着せられない」の音の遊び--これは、それまでの無意味な楽しさを、むりやり「音」の遊びに収斂させてしまっていないだろうか。何か「書きすぎている」という感じがしてしまう。それまでの空白の美しさが「音の意味」に変わってしまう。
大橋政人「花の温度」に、はっとした。あ、こんなことを思うのか、とびっくりした。
熱くて
さわれないような
花はない
部屋の暖房を
強くしても
花は
熱くならない
花弁に
指でさわると
いつも
花瓶の温度と
同じくらい
花瓶の
水ばかり
飲んでる
せいだろうか
花(花びら)にさわって温度を確かめたことはない。だいたい花というのは「見る」ものであって「さわる」ものではないからね。何かのことでさわったことはあるが、たとえば散りかけた花びらをむしるとか、においをかいだときにくちびるが触れてしまったとか……でも、温度を確かめようとしたことはない。確かめようとしたことはないが、そういわれれば花びらは熱くはない。それを思い出す。意識しなくてもおぼえてしまうこと、というものはあるのだろう。
暖房をあげても熱くならないかどうか、私は知らないが、まあ、そうだろうなあと思う。少なくとも「熱くて/さわれない」というようなことにはならない。
と、思う。
でも、考えると変だなあ。自分で実際に確かめたことでもないのに、それをほんとうだと思う。
同時に、大橋はどうしてこんなことを考えたのかなあ、とも思う。
わからないけれど、このわからない瞬間に、ぱっと大橋が見えてくる。そうか、大橋というのは、こういう人間なのか。
で、「こういう人間」の「こういう」を説明しようとすると、どう書いていいかわからない。
変だね。変だけれど、何か気持ちがいい。
花瓶の
水ばかり
飲んでる
せいだろうか
うーん、こういう納得(?)の仕方が、また、実に、不思議。
笑ってしまう。馬鹿馬鹿しい、というのではなくて、そうだなあ、「無意味」といえばいいのかなあ。こんなことを考えたって、感じたって、何の意味もない。その場かぎりのこと。こんなことに気がつかなくたっていいし、忘れたっていい。
でも、こういう「無意味」といっしょにいるのはいいねえ。
この「無意味」に、大橋の一行一行の「短さ」がとてもあっている。各連をそれぞれ一行にしてしまっても「意味」は変わらない。けれど、印象は変わる。
熱くてさわれないような花はない
部屋の暖房を強くしても花は熱くならない
花弁に指でさわるといつも花瓶の温度と同じくらい
花瓶の水ばかり飲んでるせいだろうか
散文にしてしまうと、もっと違ってしまう。
熱くてさわれないような花はない。部屋の暖房を強くしても花は熱くならない。花弁に指でさわるといつも花瓶の温度と同じくらい。花瓶の水ばかり飲んでるせいだろうか。
窮屈になる。この窮屈というのは「意味」がつよく迫ってくるからである。花びらの温度なんて何の意味もないのに、それに「意味」があるかのように迫ってくる。論理が形作られてしまう。
これでは、だめなんだね。
ばらばらに近い感じ。ふっと思いついたことを、間をいっぱい広げて、つながらないようにする。人間というのはどうしても意味を求めるから(意味を求めてことばをつないでしまうから)、どれだけばらばらにしたっていいのである。
多くの詩は、この「ばらばら」な感じをつくりだすために、比喩やあれやこれやの「逸脱」を繰り広げるのだけれど、大橋は「空白」を持ち込むだけ。「空白」にも「意味」はない。何も書かれていないのだからね。その「無意味」の「空白」で、「無意味」をそっとつつんで見せる。
だから、なんというのだろう、読んだあと、美しい空白を見たような感じになる。空白にこころがあらわれたような気持ちになる。
とてもいいなあ。
でもね。
(一日中
(澄ました顔で
(水の中
寒いのか
熱いのか
気も知れないから
着物も
着せられない
最後の三行の「ことば遊び」、「気も」「着物」、「知れない」「着せられない」の音の遊び--これは、それまでの無意味な楽しさを、むりやり「音」の遊びに収斂させてしまっていないだろうか。何か「書きすぎている」という感じがしてしまう。それまでの空白の美しさが「音の意味」に変わってしまう。
![]() | 十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!) |
大橋 政人 | |
大日本図書 |