詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山田一子『あそぶこどもたち』

2014-04-19 11:13:48 | 詩集
山田一子『あそぶこどもたち』(あざみ書房、2014年03月31日発行)

 山田一子『あそぶこどもたち』は二部にわかれていて、前半の主役(主語)はこどもである。そのなかでは「泥んこ」という作品が好きだ。特に3連目。

おもわず微笑む人がいる
皮膚が思い出している
足指の股からおどり出た泥の
やわらかい つめたさ
泥が乾いてひび割れる
ごわごわした こそばゆさ

 この連は「思い出している」ということばが端的に語っているように、こどもを描くふりをして、おとな(山田)が自分の体験を書いている。書きながら、こどもにもどっている。私は、こどもを客観的に(?)、そとから描写したものよりも、こういうこどもにもどって、そのときの感覚を書いたものの方が好きだ。
 ここに書かれている泥はかなり深い泥である。私の体験で言えば田んぼの泥。田んぼに足をいれると、まさに足の指の股から泥が躍り出てくる。それは一瞬、自分の足の指の股から出てきたのではないかと思うくらいに皮膚に密着している。この感じ--気持ち悪いという人もいるが、私は好きだなあ。泥になった気持ちになる。
 泥が乾いてひび割れる「こそばゆさ」もいいなあ。かさぶたと同じように、はがすときに何か不思議なおもしろさがある。自分の肉体の奥をのぞくような感じ。自分の肉体の奥が盛り上がってはみだしてくる感じ。
 山田は「思い出している」と書いているが、私のことばでは、これは「おぼえている」。おぼえているから書けるのである。
 ほかの詩も「おぼえている」ことを書いてるのだろうけれど、その「おぼえている」が目や耳でおぼえていることなので、なんだか外から観察しているという印象がしてまう。山田の肉体のなかにこどもの肉体がよみがえっている感じがしない。
 この「泥んこ」も、後半は、こどもの「おぼえている」という感じが消える。「おぼえている」というのは「記憶」ではなく、そこにある「現実」がわかる、ということなのであり、それは「客観」とは少し違うことなのだ。

その人の耳が思い出す
帰り着いたとたん 体じゅうが凍りついた
家の人の声
今日もきっと彼らを待ち受けている

その声がもう見えて
かつての泥んこは
にやり と笑う

 泥んこを叱る母の声。厳しい声。この泥んこのこどもたちは家で叱られるぞ、と思い、その叱られる姿にかつての自分の姿がかさなり「にやり と笑う」のだが、この部分がおもしろくない。せっかく皮膚で「おぼえている」ことを思い出したのに、それを「頭」が記憶していること、泥んこは汚いという美意識(おとなの、母親の意識)で洗って整える。その、「論理」の操作が、私の感覚の意見にしたがって言ってしまえば「汚い」。せっかく泥の美しさを3連目で描き、こどもの味方をしたのに(こどもと一体になったのに)、これはないだろう、と思う。

 後半の詩では「本懐」がすばらしい。

紙ヒコーキは背中がかゆい
一直線に風切るくらいでは
かゆみはおさまらず
空中に曲線を幾度もねじり
地べたに背中をすりつけて止まる

 なんだか紙飛行機になったよう感じ。「泥んこ」のときも思ったが、山田は「皮膚感覚」が生き生きしている。触覚が生き生きしている。(この詩も、最後は嫌いなので、全部は引用しない。)
 「無秩序な古書店の蟹」というのもいい。「空中の交錯」もいい。「古書店」の方を引用する。

無秩序な古書店の棚は
どこに宝がひそんでいるかわからない
視線を上下左右に動かすうちに
私は蟹になっていく

先ほどから横に歩き始めているし
泡のような独り言さえつぶやいている
奥まった場所の店主は ことによると山椒魚
お互い素性を見抜かれぬよう
無口にこしたことはない

 おもしろいし、正確だなあと感じるのだが(正確だから、おもしろいと感じるのだが)、ことばが多すぎる。たとえばこの詩では「蟹」と「山椒魚」はいいのだが、それを共存させるための「ことによると」が論理的すぎておもしろくない。「素性」がうるさい。
 で、こんなにうるさいのはいやだなあ、こどもの詩の、ことばが少ない感じ、ことばが何かをつかもうと動いている感じの方がなつかしいなあ、と思う。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(28)

2014-04-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(28)          

 「神 アントニウスを見捨てたまう」はアントニウスの自殺前夜のことを書いている。シェークスピアの劇にもなったアントニウスとクレオパトラ。その、アントニウスが「運は尽きた」と悟ったときの「声」が書かれている。
 何を思ったか、どんな思いがアントニウスのこころを駆けめぐったか。いろいろなことが思い浮かんだだろう。そのなかからカヴァフィスは次の「声」をつかみ取る。

自己欺瞞はやめろ。
これは夢だと言うな。
聞き違いだと言うな。
無駄な希望にもたれかかるな。

 ひとはどんなに絶望的なときでも、もしかしたら……と考える。これは何かの間違いである、これは夢であると思おうとする。そういう思いを「自己欺瞞」という強いことばで否定し、さらに思いのひとつひとつを否定形の命令でつぶしてゆく。
 これは「男」の声である。
 実際に「男」がそういう声を生き抜くことができるかどうかはわからないが、男はそうあるべきだと言われいる「男」のひとつの理想の姿である。

かねて覚悟の男、
いさぎよい男らしく、
一度はこのまちをさずかったおまえらしくだ。

 「男」が繰り返される。「覚悟」と「いさぎよい」が男を決定づける。
 そして、その「覚悟」「いさぎよい」を印象づけるのが短い「音」である。長い文章ではなく、切り詰めたことば、否定の命令形だ。長々と動くものを断ち切って、捨てる。そのリズム、その音楽のままに、最後に否定の命令形は肯定の命令形にかわり、炸裂する。

こころに沁みてあの音をきけ。
しかし祈るな。臆病な嘆きを口にすな。
最後の喜びだ。あの音をきけ。
不思議な楽隊の妙なる楽器をきけ。
そしてさらばと言え。彼女に。
きみを捨てるアレクサンドリアに。

 肯定、否定、肯定とゆらぎながら、最後に肯定で終わる命令形。そのあとの命令ではないことば。その余韻の透明な美しさ。「いさぎよい覚悟」だけが手に入れることのできる余韻。
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