詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田島安江「ビルジ」

2014-04-29 11:37:55 | 現代詩講座
田島安江「ビルジ」(現代詩講座@リードカフェ、2014年04月16日)

 今回いちばん好評だったのは、田島安江「ビルジ」。

ビルジ。船の底をおおう水。不浄のかん水だまり。
一瞬の春。一瞬の桜。胸の中を泳ぐ魚。炸裂する花火。赤提灯の灯より赤い火の花。アセチルサルチル酸で頭痛は治らない。たわむ背中。古びた海図。沈む欲望。他者の町。他者の眠り。廃油の光る水だまり。他者の叫び。光のざわめき。記憶の吹き溜まり。まきあがる乱気流。土の匂い。海のアカの匂い。苦い光の粒。地下に潜った路面電車。まとわりつく光。赤くまとわりつく水。

ビルジ。赤くまとわりつく光。
街路の隅々で閉じ込められた人びと。人びとは一斉に眠りを装う。眠る人びと。ビルの隙間を走り抜ける祭りの喧騒。路面電車は地中を走りぬける。飢えた人びとがその上を通り過ぎる。小さな光の束がはじける。耳の中をすり抜ける。町は突然膨張を始める。見慣れた景色が通り過ぎる。誰も町のほんとうの顔を知らない。神経を病んだ町。町はわたし達を捨てた。たまり水を捨てるように。

町は一斉に暴走をはじめる。町を支える肋骨がきしむ。街灯を水が浸す。光が人びとを襲う。家を濡らし、心を濡らす。かつて川を流れた飢えた人たちの心。心はわたしを侵食しはじめる。あとからあとから押し寄せざわめく光。うごめく人々の心がわたしの記憶のひだに潜りこむ。飢餓のカタチがみえる。窪んだ眼。窪んだ頭蓋。窪んだ鳥の目。浮かび出る肋骨。

ビルジ。不要な汚水。ポンプで吐き出される人びと。
声にならない叫びをうけて夜半に目覚める。まとわりつく水が押し寄せる。だれかがわたしに触れる。闇の谷が深くなる。谷の深さを測ることが営みの全て。生まれなかった子どもは闇に消える。闇の谷に潜む子どもたち。連なり遊んでいる。永遠に同じカタチ。同じ背丈。記憶の底に潜む子らの顔。どうしても見分けられない。闇の谷で出会った子らには顔がない。わたしの中に迷い込んだ魚。魚の顔が目の前に現れる。悲鳴をあげる。魚の顔が子どもの顔になる。わたしの中を泳ぐ魚。夜更け密かに湯浴みする女たちの嬌声。部屋を満たす水。耳奥で静かなさざなみが立つ。

ビルジ。わたしのなかにもある水だまり。
老いた家がふいに立ち上がる。

 「かっこいいなあ。一連目の体言止めの連続がが印象的」「いろいろな情景が浮かび、書き方が陶山に似ている」「ことばの響きが気に入って書いたのでは」「連想が広がる」「三連目が少しきつい。いっぱいいっぱい書いてある」「ことばが重なって調子がいい。聞いていても気持ちがいい」
 一連目を分析(?)してみる。受講生が指摘したように、この連には体言止めが多い。体言止めのことばを読むとイメージが次々に飛躍していく感じがする。そのために全体が何を言っているのかわかりにくいときがある。
 そして、実際に体言止めが多いとイメージがばらばらになってしまうときもあるのだが、この作品ではそういう感じはしない。一回だけ出てくる「治らない」と用言で終わることばが全体をつらぬいている。「動詞」を統治している。
 動詞そのものとした書かれているわけではなく、連体形や名詞に活用(?)させた形で書かれているのだが、それを動詞を動詞本来の形(終止形)にもどしていくつか拾いあげてみると……。
 「たわむ」「古びる」「沈む」「ざわめく」「吹き溜まる」「潜る」「まとわりつく」ということばは「治らない」ということばと親和力がある。動詞のイメージが、何か停滞した感じをいくつかの角度から言いなおしたもののように感じられる。
 イメージというと「名詞」を思い浮かべがちだが、動詞にも「イメージ」がある。「ニュアンス」と言った方がいいのかもしれない。雰囲気。その動詞がつかわれるとき、肉体が知らず知らずに感じる「動き」そのものスピードや軽さ、重さというものがある。そういうことばを続けて聞かされると、気持ちがだんだんその動詞に染まってくる。
 この一連目で印象的なことばは?と受講生に質問したとき、名詞をあげるひとが多かったのだが、ことばを理解するとき、名詞よりも動詞の方が重要だと私は思っている。名詞にも親和力があるけれど、動詞にも親和力がある。その動詞の親和力を追っていくと、ことばを動かしているエネルギーの「ありよう」がわかる。
 さっきあげた動詞からは「停滞感」のようなものが浮かび上がった。頭痛が治らない、重苦しさが頭の周辺に停滞している、という感じが浮かび上がる。
 それは「苦い」という用言ともかよいあう。「おおう」という動詞とも親和する。重苦しい痛みが頭を「おおう」のが頭痛であり、そのとき体のどこかが鬱屈する(たわむ)、何かが沈んで、たまり、まとわりついてきて、動きにくくなる。
 その「動きにくくなる」が「ビルジ」そのものの「本質」と合致する。あるいは「ビルジ」を「動きにくい(動かなくなった)水垢」という定義にしてしまう。
 なかには「炸裂する」とか「光る」「叫ぶ」という強い動詞、動きの激しい動詞ももあるのだが、炸裂する花火は消えていくという負のイメージも持っている。また「光る」には「廃油の」という負のイメージがついてまわっている。「叫び」も「苦悩」という負のイメージを持っている。
 全体が「治らない」という「負のイメージ」を補強するように動いている。負の動詞が一連目を統治している。その統治に乱れがないので、ことばが印象的なのである。

 ことばを理解する、書かれていることがらを点検していくとき、私は「動詞」が基本になると考えている。名詞は、私の考えではあてにならない。名詞は自分の肉体では再現できないから、嘘かほんとうかわからない。
 少し飛躍して言うと。
 たとえば「飲む」という動詞がある。それが何語であれ、コップに水をいれて、それを誰かが飲んで見せる。そして「飲む」という動詞を言う。このとき、それを聞いた人は同じように水を飲むことができる。他人の動詞を自分の肉体で再現し、意味を理解することができる。そのとき理解するのはどうしだけではなく、水が安全であるということを含んでいる。もし、だれかがコップに液体を入れ、「飲め」と言っても、それは安全かどうかはわからない。「液体」「水」という「名詞」は、人間を欺く可能性がある。それは「毒薬」かもしれない。
 けれど、実際に、目の前で相手がそれを飲んで見せれば、それが「毒薬」と書かれていても、その名詞が嘘であるということがわかる。動詞は肉体で、もののたしかさを確かめている。動詞をとおして、人は人と安全なつながりをもつことができる。「名詞」では、嘘の世界へ入ってしまうことがある。
 で、私は、詩を読むときも「動詞」を基準にして読む。そこに書いてあることばを、自分の肉体が再現できるか、それをしたことがあるか、それをしたときのことをおぼえているか……。そういうことがスムーズに動くと、私はその詩を信頼する。
 田島の「ビルジ」の一連目がとても好評だったのは、「動詞」が安定していたからである。

 詳しくは書かないが、二連目では「動詞」が別の形で統合されている。書き出しこそ「まとわりつく」「閉じ込める」だが、「装う(偽装する、か)」をへて、「走り抜ける」「通りすぎる」「すり抜ける」ということばが支配的になる。
 一連目との関係で言うと、一方に停滞するものがあり、他方に通過するものがある。そのふたつの差(違い)を象徴するものとして「捨てる/捨てられる」がある。「ビルジ」はこのとき、通りすぎていく(どこかへ行く/移動する)ために捨てていくものの象徴になる。捨てられて停滞するものの象徴になる。
 このあと三連目で、動詞は「きしむ」に象徴される。捨てられ、停滞しているものが、怒りとか飢えとかを暴走させ、反乱しはじめる。そのとき世界が「きしむ」。
 田島は、その「きしむ」をとおして、世界の変革を夢みていることになる。
 停滞から、暴走への予感が「ビルジ」という汚れた水のなかに夢みられている。最終連の二行は、田島自身が(ビルジ自身が)動きだす瞬間を描いているが、その運動が一貫していてスピードがある。そのために、詩がいきいきしている。




詩集 牢屋の鼠
劉暁波
書肆侃侃房
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(38)

2014-04-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(38)          2014年04月29日(火曜日)

 「めったにないことだが」は老人が描いている。「時間と不摂生に駄目にされて」しまった男。カヴァフィスの自画像とも読むことができる。年老いてしまったが、こころは青春時代をくっきりとおぼえている。青春のこころを、まだ自分のものと感じている。
 カヴァフィスにとって青春とは……。

今 青年たちはおのれの詩を口ずさみ、
彼等の涼しい眼はおのれのものの見方に倣い、
彼等らの感性溢れる健康な心と、
形よくしゃっきっと伸びた身体は
美とは何かというおのれの物差しにあわせて
動いているではないか。

 青春の特権とは何か。若さ。若さとは何か。「おのれ」の主張である。「おのれ」という主観である。この詩には「おのれ」ということばが繰り返される。「おのれ」と何度も言えることが若さである。何度繰り返しても言い尽くせない「おのれ」が肉体からあふれてくるのが若さというもの。
 この「おのれ」という訳はとてもおもしろい。日本語では「おのれ」だが、ギリシャ語(ヨーロッパの言語)では、たぶん「彼」であろう。「彼の詩」「彼のものの見方」「彼の物差し」。日本語はひとつの文のなかで、直接話法/間接話法という「文法」をくぐらないまま、「彼」を「私」に言い換えて主張することができる。この特徴を生かして、中井久夫はカヴァフィスの思想(本質)を生き生きと描き出している。
 繰り返される「おのれ(の)」は主観である。「おのれの詩」では「主観」という印象は少ないが、「おのれのものの見方」「おのれの物差し」は主観を言い換えたもの。カヴァフィスの詩には、主観が溢れている。登場人物が誰であれ、カヴァフィスは彼らに主観をしゃべらせる。主観を生き生きとした「声」として描き出す。
 中井は「彼等の」ということばもつかっている。「彼等の涼しい眼」「彼等の感性」。「彼等」と「おのれ」を組み合わせ、ごちゃまぜにして、区別できないものにしている。青春は客観と主観の区別がない時代のことでもある。
 カヴァフィスは(中井のカヴァフィスは)、その「ごちゃまぜ、区別なし」を老人になっても生きている。青年を描きながら、そこに「おのれ」の、つまりカヴァフィスの主観を、彼等の「おのれ(自己)」と同じものとした描いている。
 最後の三行は、とても美しい。そこに描かれているのは、形よくしゃきっと伸びた「おのれの」身体である。青春の「おのれ」は精神的なもの(ものの見方)だけではなく、身体そのものが「主観」だ。そして、その「主観」が絶対(物差し)だ。
 「形よくしゃきっとした」という若い音が美しい。中井の、口語の感覚がとても生きている部分だ。最後の「動いている」ということば、どんな動きか特定せず、ただ「動き」そのものに焦点をしぼっているのもいいなあ。
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