詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋政人「花の温度」

2014-04-08 10:59:20 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「花の温度」(「独合点」119 、2014年03月15日発行)

 大橋政人「花の温度」に、はっとした。あ、こんなことを思うのか、とびっくりした。

熱くて
さわれないような
花はない

部屋の暖房を
強くしても
花は
熱くならない

花弁に
指でさわると
いつも
花瓶の温度と
同じくらい

花瓶の
水ばかり
飲んでる
せいだろうか

 花(花びら)にさわって温度を確かめたことはない。だいたい花というのは「見る」ものであって「さわる」ものではないからね。何かのことでさわったことはあるが、たとえば散りかけた花びらをむしるとか、においをかいだときにくちびるが触れてしまったとか……でも、温度を確かめようとしたことはない。確かめようとしたことはないが、そういわれれば花びらは熱くはない。それを思い出す。意識しなくてもおぼえてしまうこと、というものはあるのだろう。
 暖房をあげても熱くならないかどうか、私は知らないが、まあ、そうだろうなあと思う。少なくとも「熱くて/さわれない」というようなことにはならない。
 と、思う。
 でも、考えると変だなあ。自分で実際に確かめたことでもないのに、それをほんとうだと思う。
 同時に、大橋はどうしてこんなことを考えたのかなあ、とも思う。
 わからないけれど、このわからない瞬間に、ぱっと大橋が見えてくる。そうか、大橋というのは、こういう人間なのか。
 で、「こういう人間」の「こういう」を説明しようとすると、どう書いていいかわからない。
 変だね。変だけれど、何か気持ちがいい。

花瓶の
水ばかり
飲んでる
せいだろうか

 うーん、こういう納得(?)の仕方が、また、実に、不思議。
 笑ってしまう。馬鹿馬鹿しい、というのではなくて、そうだなあ、「無意味」といえばいいのかなあ。こんなことを考えたって、感じたって、何の意味もない。その場かぎりのこと。こんなことに気がつかなくたっていいし、忘れたっていい。
 でも、こういう「無意味」といっしょにいるのはいいねえ。

 この「無意味」に、大橋の一行一行の「短さ」がとてもあっている。各連をそれぞれ一行にしてしまっても「意味」は変わらない。けれど、印象は変わる。

熱くてさわれないような花はない

部屋の暖房を強くしても花は熱くならない

花弁に指でさわるといつも花瓶の温度と同じくらい

花瓶の水ばかり飲んでるせいだろうか

 散文にしてしまうと、もっと違ってしまう。

熱くてさわれないような花はない。部屋の暖房を強くしても花は熱くならない。花弁に指でさわるといつも花瓶の温度と同じくらい。花瓶の水ばかり飲んでるせいだろうか。

 窮屈になる。この窮屈というのは「意味」がつよく迫ってくるからである。花びらの温度なんて何の意味もないのに、それに「意味」があるかのように迫ってくる。論理が形作られてしまう。
 これでは、だめなんだね。
 ばらばらに近い感じ。ふっと思いついたことを、間をいっぱい広げて、つながらないようにする。人間というのはどうしても意味を求めるから(意味を求めてことばをつないでしまうから)、どれだけばらばらにしたっていいのである。
 多くの詩は、この「ばらばら」な感じをつくりだすために、比喩やあれやこれやの「逸脱」を繰り広げるのだけれど、大橋は「空白」を持ち込むだけ。「空白」にも「意味」はない。何も書かれていないのだからね。その「無意味」の「空白」で、「無意味」をそっとつつんで見せる。
 だから、なんというのだろう、読んだあと、美しい空白を見たような感じになる。空白にこころがあらわれたような気持ちになる。
 とてもいいなあ。

 でもね。

(一日中
(澄ました顔で
(水の中

寒いのか
熱いのか
気も知れないから
着物も
着せられない

 最後の三行の「ことば遊び」、「気も」「着物」、「知れない」「着せられない」の音の遊び--これは、それまでの無意味な楽しさを、むりやり「音」の遊びに収斂させてしまっていないだろうか。何か「書きすぎている」という感じがしてしまう。それまでの空白の美しさが「音の意味」に変わってしまう。


十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!)
大橋 政人
大日本図書
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(17)

2014-04-08 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(17)          

 人間の声にはいろいろある。強い声だけではなく弱い声もある。弱い声には、繊細な声というのもある。この繊細さを整えると抒情になる。一方、弱いだけで、どうにもならない声もある。「愚痴」になってしまう。そういう弱い声、どうしようもない声もカヴァフィスは聞きとっている。「トロヤ人」。魅力的ではないが、たしかに人間の声である。

われらの努力は運に見放された者の努力。
われらの努力はトロヤ的。
ようやくあるところまで手がとどき
ちょっと力がたまって
希望がもてそうになり、大胆になろうと思うと、

かならず邪魔がはいる。
アキレスが塹壕から飛び出て目の前に突っ立つ。
蛮声にわれらはちぢみあがる。

 「ようやく」「ちょっと」という何かから遅れた感じ(見劣りのする感じ)と「もてそう」という推測、「なろうと思う」という時間をかけた決意。これは英雄(神話の主人公)の声ではない。庶民の声である。思い(決意)で自分を引っぱっていく、人を動かすのではなく、動いたあとで、その思いを確かめている。ことばで状況を切り開かない--という意味では、詩ではない。詩とは、ことばで現実をかえていくものだから。
 一連目が「思うと、」という中途半端な形で終わるのも弱い声の特徴をあらわしている。文章として完結できない。完結する前に、事実がことばを追い越してしまう。
 そして「愚痴」が始まるのだが、おもしろいことに、そこには「かならず」があらわれる。そしてその「かならず」(必然)はよそからやってくる。自分で切り開いて「かならず……する」ではなく、「からなず……なる」。主語は「他者」である。この詩では「邪魔」がかならず入る。「かならず」は弱い声を押し退けてあらわれる。
 「突っ立つ」という短い複合語がおもしろい。「立つ」だけでは打ちのめされた感じがしない。「突き立つ」の音便だが、「突き立つ」ではなく「突っ立つ」だからこそ「民衆」という感じになる。口語(音便)、その「音」がそのまま民衆(兵ならば下級兵)の「肉体」になって見えてくる。
 「ちぢみあがる」も同じである。「縮む」「震える」というようなことばでは不十分。「縮む+あがる」という複合語が、ことば(声)に込めた「民衆」の気持ちをそのままあらわしている。複合語というのは勢いをつけて言わないと声にならないが、おかしなことに、恐怖というのは自分自身に勢いをつけないとことばにもならない。
 中井久夫の訳は、そういう声の仕組み(肉体とことばの関係)を浮き彫りにしている。
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