詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中島悦子「電車と私」ほか

2014-04-09 10:25:36 | 詩(雑誌・同人誌)
中島悦子「電車と私」ほか(「Down Beat」4、2014年03月31日発行)

 中島悦子「電車と私」は「現代詩」と呼べるかどうかわからない。「現代詩」というものは「わざと」書くものだが、この詩が「わざと」かどうか、わからない。

はる なつ あき ふゆ

幼稚園の帰りにときどき 電車に遅れそうになりました
「まってえ~ まってえ~」
わたしたちは口々にさけんではしります

運転手さんと駅員さんは
にこにこ待っててくれました

はる なつ あき ふゆ

電車にはこころがあって
ほんの少しなら まっててくれました

こどもはピンクの定期です

 昔の思い出が書いてある。
 私がこの詩について何か書こうと思ったのは「電車にはこころがあって/ほんの少しなら まっててくれました」という2行があったからだ。
 なるほどね、こころ、か。
 電車には「こころ」など、ない。だから「電車にはこころがあって」というのは「わざと」書かれたものである。しかし、その「わざと」はふつうの「現代詩」とは逆の「わざと」にみえる。「いま/ここ」にないものをことばの力でつくりだしていくという「わざと」ではない。逆に、「いま/ここ」にあるのだけれど、ことばが流通することによって見えなくなっているものを、「流通言語」を拒否することで思い出させるというような感じである。
 電車にこころなどない。電車が待っているのは、運転士が動かさないからである。運転士が待っている。運転士のこころが電車を待たせている。--というのが現実なのだけれど、そんなふうにして「こころ」を人間だけのものにしてしまうのは、なんというのか、「人間」の押し売りのようにも感じられる。運転士の親切の押し売り。まあ、思いやりなんだけれどね。でも、親切にされると感謝しなければいけない、というような「義務」のようなものが生まれる。これは、ちょっと、違うなあ。中島が書いている「こころ」とは違ったものになってしまう。「流通概念」で幼稚園児の「わたし(中島)」は動いているわけではないからね。
 ちょっと脱線した。
 電車が待っている。これを運転士が出発を遅らせているではなく、電車そのものにこころがあって、電車が待っていてくれるととらえるとき、「わたし(中島)」と電車のあいだに新しい「関係」ができる。「わたし」は電車が好きであり、電車もまた中島が好きなのだ。好きだから、待っていてくれる。その「好き」を幼稚園児の「わたし(中島)」は肉体でつかみとり、ことばにしている。
 「こころ」と書いているけれど、「こころ」ではなく「電車」そのもの、その「肉体(存在)」が好きなのだ。ほんとうは「電車の肉体」と言いたいけれど、これはとうてい「流通言語」にはならない。だから「こころ」というのだ。「肉体」と「こころ」が未分化の状態で、幼稚園児の「わたし(中島)」は好きと感じている。
 正確に思い出させるかどうかわからないが、少し思い出してみるとわかる。(変な日本語だなあ。)こどものとき、誰かを好きになる。何かを好きになる。そのとき「こころ」というものがわかって好きになるのではない。そのひと、そのものの全体(肉体/身)というのもが好きなのであり、そこから「こころ」を抽出することなど、こどもにはできない。そのときの「好き」がここに書かれている。
 「こころ」と書いているが、それは「好き」という気持ちなのだ。

わたしは電車が大好きです。
電車もわたしのことが大好きです。
だから、わたしが「まってえ~」と叫ぶと待っていてくれたのでした。

 先の2行は、そんなふうに読み替えることができる。
 で、その「好き」の気持ちを「わたし(中島)」の方から「もの」として言いなおしたものが「ピンクの定期」である。「ピンクの定期」は「好き」の証明なのだ。証拠なのだ。



 徳弘康代「おとしましたよ」にも、中島の「好き」に似た感じがある。地下鉄の乗り降りの一瞬。

ドアごしに
さしだされる
かたいっぽうのてぶくろ
降りた人が
乗った人に
おとしましたよ と

さしだされた
てぶくろは
持ち主にもどって
右てぶくろと
左てぶくろは
用済みになるまで
いっしょに
いられる

 手袋を落としたひとが手袋が好きだったかどうかわからない。けれど、徳弘は右と左の手袋の組み合わせに「好き」を感じている。ふたつでひとつのものはいっしょにいるのがいい。いっしょにいると落ち着く。そこに「好き」が育つ何かがある。
 誰かが何かを落とす。それに対して「落としましたよ」と声をかけて手渡す。これも「好き」のひとつ。特定の誰かが「好き」というのではないけれど。きっと、ひととひととがふれあって生きているということが「好き」。
 この「好き」は、「いま/ここ(時代)」からだんだん少なくなってきている。中島も徳弘も、その少なくなってきている「好き」を「好き」ということばをつかわずに書いている。


マッチ売りの偽書
中島 悦子
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(18)

2014-04-09 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(18)          2014年04月09日(水曜日)

 「デメトリオス王」はプルータルコスの『デメトリオスの生涯』に対して異議を唱えた詩。「王よりもむしろ俳優のごとく、彼、王の衣を鼠色の上衣に替えて密かに落ち行きぬ。」を引用したあとで詩をはじめている。王なのに、まるで俳優みたいじゃないか、というのがプルータルコスの意見なのだが、

金色の長衣を脱ぎ、
紫の長靴を投げ捨て、
急ぎ、質素な衣服をつけて、
忍び足で去った。
劇果てて、俳優が
衣裳を換えて去るように--。

 同じように「俳優」という比喩をつかっているのだが、どこがプルータルコスと違うか。プルータルコスは「王の衣」と簡単にいってしまっているところを、カヴァフィスは「金色の長衣裳」「紫の長靴」と具体的に描写している。さらに「脱ぎ」「投げ捨て」と、王衣を捨てるときの肉体の動きを書いている。「密かに」という抽象的なことばも「忍び足で」と肉体の動きを引き出す形で書いている。
 一方、プルータルコスが「鼠色の上衣」と具体的に書いているのに対して、カヴァフィスは「質素な服」と書いているだけである。
 ふたつを比べると、プルータルコスの方は、逃げた王の「手配書」のように見える。逃げている王の姿が見える。ところがカヴァフィスのことばでは、逃げる前の王の姿の方がくっきりと見える。金色の長衣と紫の長靴。それが王である。
 威厳のあった王を忘れない--そこに、カヴァフィスの姿勢がうかがえる。王を思い出すのは、彼が王だからである。逃げてしまえば王ではないのだから、そういものは語る必要がないとも言っているようだ。
 でも、なぜ、「俳優」という同じ比喩をつかったのだろう。
 「劇果てて」に秘密(カヴァフィスの思想)があるかもしれない。プルータルコスは「劇果てて(劇がおわった)」とは書いていない。カヴァフィスは、ひとつの「こと」が終わったとはっきり認識している。
 これは逆に言えば、現実(政治/戦争)というものは「劇」に過ぎないとカヴァフィスが認識しているということかもしれない。シェークスピアではないが「世界は舞台」なのだ。そこでは次々に登場人物があらわれる。役が終わればさっさと消える。それでよい、と思っている。
 詩のなかのことばでは「脱ぎ」「投げ捨て」と「着けて」の対立、「急ぎ」と「忍び足」の対立が、「こと」の緊迫を伝えていておもしろい。肉体が動いているのがわかる魅力的なことばの選択だ。

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