中島悦子「電車と私」ほか(「Down Beat」4、2014年03月31日発行)
中島悦子「電車と私」は「現代詩」と呼べるかどうかわからない。「現代詩」というものは「わざと」書くものだが、この詩が「わざと」かどうか、わからない。
昔の思い出が書いてある。
私がこの詩について何か書こうと思ったのは「電車にはこころがあって/ほんの少しなら まっててくれました」という2行があったからだ。
なるほどね、こころ、か。
電車には「こころ」など、ない。だから「電車にはこころがあって」というのは「わざと」書かれたものである。しかし、その「わざと」はふつうの「現代詩」とは逆の「わざと」にみえる。「いま/ここ」にないものをことばの力でつくりだしていくという「わざと」ではない。逆に、「いま/ここ」にあるのだけれど、ことばが流通することによって見えなくなっているものを、「流通言語」を拒否することで思い出させるというような感じである。
電車にこころなどない。電車が待っているのは、運転士が動かさないからである。運転士が待っている。運転士のこころが電車を待たせている。--というのが現実なのだけれど、そんなふうにして「こころ」を人間だけのものにしてしまうのは、なんというのか、「人間」の押し売りのようにも感じられる。運転士の親切の押し売り。まあ、思いやりなんだけれどね。でも、親切にされると感謝しなければいけない、というような「義務」のようなものが生まれる。これは、ちょっと、違うなあ。中島が書いている「こころ」とは違ったものになってしまう。「流通概念」で幼稚園児の「わたし(中島)」は動いているわけではないからね。
ちょっと脱線した。
電車が待っている。これを運転士が出発を遅らせているではなく、電車そのものにこころがあって、電車が待っていてくれるととらえるとき、「わたし(中島)」と電車のあいだに新しい「関係」ができる。「わたし」は電車が好きであり、電車もまた中島が好きなのだ。好きだから、待っていてくれる。その「好き」を幼稚園児の「わたし(中島)」は肉体でつかみとり、ことばにしている。
「こころ」と書いているけれど、「こころ」ではなく「電車」そのもの、その「肉体(存在)」が好きなのだ。ほんとうは「電車の肉体」と言いたいけれど、これはとうてい「流通言語」にはならない。だから「こころ」というのだ。「肉体」と「こころ」が未分化の状態で、幼稚園児の「わたし(中島)」は好きと感じている。
正確に思い出させるかどうかわからないが、少し思い出してみるとわかる。(変な日本語だなあ。)こどものとき、誰かを好きになる。何かを好きになる。そのとき「こころ」というものがわかって好きになるのではない。そのひと、そのものの全体(肉体/身)というのもが好きなのであり、そこから「こころ」を抽出することなど、こどもにはできない。そのときの「好き」がここに書かれている。
「こころ」と書いているが、それは「好き」という気持ちなのだ。
先の2行は、そんなふうに読み替えることができる。
で、その「好き」の気持ちを「わたし(中島)」の方から「もの」として言いなおしたものが「ピンクの定期」である。「ピンクの定期」は「好き」の証明なのだ。証拠なのだ。
*
徳弘康代「おとしましたよ」にも、中島の「好き」に似た感じがある。地下鉄の乗り降りの一瞬。
手袋を落としたひとが手袋が好きだったかどうかわからない。けれど、徳弘は右と左の手袋の組み合わせに「好き」を感じている。ふたつでひとつのものはいっしょにいるのがいい。いっしょにいると落ち着く。そこに「好き」が育つ何かがある。
誰かが何かを落とす。それに対して「落としましたよ」と声をかけて手渡す。これも「好き」のひとつ。特定の誰かが「好き」というのではないけれど。きっと、ひととひととがふれあって生きているということが「好き」。
この「好き」は、「いま/ここ(時代)」からだんだん少なくなってきている。中島も徳弘も、その少なくなってきている「好き」を「好き」ということばをつかわずに書いている。
中島悦子「電車と私」は「現代詩」と呼べるかどうかわからない。「現代詩」というものは「わざと」書くものだが、この詩が「わざと」かどうか、わからない。
はる なつ あき ふゆ
幼稚園の帰りにときどき 電車に遅れそうになりました
「まってえ~ まってえ~」
わたしたちは口々にさけんではしります
運転手さんと駅員さんは
にこにこ待っててくれました
はる なつ あき ふゆ
電車にはこころがあって
ほんの少しなら まっててくれました
こどもはピンクの定期です
昔の思い出が書いてある。
私がこの詩について何か書こうと思ったのは「電車にはこころがあって/ほんの少しなら まっててくれました」という2行があったからだ。
なるほどね、こころ、か。
電車には「こころ」など、ない。だから「電車にはこころがあって」というのは「わざと」書かれたものである。しかし、その「わざと」はふつうの「現代詩」とは逆の「わざと」にみえる。「いま/ここ」にないものをことばの力でつくりだしていくという「わざと」ではない。逆に、「いま/ここ」にあるのだけれど、ことばが流通することによって見えなくなっているものを、「流通言語」を拒否することで思い出させるというような感じである。
電車にこころなどない。電車が待っているのは、運転士が動かさないからである。運転士が待っている。運転士のこころが電車を待たせている。--というのが現実なのだけれど、そんなふうにして「こころ」を人間だけのものにしてしまうのは、なんというのか、「人間」の押し売りのようにも感じられる。運転士の親切の押し売り。まあ、思いやりなんだけれどね。でも、親切にされると感謝しなければいけない、というような「義務」のようなものが生まれる。これは、ちょっと、違うなあ。中島が書いている「こころ」とは違ったものになってしまう。「流通概念」で幼稚園児の「わたし(中島)」は動いているわけではないからね。
ちょっと脱線した。
電車が待っている。これを運転士が出発を遅らせているではなく、電車そのものにこころがあって、電車が待っていてくれるととらえるとき、「わたし(中島)」と電車のあいだに新しい「関係」ができる。「わたし」は電車が好きであり、電車もまた中島が好きなのだ。好きだから、待っていてくれる。その「好き」を幼稚園児の「わたし(中島)」は肉体でつかみとり、ことばにしている。
「こころ」と書いているけれど、「こころ」ではなく「電車」そのもの、その「肉体(存在)」が好きなのだ。ほんとうは「電車の肉体」と言いたいけれど、これはとうてい「流通言語」にはならない。だから「こころ」というのだ。「肉体」と「こころ」が未分化の状態で、幼稚園児の「わたし(中島)」は好きと感じている。
正確に思い出させるかどうかわからないが、少し思い出してみるとわかる。(変な日本語だなあ。)こどものとき、誰かを好きになる。何かを好きになる。そのとき「こころ」というものがわかって好きになるのではない。そのひと、そのものの全体(肉体/身)というのもが好きなのであり、そこから「こころ」を抽出することなど、こどもにはできない。そのときの「好き」がここに書かれている。
「こころ」と書いているが、それは「好き」という気持ちなのだ。
わたしは電車が大好きです。
電車もわたしのことが大好きです。
だから、わたしが「まってえ~」と叫ぶと待っていてくれたのでした。
先の2行は、そんなふうに読み替えることができる。
で、その「好き」の気持ちを「わたし(中島)」の方から「もの」として言いなおしたものが「ピンクの定期」である。「ピンクの定期」は「好き」の証明なのだ。証拠なのだ。
*
徳弘康代「おとしましたよ」にも、中島の「好き」に似た感じがある。地下鉄の乗り降りの一瞬。
ドアごしに
さしだされる
かたいっぽうのてぶくろ
降りた人が
乗った人に
おとしましたよ と
さしだされた
てぶくろは
持ち主にもどって
右てぶくろと
左てぶくろは
用済みになるまで
いっしょに
いられる
手袋を落としたひとが手袋が好きだったかどうかわからない。けれど、徳弘は右と左の手袋の組み合わせに「好き」を感じている。ふたつでひとつのものはいっしょにいるのがいい。いっしょにいると落ち着く。そこに「好き」が育つ何かがある。
誰かが何かを落とす。それに対して「落としましたよ」と声をかけて手渡す。これも「好き」のひとつ。特定の誰かが「好き」というのではないけれど。きっと、ひととひととがふれあって生きているということが「好き」。
この「好き」は、「いま/ここ(時代)」からだんだん少なくなってきている。中島も徳弘も、その少なくなってきている「好き」を「好き」ということばをつかわずに書いている。
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